愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
事例で学ぶディベートのルール(1.コミュニケーションの責任とジャッジの判定)
先週大会の審判に行ってきて、いろいろ面白い議論を聞かせていただきました。それらを具体的に紹介したいという気持ちもあるのですが、それは面倒だということで、ここではディベートのルールや理論を考える上で有益な事例を抽出し、私見を述べていくというスタイルで紹介することにします。

というわけで、別途書いているディベート甲子園ルールの逐条解説とは別に、新コーナーを設立して記事にすることにします。逐条解説(実は逐条的に解説してないのでタイトルを変えようか思案中)の方ではわざと難しげに書いているのですが、こちらは僕の能力の範囲内で分かりやすく問題点を取り上げて書ければと思っています。というのも、実際に見た議論で気がついた点の解説ですから、選手(中高生を念頭においていますが大学生のディベーターでも同様の問題はありうる)に理解されないようでは意味がないからです。
もっとも、こんなblogを読んでる選手がいるのかという根本的な疑問はあるわけですが。一応質問などあればコメントか何かで書き込んでくれればできる限りお答えします。

というわけで、今回は第1回として、「コミュニケーションの責任とジャッジの判定」と題して問題を取り上げてみます。僕は行かなかったのですが、関東大会で聞かれたというジャッジの判定が元ネタです。
ちなみに今後の予定については、暇な時に記事を書くというのはこれまでと同様ですが、逐条解説よりもこちらの方が多少なりとも有益な内容になりそうな気がするので、2~3回はこちらを優先して書くことにします。


第1回 コミュニケーションの責任とジャッジの判定

問題の所在
競技ディベートは、口頭でなされるコミュニケーションによって成立します。ディベートにおいては議論の中身が評価されるのであり、ただスピーチが上手だったということで投票することは許されないのですが、議論を評価するためにはその議論を正確に聞き取る必要がありますから、スピーチという伝達手段はそのような前提を満たすためのものとして、その限りで勝敗に影響します。
「その限りで」というように書きましたが、実際には、分かりやすいスピーチは議論の理解度を上げ、ジャッジの評価を大きく左右するものですから、無視してはならない要素です。いくらうまくスピーチしたところで、もともとの議論内容より高い評価が得られるということはありませんが、理解しにくいスピーチをしてしまうと、せっかく良い議論をしているとしても、それが伝わらないために結果として内容を十分評価してもらえないということになってしまうのです。

今回は、そのような「コミュニケーションの責任」について基本的な部分を確認する一方で、ジャッジがそのような責任を判定に反映させる方法やその限界について考えてみることにします。

1.コミュニケーションの責任
まずは以下の設例を考えてみましょう。

【設例1-1】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料の内容を全く聞き取ることができなかった。


このような場合、ジャッジは資料の内容が理解できなかった以上、その反駁について十分な根拠があると判断することができません。ですから、この反駁は根拠が(ほとんど)ないということになりますから、判定の際に考慮されないことになってしまいます。
これは、ジャッジが判定に考慮できるのは「スピーチの中で理解できた内容である」という当然のことによる処置です。これは、ディベート甲子園のルールガイドラインには「発言内容がどんなに優れたものであっても、審判が発言内容を適切に理解できなければ判定に考慮されません。」とあることからも理解できるでしょう。

少し難しい言葉でいうなら、ディベーターがある議論を出し、ジャッジがそれを評価する過程は、表現⇒知覚⇒理解⇒記憶⇒評価という過程をたどります。ディベーターが議論の内容を正確に「表現」し、ジャッジがそれをスピーチを聞くことで「知覚」し、その内容を「理解」し、フローシートに書きこむなどして「記憶」します。その内容が最終的に「評価」され、判定の理由に採用されるのです。
ここからも分かるように、ジャッジが議論を評価するまでには様々な過程がありますから、ジャッジに議論を正しく理解してもらうためには、ジャッジが聞き取りやすい(知覚を助ける)表現やジャッジにとって分かりやすい(理解を助ける)表現を選ぶこと、そしてジャッジがフローシートを取りやすいようにスピーチする(記憶を助ける)ことが求められるのです。

