2021-05-03 Mon
ジャッジ入門講座の第2回です。連休を活かしてある程度書かないと放置しそうなので少し早めに書いています。今回は講座のスライド3枚目(/12)に当たる内容です。どれだけ長い講座なんだ…と思われそうですが、時間的制約がないため大幅に内容を追加しているもので、本番ではこんなに喋っていないのでご安心下さい。ジャッジ入門講座 第2回
ジャッジに期待される人間像
さて、ここから話題を変えて、ジャッジはどういう立場から議論に相対すべきか、という話に入っていきます。選手がジャッジに求めるのは、ざっくり言って「中立の立場で客観的に判断してほしい」といった程度のイメージでしょう。これは、ジャッジのあるべき姿をある程度よく表現した要求だとは言えますが、ではそこで言う「中立」とは何か、どう判断することが「客観的」なのか、そもそも客観的になることができるのか、等々と考えていくと、かなり奥深い問題になってきます。
まず、ジャッジがどの程度の知識を前提にしてよいか、ということから考えていきましょう。少し後で説明しますが、ジャッジは、選手が持ち込んだ事実を判断するのが仕事であって、原則として選手がスピーチしない事実を判定の材料とすることはできません。しかし、これを厳密に考えると、日本語の知識だって事実に属する事項ですから判断の前提にしてしまっていいのかという疑問も出てきますし、例えば積極的安楽死論題で、癌という病気が一般的に致死性であることとか、患者を同意なく殺すことが犯罪であること等の事実が選手からスピーチされるまで判定に使えないとなると、およそまともな判断はできません。短いスピーチ時間で選手がそこまで説明することはできないし、それを求める意味もないでしょう。ですから、ディベートでは、一般的に常識に属すると思われる事実については、前提知識として、選手がスピーチしなくても判断材料にしてよいと考えます。裁判でも同じような考え方が取られており、前提として持ち込んでいい事実を「公知の事実」と呼んだりするので、以下この語法に倣って呼ぶことにします。
前置きが長くなりましたが、ジャッジをするにあたって、どこまでを公知の事実としてよいのか、ということが問題になってきます。言い換えれば、ジャッジの知識水準をどの程度に設定するのか、ということになります。よく言われるのは、「一般的な社会人」を想定する、といったものです。裁判ではよく「通常人」の基準で判断する、といったことを言うのですが、それと同じイメージでしょう。これ自体にはそう違和感がないと思いますが、では、一般的な社会人とは何者なのか、ということが直ちに問題となってきます。これまたよく言われるのは、義務教育を終え、新聞に載っているレベルの知識を備えた人、みたいなことですが、これまたよく分かりません。新聞と言っても、東スポでいいのか、読売なら足りるのか、まぁディベート甲子園では足りると言わねばならないのかもしれませんが、確たることは言えません。日経ならビジネスの知識については十分すぎるかもしれませんが、東スポ的な「教養」が本当に不要なのかというと、カジノ合法化論題や大麻合法化論題などを考えるとやや心もとない気もします。
このあたりは答えがなかなかないところですが、ディベートでは、一般的な社会人と言いつつ、ややレベルの高い社会人をイメージすべきなのかな、ということを思っています。やや背伸びした社会人、といったところです。というのも、ディベートで一般的に用いられる政策論題は、ほとんどが一般的な社会人が普段考えないような、難しいテーマだからです。そもそもやっていることが背伸びした内容なので、ジャッジもある程度背伸びしないとついていけないし、背伸びしても許される、という考えです。ただ、背伸びしているだけなので、ジャッジが普通に知らなかったとしても、そこは勘弁してください、ということは言えるイメージです。あくまで説明責任は選手にあるわけで、選手は、それこそ「一般的な社会人」が聞いてわかるような説明を心掛けなければならない、ということです。その意味では、むしろ、論題に詳しくなりすぎることに警戒しなければならないとさえ言えます。
