愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
第20回ディベート甲子園高校論題の雑感
どうもディベート甲子園のルール改正やら論題発表やらがあったようですので、例によって時間はなかなかないのですが、その中から高校論題について少しだけ所見を書いておくことにします。

ちなみにルールについては、証拠法の改正がなされております。証拠の出典についての記録義務と、中略引用時の中略部分の記載義務が定められたもので、改正趣旨や内容自体は特に違和感なく、まぁそうだろうと思います。運用上考えられそうな問題などはまた気が向いて時間があれば書くかもしれません。
1点(また怒られそうですが)指摘しておくと、改正後細則B-7項は「前項まで」の要素を証拠評価に考慮するとして、出典の記録不備も証拠能力や証明力の評価で考慮できるとしているのですが、改正後細則D-2項では「細則Bの5項または6項の規定を踏まえて」としており、出典の記録不備を判断に使えないようになってしまっています。細則Bのほかに細則D-2項が必要なのか、という問題はあるわけですが、上記のような規定のずれは条文規定をミスったということになるのかなと思いますので、どこかの機会にしれっと直していただけるとよいのではないかと思います。

さて、以下、本論として、第20回ディベート甲子園高校論題「日本は裁判員制度を廃止すべきである」について、ちょっとだけ所見を述べておきます。

1.裁判員制度の中身
筆者は法務博士ではあるものの刑事公判を担当したことはないので(研修として1件窃盗事件をやりましたが略式起訴で終わりました)、裁判員制度はおろか刑事事件をほとんど知らないわけですが、司法修習では検察、裁判官の両方の立場で裁判員裁判を見る機会があり、評議も衝立の裏で傍聴していました。

裁判員裁判といってもいろんな事件があり、意外と覚せい剤密輸の事件が多かったりするのですが、事件によっては相当ひどいものもあり、証拠も生々しいので、そういうもので気分が悪くなったり、被告人への怒りが湧いたり、ということはあるだろうと思います。もっとも、司法試験に受かった人とそうでない人で感受性に違いがあるわけではないので、その辺の違いがどうなのかは正直疑問ですが、やりたくもないのに…ということはあるとは思います。どういう事件かという概要(罪名)を伝えられた上で面接なんかもあるので、血が苦手とかいう場合には忌避はできると思うのですが、報道によればショッキングな公判でPTSDになったという話もあるようで、そのあたりはよく分かりません。

評議の内容は守秘義務があり一切書けませんが、裁判長が司会的な立場で検討すべき内容をうまくブレークダウンしながら意見を聞いていったりするので、裁判員物の映画のように、各自が好き勝手に意見を述べていってカオスな状況になる、といったことは基本的にはないのだとは思います。
裁判官と裁判員で一番異なるのは、おそらくは量刑の考え方だと思います。量刑を上下させる要素も刑事裁判官的にはきまっており、たとえば慰謝料を払っているか、身元を監督してくれる人がいるか、前科前歴の有無、といったところを見ていくわけですが、裁判員の中には、裁判官的な(つまり裁判官に教わっている法律家的な)相場観と違う観点で量刑事実を評価したりする方がおり、それで議論が白熱していたりということもありました。よく言われる、国民の目線で量刑を決める、という話は、その当否はともかく、それなりにあるのではないかと思います。上訴審でひっくり返されたりもしますが…。

あとの違いとしては、裁判員裁判では当事者がかなり頑張ってプレゼンをしており、分かりやすい公判になっている、ということが言えるかもしれません。特に検察官は裁判員裁判対策で相当気合を入れており、どの事件でもわかりやすいパワポを作って、リハーサルを重ねたうえでプレゼンしています。公判前整理手続きという争点整理を行うこともあり、争点や証拠も厳選され、よほどの大事件でなければ、コンパクトに判断できるような形となっています。
弁護人は実力差があるように思われ、筆者が見た裁判では、正直いまいちな弁護だったように思ったのですが、弁護士会では裁判員裁判のトレーニングなども積極的に行われているようで、刑事を専門にする先生方ではかなり研究を重ねているのではないかなと思います。裁判員裁判は裁判官だけの裁判でよくある実質書面審理(供述調書を読みまくる)ではなく公判で勝負が決まるので、そういう意味では、当事者双方が高いパフォーマンスで審理に臨めば、適正な判断ができるということがあるのかもしれません。

ただ、上記の話は4年前にちょろっと見ただけの経験に基づく話ですので、特に参考にはならないものです。あの時は刑事裁判官もよいな、と思ったりしたのですが、裁判員裁判の判決書作成を見てみないかと誘われたのにエアコンが切れて暑くなるという理由で断ってしまったことが今となっては悔やまれるところです(本当の理由は、進路を弁護士に決めかけていたのでまた見てしまうと悩みが復活しそうだと思ったからですが、そこは悩んでおけよというところでした)。

