愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
ディベート甲子園の地区予選に参加される選手の皆様へ
実はこのBlogは某所で書いていたディベーター向けの日記(?)を引き継いでいるという趣旨がありまして、今日はその関係で少し書いてみることにします。

中高生のディベーターが日本一を目指して戦うディベート甲子園の予選が、全国各地で開催されています。今週末も関東甲信越地区と東海地区で大会があって、僕も東海地区の大会でジャッジをさせていただくことになっています。実家に帰るついででもあります。さすがに入院中なので講義を休んで骨休めとはいかないのですが。

そんなわけで、全国の中高生ディベーターにとっては大変な時期なのですが、ジャッジをさせていただく立場から一歩引いたところでコメントさせていただくとすれば、自分たちが考えてきたことに自信を持って、楽しんでほしいです。

選手からしたら全国大会のかかった試合なので、そんな悠長なことは言っていられないでしょう。やはり全国大会というのは格別でして、これに出られるか出られないかは大きい差であるということも良く分かります。僕も当時はそうでしたから。あの時は勝敗が気になって、いろいろ見苦しいこともしてしまいました。思い出すだけで消えてしまいたくなるくらい格好悪かったです。
しかし、ディベートというものは勝ち負けがついてしまいますから、誰かは全国大会にいけなくなってしまいます。その意味で、ディベートの結果は全員に平等ではありえません。それでも、頑張った分の成果や思い出、自分たちの考えてきた議論の価値は、結果がどうであろうと、それぞれの取り組みに応じて保障されています。そして、ディベートという競技の本当の素晴らしさは、そのような成果物にあるのです。

また教条的なことを言いやがって、という声も聞こえてきそうですが、実際にそうなのですから仕方ありません。
僕はディベート甲子園で言えばベスト8という微妙な(それでも出られなかったチームを思えば恵まれていますが)ところまでしか行っていませんが、その大会でもっと上位に行ったチームの選手と比べてディベートから得たものが少ないとは思いません。ディベート甲子園で優秀な成績を残した人間が、その後ディベートにおいても実社会においても理想的な結果を残しているかというと必ずしもそうでもないですし(この辺はあまり書くと生々しいので省略)、そのような人がいるとしても、それは「優勝した」とかそういうことではなく、そこに至る過程で得たものの価値によるものです。

というわけで、皆さんには、大会を思いっきり楽しんでもらいたいです。その上で全国大会に出場できたチームには、代表校という素晴らしい切符を得たという恵まれた立場であることを自覚しつつ、全国大会というお祭りをこれまた楽しんでほしいです。そのために、僕も含めた多くのスタッフが大会に関わっているわけです。

さて、そのようにディベートを楽しむために必要なものとして、議論を考えるための基本的な枠組、方法論というものがあります。釣竿やその使い方を知らなければ釣りを楽しむことができないことと同じです。
実は、僕が今危惧しているのは、そのような道具や使い方を十分に教わっていない(教えてくれる人がいない)ディベーターが割と多いんじゃないか、ということです。
「こういう議論が望ましいんだ」「こういう議論をしろ」という指導は、既に釣った魚を与えるだけで、あまり意味はないでしょう。ディベーターにとって必要なのは「議論はこうやって作るんだ」という知識です。そして、ディベーターが求めるべきものも、大きな魚ではなく、大きな魚を釣るためのつり方でなければなりません。もらった魚を食べるだけでは、ディベートの本当の旨さは分かりませんし、その後でディベートを役立てることなど不可能です。

このようなことを全国予選の直前に書くことにどれほどの意味があるのかは分かりません。ただ、全国大会に出場できたとして、そのような環境に置かれると、全国での結果を求めてつい魚がほしくなってしまったり、魚を押し売りされてしまうようなことがあります。でも、そこで魚を食べてしまったら、それはディベーターとして自殺行為といわなければなりません。
本来なら僕も、意味不明なルール解説など書くより、議論の構築方法などを書いた方が若干なりともディベーターにとって貢献できるのでしょうが、そのあたりはあくまで入院日記の一環としてストレス解消のため内容を選んでいるということで仕方ありません。ただ、ディベートで得られるものは「知識」ではなく「考え方」なんだということは、いくら強調しても足りないのであって、僕のような入院患者以外のディベーターの方々には、そのような情報をこそ指導してほしいと願うばかりです。