ここで、ジャッジによって理解や記憶の能力が異なる場合、あるジャッジには聞き取ってもらえたのに別のジャッジには理解されなかったということが起こることになるのはおかしいのではないか、という意見があるかもしれません。
確かに、ジャッジによって議論の理解に差がある場合があります。それは、経験の差や、論題についての慣れなどによって生じます。しかし、そのような理解の差は少なくともその試合での両チームに対しては平等に現れるものですから、差が生じているとしても判定に不公平が生じるというものではありません。ディベーターに課せられているコミュニケーションの責任は「最も優れたジャッジに理解してもらう責任」ではなく、その試合を判定するジャッジに議論を理解してもらえるようにスピーチを行う責任なのです。

2.分からない議論を確認できるか
以上の説明は、選手の側からの話でした。ここからは、ジャッジが分からない議論にどのように対処すればよいのか、という点について考えてみます。

【設例1-2】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料中の理由を支える数字について正確に理解できなかった。そのため、ジャッジの中ではその証拠資料の価値が十分判断できない。


先ほどの設例での答えからすれば、このような場合もジャッジはコミュニケーションの不備によって証拠資料の価値を判断できないのですから、そのような議論は判定材料とできないことになります。
しかし、ジャッジとしては、聞き取れなかった数字の内容さえ分かれば証拠資料の価値を判断できるのですから、それについて確認したくなります。果たしてそのようなことが許されるでしょうか?

結論としては、そのような確認は許されません。なぜなら、ジャッジは判定に際して「試合中の」議論のみを判断材料とできるところ、スピーチ以外の場所で知った内容は試合で出された議論といえない以上、判定に考慮できないからです。スピーチが終わってから判定を出す前に資料を見せてもらい、数字を確認するという行為は、この決まりに違反するものです。

なお、設例では証拠資料の「中身」について理解できない点がある場合を取り上げていますが、証拠資料の「出典」が聞き取れなかったという場合も、反駁を採用できなくなる場合があります。出典が不明の証拠資料は証拠としての要件を満たさないからです(ディベート甲子園ルール細則B-4項参照)。そもそも、資料の出典とは証拠資料の価値を高めるための裏付けであって、資料の内容と同等に重視されるべき内容です。試合を聞いていると、出典の部分だけを早口で読み飛ばすディベーターが少なくありませんが、そのようなスピーチは証拠資料の価値を自ら否定する自殺行為といわなければなりません。

さて、聞き取れなかった議論の再確認が許されないということは以上の通りですが、この問題はもう少し詰めて考えることが可能です。例えば、以下のような事例はどうでしょうか。少し考えてみてください。

【問題1-1】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料中の理由を支える数字の意味について正確に理解できなかった。そのため、ジャッジの中ではその証拠資料の価値が十分判断できなかった。しかし、その後否定側第二反駁においてその反駁についての言及があり、そこで資料において聞き取れなかった数字についても言及があったため、ジャッジはその時点で証拠資料の内容を把握することができた。その結果、肯定側の当該反駁は採用に足るものであり、これを理由として肯定側に投票すべきとの心証が得られそうである。
以上の場合に、ジャッジはこの反駁を判定に考慮することができるか。
*問題文を一部修正しました(下線部)。詳細は追記にて。[2009年1月26日]


ジャッジがスピーチ外で確認したというわけではないが、その資料が読まれたステージとは別のステージ(それも相手方!)で内容を確認できた…という事例です。正しい答えがあるというわけではないので、自由に考えてみてください。ディベートの試合同様、大切なのは結論よりも理由です。
(解答例は追記に記載しています)

3.教育的見地から理解できた議論を不採用にできるか
ここまでのお話は、コミュニケーションの不備で議論が理解できなかったということを問題としていました。ここからは、コミュニケーションとして問題はあったが、議論の内容は理解できた、という場面を考えてみることにします。

【設例1-3】
肯定側の立論のうち一部が非常に早くスピーチされたため、非常に聞き取りにくいものであったが、ジャッジはかろうじて内容を理解することができた。しかしながら、この部分のスピーチは通常の観客や経験の浅いジャッジには到底理解できないと考えられるものであり、コミュニケーションの点で著しく問題と考えられた。


ディベート甲子園ではコミュニケーション点という制度があり、議論を理解できたかどうかとは独立にコミュニケーションを評価することができます。しかしながら、上記の設例のような場合、自分はかろうじて理解できたというだけで、普通は理解できないスピーチであると考えられますから、そのようなスピーチは評価すべきではないのではないか…とも考えられそうです。

