愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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ディベート甲子園ルール逐条解説(11.議論の規律(1))
今回から解説内容は議論の規律と題する場面に移ります。ここでは、選手のスピーチをジャッジはどのように理解すべきかという角度から、スピーチのうち判断材料として使用できるもの、できないもの、しなければならないものを見ていくことになります。
新出議論などを除くとルールに規定がない分野ですから、かなりの程度私見のまざったものであり、これまで以上に当てにならない内容なのですが、そのような問題意識もありうるのかということで、皆さんのほうで考えていただければ幸いです。

時間が取れるうちにキリの良いところまで書いておこうということで、10月までに第6章を終わらせることを目標に解説を進めることにしたいのですが、上記の通り定説を想定しにくい部分であり、いろいろと書くべき内容がありますので、書き終えるのは大変かもしれません。
その次の第7章は判定の過程について扱うということでこれまた重い内容なのですが、年内には進み終わるところでしょう(というか、来年になると試験勉強や司法試験の勉強をはじめねばならないため、今年中に全解説を終えたいところではある)。

…と、先の予定を書きながら解説をはじめるのが通例となっている感があるのですが、予定を立てても守られないことが多いので、このあたりにしておきます。

それでは本編です。以下の内容は公式な見解でもなければ正解を保証するものでもないことをお断りしておきます。今日の内容はディベートにおいて一般に言われることでないものを多く含んでいるので、いつもより警戒してお読みいただくことをお薦めします。


第6章 議論の規律

6.1 総説

ディベートの勝敗を決するのは、選手が試合中に提出した議論の優劣による。しかしながら、この原則は、選手が提出した議論の全てが判定に供されるということを意味しない。審判が選手の議論の範囲内で判定を出さなければならないということと、選手の議論が審判の判断を拘束するということは、論理的に同一ではない。

本章では、審判が選手の議論から判定を導くという原則を出発点として、その議論が試合中でどのように取扱われるか、そして審判はどの範囲まで選手の議論を判断材料として考慮しなければならないか(考慮してはいけないか)を考えることになる。
このような規律につき、ルールではわずかに本則3条2項などで新出議論の規制をするのみであるが、同条の趣旨や事実認定の一般的経緯に照らせば、その他にも同様の規律を見出すべき場面が存在する。以下では、選手が主張をなす方法やその内容に着目し、選手が議論の処分権をどこまで有するかという視点から、新出議論にとどまらない、議論に課せられる規律を検討する。

6.2 スピーチの基本原理

6.2.1 弁論主義

判定の基礎となる事実の確定に必要な情報の提出(証拠資料の提出を含む主張及び論証)を選手の権能及び責任とし、選手によって提出された議論から判定を導き出さなければならないというのが、ディベートの原則である。これを、弁論主義と呼ぶことにする(なお、この用語法は民事訴訟法学における同様の概念に従うものである)。

ディベートにおいてこのような弁論主義が妥当する根拠は、以下の3点である。第一に、ディベートは議論教育のための競技であり、そのためには選手が試合中に提出した議論のみが評価の対象とならなければならない。第二に、選手が提出した議論以外によって勝敗が決することは、選手にとって不意打ちであり、不公平となる。第三に、選手に必要な情報の提出を委ねることで、試合内での議論の提出が活発となり、結果として議論の質が向上する。
以上の根拠は、理念的にはディベートの教育目的を達成するための要素として、実践的には競技としてのディベートの成立を可能にするための要素として、位置づけることができる。いずれにせよ、弁論主義は競技ディベートを成立させるために要求される最も重要な原則といってよい。

この弁論主義の内容は、大きく分けて2つに分解される。
第一の内容としては、メリットやデメリットなど、投票理由になる論点は、選手により提出されない限り、判定の基礎とすることができない。
第二の内容としては、審判が論点について判断する際は、選手が提出した議論を検討することによってのみ行わなければならない(職権証拠調べの禁止)。

