愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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2007年JDA秋季大会参戦記(12・完:決勝の議論を、そして死刑論題を振り返って)
春季JDAが今週末に迫っているという時期外れではありますが、JDA秋季大会参戦記の総括として、ここまでトランスクライブしてきた決勝戦の展開を反省するとともに、死刑論題で出てきた議論を簡単に振り返りながら論題について考え、最後にJDA参戦で改めて気づかされたディベート実践上の教訓を簡単にまとめておくことにします。

○ 決勝戦の反省
決勝戦はおよそ2対1の割合でAffに流れたオーディエンスボートも含めて4-1でAffが勝利し、バルサミコ酢がひっくり返ってこぼれるという結果に終わりました。主審の方がNegに入れてくれたことと、JDAの会長が義理で(?)Negに観客票を入れてくれたことが救いです。
ただ、Negの展開は僕の不出来もあって詰めの甘い部分が多々あったのですが、試合結果として完敗だったかというとそうでもなく、そこそこは食らいついていけたのではないかという気もしています。JDA決勝で強力なチーム相手とそれなりの試合ができただけでも、僕にとっては意義のある大会でした。

その上で、試合の勝敗を分けたのはどこか、あるべき展開として他にどのようなものがあったかという点について、いくつか検討してみることにします。

*以下、トランスクリプトのリンク(当ブログ内)です。適宜参照してください。

1AC(Q/A)
1NC(Q/A)
2AC(Q/A)
2NC(Q/A)
1NR
1AR
2NR
2AR


1.総論
今回のNegの敗因は、勝ち筋を絞って提示できなかったことです。後で決勝ジャッジの方にも言われたのですが、特に2NRにおいて、Negは投票理由をきちんと立てられていないところがありました。2ARには安藤さんが待っているわけですから、Negとしては論点を絞り、勝ちに行くストーリーを明示的に示すべきでした。
どのような議論がその候補たりうるかは後で見ますが、おそらくこの試合でもっとも現実的だったのは、Affの出した判断基準をひっくり返し、議論がよく分からない場合にはNegに入れるという原則に立ち返りつつ、犯罪増加のクリアな可能性が見えていて、それを上回る懸念材料がない以上はAffには入れられないという議論だったかなぁというところです。

トランスクリプトをご覧になった方の中には、上記のようなことはNegが実際に言ってたこととそんなに大差ないのではないかと思われた方がいるかもしれませんが、スピーチとして聞く場合、どのような構成でどのように訴えるかで、議論の受け取り方は大きく変わってきます。僕は2NRで各論を全て自分たちに有利になっているという形で議論しつつ、挙証責任の所在については最初と最後でばらばらに議論してしまっているだけでなく、明示的にエビデンスを排除するという形で判断基準を論じていません。要するに、勝つためのストーリーとして意識しないまま総括してしまっているダメなパターンなのですが、もっと上手く議論することはできたはずです。
もっとさかのぼるなら、2NCからの議論展開でもっとストーリーを意識して反論を出すべきだったということもいえます。再犯あたりの議論は相当にごちゃごちゃした割に投票理由にはつながっていないようですし、犯罪抑止力の再反論も無駄なものが多く、もっと整理して論じられればよかったなぁというところです。練習試合ではリサーチ結果を反映させることが先行してしまい、それを定着させるだけの戦略的な熟成が足りず、役割分担などに課題を残したまま大会当日を迎えたというのが正直なところでしたから、これは仕方ないことでもあります。

2.挙証責任の議論
試合の勝敗を左右したのは、Affが団藤氏のエビデンスで示した、挙証責任の転換があるという議論でした。Negに入れたジャッジも、この議論でAffにきわどく投票したという感じだったようです。死刑論題の特徴は挙証責任の転換が有力な議論として出てくることにあり、事前に準備はしていたのですが、挙証責任の議論を返さないと負けるというシビアな試合を事前にやる機会がなかったこともあり、詰めが甘いままになっていました。

