FC2ブログ
 
■プロフィール

アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

■最近の記事
■最近のコメント
■カテゴリー
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
第22回JDA秋季ディベート大会決勝戦の批評など
だいぶ間が開いてしまい時機を失しておりますが、はじめてJDA決勝でクリティークが勝ったことで色々と物議をかもした今年の秋JDA決勝戦について、コメントしておきます。JDA-MLでも盛り上がっており、そちらでも蟹池さんをはじめとする有益なコメントがあったのですが、閲覧できる人が限られるのと(登録は無料ですが)、途中で変なことになって議論する気を失ったので、こちらで思うところを自由に書くことにします。といっても大したことは書いていませんが…。

私は、本決勝戦で、肯定側に投票しています。マイナーボートでしたが、率直に言って、私の感覚からは、否定側に入れる理由がなかったので、以下では、(別途JDA-MLでも書いていますが)私が肯定側に投票した理由を述べた上で、おまけとして、ネット上で見かけたまとまった分量での決勝批評についてコメントを加えることにします。

なお、決勝戦のトランスクリプトはこちらで見ることができます。最近はgoogleで廉価なトランスクライブサービスもはじまったようですし、NADEとかでもトランスクリプトを作ればいいのに、と思いますが、これは本題ではないのでこのあたりで。

1.決勝戦の議論について
1.1 主審愚留米の判定理由
私の判定理由を正確に記載すると、以下のとおりになります。

(1) 1ACのケースは、現在最低賃金が低すぎて最低限の生活を保障できていないことや、長時間労働の原因になっていること、最低賃金を大幅に(1.5倍程度)引き上げることでこれらの問題が改善に向かうことを示していた。これは、論題を肯定する(最低賃金を肯定すべき、と言える)十分な理由と評価できる。

(2) 1NCの論点Aについて、最低賃金改定と関連して、働かずに生活保護を受給している者がいるという批判的な言説が存在していることは理解した。しかし、その言説が、「日本は最低賃金を大幅に引き上げるべきである」という論題のアクション(及び肯定側の提示したプラン)から生じている、あるいは不可分であるということは全く示されていない。そのことは、後の質疑で否定側も自認している。
したがって、この部分から、論題を否定すべきという理由ないし示唆は全く見いだせない。

(3) 1NCの論点Bについて、トランスクリプト暫定版から引用すると、否定側は、「働いていないことは悪いことじゃない。働いていない人も、働いている人も同じように食べられればいい。『働かざる者食うべからず』の名のもとに、生活保護を下げたり、インセンティブという名のもとに最低賃金を上げたり、もうそんなことはやめよう、やるべきじゃない」という「対抗言説」によって論題を否定したと主張しているが、論点Cを踏まえても、かかるアクションがなぜ論題が否定できているのか全く分からなかった。
まず、この対抗言説なる主張が論題を否定する言明になっているかどうかだが、最低賃金を引き上げるという命題自体に、働かざるもの食うべからずとか、生活保護を切り捨てるということが必然的ないし本質的に内在しているとは思われないし、上記(2)の評価からしても、否定側はかかる論証に失敗している。よって、対抗言説が認められることで論題が否定されるという関係にはない。
また、肯定側のケースに対する反論という文脈で見ても、肯定側はインセンティブという名のもとに最低賃金を上げようと言っているわけではないし、生活保護を下げようとも言っていないから、肯定側の立場に対抗する言論、として論題を否定していると解する余地もない。

