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アカデミックディベーター

Author:アカデミックディベーター
日当たりの良い某法科大学院を2009年3月に卒業。
ライフワークである競技ディベートについてぼちぼち書いています

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ディベートジャッジの個性と属性について ~「多様性」は何に求められるのか~
本来はクリティークについて詳細に解説したブログへの感想を書こうと思っていたのですが、同じく取り上げる予定のブログで、私の過去の記事にも関連するより新しい投稿があったので、そちらに関して記事を書くことにします。

今回言及する記事は、「女性ディベーターの少なさは何を引き起こすか。私たちに何ができるか」というものです。記事が長いことに定評のある当ブログと比べてもかなり長大な記事ですが、ご一読をお薦めします。同記事の論旨のうち、ディベート界に女性が少ないという分析はその通りだと思いますし、その具体的弊害についてはインタビューの内容等子細に見ると率直に言ってよく分からないところもあるものの、女性が少ないことで女性にとって居心地が悪いということはそうでしょうし、女性が増えること自体はよいことだと思います。
他方で、上記記事の主題とは少し外れるところが、ジャッジングに属性の影響が生じ得ること及びそれを前提にして「ジャッジの多様性」に重きを置く考え方については、看過すべきでない問題があると考えますので、以下で簡単にコメントしておくことにします。その上で、ディベートコミュニティに女性を増やす方策について、若干の分析を加えることにします。

ジャッジングの「正しさ」について
まず、前提として、ジャッジングの「正しさ」について論じることにします。
上記の記事は次のように述べます。

なるほど確かにあまりにも議論の評価に論理的な一貫性がなく支離滅裂な判定に対してであれば、我々は「それは考え直したほうがいいのではないか」と言う権利を持っているでしょう。しかし、試合の議論はどこまでいっても最後はジャッジの価値観で判定されるわけです。微妙な試合になればなるほどそうだということは、多くのディベーターが知っていることでしょう。そうなった時に、試合中の材料同士で論理的整合性がとれているのであれば、どんなジャッジングも間違いではないはずです。
一つの正しいジャッジングなど存在するわけがありません。ホームレス経験をした人と一流企業に務め続けている人とが同じジャッジングをするでしょうか。戦地から帰ってきた人と戦後の日本で戦争を経験しないまま暮らし続けている人とが同じジャッジングをするでしょうか。


一つの正しいジャッジングというものが存在しないことはその通りだと思いますし、「試合中の材料同士で論理的整合性がとれているのであれば、どんなジャッジングも間違いではない」というのも、前提が十分かどうか疑義がないではないですが、概ね首肯できます。
しかしながら、第一に、この見解も認めるとおり、正しくないジャッジングというものは存在します。正しいか正しくないかをどう区別するかは容易でないですし、主観によっても左右されるところですが、一言であれば「合理的か否か」が基準となるでしょう。
第二に、これがより重要なことですが、間違いでない(=「正しい」、とここでは考えましょう)ジャッジの中にも、よくできているものと、そうでないものといった形で、質の差を観念することができます。正しさには幅がある、ということです。これは、判定や講評を何度も聞いているディベーター諸氏であれば経験的に了解可能な命題ではないでしょうか(ちなみに、裁判所の判決も明らかにそうです。)。ここで「より正しい」「より質が高い」というものをどう順序付けるかはこれまた難しく、個性も絡むのでそもそも一意の順位付けは不可能かもしれませんが、例えば、より深い分析を与えているとか、判断が分かれ得る点について反対の見解にも配慮できているとかいったことが挙げられるでしょうし、講評のプレゼンまで考慮すれば、教育的なコメントの多寡や言葉遣いといったものも入ってくるでしょう。

ジャッジの多様性とは何か、そこに属性を考慮すべきなのか
さて、上記の記事は、私の過去の記事が「一旦ジャッジの属性を問題として公平性や中立性を論じ始めてしまえば、『正しい判断を期待できるジャッジ』は観念できなくなります」と指摘していることについて、以下のように述べます。

