2007-07-25 Wed
いよいよルール解説も中盤の山場、証拠法の分野に入りました。競技ディベートにおいて重要な役割を担う証拠資料の扱いについては、ルール上も様々な規定がありますし、実際にいろいろ問題が起きる部分です。というわけで、選手もジャッジも、証拠法については十分な理解が求められるところです。以下の文章を読むことで適切な理解が得られるかどうかは別として、この点についてしっかり触れておく必要があるだろうということで、頑張って全国大会までには証拠法の解説を終えたいと以前から書いていたわけですが、弁護士事務所でインターンをするという入院生活らしいイベントがあったりして、ちょっと難しいかもしれません。リアル証拠法(上級刑事訴訟法)のために読むべき文献もたくさんありますし…。
まぁ、入院日記の趣旨は筆者の暇つぶしなので、そのあたりはあまり気にしないことにします。前に筆者が書いた証拠資料についての文章(「証拠資料についての総論的考察」)があるので、そちらを参照していただければほとんどの内容は書いてあります(もしかして改めて解説する実益はないのかもしれない)。
そういうテンションでお送りする今回の内容は、証拠法総論という退屈そうなものです。そういうわけで、実際の引用方法などを説明するわけではないのですが、どうして証拠資料が必要とされるのか、証拠資料を使用する際に求められることは何か、ということを詰めて考えることは、ルールの解釈をするに当たって避けて通れません。逆に言えば、今回説明する範囲について正確に考えることができれば(以下の内容がそうであるとは限らない)、具体的なルールの解釈はおのずから明らかとなってきます。というわけで、ルールに興味のある方はむしろ今日の内容をしっかり読んで考えていただければというところです。そんな時間があったらプレパにあてたほうがよいというのは言うまでもありませんが。
あと、以下では証拠法について解説しておりますが、少し考えてみたところ、ルール解説の体系としては証拠法より先に議論の規律(ニューアーギュメントとか)を説明した方がまとまりがよいようにも思われたので、いずれここでの内容をまとめる機会があれば、順番が前後するかもしれません。それこそいつになるのか良く分からない話ではありますが。
議論の規律についても、実際にあまり意識していないスピーチが散見されるので、本当は触れておきたい内容ではあります。とりあえず「ニューアーギュメントの趣旨は相手への不意打ちを防ぐこと」ということの意味をしっかり考えてほしいとだけコメントしておきます。反論しなくても明らかな議論の不備を指摘する行為や相手の議論の存在を前提として議論を比較する行為が「不意打ち」に当たるのかどうか、という点がポイントになります…と書いていくときりがないので、皆さんで考えてみてください(最悪でも年内には(!)ここで検討できると思います)。
それでは、以下本編です。お約束ですが、以下の内容は私見であり、何らの公式見解を意味するものではありません。
第5章 証拠法
5.1 総論
5.1.1 証拠法とは何か
選手が自らの主張を裏付ける根拠として客観的な事実や第三者の見解を援用するために提出する資料のことを、証拠資料という。審判は、主張の適否を認定するに当たって証拠資料を重要な判断材料として検討し、しばしば証拠資料の評価によって最終的な判断がなされる。
ルールでは、本則3条1項の委任を受けた細則Bにおいて証拠資料の使用方法を詳細に定めている。このように、競技ディベートでは証拠資料の扱いについて規定するルールを置くことが一般的である。
ルールが証拠について詳細な規定を置く理由は、証拠資料の使用がディベートの前提となる重要な要素であることと、証拠資料の判定に与える影響力が極めて大きいことにある。
一般的にアカデミックスタイルの競技ディベートでは政策論題を使用するが、政策論題はしばしば専門的な事項に関する判断を要求し、その判断のためには一般常識を超えた情報が必要となる。そのような情報に欠ける場合には審判は主張について適切な判断を下せないため、専門的な情報はディベートを支える前提であるということができる。この情報につき、選手それぞれが調査し、それぞれの見解として発表させる形式も考えられるが、そのような形で提示された情報が本当に正しいかどうかを審判が確認することは困難である。一方で、審判が専門的知識を学習して判定に臨むという方式は、審判の負担を重くするとともに、公平な判定を不可能とする可能性が高い。
そこで、ディベートにおいては、一般常識を超えた専門的知識については当事者に客観的な資料を援用させることで補充する形式をとっている。これは、専門知識の導入を当事者の責任に委ね、これを客観的な資料の提示によらせることでその信用性を審判が独自に判断できるようにし、また専門知識の不足により十分な判断ができないという事態を立証責任の問題に解消する手段であり、競技ディベートを実質的に維持するための根幹といえる。かくして、証拠資料の使用はディベート(とりわけ高度な政策論題を扱う場合)を支える重大な要素であるから、それが適正に行われるように詳細な規定を置く必要があるのである。