(4) ここまで述べたところからして否定側に投票する余地はないが、仮に、上記(3)の対抗言説が認められた場合に論題が否定されると考えるとしても、対抗言説の正当性、すなわち、対抗言説が「働かざるもの食うべからず」的言説より優れている理由についても、否定側は論証できていない。
この点、個人的には、生活保護受給者が非難されていることは望ましくないと思うものの、何らの論証もなくそう評価することには躊躇を覚えるところであるし、肯定側もワーキングプア的な人を救おうという主張をしており、ここが否定されていない以上、それに比べて否定側の言説がより価値がある、と評価することはできない。
そもそも、彼らは、言説による支配に抵抗したいと言っているのであるから、そこで求められる論証は、否定側の主張する言説に共感する人(JDAジャッジのようなインテリ)ではなく、現に生活保護受給者を批判している言説発信者を説得し得るような理由付けというべきである。この試合の議論を総覧しても、否定側の言説が現状を善い方向に変えるとは思われないし、純利益的な勝敗を無視して、そのようなものを称揚すべき意義も一切見出せない。

(5) 以上より、肯定側は論題を肯定する理由を提出していたが、否定側の主張は一見明白に理由がなく、論題を否定すべき理由を全く見出すことができない。否定側の対抗言説枠組なるものを採用するとしても、否定側はその枠組内で果たすべき役割を全く果たしていなかったものであり、どちらの判定枠組が優れているかという論点以前の問題であるから、どちらの枠組かを判断するまでもなく肯定側の勝利となる(どちらの枠組によっても肯定側に投票する、という意味です。)。

1.2 議論の批評
上記に述べたとおり、私としては、今回の試合で否定側に入れる理由は皆無と感じています。もっとも、そのように判断した理由は、肯定側の反論を考慮したからではなく、否定側の主張自体が失当だったということに尽きます。
肯定側の反論は、クリティークがポリシーディベートに害を与えるとか、自分たちの分析が無視されているのはおかしいとかいったものでしたが、そういう大上段の議論ではなく、まさにその試合で出された否定側の枠組と称される議論について、論題を否定する理由たりえないこと、さらに踏み込んで、論題と離れても無価値な議論であることを厳しく追及していってほしかったところです。特に後者については、自分たちのケースの議論を援用した上で、否定側の議論が肯定側の指摘したワーキングプアの問題を無視して、論題との関係で非本質的な言説を取り出してわめいているだけで、このような議論を認めることは、必要とされる政策についての建設的議論を妨げ、市民社会における討議の在り方にも悪影響を与える、と指摘すべきでした。その後でベネットのエビデンスを読めば、相当格好いい試合になっていたと思います(CoDAのは読まなくていい)。
立証責任の話も、相手の枠組に即して、相手方が何をどこまで言うべきなのか、ということを具体的に述べてほしかったです。1NCの論点1も、一部の言説を切り出してきただけで、論題そのものとの関連性や必然性を示したものではまったくないですし、論点2は肯定側の議論とも論題の文言とも無関係な発言です。さらに言えば、その価値観が正しいことの立証もありません。そういったことを丁寧に指摘することが、必要でした。

