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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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第18回ディベート甲子園高校論題に関する若干の覚書
奴隷生活も2年目に突入し、労働強化が進んでいることもあってなかなかブログを書く時間が取れませんでしたが、新論題が出たということで少し言及しておくことにします。

あと、去る3月20日に某所にてディベート理論に関する講座を執り行い、参加者の過半を萎えさせてきたりしたのですが、2時間でディベートの理論的な考え方を一通りお話しするというのはそもそも企画的に無理があったということもあり、いずれ講義の内容をまとめた薄い新書的なものを作成しようと考えております。夏にビッグサイトで売れればいいのですが、まだ抽選がどうなってるかわかりませんので詳細は追ってお知らせします。

今日の本題は、第18回ディベート甲子園の高校論題についてです。中学論題のドギーバッグ義務化は(ここでの問題意識的に)特に論ずべきことはないのですが、高校論題の首相公選制については、付帯文との関係で若干検討を要する問題があるように思われるので、問題提起する次第です。
なお、ここでいう問題提起とは、「すべての審判に付帯事項としてちょっち長めの文を読ますなんてありえない」とかいう、わけの分からない文句ではありません。地方県庁の技術系職員と奴隷度を比べるつもりは全くありませんが(残念ながら圧勝することは目に見えております)、忙しい云々とか言ってこの程度の文書も読まずにふらりと会場に来て審判できないと嫌だというのであれば、ジャッジとしての適格は最初から存在しません。そして、仮にこの方がジャッジとして大会に来る予定なのだとしたら、自分が公開の場でジャッジ不適格であることを自白しているのだということにどれだけ自覚的なのかということが問われなければならないでしょう。僕は現在はNADEでジャッジの依頼などを行う立場にありませんが、大会主催者であれば当然このような発言をしている人間は(仮にジャッジとして能力があったとしても)資質が疑われるものとしてジャッジ候補から除外すべきですし、選手はこういうジャッジに怒ってもいいと思います。

例によってまた脇道にそれてしまいましたが、以下、本論です。

第18回ディベート甲子園高校論題
高校:「日本は首相公選制を導入すべきである。是か非か」
ここでいう首相公選制とは、「首相公選制を考える懇談会」報告書(平成14年8月7日)の「Ⅰ 国民が首相指名選挙を直接行う案」とする。



1.メリットの発生範囲
まず、今回の付帯文の定め方との関係で問題となりうるのは、「首相公選制を考える懇談会」報告書(以下「報告書」といいます。)の「Ⅰ 国民が首相指名選挙を直接行う案」(以下「プラン案」といいます。)について、このプラン案のすべてがメリットの発生源たりうるのかということです。

過去にも説明している通り(こちらの3.3.3.3参照)、デメリットは肯定側のプランのどれから生じるものであっても判定上考慮されうる一方、メリットは論題を肯定するプランから生じるものしか判定上考慮できず、付随的に出されたプランからのみ生じるメリットは論題外として処理されてしまいます。
そこで、今回のプラン案のすべてが、論題を肯定するプランと言えるのかが、まず問われる必要があります。

報告書を読むと、プラン案の中には、首相を公に選ぶ方法とは直接関係ないと思われるアクションも規定されています。例えば、3のカには「首相は、最高裁判所長官を指名し、最高裁判所の他の裁判官を任命するが、その際、参議院の過半数の承認を得るものとする」という規定がありますが、これは首相公選に付随して実行されうるとは思いますが、必須ではないし、首相を公に選ぶ方法とはかなり遠いところにある規定です。
なお、現在の最高裁長官は内閣の指名で決まるものですが、最高裁判事も含め、国会の承認は不要です。したがって、このプランは、最高裁の人事に国会のコントロールが及ぶようにするというものであって、何かしらのメリットがあるかもしれません。しかし、肯定側がこのメリットだけを出しているという場合に、それで首相公選制が肯定されたといえるのか…と考えると、疑問があることは否めません(そんなマニアックなチームいないと思いますが、司法の正統性といったあたりで憲法学の議論があるので、たぶん立論は組めます)。

首相の公選というアクションそのものでないという意味では、3のエ「首相は、法案提出権及び予算案提出権を持つ」についても、同様のことが言えます。こちらは、メリットの解決性にいかにも出てきそうな内容です。