1ACで読まれた団藤氏のエビデンスは、死刑は人間の尊厳からくるところの生命権を制約するものであるから挙証責任はそれを残す側にある、という論理でした。
これに対してNegは1NCにおいて①人間の尊厳=生命権ではなく、生命権は制約されうる、②人間の尊厳を重視する立場からはむしろ死刑が支持される、という2つの反論を用意していました。もっとも、このような議論を出した上で挙証責任の所在まで踏み込んだスピーチができていたかというと、1NCのスピーチを見れば分かるとおり、不十分だったということになります。
この論点について、Affの再反論は必ずしも明確ではなく、再生可能性が重要である(人間の尊厳とイコールであるということでしょう)ということを確認しているものの、一方で再犯DAへの反論においてそれを矛盾する終身刑化の議論を出しており、この点は選択を失敗しているように感じます。Affは2ACで拷問は正当化されないといった議論を出しているのですが、これを生かすという意味でAffがすべきだった反論は①団藤が本当に言いたいのは人間の根源的価値である人間の尊厳は守るべきということであり、生命権は制約可能だとしても人間の尊厳が侵されるとすれば、そのような刑罰の存置を主張する側には挙証責任がある、②死刑は再生可能性を否定し、人の命を奪うという2点で拷問に似たものであり、人間の尊厳を否定するものである、といったところでしょうか。さらに追加して、いかに犯罪抑止に効果的であっても、人間の尊厳を否定する拷問が許されないのと同様に、それを理由とした死刑存置はできない…という主張をしてもよかったでしょう(そういう趣旨だったのでしょうが、必ずしも明確ではなかったと思います)。再犯DAへの返しは終身刑化ではなく再犯率が小さいといったものが望ましかったように思います。

これに対してNegとしては、儀式として正当化されているということを再度強調することのほか、人間の尊厳を守るために、帰責性のある人間についてその尊厳を制約することはやむを得ず、それをも否定する理想主義は、犯罪抑止力のある刑罰を否定することで結果的に犯罪を増加させ、罪なき人の尊厳が蹂躙されることには目をつぶるという意味で到底支持できないという反論ができるでしょう。
ここまで頑張れれば、少なくともDAがある程度立って全体として犯罪が増加するかもしれないとまで言えるという前提ではありますが、Negは十分勝てるはずです。

3.犯罪抑止力の議論
この試合の主要な争点は、死刑によって犯罪が増えるか減るかという部分です。DAのうち一般的な統計の議論についてはNegがあきらめてしまい、この判断には批判もありうるところですが、かなりの量で反論を受けた以上、ここで頑張ることは得策でないように判断した次第です(当然、返しの議論は持っていました)。緻密に再反論していく戦略は一部のドロップで破綻するリスクがある割に旨みがないので、だったら明確に残りやすいヤクザの議論で戦おうというところです。
残忍化の議論については、Affは(おそらく戦略的意図から)なぜ残忍化するのかという理由を述べておらず、事実としてデータを出しているだけですから、ここをもっと批判してもよかったかもしれません。その上で日本の分析として出てきた坂元の議論について、①研究方法が報道の分析にすぎず怪しい、②こちらが読んだバウアーズのエビデンスからその影響のいくらかは減じられる、③ヤクザが国家による処罰と親分からの私刑を比べた合理的判断によって犯行に及ぶというDAについては残忍化と独立して発生する問題である、という反論ができたところです。
最終的に日米比較という形にされてしまいましたが、Affが坂元による日本の研究を持っているからAffが有利、というほど単純ではなく、Negとしては①Affの日本でのデータは死刑が存在している現状のデータに過ぎず、その意味ではアメリカで実際に死刑を廃止した後の研究の方が説得的である、②日本ではヤクザという固有のリスク要因があることをNegが示している以上、これに当てはまらない残忍化のデータを出したところで比較材料にはならない、という指摘が可能でした。この点、もっと考えられたのにそれを怠ったのが残念です。

ただ、犯罪抑止力の議論でもっとも危険だったのは、2ACで読まれたCQリサーチャーで「死刑執行しまくっているテキサスだけで抑止力があった」というものでしょう。これと残忍化効果を整合的に読むと、残忍化効果を上回る抑止力を出すには、今の日本の執行数では足りないという結論が出てきてしまいます。
この資料について、USフロントラインでは「2006年のデータを見直した」ということも言っていて、2005年のCQリサーチャーにも対応できたはずなので、もう少し細かな反論をしておくべきだったところでした。

