愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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第20回ディベート甲子園中学論題(犯罪実名報道の禁止)のための「表現の自由」のレッスン
先日、全国教室ディベート連盟関東支部春季大会にジャッジとして伺わせていただきました。今季論題での初大会にあたりますが、中高ともによく準備されていたという印象でした。

中高ともにいろいろと検討すべき点はあるのですが、今回は、より難しい論題だと思われる中学論題「日本は刑事事件における実名報道を禁止すべきである。是か非か」に関連して、そこで問題とされる「表現の自由」について、少し初歩的な説明をしておこうと思います。具体的には、論題解説で「犯罪の実名報道が「知る権利」や「報道の自由」のどういった部分を大きく損ねているのか、分かりやすくジャッジに説明することが大切でしょう。」と書かれているところを補足するという意味合いです。
なお、筆者は一応司法試験に合格しているので憲法について分かっていることになっているはずなのですが、別に仕事で専門にしているとかそういうことはないので(そんな人ほとんどいないと思いますが…)、その程度の正確性と割り引いていただきたいですし、間違ってもこんな場末のブログを資料として引用することはないようにしてください(まぁ、カメクジラネコ?のサイトを使うことを考えたら、別に引用してもらってもいいかもしれませんがww)。以下で書いているのも、憲法の標準的学説や最高裁判決に準拠しているつもりですが、学説上でもいろいろ議論のあるところです。一番大事なことは、自分で納得できるかどうかです。どこかで書いてあることを受け売りにする「自動販売機」になってはいけない、ということです(ということが司法試験の憲法の採点実感でやたら書かれています)。

1.表現の自由はなぜ大事か
ある試合で、表現の自由がなくなったら民主主義が崩壊する、といった主張がされていました。だから実名報道をやめたら民主主義がだめになる、というのはかなり論理の飛躍があり、ジャッジとしても採用できなかったのですが、皆さんが憲法の本やらジャーナリズム系の本を読むと、こういうことは結構いろいろと書かれていると思いますし、実際、表現の自由と民主主義は密接な関係にあります。ですから、単に「実名報道と民主主義は関係ないよね」というだけの説明にとどまるのはよくないと思いますので、一度きちんと説明しておく必要があろうかと思います。

表現の自由は、憲法上の権利でも特に重要な権利とされています。この重要性を支える価値としては、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという価値(自己実現の価値)と、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する価値(自己統治の価値)の2つがあります。このうちで、民主主義との関係で特に重要なのは、後者の「自己統治の価値」です(もちろん前者も、民主主義の担い手を育てるという意味で重要であり、皆さんがディベートをする意義とも密接にかかわっているものです。)。
表現の自由との関係で国民が政治的意思決定に関与する、という場面の典型例は、政治批判です。民主主義というのは、対等な個人が議論によって意思決定を行うことが前提とされています(されていなければなりません)。議論をするためには、批判を含めて、自由な表現が保障されていなければなりません。民主主義は多数決によって物事を決するわけですが、この制度が正当化されるためには、少数意見が多数意見になり得ることが確保されていなければなりません。投票率が100%であっても、絶対に政権党に投票しなければならないのだとすれば、それは民主主義ではなく独裁です。これは極端な例ですが、少数者の表現を制約するというのは、投票強制と同様の効果をもたらします。要するに、特定の思想や表現に対する制限は、何であれ、民主主義の正当性を貶めることになり得るということです。ドイツの革命家が「自由とは常に思想を異にするもののための自由である」ということを言っているのですが、この言葉は個人的に至言だと思います。

こうしてみていくと、中国での表現規制が民主主義国家から問題とされたりする理由もわかると思います。彼の国では、共産党批判につながる表現が規制されたり、表現内容への介入が行われたりするわけですが、それはとりもなおさず、共産党支配を維持するために、反対者の言論を封殺しているわけです。
日本においても、表現の自由が規制され、自由な意思決定が妨げられたことがありました。昔の日本には検閲という制度があり、報道等の内容が事前に国家機関にチェックされ、皇室批判や共産主義的言論などが規制されていました。現在では、日本国憲法はこのような「検閲」を絶対的に禁止していますが、教科書検定など、検閲あるいはそれに類する表現規制といえるかもしれない状況はあるにはあります(教科書検定に関する最高裁判例はこちら)。青少年保護育成条例による有害図書指定(いかがわしい本などは売れない)も、最高裁は合憲としていますが(こちらが判決文)、個人的にはかなりグレーだと思います。
表現の規制というのは、多数者がおかしいと思うものに対して簡単に課せてしまいますし、いったん規制が働き始めると、反対の思想を制約していくことで、多数者を固定してしまいますので、その後で是正することは極めて困難です。ですから、表現の自由というのは侵されないように大事に守っていく必要がある、ということができるかと思います。