付帯文の定め方が「ここでいう首相公選制とは…」ということでプラン案を指し示していることからすれば、通常の「首相公選制」という言葉から導かれる範囲よりも広いアクションをすべて「首相公選制」というメリットの発生源としてとらえるべきであるというのが、今回の論題の内容なのかもしれません。そう考えれば、上記の懸念はいずれも解消(?)し、肯定側はどこからでもメリットを出せることになります。
しかし、報告書においても、検討対象は「民意を反映させる首相の選出方法の工夫と、首相のリーダーシップの有効な発揮のための制度的仕組み」(はじめに・制度構想の視点)であるとされているように、制度的仕組みについての規定は首相の選出方法に付随するものであって、「首相公選制」そのものではないという理解の余地もあるように思われます。この場合、プラン案の中には、論題を肯定するためのプラン(メリットの発生源たりうる)と、論題実行にあたって付随的に導入されるプラン(メリットは出てこない)が混じっており、その区分が問題になるということになります。

この点、藤堂委員の論題解説では、プラン案として具体的なプランの内容を詳細に指定した趣旨について『「首相公選制」を導入する際に、制度設計として考慮しなくてはならない範囲が、内閣の権限から内閣と国会の関係にまで及び膨大なものとなることから、選手の皆様の準備の大きな負担になり、議論の内容が首相公選制とは関係ない細かな制度設計にまで拡散してしまう可能性が大いにあることから、皆様に首相公選制の本質に集中して議論できるようにした』との説明があります。
首相公選制の本質とは何を言うのかよく分からないということはさておき、ここからは、プラン案の位置づけについて上記のいずれが志向されているのか、明らかではありません。選手の準備の負担を削減するという趣旨からは、首相公選制そのものからは遠いプランから生じるメリットまで論じさせるべきではないということになりますが、首相公選制というのは単なる首相の選び方にとどまるものではないという理解が示されているともいえ、そうなると、最高裁の人事がどうなるかはともかく、プラン案の全部ないしほとんどが「首相公選制」なのだという理解に立つものとも解されます。

この点についてここで私見を出すことはしませんが、そういう問題があるのではないかということで、議論になればよいのではないかと思います。

2.不確定概念の処理
プラン案の中には、首相としての立候補に「一定数の国会議員の推薦を条件とする」(1のウ)、「首相・副首相の選挙運動期間は数か月とし、その数か月前に推薦を行う」(1のエ)など、具体的な内容が指定されていない内容があります。こうした部分を以下便宜のため「不確定概念」といいます。
この不確定概念について具体的な数字を埋めるなどして特定する義務は肯定側にはないと解されますが(そもそも肯定側にはプランを出す義務もない。付帯事項で指定されている以上勝手に出ているというだけです)、この部分には理屈としてはどんな数字でも入りうるところです。立候補について「1人の推薦でOK」というものから「100人の推薦を要する」というプランもあり得るところで、それによって、メリットやデメリットの生じ方も変わってくるところです。

ここで、肯定側が最後までかかる不確定な要素を確定させずに議論を続けた場合にどうなるか、という問題が生じます。たとえば、政党の支持がなくても首相になれる可能性があることから生じるメリットや、簡単に立候補されることで変な首相が選ばれるというデメリットの評価に際して、推薦要件の人数は重要な要素となってくることが予想されますが、この点について幅のあるまま試合が終わってしまった場合に、ジャッジはどのように判断することになるか、という問題があります。
一つの考え方は、この資格要件をデメリットへの予防条項ととらえたうえで、その本質は「適宜の人数の国会議員による推薦を要求することで安易な立候補を防ぐ」ことにあると考え、そのような手段があればデメリットは生じないのだとすれば、かかるデメリットは論題を否定する本質的理由にならないということでデメリットを排除することです。しかし、同時にメリットとして、推薦要件が発生の妨げになるようなものが論じられていた場合には、そのように簡単に考えることはできません。その場合には、推薦要件を設けない(あるいは緩くする)ことで見いだされる可能性と、それによって生じるリスクを考量した上で望ましい結果が生まれる余地があるかどうかが問題となるのであって、「~人くらいの推薦要件であれば望ましいといえる余地がある」という話ができなければ肯定側には投票できないので、不確定概念の特定が必要不可欠となります。

さしあたっての対応案としては、不確定概念がそのままの状態の場合に、メリットの評価において不確定概念の内容が影響する場合にはその特定がない場合にメリットの立証責任がなかったものと考え、デメリットの評価について不確定概念の内容が影響する場合には不確定概念に一定の数字が入れば排除されるようなデメリットであればデメリットは防がれるものと考える、ということが考えられます。この場合、メリットとデメリットの両方で不確定概念が影響する場合、メリットもなくなるので否定側が勝ちますから、肯定側に一定程度積極的に不確定概念を説明すべき責任が生じるということになります。