4.再犯がらみと再生可能性の議論
再犯の議論は結局投票理由として残りませんでしたが、終身刑化していない部分があるということを前提とすれば、その他に反論がなかったこともあって丸々残っていたといって差し支えないでしょう。
Negがすべきだったことは、Affの煮え切らないスタンス(実質終身刑なのか、仮出獄の機会はあるのか)をばっさりと2つに分けて論じ、どちらにせよAffが不利になるということを明示的に示すことでした。
すなわち、実質終身刑とすればそれは囚人を生きながら葬り去ることであり、終身刑になったことのない大道寺が何かしら言っているとしても、ドイツの実証分析の結果ヴェルツェルがいう恐ろしさの方が上回ることになります。一方、仮出獄の機会があれば、それによる再犯のリスクは予測不可能であり、クリアに犯罪増加の危険がある…ということになります。

リサーチのなかでは、Affが再犯DAに対してなしうる反論では「死刑囚は再犯が少ない」というものが有力だと思っていたので、この返しは予想外でした。多分、事前に予想していた反論の方が有効だったと思います。また、さらに突っ込んでいくと、無期刑と死刑で再犯リスクが違うかといえばそうでもないと思われるところ、裁判時の判断で仮出獄の機会付与を判断してしまうのはフェアじゃないという議論を展開しうるところで、僕はこの問題が死刑存廃論のメインになりうるのではないかと考えています。


以上が決勝で出た議論の反省です。戦争リスクなど他の細かな議論については、ちょっと難しかったんじゃないかというのが正直な感想なので省略します(ジャッジもそのように考えたようです)。もっときちんと反論してもよかったとは思いますが。


○ 死刑論題について
この機会に、死刑論題について出てきた主な論点について、ディベート的観点を交えて簡単に批評しつつ、最後に論題に対する僕の私見を述べておきます。

犯罪抑止力の問題
理論や統計などで賛否両論があり、どちらが優勢かというとちょっと判断しがたい情勢にあると思います。ディベート的には、実例として死刑廃止後の国では犯罪が減っているというものがあってAffが有利にも思えるのですが、廃止する国はそういうものだという再反論もあり、それもそうかもしれないというところです。
ただ、長期拘禁も十分に嫌だと考えるのが普通の人間であり、それでもやってしまう人間はきっと死刑でもやってしまうんじゃないか…というのは説得的で、理屈から言うと死刑でなければ抑止できない犯罪というのは相当に少ないような気がします。
残忍化については、これを否定するデータが見つからず、ディベート的には鉄板の論点です。死刑論題でAffが強い理由はこのあたりにあるのですが、実際の犯行動機で「死刑があったから」というものがどれだけあるのかは疑問符のつくところで、深層心理がどうとか言えば説明できるのかもしれませんが、刑事政策上考慮できるレベルの議論なのかと言われると悩みどころです。

犯罪者の人権について
犯罪者に対しても人権は保証されなければならないというのはそのとおりですが、それが制約されないかといえばおそらくそうではなくて、通常人についても一定の制約がある――制約が許されない領域もある。詳細は省きます――のと同様、犯罪者についても犯罪抑止などの理由で人権が制約されうるという議論は十分成り立つと思います。
ただ、犯罪抑止という目的の手段として犯罪者の人命を使ってしまうのは、人間を道具化するものとして、理論的には認めがたいところでもあります。まさにAffが出していた「拷問は正当化できるのか」という問いにつながるのですが、これは難しいところです。詳しくは後で再び述べますが、死刑という制度が何らかの理由で必要とされているという前提を置くとすれば、それを正当化できないとしても、誰かがその苦悩をかぶって運用するほかない…と説明するしかないのでしょう。説明になってないと言われるとその通りなのですが。