第一の内容については、ルールでは本則5条及び細則D-4項でメリット・デメリットを判断して勝敗を決する旨が規定されており、メリットやデメリットは選手が主張しなければ審判に認知されることはないから、ルール上も規定があるということができる。
また、第二の内容についても、細則D-2項1~2号により、実質的に規定されているといえる。

細則D
2.審判は個々の論点について以下のように判断を行います。
1)一方のチームが根拠を伴って主張した点について,相手チームが受け入れた場合,あるいは反論を行わなかった場合,根拠の信憑性をもとに審判がその主張の採否を判断します。
2)一方のチームの主張に対して相手チームから反論があった場合には,審判は両者の根拠を比較して主張の採否を決定します。


もっとも、上記のような弁論主義の構成要素についても、例外を観念することができる。
第一の内容については、ルールが細則Cにおいて反則事由を定め、それに該当する場合に敗戦処分を可能としているが、これは選手の主張を要せず審判の判断限りで行うことができ、選手の提出した議論によらず勝敗を決するものであり、弁論主義の例外であると考えることもできる。もっとも、これは議論の優劣によらない処分であるから、弁論主義とは関係ないということもできるが、ルールを離れてディベートの勝敗というものを広く捉え、説得的であった側が勝つと考えるのであれば、説得的でない態度を取った側への処分も投票理由に基づくものであるといえ、弁論主義の例外をなすといえよう。
また、第二の内容についても、審判は議論の信憑性を判断するに当たって選手が主張しなかった内容を加味して評価を加えるのが通常であるから、厳密に言えば弁論主義が守られていないということができる。この点については事実認定のあり方として後で詳しく論じることにするが、議論の評価というものが審判による理解・納得という主観的過程を経ざるをえない以上、そのような過程の存在が直ちに弁論主義に反するということも妥当でないだろう。選手が提出しない議論によって評価しているのか、それとも選手の議論を評価するための手段として審判の知識を活用しているのかは、微妙な問題ではあるが、この区別は可能であり、それを前提として弁論主義の規律を及ぼすことが望ましい。

以上のような限界に近い領域は存在するものの、弁論主義の規律は重要なものであり、ディベートの試合全体に妥当する原則である。
なお、弁論主義の中に、選手の間に争いのない論点については当然に判定の基礎としなければならないという要素を考えることも可能である(民事訴訟法学では、いわゆる自白の拘束力としてこれを弁論主義の一要素とする)。しかし、弁論主義の根拠たる教育目的と競技としての要求を考えたとき、議論の同意に特別の拘束力を及ぼす必要性はなく、またそれが教育的にかえって妥当でないとも考えられる。よって、このような要素を弁論主義の一要素と考える必要はなく、議論の同意に拘束力を認める場合には、別途の理由付けを要すると考えるべきである(6.5で詳述する)。

6.2.2 主張共通の原則

弁論主義から、ディベートの勝敗は選手の提出した議論によることになるが、審判は肯定側・否定側のいずれが提出したかに関係なく、スピーチの一切を判定材料として考慮することができる。すなわち、否定側の発言の中で肯定側に有利となる論点があった場合でも、これを肯定側への投票理由として考慮することが許される。
これは、一旦提出された主張は、両サイドに共通に適用される主張として取り扱われるということを意味する。このような考え方を主張共通の原則と呼ぶことにする。主張共通の原則が認められる根拠としては、審判の自由心証を尊重して妥当な判定を導く要請と、当事者に対する不意打ちを防ぐという弁論主義との調和にある。いずれかの側が主張している以上、それを投票理由として考慮することは不意打ちとはならないため、その範囲で議論の扱いが審判の自由に委ねられるということである。

