愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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ジャッジングの難しさについて
入院生活は相変わらず何事もなく過ぎておりますので、今日もディベートの話題です。

先日、大学生の新人ディベート大会があって、ジャッジに行ってきました。新人大会といっても、中高からディベートを続けているなんちゃって新人が多数参加していたりするので、割と上手なディベーターを見ることもあります。純粋新人でも頑張って良いスピーチをしていることもあります。

そこで気づいたことを幾つか書こうとも思っていた(特に、いわゆる重要性・深刻性の意味について)のですが、大会のとある試合でジャッジングについてクレームがあったようなので、今日はそれに関係したことを書いておくことにします。法律家志望者としても重要なことだと思いますので…。

その試合は僕が見ていたわけではないのでよく分かりませんが、ジャッジングの前に立論の内容を見た上でそれに基づいて判定を下したとか、重大な事実誤認に基づいて判定が下されたとか、そういうことに不満があったようです。たまたま知っていたディベーターだったので、そういう話を聞いたわけです。

前者については、手続上の観点から問題がある(逐条解説でも第7章で触れる予定の「弁論主義違反」になる。すなわち、スピーチで主張された内容だけを判定の基礎とすべきなのにそうしなかったことになる)ので、当のジャッジには注意しておきました。
*もっとも、弁論主義と資料・原稿請求との関係では他説もあって、現代ディベート通論の著者の一人は、勝敗を決する重要な資料については請求により確認して判定の基礎とし、判定の正確を期すべきであるという立場を採られています。この見解には賛成できないのですが、その理由は逐条解説のほうで書く予定なので省略します。

後者については、試合を見ていない僕がどうこういえる問題ではありませんので、何ともコメントできませんが、実際に事実誤認であったという可能性もあれば、当事者ゆえに自分の議論が見えていなかった可能性もあるし、講評がまずかったので納得できなかったということもありうるところです。個人的経験によれば、後二者がよくあるところです。

ジャッジとして特に難しいのは、最後に挙げた講評の問題です。
講評は限られた時間しか与えられませんから、その中で判定の理由のうち重要な部分と改善点などをきちんと述べ、その上で両者を納得させなければなりません。スピーチの内容をそのまま適用して判定を下せるという試合はそれほど多くないため、ジャッジはある程度議論を再構成したり、独自に比較検討して勝敗を決するわけですが、そのような判断について詳しく述べることもできません。また、ジャッジが重要だと感じたポイントと選手のそれにズレがあることも珍しくありません。
この点は本当に難しい問題で、別のジャッジで割と経験のある方の判定を聞いている場合でも、たまに「それは違うんじゃないか」ということを感じたりもします。実際に後でうかがってみると、実際は事実誤認ではなく、表現が軽率だったり、複数ジャッジの際に判定をまとめて話す必要があるという都合でややこしくなった…ということだったりします。傍から見ている以上に、判定は難しいということです。

とはいえ、そのことが、選手を納得させられないということを正当化する理由になるわけではありません。
僕も前に中学生の試合で、判定について猛烈なクレームをつけられたことがありました。僕からすれば「独自の見解から判定を論難するか、専らジャッジの裁量に属する事実認定を非難するものに過ぎず、採用することができない」ような内容(最高裁のいわゆる例文判決ですね)だったのですが、彼らにとっては納得できなかったのでしょうし、それは僕の講評がまずかったということにも理由があるわけです。今では、彼らには悪いことをしてしまったと思っています(判定自体は正しかったと考えていますが)。

選手とすれば、納得できない判定を下されてしまうのは、これまでの努力を無にさせられてしまうということで、怒って然るべきことです。僕もそういうことがなかったわけではありませんので。
最近(といっても1年以上前)も、勝ってたんじゃないかと思う試合で、ほとんどの論点が理解できなかったという理由で相手の一つの議論が投票理由となり、負けてしまったことがありました。その時はジャッジの方が「分からなかったのですいません」ということをおっしゃっていて、確かにスプレッドしまくってたということもあり、そういうことだと諦めはつきましたが、もう少し理由を述べてくれれば同じ負けでも納得できたのに…と残念に思ったことは事実です。

そんなわけで、ジャッジを行うに際しては、常に誤りのない判定を下すように努力しなければなりませんし、判定を下すに際しても、その理由付けをいかに説得的に、正しい形で構成するかを考えなければなりません。これは法律家にとっても大切なことですが、いわば試合を裁く裁判官であるジャッジにとっても、当然に妥当すべきことです。
その見地からすれば、僕も含めて多くのジャッジはまだまだ修行が足りません。そのこと自体は仕方ないとも思うのですが、そのような事実について自覚的になれず、自分の判定を過信してしまうことは、ジャッジとしては問題があるといわなければならないでしょう。その意味で反省すべきジャッジは、残念ながら少なくないと思います。
ジャッジは試合をきちんと把握するための能力や、判定結果を的確に伝えるための能力を身につけるよう努力し続ける義務がありますし、ここで書いているような試合の手続についての話も、(試合に関係する範囲で)自分なりに考える必要があるはずです。少なくとも、自分の判定や試合指揮について正当化できる理由付けを用意できなければ、ジャッジとしての仕事を全うしたとはいえないわけですから。

ただ、そういうジャッジが少ないことや、たまたま納得いかないジャッジに当たってしまったということは、ディベートを辞める理由としてはもったいないような気がします。
ディベートの目的は目先の勝ち負けではなく、より優れた議論を目指すこと、そしてそれにより自分たちの能力を向上させるということにあります。ジャッジが評価してくれなかったとしても、優れた議論の価値は少しも損なわれません(もっとも、それが実際には優れていなかったという可能性もあるわけですが!)し、その試合で展開された両チームの議論は、ジャッジがどう判定しようが、当事者の頭の中で生きつづけることができるはずです。

むしろ、そのようなジャッジングに出合ったことを機に、自分の議論を考え直して見たり、自分もジャッジを経験してジャッジングの方法論やその難しさに触れてみようという発想を持つ方が、実りは大きいでしょう。納得できないジャッジングを体験したというのであれば、そのような思いをするディベーターが少なくなるよう、自分が納得いくジャッジとして活躍しよう…と思ってくれれば、ディベート界はもっと発展していくはずです。
今大会の事件でも、当事者はかなりへこんでしまったような感を受けたのですが、これに懲りずにディベートを続けて欲しいものです。僕がいうのもなんですが、ディベートには彼らの知らない楽しさや可能性がまだまだたくさん広がっています。それを、一回の納得いかないジャッジングで閉ざしてしまうことは、もったいないことです。

そのようなことを思いました。
事実認定というものはとても難しくて、冤罪がどうとか騒がれている裁判官だって、難しい司法試験を乗り越えて、その上で事実認定についていろいろ勉強した上で法廷に立たれているわけです。
ディベートのジャッジについても、いくら競技運営のボランティアだとはいえ、そのような仕事をしているということ、そしてその結果によって選手の運命が変わってしまうということを、改めて考えさせられる今日この頃です。自分の担当した試合でそういう事件が起こったというわけではありませんが、同じジャッジとして、避けて通れない問題ではあります。
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