否定側に投票したジャッジは、以上のような指摘が肯定側からなされなかったことを理由にしているのだとは思います。私としては、いくら反論がないからと言って、今回の否定側に入れることはできないのではないかと思いますし、説明不足の議論を毅然として棄却することもジャッジに求められる見識だという立場です(この点、決勝でご一緒した某ジャッジはtwitterで「イニシャルで切るというのはジャッジの介入ってことなのでイニシャルで切るなりの「目の前の議論を無視している」というデメリットがあるかと思います。もちろん一切ジャッジの介入がない試合なんてあり得ないので、程度問題。でも重要な部分になにも肯定側アタックしてないのに、判定でジャッジが落とすというのはどうかなぁと思いました。」と述べていましたが、では否定側がアタックしなかったら証明不足のケースでも切るのか?という話であり、このような理由でしか判定を説明できないのはどうかなぁと思いました。もちろん字数制限の問題だけで、別に積極的な判定理由があるのだと思いますが)。
ただ、否定側の議論に強く寄り添えば、肯定側はメリットデメリットによる分析の利点を積極的に示せたわけではないし、否定側のいうような現実的影響を考慮した議論ぶりのほうが望ましく、実際に否定側が現実的に価値のある議論を出していたのかはよく分からないけど、まぁそれっぽい議論をしていたので、否定側の枠組を採用したついでに否定側に投票しておこう、というざっくりとした判断はできるのかもしれません(協議時間は短く、このあたりを十分話す機会はありませんでした。ですので講評ではほぼ私の見解を述べてしまいましたが、詳細は追って公開される?バロットを見てください)。
なお、理論的に言えば、否定側の枠組が採用された場合、その枠組において肯定側は何も論題を肯定する理由(この試合の場合言説?)を出していないことになり、推定を通常通り適用すると、否定側の理由もゼロであったとしても、推定により否定側に投票することができる、という説明ができるのかもしれません。しかし、この試合で肯定側のメリット・デメリットの枠組が完全に否定され切っていたか疑問であり、そうだとすると、否定側の枠組に乗ってみても推定で決めるしかない状況(結局何も議論していないのと同じ)である場合はメリット・デメリットの枠組に戻ってもよいのではないかと思いますし、否定側が自分で出した枠組である以上、その際の推定は肯定側に有利に置く、というのが妥当な処理であると私は考えます。上記の判定もそれを前提にしています(前提にしなくても肯定側に投票しますが)。

いずれにせよ、この試合で、否定側が提示した枠組の中で豊かな議論がされていたかというと疑問であるし、枠組の当否に関する議論も、別の意味での「熱さ」はありましたが、議論内容として熱いものがあったかというと、率直に言って厳しいところだったと感じています。その意味で、この決勝戦は「クリティークが勝った」という結果自体はセンセーショナルであるとしても、議論水準としては決して高いものではなかった、というのが、偽らざる感想です。
急いで補足しておくと、上記の感想は、否定側が適当にクリティークを出していたということを意味しません。否定側は、クリティークを成立させるためにリサーチを重ねてきたのだとは思いますし、スピーチも良好でした。しかしながら、その中身は、この論題を議論するためのベストな方法とは到底思われず、クリティークを出さんとするがために準備してきたのだな、という感想を抱かざるを得ないものでした。これは、否定側も引用していた田島先生の論文(こちら。否定側が引用している2011年の原稿に加筆修正されたもの)で紹介されている、代理母論題でのクリティークとは、一線を画するものです。私は、クリティークをやりたいという「チャレンジ」そのものに特別な評価を置くつもりはないので、議論としてよかったかどうかということでしか評価を述べることはできません。

ということで、私個人の感想としては、今後クリティークを出すのであれば、もっと論題に根差した議論を出してほしいし、クリティークを出そうと考える選手の方々にも、(どんな議論を出すかはもちろん各自の自由ですが)それが論題を論じる上で最善の方法と思えるのか、なぜその議論が説得的なのか、ということを考えて、クリティークありきの議論を作るという無益なことは避けてほしいと願うところです。必要に迫られて既存の議論形式に挑戦するからこそ、新しい価値が生まれるのであって、新しいというだけで飛びつくことは、その新しさの意味すら捉えそこなうのではないかということを危惧する次第です(ただ、今回の決勝否定側は、問題提起的意味で敢えてやっているところがあるのだとは思います)。
ディベートを指導する立場からも、クリティークはあくまで基本を押さえた人がやるもので、最初はメリット・デメリットの考え方を抑えることがよいと考えています。そういった伝統的?分析の限界について考えることは大事だと思いますが、いきなり自由にやれと言って誰もがそうできるわけではありません。この決勝戦の否定側だって(少なくとも私から見れば)失敗しているわけです。まずは、社会の合理的意思決定として模範とされている考え方に沿って議論を学び、その便利さと適用が難しい場面の存在を体感することではじめて、前提を適切に疑うことができるはずです。