再犯について
上で述べたので簡単に書きますが、再犯自体はありうることだと思います。問題は、特別抑止の必要性は死刑と無期刑でそれほど違いがあるとは思われないところ、その違いを正当化する理由があるのかということです。要するに、特別抑止の観点だけから見るなら、再犯の危険がある人間は全員死刑にする(あるいは終身刑)か、あるいは全員釈放の機会を留保するべきであるということです。
ただ、一般抑止の観点もありますから、再犯を死刑存置のメインの理由にするのならともかく、これだけで死刑を廃止すべきとは言いにくいのも事実です。

冤罪について
冤罪が起こりうることについてはその通りですが、その確率は今ではかなり下がっているのではないでしょうか。もちろん、一件でも重大ではあるのですが、それは裁判制度の問題であって、死刑存廃の問題とは関係ないというべきでしょう。
死刑のせいで冤罪を訴えられなくなるとか、拘禁ノイローゼで再審請求に支障を来すという細かな議論もありますが、副次的な問題に過ぎないといわれればそれまでのような気がします。

被害者感情について
現実の死刑廃止論において被害者感情の問題は結構大きいと思うのですが、理屈としては被害者感情を理由に死刑を存置するというのは無理があります。刑罰は被害者遺族を満足させるためのものではないからです。ディベートでもそのような反論は有力ですし、実は被害者遺族は死刑を望んでなくて、一部メディアなどが被害者遺族の声を誤って伝えているといったエビデンスもあります。

個人的な見解
一応このブログは入院日記ということで、法律家志望の一入院患者として、死刑についての私見を簡単に述べておくことにします。
上述の通り、いずれの論点も決め手を欠くところなのですが、個人的な見解としては、死刑が他の刑罰に比して特別の抑止力を持っているかというとそうではないと思います。あるとしても、それはおそらく「死刑は怖いからあると抑止されそう」という印象のレベルであって、実際に治安維持のために重要なことは死刑の有無ではなく、検挙率の高さや適正な裁判といった要素でしょう。死刑が人間の尊厳を確認するための儀式として存在するということを僕のチームは主張したわけですが、実際にそんな意味合いで死刑が宣告されているかは怪しいし、それだけで死刑の存在を説明するというのは難しいのではないでしょうか。
では、死刑は廃止すべきか…というと、理想としてはそうでしょう。しかし、現実的なことをいうなら、死刑になっても仕方ないような凶悪事犯だけに死刑が言い渡されており、そのこと自体には(国民としての視点から)違和感はありませんし、死刑廃止の理由も「ないほうがいい」という程度にしか感じられないので、積極的死刑廃止論者になろうとまでは思えません。人権論などを詰めていくと死刑廃止になるのでしょうが、それだけで刑事政策を説明できるかは疑問があるところです。問題とすべきは安易な死刑の拡大であって、その範囲が適正に限定されていれば、少なくとも「拷問」ということにはならないだけの正当化理由がつくと思います。
ただ、将来法律家になり、死刑判決と関わる可能性がゼロではないところ、そのようなときにどのように考えるかは別物です。個人的には裁判官という職業は魅力的なのですが、死刑判決を下す立場になったとして、それを躊躇なく行えるかというと、そんなことはありえないでしょう。聞いた話ですが、裁判官は死刑判決を出す前日は眠れないし、死刑判決が確定したりすると、その後もずっと悩み続けるそうです。
それでも、裁判官は法律に死刑がある以上、適用すべきときは死刑を適用することが義務だと思います。僕は上で「理想的には廃止すべき」と書いており、法律家は人権を尊重する義務がありますから、そのような場合には理想を貫くべきであるとも思われるのですが、制度として死刑があるのならば、誰かがそれをかぶって運用しなければなりません。第一、死刑ならダメでその他の刑なら大丈夫というものではなく、被告人に有罪として刑を科すことは、一律に「悩ましい」ことであるはずです。そうであれば、人間として同じヒトを殺す命令を下すことが辛いものであるとしても、そのような権限を与えられていることの重みを自覚した上で、下すべき刑を宣告するのが裁判官の仕事であり、死刑廃止論を理由に逃げるのは正しくないような気がします。