詳しすぎてはいけない、ということは重要なことです。というのは、ディベートジャッジが「一般的な社会人」であるために大切なことは、専門的な知識を持ち込まないようにするということだからです。例えば、私は弁護士として働いていますが、その法律知識を前提にして、選手が議論していないのに、日本における整理解雇の難しさだったり、刑事事件における公判前整理手続の進め方だったりを前提として判定することはできません。なぜかというと、それを前提にしてしまっては、選手にとって不意打ちとなる判断がされてしまうからです。公知の事実でないものを持ち出して判断することは、手続の公正に関係する問題なのです。これからジャッジをされる皆さんの多くは、これから大学で学んだり、社会で働く中で、様々な経験や知識をつけていきます。そうした経験や知識はどうしても判断の前提に入ってきてしまうものであり、それが判断を豊かにする要素もあるのですが、その反面、一般的な社会人が概ね持っていると期待されるような知識を外れた専門的、個性的な知識が入ってしまわないか、それによって選手にとって思わぬ判定に繋がりはしないか、ということは、よほど注意しなければなりません。人間は自分が知っていることは当然相手も知っていると思いがちな生き物であり、背伸びしようと上を見る場合よりも、知っているところから下を眺めるときにこそ、出しゃばりにならないよう自制する必要があります。専門的な見地からすると間違った議論が展開されているという場合には、選手がどういう議論をしているのかを前提として、立証不足と言えるのであればその方向で処理し、他方で、専門的な知識を交えない一般的な社会人から見ればそれらしいという場合には、判断自体はそれに従いつつ、講評の場で、試合ではこう評価したが実際にはこうではないか、というコメントをするようにしてください。これは、中身の正しさより、手続の公正さを重視するということです。
本日の参加者から、ジャッジをするにあたって事前の準備をどこまでする必要があるかという質問をいただいていたのですが、ここまでの話に関連付けて言うなら、特に何もしなくてよいが、論題解説があればそのくらいは読んでおき、興味のあるテーマであれば関連する新書程度は読んでおいてもよいのではないか、といった答えになります。論題解説は、その性質上、選手がジャッジに期待する「一般的な社会人」の水準を構成します。もっとも、それは現実の社会人の水準より高いところにあるということには自覚的である必要があり、論題解説に書いてあっても、自分の考える「公知の事実」を超える内容については、選手に説明を求めるという見識が求められます。また、背伸びをする意味で、新書を読んで基本的な知識を補充することくらいはあってもよいでしょう。それによって議論を聞く際の解像度が上がり、判定そのものは変わらない、というか変えてはいけないとしても、選手へのフィードバックの向上につながります。むしろ、自分が全く知らないテーマだと、知識以前に議論の土地勘が分からないということもあるので、少し予備知識を補充したり、典型的な議論に触れておかないと、議論の意味が理解できないという可能性もないではありません。それも選手の責任にできなくはないですが、そのテーマの大会にジャッジで呼ばれているという建前からは、全く門外漢で分かりませんでした、というのはちょっと無責任です。詳しくないので自信が持てない、といった程度の悩みであれば、新書を一冊読んで解消されるのですから、それくらいはやってみてください。
ここまで、知識についての前提を考えてきましたが、より悩ましいのは、価値観の問題です。単純化して言えば、命はお金に代えられるのか、自由と経済的安定はどちらが重要か、といった話です。もちろん、具体的な文脈に依存するので、こんな単純な話にはなりませんが、人によってある程度傾向があることは否めません。こればかりは、「一般的な社会人」の価値観といったものを想定することも難しいし、また、それを想定することも望ましくないでしょう。これも一つの価値観に過ぎないことを留保した上で述べると、多様な価値観の人間が共存することが、一般的に健全とされる社会であり、ディベートジャッジの価値観も、同様に、多様で幅のあることがある程度許容され、推奨されていると言えましょう。一部の試合で複数ジャッジの合議制が取られるのも、このような幅の存在を前提としているものと考えられます。
ここでも、事実の問題と同じく、尖りすぎているものを自制する、というアプローチが有効であろうというのが、現時点で私が考えるところです。ジャッジにおいて、自分の価値観のうちこの部分は、一般的な価値観からするとかなり極端な部類であると認める場合には、ジャッジをする場合に限って一般的な価値観に収まる範囲に修正するということです。自己の属性や固有の経験に起因する価値観も、それが論題との関係で傾向的にすぎるという場合には考慮が必要になってくることもあるでしょう。その修正が自分の信念に反するような場合には、そのことを大会主催者に述べてジャッジを辞退するというのが、ジャッジとしての職業的倫理だろうと思います。