この不確定概念についての扱いは、不確定概念に複数の数字を代入することができるか(例:肯定側が質疑への解答で「候補者が10人という場合もあり得ますし、20人、30人、50人というものでもありうると思います」と答える場合)、といった問題もあり、理論的にはこれを直ちに否定することはできないと思われるのですが、ディベート甲子園においてそのような考え方をとることが教育的によろしくないという批判の余地もあるところです。


以上、取り急ぎ、問題と思われる点を簡単に指摘した次第です。
高校論題の付帯文については、ほかにも検討すべき点があります。ただ、差しあたって上記の2点については、判定に影響を与えかねない問題でもあるため、検討不十分ではありますが、書いておくことにいたします。何かご意見があればお聞かせください。

ディベート甲子園の選手向け | 23:54:54 | トラックバック(0) | コメント(4)
コメント
過去にディベートをしていた者です。
当時からもジャッジを担われる方によって論題に対する理解度のギャップはひどいものがありました。
当時の議論では当たり前のように使われる専門用語を「難しい言葉でわからなかった、それに引っかかって議論をちゃんと追えなかった」等というような講評を聞いたこともあります。
このようなジャッジの存在は、ただでさえ短い立論の時間を圧迫し、議論の向上を妨げる存在となることと思います。そのレベルに合わせた立論作成をしなければ勝てないのかという心理が働くからです。
もちろん、わかりやすいスピーチやわかりやすい議論展開をするのはディベートにおいては目指すところではありますが、ジャッジする側の人間がその論題についてよく知らないというのは少しおかしな話かと思います。

競技ディベートの目指すところが「一般人にもどれだけわかりやすく一つの論題についてスピーチできるのか」であれば、逆にジャッジの方は全て素人の方に担当していただいたり、一般客の多数決で勝敗を決めたほうが幾分かよいのではとも思います。

冒頭に出てきた方がジャッジを公式の場でなされる方なのかはわかりませんが、もしも、このような方がジャッジをされるというのでしたら選手に対してひどく失礼な話ですし、ディベートを振興していく上での弊害になることと感じます。
2013-03-30 土 23:13:37 | URL | [編集]
コメントありがとうございます
コメントありがとうございます。
また、返事が遅れまして申し訳ございません。

ディベートの試合において専門用語をどの程度前提としてよいかについては問題のあるところではございますが、所与のものとして与えられる論題の内容について、把握しないままでジャッジをするということは競技において想定されるべきものではなく、それは、条項だけを抜き出せばたかだかA41枚に納まるような内容が付帯文になっているにすぎない場合であっても同様です。
その意味で、私はコメント主様の見解に全く賛同するものであり、選手に対して失礼であること、ディベートの振興にとってマイナスであることについても、同感です。

以下は、コメントへの返答としての範囲を逸脱いたしますが、本記事の「脇道」について私の言わんとすることを正解しない関係者がいらっしゃるようですので、若干説明を補足させて頂きます。

私が本記事でわざわざツイートを引用してまで苦言を呈しているのは、
①記載された内容のような認識を有しているような人間はジャッジ・スタッフとして不適格であり、そのような者が運営に携わっているということには問題があると考えられること、
②「暇あればディベートのこと考えてるような熱心な信者さま」などとしてディベート関係者を誹謗中傷していること(ちなみに、発言者からすれば私も「信者」なのでしょうし、まぁ客観的にもそうなのでしょうが、残念ながら私のほうが発言者の方より仕事に費やしている時間も長いでしょう。今も仕事の合間にコメントしているのです…)、そして何より、
③ジャッジが付帯文を読むのを厭うものであるという誤った――ここで「誤った」と書いているのは、そんな人間はディベートジャッジを名乗るべきではないと考えているからです――観念を発信することで、選手のディベート運営者やジャッジに対する信頼を損ねているからです。