また、以上から分かるとおり、証拠資料は専門的事項について判断するための貴重な手段であり、またその説得力も高いといえるため、判定を大きく左右する。そのような証拠資料の利用について不正があると、判定の公正が損なわれ、ディベートの教育的効果も大きく減じられることになる。このような問題を防ぐ要請も、証拠法の存在理由となっている。
以上の通り、証拠法はディベートを支える重要な規律であるから、その運用は特に適正になされなければならない。
昨今では、証拠資料の使用に際して様々な問題が指摘され、またインターネットの普及や議論方法の進歩に伴って新しい問題が生じてきている。そのため、ルールの明文による規制で十分対応できない領域も想定しうるところであるが、そのような問題についても、証拠法の要請を踏まえた上で望ましい判断を下していく必要がある。
5.1.2 証拠資料と証明
審判が選手の主張を採用するためには、その主張を支える根拠を検討した上で、主張の正しさについてある程度の確信を抱かなければならない。審判がそのような状態に達するために選手が根拠を提示することを「証明」という。証明は証拠資料を用いずに一般常識や経験則に基づく論理的理由付けによって行うことも可能であるが、専門的事項については証拠資料が事実上不可欠であるし、非専門的事項についても証拠資料を用いることでより適切な証明活動を行うことができる。
ディベートにおいて証明が必要な主張及び事実として「要証事実」という概念を考えることができる。ディベートでの要証事実のうち最大のものは、論題の採択が望ましいということである(肯定側が証明すべき)。肯定側・否定側の両者のスピーチは基本的には全てこの要証事実をめぐって行われることになる。これを証明するために必要な要証事実として、メリット・デメリットやそれを支える個々の論点を考えることができる。これらの要証事実を証明するために、証拠資料が使用される。
論理的理由付けも含めて、全ての根拠については、要証事実を推認することのできるような論理的な結び付きが必要となる(いわゆる「推論(warrant)」である)。証拠資料について、要証事実との関係でそのような結び付きがあるかどうかを「関連性」と呼ぶ。関連性は、それが判定に影響する争点に関係する証拠であること(materiality)を前提として、そのような争点について事実を推認させる力(probative value)が当該証拠にあるかどうかで判断される。そのような力がない場合、その証拠資料には何の意味もないから、判定において考慮されることはない。このような考え方から、証拠資料として許容できるものの範囲(5.2.1で詳述)が定まる。
また、関連性があるとしても、それがどの程度要証事実の認定に寄与するかは別の問題である。その証拠資料が審判に対してどれだけ大きな影響力を有し、要証事実の存否を推認させる力があるかは、関連性の強さとともに、証拠資料の信用性や内容の説得力によるところが大きい。証拠資料の関連性、信用性(出典の確かさや内容の評価など)をあわせたものが、その証拠の実質的価値である。これを証拠資料の「証明力」という。後で説明する自由心証主義は、証明力について審判の合理的な判断に委ねるというものである。
証拠資料に証明力があるというための前提として、その証拠資料がルール上許容されていることが必要である。法定の要件を満たして適切に使用されているかどうかを「証拠能力」という。ルールに反した形で引用された証拠資料は、証拠能力を欠き、判定において考慮されない。
以上をまとめると、証拠資料については、証拠能力を満たした上で、要証事実との関係で関連性を有し、要証事実を証明するための十分な証明力を備えていることが要求されることになる。このうち、証拠法の主な関心は、証拠能力の有無についてと、関連性の判断に当たって類型的に判断される証拠資料の類型にある。以下では、この点を中心として検討を加えていくことになる。
5.1.3 証拠法の基本原理
5.1.3.1 再現可能性の原則
ディベートで用いられる証拠資料は、客観的な見地から要証事実を証明するものでなければならない。これは、当事者の主張と区別された情報により試合の前提を補充させることで、公平性と検証可能性を保持したまま判断を可能とするための要請であった。
この要請を満たすためには、証拠資料が実際に客観的に存在するものであり、かつ事後的に検証できるものである必要がある。証拠資料がそのような条件を満たす必要があるということを「再現可能性の原則」と呼ぶ。再現可能性の原則が確保されることではじめて、証拠資料の真実性が担保され、当該試合を判断する前提として当事者と審判の共有する情報と認めることが可能となるのである。
なお、再現可能であるというためには、それが単に客観的に存在するというだけではなく、誰でも容易に参照できるものでなければならない。再現可能性の原則が要請するのは、その証拠資料を判断の前提として認めることのできるような妥当性を担保できるよう、全ての選手に利用が開かれており、検証が容易に可能な程度にアクセスが可能なことである。