何かタイトルの趣旨とずれてきてしまったのですが、ずれたついでに別途のお話を。

某ディベートファンサイト(?)の掲示板に、いろいろ面白い――funnyな――ことを書いている人がおりました。僕も直接知っていて、結構面白い――interestingな――人だったことを覚えています。
曰く「世の中ってすべて矛盾してるんだよ。論理的なことなんかない」と。全てかどうかわかりませんが、まあそういうことはあります。法律を勉強していても、あちらを立てればこちらが立たないということはよくありますし、理屈だけで解決できない問題というのは、いくらでも存在します。ただ、それが「論理的なことなんかない」とか「論理に意味はない」ということを意味するのかといえば、そんなことはありません。

僕が上の方で「ディベートで大切なのは考え方を学ぶこと」みたいなことを書いているのは、ディベートで人を説得するとか、論理力を身につけるとかそういうことではなくて、物事を合理的に考えることで、少なくとも自分の世界ではハッピーになれる可能性が広がるし、そうした考え方を応用すれば、人のことも幸せにしてあげられる可能性がある、ということです。
競技ディベートの世界自体は、相当に特異な世界というべきであって、試合で勝った議論(魚)だけが差し当たり評価の対象になります。しかし、現実の世の中ではそんなことはなくて、そもそも好みの違いで魚を食べてくれない人もいるし、魚ではなく船の大きさで勝敗が決まったりすることもあります。その意味で、世の中は矛盾だらけです。それが嫌になっておかしくなってしまう(というかそういう世の中が嫌になってディベートをはじめる)ディベーターがいるのは、残念ながら事実です。ほとんどの中高生にとってはそんなことはないでしょうけどね!
でも、ディベートを真っ当に行うことで身につく「考え方」は、そんな矛盾に満ちた社会の中でも、有用なものです。もとより完璧なツールなどというものはありませんから、ディベートだけやっていれば人生ハッピーなんてことはないのですが、ディベートで身につけた能力が生きる場面は間違いなくあります。少なくとも今の僕にとって、法律学で要求される利益衡量などの考え方はディベートと親和的だと思いますし、副次的な効果とはいえ、大量のエビデンスを読んできた経験は判例や文献の処理に大いに役立っています。

ただ、そのようにディベートを役立てるためには、魚の釣り方を求めてディベートに取り組まなければなりませんし、それだけではなく「現実で役立つ魚の釣り方」を意識しなければなりません。議論を考える際に、競技ディベートという世界だけで閉ざしてしまうのではなく、それが現実社会でどう議論されているか、社会の一員である自分の立場からはどう考えるか…といったことと切り離しては、そもそもディベートの上で説得力ある議論もできませんし、ディベートを離れた場所で役立つ考え方を養うことはできません。
そうやって考えていくと、「ディベートが理屈っぽい」ということを変に強調する人は、ディベートにおいて求められている議論の内容を真に理解していないか、「理屈」という言葉を不自然に卑下しているかのどちらかではないかなぁと思います(実際、理屈だけではだめかもしれませんが、理屈をつけることはそれ自体重要です。特に法律を勉強していると、どんなに望ましい結果があるとしても、それに理屈をつけなければどうしようもないわけで、そのような正当化を欠く結論はいくら素晴らしいものでも採用できないのです。もっとも、それを要しないヤクザな世界もありますから、そういう世界に行きたいのなら別です)。

というわけで、ディベートで求められる論理というのは、社会とかけ離れたところにあるわけではない、ということです。皆さんがディベートを楽しいと思うとき、それが「社会の一員として」の感想であることを切に願っております。
(だから、社会の一員として良識を踏まえなければならないのです。先日も言ったようにジャッジはそれなりの責任があるし、客観的に見て公的な地位につくのだから、どこかに遊びに行くみたいな気分でやってもらっては困るわけです。僕はそんなに服装にはこだわりませんが、麦わら帽子とか被ってジャッジをするという神経は、論理的云々ではなく常識的におかしいですし、かといってその違和感を正当化する理由は見出しがたい――よっぽどの理念があって、それを正当化するだけの実力が伴っていればありかもしれない――わけです。そんな格好でジャッジができると思うのは、頭が柔らかいのではなく、頭がユルいといわねばなりません)

…と、何か変な形で終わってしまい、選手の方々に読んでほしかったのは最初の6段落くらいということになってしまったのですが、これも入院生活の影響ということで。
それにしても、ちょっとはねっかえってみればカッコイイとか、そういう風潮はどうにもならないものですね。入院生活で救いがあるとすれば、(若干の例外を除いて)みんな割と真剣に法律家としてのあり方を考えていたりして、そういう軸のないはねっかえりは見られない、ということです。僕もそうありたいものです。
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