ディベート甲子園においては、このように考えるジャッジも存在します。これは、ディベート甲子園が教育的な事業であり、一般人に理解されるような議論でなければならないという理解に基づく判断です(なお、教育的であることや、一般人にも理解されるべきであるということは、競技ディベート一般に妥当することです)。
しかし、競技ディベートは議論の内容とスピーチを切り離した上で前者によって勝敗を定める建前ですから、「分かってしまった」議論について判定から除外するということは、基本的には許されないことというべきです。競技ディベートの最大の教育的目標は議論の内容を対象とするものであり、スピーチそれ自体を評価対象とすることは、むしろ反教育的だということもできます。また、一度理解した内容をコミュニケーションの問題で除外するということは、判定者の恣意的な基準によって議論を不採用にすることでもあります。
この見地からは、ディベート甲子園のガイドライン1項に定められた様々な注意(特にスピーチの速度について)は、あくまで注意や参考のための規定であり、これに反したからといってそれだけで判定を左右するものではないというように理解すべきです。ガイドラインでも「審判が発言内容を適切に理解できなければ判定に考慮されません」とあるのですから、ジャッジが適切に理解したという場合は、ジャッジはそれを判定に考慮しなければならないのです。

ですから、以下のような事例については、なおのこと許されないということになります。コミュニケーションの問題を理由に投票するということは、ディベート甲子園ルール本則第5条で試合の内容(メリットとデメリットの大きさ)により勝敗を定め、同6条で「勝敗とは別に」コミュニケーション点を評価すると定めている趣旨に明らかに反しています。

【設例1-4】
肯定側のスピーチは全体的に聞き取りづらく、一般の観客や経験の浅いジャッジには理解できないものと考えられたため、試合の内容としては肯定側が勝っていると判断したが、コミュニケーションの問題を理由に否定側に投票した。


一旦なされた投票については変更が効かない、ということになっているので、このような場合もディベーターは判定に従うほかないのですが、ルールに照らして問題があるのではないかということを問いただしてみると、将来の違法な判定を抑止するという側面からよいかもしれません。
もっとも、そのような判定をするジャッジは独自の見解に基づいて投票していることが大きいので、おそらく聞き入れてはもらえませんし、多くの場合、コミュニケーションを理由に投票したジャッジは、議論を正確に理解できなかったと感じているため、そのような理由からも判定がされていることがありますから、議論の内容により判定したとしても結論としては同様な判定になっていた可能性が高いです。要するに、文句をつけられるようなひどいコミュニケーションは避けるべきであるということです。

以上述べたとおり、ジャッジはコミュニケーションの不備がある場合も、一旦理解した議論は採用しなければなりません。しかし、このような処置が不当であると考えられる事例もあります。例えば、以下のような問題はどうでしょうか。

【問題1-2】
肯定側が否定側に対して資料を付した反駁をなしたが、その資料は大要以下のようなものであった。『もし○○という状況が改善されるのであれば、論題の採用によって××という効果があるため、(否定側のいう)問題が起こることは考えられない』
ここで、肯定側は資料のうち『もし○○という状況が改善されるのであれば』という部分についてだけ不自然に早くスピーチし、一般には聞きとれないような状況であった。ジャッジはこれを理解できたという場合、この資料の引用を認めてよいか。否定側が肯定側の早読みした部分について認識していた(資料請求をしたり、反駁でこの部分について反論を試みていたという場合)ときに結論は異なるか。


証拠資料の適切な引用という話題にも関係する議論なので、そのあたりも含めて考えてみてください。
(解答例は追記に記載しています)
問題の解答例

*本問について別ブログ(2009年1月21日エントリ参照)でのご指摘があり、問題設定が分かりにくかったということで一部修正したうえで、関連する部分につき補足説明をしました。問題文の修正部分には下線を付しています[2009年1月26日]

【問題1-1】
肯定側は否定側のデメリットについて、その発生過程を否定する反駁をした。しかし、肯定側の反駁者は時間不足から、その反駁の根拠である証拠資料を早口で読み飛ばしてしまい、ジャッジは資料中の理由を支える数字の意味について正確に理解できなかった。そのため、ジャッジの中ではその証拠資料の価値が十分判断できなかった。しかし、その後否定側第二反駁においてその反駁についての言及があり、そこで資料において聞き取れなかった数字についても言及があったため、ジャッジはその時点で証拠資料の内容を把握することができた。その結果、肯定側の当該反駁は採用に足るものであり、これを理由として肯定側に投票すべきとの心証が得られそうである。
以上の場合に、ジャッジはこの反駁を判定に考慮することができるか。