主張共通の原則が意味することは、選手が一旦議論を提示したら、その議論がいかなる形で判定材料となるかは審判に委ねられるということ、そして当事者が自ら提出しない論点によって勝利することがありうるということである。
これに対し、選手には議論の処分権があり、そこから自分が意図しない形で議論が評価されない権利をも導けるのではないかという疑問を抱く者がいるかもしれないが、選手に認められているのは議論を提出する自由までであり、それがどのように評価されるかは審判の専権に委ねられるというほかない。審判の自由心証による判定(細則D-1項参照)からすれば、いずれの立場が提出した議論であるかによって評価が制約されることは不当である。
また、当事者が主張しない理由で勝利することが妥当でないという批判もありうるが、そもそも両サイドについて「自分の側が勝利している」という包括的な主張があることは認められ、勝利した側が主張していないにせよ、試合中に提出された議論から勝敗を導いている以上、それは敗者の自己責任に過ぎず、教育上も問題はない。むしろ、当事者が援用していないという理由のみで、審判の心証と異なる投票を行うことのほうが不当であるというべきである。

注意すべきことは、主張共通の原則によって許されるのは、当事者が主張という形で争点を形成した場合にのみそれが(肯定側あるいは否定側の)投票理由として考慮可能となるという点である。
例えば「否定側の資料からすると、別途のデメリットの存在が伺える」と判断した場合であっても、いずれの側からも当該デメリットを形成しうる論点が提示されていないという場合、これをデメリットとして評価することはできない。証拠のレベルである事実が認定されたとしても、それが主張という形で提示されない限り、いずれの当事者も主張しなかった理由を判定材料としたことになり、弁論主義に反することになる。

従って、主張共通の原則が認められるのは、肯定側からメリットとして議論が提出されていて、否定側から反論がないものの、実質的に考えればメリットと称された議論はデメリットとして評価されるべきであるとの心証を得たという場合や、ある反駁が別の論点で自分の議論を否定する効果を有するという場合に、相手側の援用なくして別の論点においても当該主張を考慮するという場合を考えることができる。

6.2.3 証拠共通の原則

主張共通の原則は投票理由となる争点を形成する主張レベルでの共通を認めるものであるが、投票理由の有無を判断する理由レベルでの共通も同様に認めるべきである。つまり、試合中の争点を判断するにあたっては、当該争点について主張立証された内容にとどまらず、試合中で主張された全ての議論を考慮することができる。これを証拠共通の原則と呼ぶことにする。

証拠共通の原則も、当事者にとって不意打ちにならない範囲で審判の自由心証による議論評価を認め、妥当な判定を保障するために認められている。また、ある争点についての判断は試合全体で合一に確定されるべきであり、実質的に同じ内容が争われている場合に、援用がないことのみをもって判断が分かれることは自然でなく、極力回避すべきであるという別途の理由もある。

証拠共通の原則は争点の判断において試合中に提出された全ての議論を考慮してよいというものであるが、ここで問題となるのは、当該争点との関係では新出議論にあたる議論をも考慮してよいかという点である。
これは新出議論が規制される趣旨とも関係する議論であり、詳細は後述する(6.4)が、結論としては、そのような議論も証拠共通の原則から考慮してよいと解すべきである。
そもそも、新出議論の規制は当事者に反論機会を付与し、不意打ちを防ぐことを目的とするが、証拠共通の原則が適用されるような複数の争点については、それが実質的に同様の内容をめぐって争っていることが当事者にも明らかであるから、そのうち少なくとも一つについて議論が続いているのであれば、残りの争点についてもその議論との関係で評価が確定していないことが分かり、継続している議論の帰すうによって反論がなされなかった残りの議論の評価が変動することは不意打ちとはいえない。また、証拠共通の対象となっている内容それ自体については実際に議論され、両サイドとも攻撃防御の機会が与えられているから、その結果を実質的に同一である他の争点に及ぼすことが手続保障の見地から問題となることもない。

なお、証拠共通の原則は争点判断の材料として試合中の全議論を参照できるということにとどまり、主張されていない争点を形成することが許されないということは、主張共通の原則について述べたところと同じである。

*主張の方法(6.3)、新出議論と遅すぎる反論(6.4)は次回に回します
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