極端な価値観を自己検閲するようなことは許されないとか、むき出しの価値観が反映されてこそ健全な判断だ、といった意見もあると思いますが、冒頭で述べたように、ジャッジは第三者たる選手に責任を負う立場なのであって、その責任を果たすためには、判定に疑問を抱かせるようなイレギュラーな要素があると自認するのであれば、それを正すか、ジャッジを辞する義務があると私は考えます。そのような自認を欠く「尖った」ジャッジを、次から大会に呼ばないようにするというのも、その判断に大会運営者が責任を持つという前提において、正しいことだと思います。ディベートの試合は、ジャッジの自己実現の場ではなく、ジャッジは、選手が理解できる範囲での判定を出すという役割を果たさなければなりません。それが嫌ならジャッジをやらなければよいだけだし、幸か不幸か、ジャッジフィーは最低賃金を大幅に割る低水準で、何の恩典もないので、尖っているからジャッジをやれないとしても、何の問題もありません。
ただ、このあたりの考え方は、ディベートに何を求めるかという理解の相違により、大いに異論のあり得るところでしょう。最近話題にも上るようになったクリティークの考え方もここに関係してきます。時間に限りがあるのでここで詳しく述べることはしませんが、ジャッジに慣れてきたところで、一度皆さんなりに考えてみてください。
事実と評価の区別
ジャッジに期待される知識や価値観の話に一区切りついたところで、そういった知識や価値観に基づきジャッジは何をするのか、といったことを考えていきます。何をするかって、そりゃ試合を聞いて判定を出すことでしょう、と思われるかもしれませんが、この「判定を出す」というのが具体的に何を指しているのか、というのがここで説明する内容です。といっても、ここでは、メリットとデメリットがあって…という話をするつもりはありません。それはもう少し後で説明します。そもそも、メリットやらデメリットやらの議論について判断するというのはどういうことか、ということをお話しします。
ジャッジの役割は、選手の議論を「評価」するということです。評価というのは、その対象とセットになる行為です。ここでの評価対象は、選手が出した「事実」と、事実に基づく「主張」です。事実というのは、議論を組みたてる材料と言ってよいでしょう。例えば、積極的安楽死論題では、肯定側は、不治の末期がん患者が苦しんでいる事実、苦しみを取り除く手段がない事実、安楽死にとって苦しみから解放できる事実を説明します。これらの事実をつなぎ合わせ、苦痛からの解放は望ましいといった評価を交えて、末期がん患者を苦痛から解放するため安楽死を認めるべきだ、というメリット、すなわち肯定側の主張ができあがります。これを受けて、ジャッジは、個々の事実が認められるのかどうかを、証拠の有無や理由付けを踏まえて評価します。その上で、認められる事実から何が言えるのか、肯定側の主張がどの程度説得的か、ということを評価することになります。
ポイントになるのは、判断の材料になる事実や、そこから何を言うのかという主張については、選手が提示しない限り、ジャッジは評価の対象とすることができない、ということです。これに反して、試合で議論されていない事実を、公知の事実の範囲外で認定したり、事実をつなぎ合わせて選手が主張していないメリットやデメリットを組み立てるようなことをして判断することは、選手にとって不意打ちになってしまいます。これも、手続的な公正を欠く判断になります。ジャッジがこのようなことをしては、ニューアーギュメント以上に反論の機会がないわけで、その不当性は明らかでしょう。もっとも、現実社会ではあり得ないことではないということは、ジャッジ講座とは離れた教訓として知っておくと、将来何かの役に立つかもしれません。
このように、議論の材料や、それをどう組み立てるのかといった部分については、選手のスピーチを尊重する必要がありますが、他方で、本当にその材料を使っていいのか、本当にそんな議論を組み立てることができるのか、といったところは、ジャッジの「評価」に委ねられています。選手がスピーチしたからといって、その全部を考慮しなければならないわけではなく、出てきた事実からそんなことは言えないとジャッジが考えるのであれば、たとえ相手から反論がなくても、ジャッジはその主張を取らないことができます。むしろ、一般的には、取らないことが期待されています。言われたまま取るというタブラ・ラサという言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、純粋なタブラ・ラサを取る人は現在いないでしょうし、その帰結が望ましいとは到底思えません。ジャッジは、分からないものには分からないという責任があるというべきです。分からないものを無理に分かったことにしてはなりません。