ちなみに、よく「職業裁判官は社会経験がない」とか言われますが、実感として、それはどうかな、という気はしています。確かに、会社勤めというわけではないので普通の職場でよくあるストレスフルな環境なんかとは縁がない、ということはあるのかもしれませんが、裁判官はトラブルを日々裁いているわけで、当事者ではないとはいえ、普通の人間よりよっぽど修羅場を見ているといえます(もちろん、代理人の立場から見ると、裁判官には見えていないものはたくさんあります。)。そもそも、殺したか殺してないかというのに社会経験なんてそこまで絡んでこないわけですし…。
ただ、裁判官と検察官の交流関係というのはないのかというとあるので、それが事件の判断に影響しているかどうかはともかく、そういうものを問題とする見方はあるのかもしれません。だったらディベートジャッジはいつもジャッジしてるチームに有利な判断をするのか、実際全国大会では出身地区をジャッジしないじゃないか、みたいな話もあるわけですが、その辺はいろいろと考えてみてください。ジャッジとして言うなら、いくら普段から試合を見ていても、ダメなものはダメなんですけどね。

2.裁判員制度と司法のあり方
ここからは、少し毛色を変えて、裁判員制度でよく言われる「国民に開かれた司法」みたいなスローガンとの関係で少し書いておこうと思います。実は、以前に創価杯で同じ論題のディベートが行われており、その決勝で講評する機会があった際に少し話していた内容だったりします。

論題解説にも書いてありますが、裁判員裁判導入の狙いは、国民の司法参加で裁判を身近にするとか、司法への信頼性を高めるという、そんなことがありました。まぁ、最高裁事務総局広報課が「社会経験のない裁判官が…」とかいうはずないですからね。

実際、裁判員裁判では、選ばれなかった出頭者に裁判所見学ツアーが用意されていたり(これは不人気。ちなみに選任用待合室ではずっと世界の車窓からDVDが流れていました@名古屋地裁)、事件が終わった後で裁判員に感謝状と記念品(シリアルナンバー入り!)を授与するなどのイベントがあったりします。筆者の見た事件では、裁判員の方々が概ね前向きな感想を残して帰っており、実際に司法への理解は深まったのだと思います。

しかし、憲法学の見地からすると、実は、国民と司法の距離が近くなるというのは危険であるという問題提起ができます。司法審査と民主制というのは憲法学の一つの大きなテーマで、実は筆者もゼミで研究?したことがあるのですが、ざっくりいうと、基本的人権を擁護するために少数者保護を旨とすべき司法制度は多数決原理を基礎とする民主制と相容れないところがあり、その中で司法制度がどうやって/どんな「正統性」を確保していくのか、ということが問題になります。
基本的人権の擁護という中では、刑事裁判は最前線ということができます。日本国憲法を読むと、全103条のうち10か条(31条から40条)が刑事被告人の権利を定めていることが分かります。刑事裁判というのは、被告人という絶対的少数者を裁く手続きであり、多数派である「犯罪をしない人」から見れば、絶対的に敵視される存在です。そういう人に対しても適正な手続を確保し、人権を尊重するということが、憲法上の要請であり、司法制度の重大な任務です。その任務は、あえて多数の声から距離を置き、司法制度の論理に基づいて判断を行う、職業裁判官としての専門合理性ないし職業倫理によってはじめて支えられていると言えます。
これを踏まえると、国民の司法参加ということで裁判員による刑事裁判を認めることが、刑事被告人の権利を尊重する上でどういう効果を持つのか、それが司法にとってよいことなのかということを考えてみる必要がある、ということが言えると思います。筆者がどう考えているか、ということを詳論することはしませんが、例えば「司法の量刑は軽すぎる」みたいな話は、あまり筆者には響いてこないところがあります。そう思うのであれば、実際に危険運転致死傷罪が新設されたりしたように、立法によるほかないわけで、司法は国民とあえて距離を取り、その専門合理性によって憲法や法律の枠内で事件を処理するべきではないか、ということです。
もちろん、裁判員法も法律ですから、現在の司法制度は裁判員裁判を前提として「新しい専門合理性」を作っているともいえ、それが望ましいものであるという評価も可能ではありましょう。実際、刑事被告人の権利が不当に侵害されないと言えれば、裁判員制度により職業裁判官以外の目線が審理に取り入れられることは、量刑判断も含めて、より健全な「裁き」を可能にするのかもしれません。ただし、どこまで行っても、国民を司法に参加させるという制度は、少なくとも原理上は、多数者からの少数者保護という司法制度の本旨を害する恐れがあるのだということは、警戒されなければならないはずです。

上記のような議論がディベートの試合で生きてくるのかは謎ですし、だからこそあえてそういうテーマを選んで書いているのですが、単純に「裁判員裁判で誤判が増える/減る」とか「厳罰化が起こる/起こらない」という話をするだけではなく、司法制度に何を求めるのかということを議論し、それを通じて、司法とは何か、さらにはそれにつながる三権分立や法による支配ということの意味について、思いを深めていただければと思います(筆者もそんなに思いをいたしているわけではないのですが…)。
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