また、クリティークが既存のメリット・デメリットの枠組と対立するものなのか、という点も、考える必要がありそうに思いました。これはJDA-MLの蟹池さんのコメントを見ていただきたいところなのですが、結局、クリティークも、前提に疑問を呈するなどして論題の是非を論じる議論のバージョンであって、メリット・デメリットの枠組にも発想を取り込めるでしょうし、メリット・デメリットと併存して議論していくこともできるかもしれません。この決勝戦で出た否定側の議論にはそのような可能性を看取することはできなかったものの、論題に内在する価値観を問題にするという切り口自体は、一つの議論の在り方として十分成り立ち得るものと感じます。
(論題の是非とは無関係に議論する、という立場もあり得るのかもしれませんが、そこまで行ってはもはやディベートは「いい話コンテスト」になってしまい、どうかと思います。そういう議論がしたい人は、競技ディベート以外の議論空間(それこそ弁論!)に行くか、別のルールでディベートをやるほうが幸せになれる気がします。)

2.決勝戦批評の批評
ここからはおまけです。twitterまとめから拾った、まとまった形の感想(つぶやきにとどまらないもの)にコメントしています。

ビーストさんの「JDA決勝の感想と問題提起
JDA-MLで物議をかもし、筆者登場時に歓迎の言葉で迎えられたブログ。
投票理由は、私の述べたところと類似しており、結論も含めて異存ないところです。他方で、この記事の特徴は、クリティークが評価されることへの懸念と、あるべきディベートについての問題提起がされているところです。
あるべきディベート像については、若干固いというか、実社会のことを考えてももう少し広い範囲の議論はあり得るのかなという気もしましたが、実社会での意義を考えるべきであり、新しいとか、挑戦的というだけで評価されてよいのか、という点は同感です。特に、議論の実験室という題目で、クリティーク等の議論の「新しさ」を特別に評価することについて、私も強い懸念を持っています。固定観念で議論を制約してはならないという消極的規範として「議論の実験室」という言葉が使われることはあってよいですが、逆に、「実験室なので何でもしてよい」ということにはなりません。実験はあくまで現実的な仮定を置いて行われるべきであり、現実に説得力を持ち得ないものを評価すべきではありません。
そうやって考えると、このビーストブログが言っていることは、クリティークか何か知らないが、論題を否定する理由としてよく分からない議論が評価されたことはおかしい、ということに尽きているのでしょう。この決勝戦で否定側は多数票を占めましたが、投票理由の説明は肯定側に入れた側のほうが容易だと思いますので、私個人としても、否定側を支持する人の理由付けに興味があるところです(JDA-MLではうち1名の投票理由が詳細に述べられています。)。