最後はごにゃごにゃ書いてしまいましたが、死刑廃止という問題は難しく、簡単に答えの出るものではないと思います。理屈として答えが出たとしても、それでそのまま実行すればいいのかというとそうでもないでしょうし。
そういうわけで、この論題はディベートとしても、ディベートを離れた上で物を考える上でも、興味深い論題だったというのが全体の感想です。

○ ディベート実践への教訓
ここまでが長くなったので簡単に。

1.練習試合をしっかりする
今大会ではそれなりに練習試合をしたのですが、それでもまだ足りないというのが正直なところです。あと10試合練習できていれば、もっと連携もとれて、戦略的なディベートができたような気がします。ただ戦略を考えるだけでなく、実際に試してみて上手く行かない経験などを踏まえて練り直し、自分たちになじむまでトレーニングするのが理想的です。
あと、練習試合はレベルの高い相手も交えていろんな相手とやるのがよいです。特に、強い相手を避けていてはいつまでたっても上達しません。逆に、自分たちより準備の進んでいない相手でも、いろいろ気づかされることはあります。

2.主張を明示的に
敗因である挙証責任の議論からも分かるとおり、自分たちの言いたいことは明示的に述べるべきです。それは、クレームのつけ方やエビデンスを読んだあとの一言でもそうですが、試合全体の構成においても「こういうことを言いたいんだ」ということを全面に押し出すことで表現できます。
議論の内容では返りうるとしても、それを説明してジャッジの中に形作っていかないと、投票してもらえません。第二反駁は比較が大事とかよく言いますが、比較は本質ではありません(ジャッジとしては、よほど適切な比較基準を出されない限り、それだけで勝負を決めることはない)。大切なことは「試合をどうやって見れば勝ちに結びつくか」を提示することです。比較はそのための一手法にすぎないというわけです。

3.試合後の反省を丁寧に
これは、この参戦記を書いていて思ったのですが、一旦終わった試合を振り返ることは非常に勉強になります。何もトランスクライブしろとまでは言いませんが、出てきた議論を振り返り、相手側の展開も含めて「何がまずかったか」「どうすればよかったか」を考えることは、議論を整理し、新しい議論を作り出す上で極めて有益です。


以上で、2007年JDA秋季大会観戦記を終わります。ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。何かしらの参考になっているとすれば幸いです。
最後に、JDA秋季大会の出場に際してお世話になった全ての方――大会運営スタッフ・ジャッジの皆さま、練習試合を企画してくれたり試合をしてくれた方々、プレパを手伝ってくれた弁論部員、大会で対戦した方々、決勝で相手してくれた安藤さん・山中さん、そしてパートナーとして苦労をかけた弟――に感謝の意を表して、しめくくりとさせていただきます。
コメント
この記事へのコメント
お疲れ様でした
大変な量のスクリプト、ありがとうございました。大会もお疲れ様。決勝戦を含めて、練習試合のプロセスは私にとっても大変勉強になるものでした。
2008/03/06 (木) 16:09:00 | URL | Masashi Yamanaka #PDr/7ZZc[ 編集]
こちらこそどうもありがとうございました
遅くなってしまいましたが、一応全て作業を終えることができました。こうして試合を振り返るのも勉強になるものです。
先の大会ではいろいろとありがとうございました。おかげさまで大会までの期間や決勝戦など、充実した時間を過ごすことができました。
試合で対戦する機会はもうないとは思うのですが、明日のJDAなどディベート関連のイベントでお世話になる機会はまだまだあると思いますので、今後ともよろしくお願いします。
2008/03/07 (金) 16:52:36 | URL | 愚留米@管理人 #-[ 編集]
ジャッジの一人です
ご自身のブログで秋大会の決勝を総括されていたのですね。否定側の最後のスピーチは、以下のどちらかに絞り込んだ方が効果的だったと思います。
1) プリザンプションを否定側(死刑存続)に引き戻した上で、メリットとデメリットとに優劣がないことを示す。
2) デメリットがメリットを上回っていることを示す。この場合、プリザンプションの話は無意味なので、無視する。
決勝では両方とも主張しているように見えました。
1番目はディベートの理論とも関わってきてそう簡単ではないので、2番目に徹した方が勝つ可能性が高かったと思います。(専門家の卵としては、プリザンプションの話を無視したくなかったのかもしれませんが。)
2008/08/28 (木) 01:24:27 | URL | ひろろろろ #P2VtjNxQ[ 編集]
肯定側の巧妙な点と、その対策
続きです。肯定側のケースには以下の2つが入っていまして、これが戦略的に巧妙だったと思います。
1) プリザンプションは肯定側(死刑廃止)。
2) 「犯罪残忍化の抑止」というメリット。
否定側が普通に「犯罪の増加」みたいなデメリットを出すと、2) と優劣がつかなくなり、1) によって肯定側の勝ちという作戦です。
否定側は、2つ出したデメリットがどちらも犯罪系だった時点で、肯定側の作戦にはまってしまった感じがします。
一般的なノウハウとしては、デメリットを複数作る際に、それぞれインパクト(悪い事象)は別物にしておくと、ケースと被る可能性を小さくできます。
逆に、ケースを作る際は、典型的なデメリットを予想し、それと同じインパクト(が解決すること)をシナリオに入れ組んでおくと、強いケースを作ることができます。
実はこの2つは、1990年代前半頃の「大プロポ全盛時代」に有効だったノウハウです。肯定側の一人がこのノウハウを熟知していたことも、肯定側の勝利に繋がった要因かもしれません。
2008/08/28 (木) 01:45:12 | URL | ひろろろろ #-[ 編集]
コメントありがとうございます
詳細なアドバイスありがとうございます。