よって、特殊な入手経路により得られた、通常ではアクセス不可能な文献や、現在アクセスができず検証が不可能な資料については、再現可能性の原則を満たすものとは言えず、証拠資料としての適格を欠くことになる。
再現可能性の原則は、具体的には証拠資料として使える資料の制限や出典の記録・明示義務という形で現れる(細則B-1~3項参照)。
5.1.3.2 証拠内容尊重の原則
証拠資料の証明力は、関連性と信用性によって評価される。このことは、単に証拠資料が使用されたというだけでは証明活動としては無意味であり、証明力を有する証拠資料が用いられてはじめて判定に影響を及ぼすということを意味する。そして、証明力は証拠資料の具体的内容によって評価される。
ここから、証拠資料はその内容によってはじめて価値を有し、存在それ自体が意味を持つのではないということが確認できる。これを「証拠内容尊重の原則」と呼ぶ。すなわち、証拠資料はその内容によって判断されるということである。
証拠内容尊重の原則は当然のことを表現したにすぎないが、証拠資料を引用すればそれで証明したことになるという誤解も多く、証拠資料の評価に当たって常に立ち返るべき原則として意識する必要がある。
なお、ここでいう「証拠内容」とは、引用された文面だけでなく、その信用性を担保する出典の評価も含まれる。
5.1.3.3 違法証拠排除の原則
証拠資料が試合の前提として受容されるためには、それが実在する資料であることはもちろんのこと、それが適切に提示され、元の資料が有していた意味を正確に表している必要がある。引用された内容が証拠内容尊重の原則に照らして証明力を有するとしても、そもそも実際には存在しない資料であったり、元の資料と異なる意味を付与されているという場合は、そのような証拠資料を採用するべきではない。それを許すとすれば、客観的な見地から主張を根拠づけさせるという証拠資料の趣旨を没却することになるからである。
以上から、不適切な資料が用いられることを防止し、また判定の公正を保つために、違法証拠を排除する必要があることになる。これを「違法証拠排除の原則」と呼ぶ。この原則は違法な資料を判定から排除するだけでなく、その違法が重大な場合には、当該違法引用をなした側を敗北させる投票理由を形成し、議論全体を排除する可能性も含んでいる。
なお、違法証拠排除の原則は上記の通り判定の公正を根拠とするものであるが、同時に教育的見地からも支持されるものであるし、それ以前にディベートを維持するための最小限の要請でもある。従って、当事者の同意があった場合でも、違法証拠排除を否定することはできないと解することになる(後で詳述する)。
ルールでは、違法証拠を排除する旨規定があるが、違法証拠排除の原則はディベートを成立させるために当然必要となる要素であり、規定がない場合でも機能すると考えられる。ルールに定められていないが不適切と認められる引用方法についても、この見地から証拠排除を受ける可能性がある。ただし、法定の反則事由に当たらないような引用の方法によって反則処分を受けることは、予告された以外の事由で処分を下すことであり、許されない(第8章参照)。
5.1.4 自由心証主義
証拠資料の証明力判断に関しては、審判の合理的な判断に委ねられている。これを「自由心証主義」と呼ぶ。
自由心証主義が意味することは、審判が証拠資料について独自に評価を下し、それを踏まえて要証事実の存否につき合理的な範囲で自由に判断することが許されるということである。審判は、証拠資料が引用されたにもかかわらずこれを採用しないことや、相反する証拠資料につき任意の内容を採用する(あるいは両方とも却下する)ことが許される。
自由心証主義に対し、一定の事実を認定するために特定の証拠資料を要求したり、特定の証拠資料が引用されることで必ず一定の事実を認定しなければならないという考え方を、法定証拠主義と呼ぶ。しかし、ディベートにおいては論題の是非を争う手段は自由であり、特定の証明形式を要求する理由はないし、そのようにすることは教育的効果を妨げることにもなる。
よって、ディベートでは審判が合理的な判断をなしうるという前提に立って、証拠資料の判断を審判に委ねているのである。ここから、自由心証主義は審判の主観的恣意的判断ではなく、一般常識や経験則、当該証拠資料の文理に照らして合理的な判断を下すことを要求していることが分かる。
自由心証主義には、ルール上一定の限界がある。例えば証拠として用いられる範囲は限定されており(細則B-1項・同9項参照)、この範囲内でのみ自由心証主義は適用されることになるから、制限対象となる証拠資料によって得た心証は判定に反映させることができない。また、証拠資料を提出できる時期が規制されている(本則3条3項参照)ことの関係で、時期に遅れて提出された証拠資料についても同様に自由心証主義を適用する前提を欠き、心証形成が許されないことになる。
*証拠資料の範囲(5.2)、証拠として記録すべき内容(5.3)は次回に回します。