Doriブログの「JDA決勝(2019秋)の感想
メリット・デメリットの枠組でもって否定側に投票できると考えた、との主張ですが、率直に言って、判定理由は理解に苦しむものです。以下、厳しいコメントを記載しますが、このブログでも書かれている「議論の中身と人格を分ける」ということでご理解ください。判定について様々な考え方があり得ることはもちろんのことですが、様々な人の目に触れる以上、明確に間違っている(と思う)ことについては、そのように指摘する必要があるというのが、当ブログの基本理念となっております。
まず、否定側の対抗言説が肯定側の重要性とぶつかっているというのは、議論の評価を誤ったものです。肯定側は、働いているのに賃金が少ない人が困っているということを述べているのに対して、否定側が問題としているのは、それとは別に、生活保護者に対して働けという非難が向かっていることであって、両者は別物と捉えるべきです。否定側が明示で反論として当てているならともかく(それでも当たってないですが)、否定側も特に述べていないのに、ジャッジが勝手に「誤った」対応関係を見出すのは大きな問題です。
続いて、メリットを全く評価しなかったかのように見えるところ(twitterでのやり取りを見るとそのような趣旨のようです)についても、判断が厳しすぎると言わざるを得ません。この論題で一度も聞いたことがないからというのも理由になりません。統計処理だけでは評価できないという話も、もちろん統計ですべて説明できるわけではないし前提となる調査方法なども含めてきちんと評価される必要がありますが、統計だけでは取れませんというのでは、じゃあどうすれば評価されるのでしょうか。明坂やロング、ILOのエビデンスが「ゼロ」だとすれば、政策論題で解決性を立証することは著しく困難になるでしょう。また、この試合のケースは、内因性で最低賃金が低すぎるという話や、最低賃金が上がれば給料が増えるという話もしており、その裏返しという意味でも解決性を評価する基礎はあります。これが取れないとすると、私が予選で肯定側に投票した試合は全部誤審だということになります(というかおそらくメリットを評価したすべての肯定側投票が誤審になります)。もしかしてそういう問題提起なのかもしれませんが、それはおよそ的を射ていないものです。
最後に、1NCと2NCを総合して考えると、ワーキングプアの問題に対して(最低)賃金上昇によってインセンティブを与えてはならないということが否定側から言われている…という指摘ですが、なぜ否定側はそんなゆるく取れるのか、理解不能です。私の投票理由でも書きましたが、生活保護批判と最低賃金上昇との関連性はよく分かりません。1NCの桜井のエビデンスで、最低賃金改定でそういう批判が出てくると言っていることをもって評価しているのかもしれませんが、それだったら、より素朴に、最低賃金を上げればワーキングプアの生活が改善するという話も取られて然るべきです。今回の1NCと2NCの内容から、1ACのケースを上回るデメリットが認められるというのは、どう贔屓目に見ても考えられないところですし、選手自身も予想だにしていないものでしょう。このような判定理由が否定側への投票を正当化できるとはおよそ思われません。
なお、否定側が投票理由にしていないことでも投票理由にしてよい…という説明は、具体的な適用例を考えると容易な問題ではないのですが、簡単に言えば、当事者の予測可能性が担保される限りにおいて許されるものと考えます。予測可能性の有無を考えるにあたっては、争点化されていたか、議論の内容からして明白に対応関係があると言えるか、といったことを考慮する必要があります。この試合で、否定側が主張していないけど、メリット・デメリットの次元で否定側に投票する、ということ自体は、別にあってもよいとは思います(黙示で争っている=否認している、と見てもそこまで変ではない)。しかし、否定側の議論がメリットの重要性に当たっているとか、デメリットを構成しているというところまで評価してよいのかについては大いに疑問があります。肯定側からすれば、自分たちの議論は簡単に切っているのに、なぜ否定側の議論についてはそこまで善解して再構成しているのか、偏頗な判定だ!と怒りたくなるでしょう。私も同感です。

neeTakeSさんの「JDAトランスクリプトとクリティークについてのコメント
否定側がどういう構成で議論しようとしていたのかということと、それに対する分析が記載された内容です。細かく分析されているので是非ご一読ください。私としては概ね異論のない内容でした。
最後の段落で、選手としての想いが書かれているところは、考えさせられるところがあります。同じような声はほかにも聞きましたし、決勝の肯定側も強く思っていたところでしょう。ただ、それは試合で正しく表明すべきものだったというべきです。具体的には、肯定側の分析に十分論題を肯定すべき理由があり、否定側が持ち出した枠組はそれを無視して、正しく論じるべき対象を見誤らせるものであるということをきちんと主張すべきであった、ということです。決勝戦で肯定側が負けた理由として指摘されるべきことがあるとすれば、この点に尽きます。
クリティークの試み自体への評価とは別に、目の前の議論の是非だけをもって判断すべきという指摘もそのとおりです。ですから、今回の決勝戦への感想は、クリティークや既存の議論枠組に対する一般的な賛否や嫌悪感で片付けられるべきではなく、どのように議論すべきか、という観点からさらに考察されるべきでしょう。そのあたりも含めて、neeTakeSさんの今後の論考に大いに期待したいと思います。

JDA決勝批評 | 18:27:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する