もっとも、ジャッジには、選手の議論をなるべく理解しようとする責任もあると思います。分からない部分があったとしても、どこまでは分かったのか、分からなかったのはなぜか、ということをなるべくはっきりさせて、伝える必要があります。そのような、自律的な判断者としての振る舞いができることが、ジャッジに選手の出した議論を判断する権限を認めるための前提です。判断が任せられているからこそ、それに見合った、適切な評価ができるよう努めなければならないということです。これを敢えて選手の側から説明すると、ジャッジには、出てきた議論を適切に評価する義務があるわけですから、選手は、その義務に従って自分たちに投票せざるを得なくなるよう、自分たちの結論を支持する事実、反対の結論を出す妨げになる事実や、そのことの説明となる主張をなるべく多く出そうとします。その試みのどこが上手くいき、どこが失敗しているかということを切り分け、説明することが、ジャッジの仕事だということになります。
教育者としての振る舞い
ジャッジには、教育・指導という役割もあります。そのため、ジャッジには、教育者として振る舞わなければならない場面もあります。あります、と言ってはみたものの、自分がそのように振舞っているのかと考えると、怪しいのが正直なところですが、ディベート甲子園のような学校教育と隣接するイベントでは、選手関係者は、否応なく、ジャッジは当然教育者であるという前提を置いて見てきますし、教育者としての振る舞いが期待されます。
ここでディベート教育の意義を長々論じることはしませんが、ジャッジが自身の仕事をこなす、すなわち、その試合で何が伝わり、何が伝わらなかったかという議論の評価をきちんと説明し、選手のスピーチに対する「鏡」のような役割を果たすだけでも、十分な教育になると考えています。そのような説明は議論の改善のため極めて有用ですが、そうしてくれる人は、実は社会にはほとんどいないからです。もちろん、プラスアルファで改善点を伝えたりできればより望ましいのかもしれませんが、まずは本業をきちんとこなすことが、教育的側面からも重要です。判断がぶれているのに、適切な改善点の指導ができるはずありません。
プラスアルファという面で言えば、試合に勝つための方法だけではなく、ディベートを離れたところでも役立つような、普遍的な議論の考え方や、議論に臨む際の姿勢を教えることができれば理想的だと思います。これも、真摯に議論に向き合い、ジャッジとしてきちんと試合を判定するということの先にあるものです。私自身、こんな理想的な振る舞いができているわけではないので、皆さんと一緒に、そのような指導をするためにはどうすればいいのか、考えていきたいと思っています。
お世話になっております。2003-2006年に中高でディベート甲子園に出場し、その後大学では英語ディベートに転籍(?)した者です。いつも示唆に富む記事をご執筆くださり、ありがとうございます。記事の内容とは全く関係ないのですが、私が高校生のときから愚留米先生のご論考を日々拝読しており、その時には『自分も大学生になったらこんな記事を書けるようになるのか!』などと夢見ていたものです(その後すぐに『あれは愚留米先生だから書けたんだ』と気づくのですが…)。現在は奇しくも愚留米先生と同じ職業をさせていただいておりますが、未だに愚留米先生は雲の上の存在です。私が東京で勤務していることもあり、某所で相まみえることはそうそうないと思いますが、万が一そのような事態になってしまったことを想像すると震えが止まりません。もしそのようなことがあってしまった際には、お手柔らかにお願い申し上げます(無論、お互い依頼者との関係がありますので、全力で叩き潰していただいて構いません…)。
2021-05-08 土 11:37:15 |
URL |
F
[編集]
コメントありがとうございます。ディベート経験者が同業に増えることは大変うれしいことです。
どのような仕事もそうですが、日々研鑽する必要がある仕事ですので、私も勉強不足を自覚しつつ日々執務しております(まったく謙遜ではなく…)。依頼者や社会の正当な利益を実現するため、ともに頑張っていきましょう。東京の案件はなかなかないのですが、ディベート大会などには現れますので(最近zoomですが)、機会があれば是非お声がけください。
どのような仕事もそうですが、日々研鑽する必要がある仕事ですので、私も勉強不足を自覚しつつ日々執務しております(まったく謙遜ではなく…)。依頼者や社会の正当な利益を実現するため、ともに頑張っていきましょう。東京の案件はなかなかないのですが、ディベート大会などには現れますので(最近zoomですが)、機会があれば是非お声がけください。
2021-05-15 土 18:55:20 |
URL |
愚留米@管理人
[編集]