ここまでが「表現の自由がなぜ大事か」ということの話ですが、試合でも少し出てきた「知る権利」の話も少ししておきますと、この「知る権利」は、上記のとおり重要な「表現の自由」を、情報の受け手の立場から再構成したものです。表現の自由に限らず、憲法上の自由権は、国家からの制約を受けないという「国家からの自由」なのですが、情報の重要性が高まってきた現代においては、表現の前提となる情報を受け手自らが求めることができなければならないことから、国家に規制されないという消極的な権利ではなく、情報を求める積極的な権利を認めようということで「知る権利」というものが言われています。知る権利を前提として、そういった表現に資するためのメディアの報道の自由が正当化される、という側面もあります(後述)。
なお、情報公開法など、具体的に法律がなければ国に対して「知る権利」を行使することはできないとされています。しかし、派生的に言えば、図書館の品ぞろえや本の廃棄について市民は文句を言えないのか、といった、表現の自由や知る権利の観点から考えてみる余地のある問題はあるので、興味のある人は、法学部などに行けば勉強の機会があるかもしれません(実際そういう事件もあります。表現の自由ではなく著作者の人格的利益で処理していますが、最高裁の判決文はこちらです。)。

最後に、表現の自由(より正確には受け手側に立った「閲読の自由」)の重要性について述べた最高裁判決を引用しておきます。ここまでの説明が、以下の内容を理解する一助になればと思います。ただし、制約可能性について述べた後半の意味については追ってのお楽しみ。

最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁。収監者の新聞閲読を制限する監獄法の規定の合憲性が問題とされました)
およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。しかしながら、このような閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。」



2.実名報道と表現の自由
さて、翻って、犯罪を「実名」を用いて報道するということは、表現の自由の価値とどう関係してくるでしょうか。

まず、実名報道が主に規制対象としているのは、報道機関、マスメディアの表現です。最高裁判例は、報道の自由について、「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」と述べています(最大判昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁)。
ここではまさに、民主主義との関係(自己統治の価値)から、報道の自由の重要性を説明しています。ただし、上記の判例は、刑事裁判の証拠に使う目的で報道機関に取材フィルムの提出命令が出たことにつき、そういうことをされると将来の取材の自由が妨げられる(将来裁判とかで使われるかも…ということだと取材に応じてくれなくなる場合などがあり得る)ということが問題とされたものであり、取材一般が制約されかねないとという問題意識から上記のような説明がされているものです。これに対して、実名報道という方法だけに制約をかけることは、それ以外の報道を難しくするわけではないと思われますので、実名報道の対象との関係で重要な何か(民主主義を支える?)があるといえなければ、実名報道が大事だという説明をすることはできません。

報道の自由ということではなく表現の自由一般の重要性から考えても、実名報道が直ちに自己統治や自己実現といった価値につながるとはいえないところがあります。もちろん、実名だからこそ価値を持ちうる場面はありますが、少なくない犯罪報道は、加害者とされる人を非難するとか、視聴者の好奇心に応える目的でされているところがあり、本当に実名でなければならないのか疑問のあるものもあるかもしれません。
こう書くと、否定側はどうすればいいのかというコメントが来そうなのですが、否定側にも十分希望はあります。というのは、実名報道のうち、「実名」を使わないと意味がない報道があるのだということが示され、それが重要だということが言えれば、それがたとえ小さいものであっても、守るべき価値があると言えるからです。この点はディベートジャッジ的には議論があるかもしれませんが、ひどい報道がたくさんあるという理由でまともな報道を規制するのは筋違いで、そのような場合には、ひどい報道だけを規制するという、より制限的でない手段を取るべきと考えるのが、憲法学では標準的な考え方です(LRA(Less Restrictive Alternative)の基準と呼ばれます。)。Counterplanを出せないのでちょっと説明しにくくはあるのですが、たとえば現状でもひどい報道には不法行為訴訟で対抗することが一応は可能ですし、筋論として「そんなにひどいならひどいものだけ規制しろ」という主張をすることはディベート的にもありだとは思います。

それでは、実名報道をすることの重要性とは何なのか。それは皆さんに考えていただきたいのですが、たとえば、「良質な犯罪報道」というのはどんなものか、そういう報道がされることでどんないいことが起こるのか、ということを考えてみることで、答えが見つかるのではないかと思います。試合の中では「冤罪を晴らす」という話が出てきましたが、それだけではなく、犯罪というものについて国民がどう考えるのかという、高校論題にも通じるような話にも関係してくるのではないかなと思います。

3.表現の自由に対する規制方法
最後に、この論題の肯定側が行おうとしている、表現の自由に対する規制というものについて、どのように考えていくのかという枠組みを少しお話しします。

上記1の最後に引用した最高裁判決も言っているように、表現の自由も絶対無制約ではありません。例えば、上で引用した報道の自由についての最高裁判決も、以下のように述べています。