先ほど引用した部分にはこんな記述が含まれていましたが、私から言わせてみれば「正しい判断を期待できるジャッジ」なんてそもそも奇妙なアイデアです。そんなものはハナから観念できないでしょう。そもそも「判断」などというものに正しいも誤りもないのです。
そして、だからこそジャッジの多様性は確保されていないといけないのです。ジャッジが自分の意思で中立を保つ必要があることは否定しません。それだって大切なことです。そりゃそうです。でも究極的には正しさなんてどこにも存在しないのです。だから、「全体」として「多様性」を保つ努力も、「個人」として「中立」を保つ努力も、常にどちらもやっていかないといけないのです。


上記の言辞にはいくつかの論点があるので、個別に見ていきましょう。
まず、「そもそも『判断』などというものに正しいも誤りもない」「究極的には正しさなんてどこにも存在しない」という点について。この点については、先に述べたとおり、正しいか正しくないかという問題はあるし(上記記事でもそのことは了解されていたように思うのですが…)、正しさにも幅があると考えるべきです。判断の正しさに関する思考を放棄するのであれば、ジャッジング自体不要で、コイントスか何かで判断すればよいはずです。女性ジャッジを揃えるまでのこともありません。分析ないし判断の正しさや質の概念を放棄することは、少なくとも、判断を生業とする職責にある者――ディベートで言えばジャッジであり、実社会であれば裁判官やコンサルタント等がそうでしょう――にとって許されないことであり、判断を受ける側としても、そのようなことは望まないでしょう。

続いて、上記記事は、上述のとおり判断の正しさという概念を否定する「誤った」命題から「ジャッジの多様性は確保されていないといけない」と主張します。これは、個々の判断の「正しさ」に代わって、「多様性」がジャッジングの正統性を基礎づけるものとして位置付けようとするものと思われます。
これに対しては、そこで言う「多様性」とは何を指すのか、ということが不明だということがまず指摘されなければなりません。人間の属性としては様々なものが考えられます。上記記事が主題とする男女(性自認によるものも含めれば2択ではありません)のほか、年齢、職業、家族構成、所得、人種、国籍、居住地、学歴、ディベート経験の有無、スヌーピー好きか否か…。いくらでも要素を考えることができます。この全てで多様性を確保することができるのでしょうか。あるいは、ジャッジの正統性を基礎づける上でヨリ重要な属性は特定可能なのでしょうか。男性か女性かという違いが、職業や学歴の相違と比べてジャッジングの内容ないしその正統性に対して寄与するところが大きいということはどのような根拠によって言えるのでしょうか。それが明らかでないのに、単に多様性と言ってみたところで、何の意味もありません。
とはいえ、個々の属性がジャッジングの判断に何らかの影響を与える可能性は現実的にはあるでしょう。しかし、それを理由としてジャッジの多様性を肯定すべきと言えるかについてはなお多くの疑問があります。第一に、属性による影響は本当に正統性を毀損するレベルのものなのでしょうか。そもそも属性による判断によって具体的に判定にどのような問題が出るのか明らかでありません(上記記事の中のアンケートである、男性のジャッジが深夜営業のコンビニが女性の逃げ場になっているという議論を取らないのではないかという懸念は、実際はそれなりに取られていた議論ですし、そこに判定の男女差が出るという認識は率直に言って的外れだと思います。)。そうである以上、属性の影響は、個人の個性によって生じる「正しさの幅」の範囲に収まるものと考えるべきであり、多様性をもって是正すべき偏向性があるのか疑問があります。第二に、個々の属性にジャッジングの正統性を基礎づける何らかの「寄与」を期待することは、その属性が特定の判断を帰結するという歪んだ期待を包摂しているというべきです。分かりやすく言えば、ジャッジの多様性を認めるために男女比を揃えるということは、それ自体が、男性ジャッジに「男らしさ」を、女性ジャッジに「女らしさ」を期待しているということに他なりません。このことは、多様性を確保するためと言いつつ、かえってジャッジを属性に縛り付ける効果を持つことになります。