この③の点について極めて無頓着な方がいらっしゃるので、この点が特に明記されるべきと思います。私も過去にディベート甲子園の運営に携わってきたことがあり、また、全日本ディベート連盟の理事として大会運営に関与することなどもありますが、そのような経験に即してみても、こういう「ふざけた」発言をされることは、大会や団体の品位を著しく傷つけ、選手の信頼を損ねる意味で、極めて問題のある行為だと認識しております。
従いまして、私としては、関係者各位におかれましては、かかる問題の所在を正確に認識された上で、下らないプライドやら仲間意識は早くお捨てになって前言を撤回し、然るべき謝罪をすべきであると考えます。仮にも選手の貴重な時間を預かり、教育活動としてのディベート大会に携わるとする人間が(冗談かどうかはともかく)公開の場でこのような発言をしているということ自体が厳しく糾弾されるべきであるということを、改めて強調させていただきます。
2013-04-06 土 14:59:31 | URL | 愚留米@管理人 [編集]
春季大会のジャッジmtgで述べたのですが
事実上の膨大な付帯文それ自体は良いと思うのですが
(あるアクションを肯定するか否定するかというディベートのスキームからすると、特にpolicy makingとしてはとても本質的なものだとも思います)
実際にジャッジをする上で実務上どう取り扱うべきなのか、という疑問がもう一点残っています。

それは、肯定側のプランや前提としている政策が付帯文と異なった場合に、それを指摘する責任が否定側にあるのか、あるいは指摘がなくてもジャッジがジャッジの責任で無効にするべきか、というところです。
topicalityに属するという点で「明白なエクストラ(それ首相公選と関係ないだろjk…というもの)」でない限りは前者にするべき(そこまで非合理的でないプラン・システムに対して否定側が暗黙の了解をしてしまったのなら、そのまま採用するべき)と思うところ、前回春季大会では支部長等運営側から、後者の方針で行くように強く要請されました。(指摘がなくても棄却せよ、付帯文に合わないものがあれば指摘せよとのこと)

しかし、たとえば付帯文が
「首相公選制を導入すべき ※ただし2020年に導入することとする」
とあった時に肯定側がプランで「2100年に導入する」と言ったら明らかにプランは論題を満たさない、と判断でき、ジャッジも立証責任を持ちだして「明らかに違う」と言えますが、今回のような
「首相公選制を導入すべき ※付帯事項1,2,3,4,5…100,101...」
というパターンにおいて、否定側から指摘がなくてもジャッジがtopicalityの立証責任を持ち出す(肯定側のプランは5,53,79,113に違反しているから無効だ!と宣言する)ためには、「全項目をほぼ暗記している」「全項目の政策の整合性について理解している」という事実上困難な要件を要求されることになります。
逆に選手の側にとっても不意打ちのような第三反駁をジャッジから食らうことになります。
何より、この場合100%正確な判定は望めなくなり、判定の公平性・正確性が損なわれます。

というわけで、付帯文そのものはいいとしても、運営側(関東)の「付帯文をジャッジは遵守しろ、違っていれば指摘しろ」というポリシーはまずいのではないかと思うのですが、どんなもんですかね。


p.s.3/20のはマニア層には大受けしてました!w
2013-04-22 月 17:22:50 | URL | 志村 [編集]
ご質問への回答
>志村さま

コメント承認とお返事遅れて大変申し訳ありませんでした。

私見としては、ジャッジは付帯文として与えられたテクストはすべて前提として判定を行わなければならないと考えます。つまり、ジャッジは付帯事項に規定されている文言それ自体に一見明白に矛盾するプランは、選手から指摘がなくても、付帯文に違反するとして排除しなければならないと考えます。
しかし、これは「付帯文を暗記しなければならない」ということを意味するものではありません。ジャッジは、手元に付帯文が記載されたパンフレットその他の資料を置いて、必要に応じて確認すればよいだけのことです(従前からそのようなことは禁止されておりませんし、論題自体は会場にも掲示してあります)。

他方、付帯文の文言をどのように解釈するか、プランの意味をどのように理解するかによって、付帯文に抵触するかどうかがが変わってくるような場合には、選手の議論により指摘がなされてはじめて判断の必要性が生じることになりますから(ジャッジ限りで判断することもできますが)、そのような場合には、選手の指摘を待つということも許されるでしょう。

付帯文がより膨大なケースだと手元に資料があってもわからない…ということが理屈としてはありうるでしょうが、それはもはや「論題が悪い」としか言いようがないものであって、理論的には、付帯文も含めて、論題として与えられたものは試合の前提として「常に」考慮されなければならない、と考えるべきでしょう。
もっとも、今回の付帯分程度であれば、手元の資料参照も含めて十分対処可能であり、事前に一読すれば概ね趣旨は理解可能ですから、「すべての審判に付帯事項としてちょっち長めの文を読ますなんてありえない」ということがありえないということは、本文冒頭に記載した通りです。
2013-05-06 月 02:18:49 | URL | 愚留米@管理人 [編集]
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