最大判昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁
「本件では、まさに、公正な刑事裁判の実現のために、取材の自由に対する制約が許されるかどうかが問題となるのであるが、公正な刑事裁判を実現することは、国家の基本的要請であり、刑事裁判においては、実体的真実の発見が強く要請されることもいうまでもない。このような公正な刑事裁判の実現を保障するために、報道機関の取材活動によつて得られたものが、証拠として必要と認められるような場合には、取材の自由がある程度の制約を蒙ることとなつてもやむを得ないところというべきである。」



もっとも、表現の自由は重要な権利であるため、その制約については特に慎重でなければならないと考えられていますが、実名報道が直ちにそうなるかは問題であるというのはすでに説明したとおりです。

表現の自由の規制については、特に慎重に規制を制限すべき場合と、少し厳しさが緩くなる場合を区別する基準がある、といった説明がなされることがあります。その中で有名なものに、「内容規制」と「内容中立規制」の区別があります。これは、表現の内容に着目する規制(内容規制)は、特定のメッセージを排除する目的であり、恣意的に使われる可能性が高いので規制を認めないように厳しくチェックすべき一方、表現の場所や方法などを規制するだけで、表現の内容には無関係に規制しているという場合(内容中立規制)は、表現方法による弊害を除去するための規制ということでもあり、メッセージの排除という意味合いを持たないだろうということで、規制を少し緩やかに認めてもよい、と考えるものです(なお、判例では、内容中立規制よりもう少し広く、その表現によって生じる付随的効果を規制する目的の制限も含めた「間接的付随的規制」を緩く見る、といった考え方が取られています。そもそも内容規制のような見た目危ない規制は戦後日本では考えにくいので、表現規制を正当化する理由として「間接的付随的規制」という言葉を用いていると見ることも可能でしょう。)。
ただし、内容中立規制と言っても、たとえば国会の前でのビラ撒きを禁止する、といった場合、国会の前でビラを撒くのは政治的な意思表示をしようとする人だけでしょうから、実質的に政治的表現を規制しているということができます。この場合、内容規制としてチェックしていく必要があると考えられます。
「実名」での報道を規制するプランは、上記のうち、内容中立規制に当たるとも見えますが、対象が犯罪報道であるということからすると、一定の内容について規制を加えていると見ることも可能です。結局、「実名」を規制するということがなぜ問題なのかという、規制されてしまう報道の重要性をきちんと説明するかが問題になるというわけです。

また、表現の自由の規制については、規制を行うことで報道が「自粛」されてしまう、という萎縮効果が生じてしまうという問題も指摘されます。例えば、実名報道で刑事罰が課せられるプランでは、刑事罰を恐れて、実名報道そのものだけでなく、実名報道とされかねない報道(誰が対象か特定できる情報を入れすぎた場合など)もやめておこうということで、結果的に報道そのものが少なくなってしまうということも考えられます。
この点につき、少年法61条は「氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」という規制(推知報道の禁止。ただし違反に刑事罰はない)をしていますが、これに触れるかどうかの判断基準について、最高裁は「その記事等により、不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知することができるかどうかを基準にして判断すべき」(最判平成15年3月14日民集57巻3号229頁。かなり緩く「推知報道でない」ことを認めるように読めます。)としており、はっきりした基準は設けていません。これと同様に考えるなら、加害者の経歴は載せないほうがいい、出身地も載せないほうがいい、事件の説明もしすぎると被害者が特定されないか…ということで、報道をおとなしくしよう、となることも考えられます(逆に、不特定多数が分からなければよいということで、知り合いなど見る人が見れば一発で特定できるような中身の報道がされ、そこから噂で広がる…というケースもあり得るでしょう。)。
このような萎縮効果については、表現規制の際には常に意識される必要があり、そのため、表現の自由の規制要件は明確でなければならないとされています。今回の付帯文では、実名報道が「個人を特定して、その人が加害者または被害者であることを推測させる情報」と規定されており、明確と言いがたいところがあるので、萎縮効果の問題をディベートの中でも積極的に論じることができるでしょう。
他方、お金を儲けるための表現(営利的表現)は、規制にチャレンジする表現をする強い動機があるので、萎縮効果が弱く、あまり考えなくてもよい、という考え方もあります。ゴシップ雑誌は規制をあまり守らないのではないか、という話です。いずれにせよ、真っ当な表現の方が規制によって萎縮しやすい、ということはあると思いますので、そういう観点で議論を考えてみるのもよいかもしれません。


以上、ちょっと、というかかなり、中学生向きではない中身になってしまいましたが、中学論題で問題とされる表現の自由について、概説的に書いてみました。もちろんきちんとした文献で勉強していただきたいところでもありますが、それをはじめてしまい、間違って法学部に来たとしても責任は持てません。
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