この事例で問題となっているのは、当該ステージで聞き取れなかった内容が後のステージではじめて理解できたという場合、その内容を採用してよいのか、ということです。

一般的には、このような事例は珍しいことではありません。最初は反論の趣旨が不明瞭だったが、最後まで話を聞いてみると「そういうことだったので」という感じです。このような場合にその議論を採用できるかと考えると、感覚的には肯定してよいように思われます(そしてこれを否定してしまうと少なくない試合で選手にとって残念な判定を出さざるを得なくなってしまいます)。
理由としては、議論の内容を理解させるという意味でのコミュニケーションの責任は試合全体で果たせば足りると考えてよいこと、それと関係して、スピーチの中で判明したこととスピーチの外で確認した内容は別物であり、前者については試合の内容から逸脱していない以上問題はないことを挙げられます。また、結果的に分かってしまったことを排除することは難しいという実質的な理由もあります。

一方、このような場合に当該内容の採用を否定する立場も有りうるところです。
理由としては、コミュニケーションの責任はあくまでその場において果たされるべきで、事後的に明らかになったということでその責任が満たされるものではないと考えられること、これに関連して、このようなスピーチの採用を認めるとコミュニケーションの責任を果たさなかったスピーチについて十分なペナルティが科せられないことなどがありうるところです。また、実質的理由についても、後のステージで明らかになったとしても、それが本当に当該ステージで発言された内容であるかは確かでないということが挙げられます。

両説ともそれなりの理由がありそうに思えますが、私見としては、既に述べたとおり前者の採用積極説を採るのが妥当であると考えます。
試合におけるコミュニケーションは議論全体から把握すべきであり、ジャッジはその試合の中で最終的に理解できた事柄によって判定を下すべきと考えるからです。
事後的に明らかになったことを認めることで不適切なコミュニケーションについて十分なペナルティが科せられなくなるという批判については、事後的に明らかになった議論についても、当初から分かりやすく議論されていた場合に比べると議論の受容程度は低くなっていると考えられることから、結局のところ不利益を被っているため、選手としては最初からコミュニケーションを意識すべきであるといえますから、特に問題はないと考えられます。また、後の発言によって前の発言の内容が正しく把握できるとは限らないという点についても、そのような疑いがあることによって事実の信用性としては下がりますから、その点で判定上不合理な結果が出るとも思えません。

ただし、上記と区別されるべきコミュニケーションの問題があります。それは、そもそもスピーチが聞き取れなかったという場合です。本問でいうなら、何かの数字が言われていたことは分かるが、全く聞き取れなかったというときにあたります。このような場合、そもそも議論が提出されたと見ることもできないので、少なくとも証拠資料の内容として数字を採用することはできません。そして、後で数字の中身が判明したとしても、そこではじめて「提出された」と考えられ(相手方からのスピーチでも主張と見ること自体は可能です)、新出議論の禁止にひっかかってしまいます。
理論的には、後でスピーチ内容が判明し、前に聞き取れなかった部分との同一性が示された場合(どう認定するかという問題もありますが)に遡及的に主張があったものと認めるとの構成もありえないではないでしょうが、それを認めると、とにかく初期の段階でコミュニケーションを無視して大量に議論を出しまくり、後のほうで必要なものだけ説明しなおすという、コミュニケーションの見地から問題のある戦術を許容することになってしまいますし、議論の提出というのは最低限ジャッジにその存在を認識させる必要があると考えるべきなので、遡及効を認めるべきではありません。
さらに補足しておくと、ここでいう「全く聞き取れなかった」というのは、ゼロか1かというものでもありません。数字の例で言うなら、全く聞き取れないという場合と「142万人」のようにはっきり聞き取れた場合が両極であるとして、その間には「100万人くらい」というような認識程度があります。このような中間的な認識でも、「ある程度大きい数」という程度の提出があったと見ることは可能であり、その限りでは判定の対象とすることに問題はないと考えます。