おっしゃるとおり、議論のポイントを絞ったほうがよかったですね。ただ、純利益で勝っているという説明は面倒そうなので、プリザンプションの議論に集中するのがよかった気がします。肯定側の出していた団藤の議論については理由付けの段階で返せていたと思いますし、儀式としての正当化という議論も出せていたので。

我々のケースも決勝の肯定側と同様に2つのポイントを入れていたのですが、確かにこういう組み合わせは有効ですね。このシーズンの肯定側の勝ち筋はだいたいこんな感じでした。
否定側としても犯罪以外のDAを出したかったのですが、他にまともに立ちそうなDAがなく、諦めたというのが正直なところです。生命の尊厳を守るのはむしろ死刑であるという感じで価値的なDAを出すという手や、決勝の試合であれば終身刑的扱いというところに乗っかってT/Aを強力に展開していく(2NCからなので微妙ですが)という戦略もありえたかもしれません。
2008/08/28 (木) 23:33:14 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
お返事有難うございます
再びジャッジの一人です。

プリザンプションの議論は、相手チームとの勝負というよりもジャッジのフィロソフィーとの勝負という面もあります。あの決勝では、私の他に少なくとも一人はそのようにとらえていたと思います。これはジャッジの経歴に大きく依存しまして、ある時代のあるコミュニティーではジャッジのフィロソフィーに挑戦するようなディベートがよく行なわれていたのです。

ジャッジのフィロソフィーを変更させるには、相手チームの議論に反論するだけでは不十分で、ジャッジのフィロソフィーの根拠に対して言及する必要があります。でも、JDA大会ではジャッジのフィロソフィー集を配布したりはしていませんから、「フィロソフィーの根拠に対して言及」するのはかなり困難だと思います。
もっとも、困難なのは肯定側も一緒なのですが、決勝のジャッジに面々に対しては、肯定側の挑戦がたまたま有効に作用したと考えた方がいいと思います。

というわけで、ジャッジのフィロソフィーの影響を受けずに勝とうと思ったら、2番目の立場(純利益がマイナス)の方が確実だと思うわけです。決勝では、犯罪については優劣のつかない状態になっていた(もともと肯定側はこのメリット単独で勝つつもりはなかったみたいですし)ので、後はデメリットやターンアラウンドをほんの少しでも残せていれば、否定側はジャッジに依らずほぼ確実に勝てていたと思います。(もっとも、2NR でそういう主張をしたら、2AR はまた別のスピーチになっていた可能性もありますが。)

いろいろシビアに書いてしまったので、不愉快に感じられたらすみません。
2008/08/31 (日) 00:41:13 | URL | ひろろろろ #-[ 編集]
ディベート観の相違
たびたび失礼します。