ここで言う「属性」をジェンダー以外に拡張すると、多様性を確保すべきという考え方の問題性はさらに分かりやすくなります。国際問題を論じる場合には、日本人かそうでないかということは判断に有意な影響を与え得る要素になるでしょう(実際のジャッジはなるべくそうならないよう努めるのですが)。労働問題であれば所得の有無が問題になるでしょう。哲学的な議論を理解し、採用するかどうかは、学歴によって左右されるところが少なくないと思われます。医療関係の論題では障がいの有無が論題に関係する経験に直結することがあります。それでは、こういった問題を是正するために、ジャッジの「多様性」を確保すべきでしょうか。その際に、日本人にはより日本の国益を重視することを、低所得労働者には失業のインパクトを大きく見積もることを、大卒未満の人には難しい議論を採用しないことを、障がいを有する人には新たな障がいの発生をデメリットとして捉えないことを期待するのでしょうか。そのような期待を理由にジャッジを依頼された「属性の持ち主」の気持ちは考えなくてよいのでしょうか。
結果的に様々な個性の持ち主がジャッジをして、その結果色々な判断やフィードバックが生じる(私は、講評の場では、判定とは別であることを明示しつつ、教育的観点から、自身の属性や価値観に基づくコメントを行うことは原則として許されると考えています。)ことはよいことですが、それは目的として設定されるべきではありません。そのこと自体が、ある特定の幅の狭い「正しさ」を前提にしてしまっている点で、排他的かつ差別的な行いだからです。

以上からして、属性による多様性の確保という考え方が取り得ないものであることは十分論証できたと思いますが、以下では視点を変えて、上記記事が問題とするジェンダーの問題(単純化のため男女として括ります)を解決するという観点に絞って、もう少し深掘りしていきましょう。
クオータ制のように、格差是正の観点から女性比率を高めるため一定の女性枠を設けるという発想は、①女性のエンパワーメントと、②政治において「女性」の立場からの意見を反映させる必要がある、という2点から基礎づけることができます。議会という場では、①だけでなく②の観点からも、一定比率の女性を受け入れるということはそれなりに理由のあるものだと考えられそうです。
他方で、ディベートジャッジにおいて上記①②の観点がどこまで求められるか、考えてみましょう。最も重要な、役割の観点から多様性が望ましいと言えるか(②の観点)の問題は、上記で述べたとおり、ジャッジングに「男性であること」「女性であること」を反映させることを期待すべきでないという話や、そもそもジャッジングの正しさ(幅のあるものです。)は属性とは別にそれぞれのジャッジが信ずべき合理性によって規律されるものであり、属性の考慮は不要であるし、特に性別という属性だけが特別扱いされるべき理由もない、ということが指摘できます。ディベートのジャッジは合議制ですらなく(パーラのBPスタイルは順位を合議で出すみたいですが)、個々の見解や知識を総合するといった要素も期待されておらず、そこで出される判断の公正性は「様々な意見のぶつかり合いの結果」ではなく「各ジャッジが公正かつ合理的であるように判断した結果の総和」であり、各ジャッジが出す判断の正しさの幅から票にばらつきは出るとしても、そのばらつきの中に属性の影響まで期待されているということはないはずです。むしろ、そのようなことを期待すること自体、失礼なことです(男性だからこの議論取らないよなーとか、女性だからこう判断するよな、みたいなことは言わないし、それをよろしくないと思うのが一般的感覚ではないでしょうか?)。
①の要素については、もし「ジャッジに女性が多いことで女性が参加しやすい」という意味があるのだとすれば政策的に何らかの考慮はあり得るのかもしれませんが(そのような配慮で入れました、といって当該ジャッジは良い気分がしないでしょうが…)、そもそも、ジャッジを担当することが「エンパワーメント」の帰結、という考え方自体、一考を要するところでしょう。国会議員や取締役は一般的に言って「偉い」立場でしょうが、ディベートにおけるジャッジがそのような意味で「偉い」のか、あるいは「偉くあるべき」かというと、そうではないと思います。もちろん、ジャッジがある種のディベート経験の豊富さ等で選ばれていることは事実であり、そこに何らかの価値を感じている人もいるのかもしれませんし、そういった事情等によりジャッジをしたいのにできていない女性が多いという事実があれば是正を検討する必要はありますが、ジャッジに女性を増やせば女性がエンパワーメントされる、というのは、ちょっとずれているように思います。