なお、この事例では、相手方のスピーチによって議論が明らかになったという事情がありますが、これを採用の可否に際してどのように考えるかも、議論の分かれるところでしょう。
相手方がそのスピーチで発言された内容を認識し、その発言の存在を認めていると考えれば、少なくとも当事者の間ではコミュニケーションが成立していたと考えられることから、採用を支持する根拠になります。一方、当該発言をなした側からはその内容を理解させるスピーチが出されなかったと捉えれば、そのチームがコミュニケーションの責任を果たしていないと考え、採用を否定する根拠となります。
これについては、誰が主張するかということはディベートにおいて本質的ではないと考えます(この点については主張共通・証拠共通の原則として説明しています。次の記事を参照のこと)ので、私見としては前者の立場を採りたいところです。いずれにせよ、どちらのスピーチによって明らかになったかということが上記の結論を大きく左右するといえるかは、難しいところでしょう。

もちろん、皆さんがどう考えるかは自由ですので、それぞれに自分なりの結論と理由付けを考えてみてください。


【問題1-2】
肯定側が否定側に対して資料を付した反駁をなしたが、その資料は大要以下のようなものであった。『もし○○という状況が改善されるのであれば、論題の採用によって××という効果があるため、(否定側のいう)問題が起こることは考えられない』
ここで、肯定側は資料のうち『もし○○という状況が改善されるのであれば』という部分についてだけ不自然に早くスピーチし、一般には聞きとれないような状況であった。ジャッジはこれを理解できたという場合、この資料の引用を認めてよいか。否定側が肯定側の早読みした部分について認識していた(資料請求をしたり、反駁でこの部分について反論を試みていたという場合)ときに結論は異なるか。


この問題はコミュニケーションの問題と証拠資料の適切な引用にかかる問題がセットになっているのですが、後者の方から順を追って考えていきましょう。

証拠資料は引用元の内容と異なる意味を示すような形で引用されてはなりません。そのような引用は、結局のところ証拠資料の意味を新たに捏造することになるからです。
このような不当引用には様々な類型があります(いずれこのコーナーで重点的にとりあげたい内容でもあります)が、その中の一つとして、論理を成立させる条件を中略する引用があります。分かりやすい例としては「勉強さえしっかりすれば、君はこの試験に間違いなく合格する」という言葉について、前半をカットして「君はこの試験に間違いなく合格する」と言ってしまうと、意味が全く違ってきます。後者の不当引用の場合、勉強する気がなくなってしまいますよね。

この問題では、こうした条件部分を省略する不当引用を、条件部分について聞き取れないような形で読みあげるという方法で行っていると評価することができます。要するに、自分たちにとって不利な部分について聞き取れないような形でスピーチしてやれば、実質的にその部分を読まなかったことと同じ結果になる…というものです。
こうした行為は実質的な不当中略に当たりますから、証拠資料の用い方に問題があるということで、その資料を判定から除外したり、反則負けの理由にするという処置も考えられます。

しかし、本文で述べたとおり、ジャッジは「分かってしまった内容」についてはそのまま採用しなければなりません。また、実質的な不当中略とは言え、一応試合内で読まれてはおり、相手方やジャッジが証拠資料の確認をすればその資料の内容は確認できるという状態にもありますから、不利な部分を読まずに省略するということと同じように処罰することはあんまりであるとも考えられます。
このあたりは、証拠資料の不正引用をどこまで重く見るかという価値判断がかかってきます。現在の一般的なジャッジであれば、よっぽどひどい読み方で条件部分を読み飛ばしていないのであれば、証拠資料を排除したりすることはないでしょう。私もそのような処置をすることには躊躇を覚えるというのが正直なところです。

しかし、理論的に考えれば、このような実質的な不当中略というべき行為については、たとえ分かってしまったとしてもその引用の違法性を理由に採用を否定するべきです。不当な中略を施された資料や捏造された資料については、たとえ相手方がその資料の採用を認めた場合でも、試合の公正維持などを理由に排除するべきであるところ、そのように考えるのであれば、たとえ分かってしまった場合であっても、不当な証拠資料の使用を戒め、試合の公正を維持するため、あえてその資料を判断材料としない判断をなすべきでしょう。
なお、このように考える場合、証拠資料を排除するという判断は相手方(この問題では否定側)が省略部分について認識・反論していたか否かという点で左右されることはありません。そもそも、否定側にとって不利な不当引用を取り締まるに際して、否定側が注意深く資料を聞いているとかえって証拠資料が採用されて不利になってしまうというのはおかしな話です。

実際の試合においても、悪気はそれほどないのでしょうが、不利な部分を早読みしたり、有利な部分だけをゆっくり読むという行為が目立ちます。それが資料の価値を不当に高めていると評価される場合は、上記のように厳しく考え、その証拠資料を排除することが必要だと思われます。
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