したがって、私は、「『全体』として『多様性』を保つ努力」は不要であると考えます。さらに言えば、そのような努力によって望ましいジャッジングの実現は不可能であり、むしろ有害ですらあります。判定に影響し得る属性全部の多様性は現実的な審理体の規模に照らして確保しようがないし、また、個々の個性を超えた属性の影響というものが想起できない以上、確保する必要もないでしょう。そして何より、多様性を保つ「努力」の結果、個々のジャッジに属性に即した判断を期待することは、中立公正であるべきというジャッジの任務に反するのみならず、ジャッジに特定の価値観への従属を強い、あるいは示唆することにより、当該ジャッジを傷つけることにすらなりかねません。
現在でも、ジャッジの個性は存在します。あの人はこういう議論は嫌うよね、とか、この手の議論はあの人の好みだよね、ということも話題になることがあります。しかし、それは「あの人がXXだから」というその人の属性と結び付けられることは私の知る限りないですし、あってはならないでしょう。我々は、ジャッジの個性を、属性という色眼鏡を通さず尊重すべきです。もちろん、ジャッジプール、もっと言えばディベートコミュニティの規模が拡大することで、さらに個性的な判断者が増え、より豊かなディベート実践が実現するはずです。その意味で、上記記事の趣旨には全く異論ないところですが、属性の問題をジャッジの多様性や公平性に結び付けることは、上記記事の論旨にとって不必要であるばかりか、望ましくない帰結を生じさせるものと言えましょう。

ディベートコミュニティの多様性実現に向けた課題
以上のとおり、ジャッジに特定の属性の人を増やそうということは問題だと思いますが、とはいえ私も、現状のジャッジプールが理想的だと思っているわけではありません。昔に比べるとよくなってはいるのですが、若手のジャッジがさらに増えることが持続的なコミュニティの発展にとって必要なことであり、比較的女性の多いスタッフ層がジャッジにも興味を持ってくれれば、結果的にジャッジに占める女性比率は増大し、女性にとって居心地のよい状況にはなると思います。単純に言って、ジャッジプールが大きくなればそれだけより優良なジャッジが増えることが期待できますから、ジェンダーの問題を度外視しても、新しい層がジャッジを経験することは望ましいことです。

ただ、それを実現するための主因は、ジャッジプールに女性が少ないということではないでしょう。むしろ問題になっているのは、ジャッジが難しい、大変だ、という認識だと思います。もちろん、ジャッジが簡単かというと、良いジャッジをすることを目指せば色々と考えるべきことはあるわけですが、おそらく現状感じられている「難しさ」は、レベルが向上した選手に対して納得のいく判定を言うことができるのか、判定に対して年長の人から批判を受けたりしないか(なんちゃら日記とかいうブログ等で…)、といったことなのではないかと推察します。
*私なりには対象や言葉遣いに気を遣っているのですが…。

それに対する解決性のあるプランはなかなか難しいのですが(当ブログの閉鎖というのはご勘弁ください)、ジャッジを気軽に練習する機会を増やす、というのは一つの方法かもしれません。さらに言えば、ジャッジをするまでいかなくても、試合を見てどう思う、という観戦の文化を広げることが、結果的に、ジャッジもやってみようか、ということにつながるかもしれません。これは、スタッフをやってみようということにも当然つながり得るでしょう。
男女に限らず、現在のディベートコミュニティ(とりわけ調査型)が煮詰まりすぎていることによる近づきにくさは否めないところですので、まずはそこから変えていく、ということが必要なのではないかということを思った次第です。

ディベート関連一般 | 01:06:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
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