この決勝は、肯定側は戦略で勝負していたのに対し、否定側は個別の論点で勝負していたように見えます。(これはディベート観の相違であり、どちらが正しいというわけではありません。) こういう、異なるタイプのチームの対戦が見られるのも、JDA大会の特徴だと思います。

ただ、肯定側は最後のスピーチでケースの内容をほぼ全て伸ばしてしまったので、戦略で勝とうとしているのか、個々の論点でも勝とうとしているのか、分かりにくくなってしまいましたが。

それでも、肯定側の最後のスピーチを聞くと、戦略として様々な勝ちパターンを用意していたらしいことが伺えます。

1) 義務論により、死刑廃止の純利益に依らず肯定側の勝ち。
2) 犯罪については優劣つかないが、プリザンプションによって肯定側の勝ち。(通常なら否定側の勝ちとなるところをひっくり返している。)
3) 犯罪については優劣つかないが、戦争回避のメリットが残って肯定側の勝ち。
4) 犯罪自体についても、メリットの方が上回って肯定側の勝ち。

2) や 3) は、「個別の論点を落としても試合では勝つ」という感じが良く分かります。
もっとも、最後のスピーチで選択肢をこんなに残すのは、多すぎた感じがします。そのため、それぞれの選択肢の印象が薄くなってしまいました。勝敗の理由がジャッジによってばらついた原因の一つは、ここにあると思います。

もっとももっとも、あの決勝ではそうやって選択肢をたくさん残したからこそ、肯定側に投票するジャッジが多かったとも言えるわけで、なんとも評価が難しいところです……。
2008/08/31 (日) 01:54:45 | URL | ひろろろろ #-[ 編集]
お返事ありがとうございます
コメントありがとうございます。
新鮮な指摘で、非常に勉強になります(JDA-ML等での連載も興味深く読ませていただいております)。

プリザンプションの点ですが、今回問題になっていたのはフィロソフィーの次元ではなく肯定側が提示した論証責任の転換理由が支持しうるものであるかという実体的議論の次元にとどまるのではないかと僕は認識しております。
この試合では、(この点で見解を異にするのかもしれませんが)肯定側は通常肯定側に分配されている論証責任につき、それを否定側に転換させる議論を提出しています。とすれば、プリザンプションの判断は、肯定側の出した転換の論拠に理由があるかないかで決することになるという理解です。

ただ、プリザンプションについての判断にはいろいろな局面があり、それぞれにつきジャッジごとにフィロソフィーが異なるということはその通りだと思います。例えば、以下のような局面は区別して考えられるべきです。

1)そもそも当該論題においては初期状態でどのようなプリザンプションが働くのか。一般的には肯定側に論証責任があるとされますが、論題の中身からジャッジが「合理的な」論証責任配分になるよう初期状態を独自に定めておくという立場も理論的にはありうると思います。

2)試合中にプリザンプションに関して議論された場合にどのように評価するか。この点は様々な問題がありうるところですが、そのうち決勝戦で関連しそうなものとしては、プリザンプションの議論についてのプリザンプションをどう考えるのかが問題となりそうです。
この点詳述すると、一旦挑戦があった以上、挑戦された側は相手の出した転換論拠を否定するだけではなく、相手側に論証責任があることについて積極的に主張立証する必要がある――論証責任配分についてのプリザンプションは論題のプリザンプションとは別である――と考えるかどうかが問題になるでしょう。

ひろろろろさんのおっしゃるのは、上記のうち2に当たる部分でしょうか。確かに、肯定側が最初に論証責任の転換について明示的に主張した以上、否定側は論証責任を相手側に押し付ける積極的な論拠を提出しなければならないという考え方はありえると思います。ただ、その場合も、決勝の否定側は儀式としての正当化根拠を出していた(明確に構成できていなかったけど)わけで、結局は転換論拠の存否という実体的評価にかかる問題ではなかったのか、と考えています。

とはいえ、実際にジャッジされた方がフィロソフィーの問題と捉えているのですから、僕の理解にどこか誤りがあるのだと思います。よろしければ、プリザンプションについてフィロソフィーとの関係でいかなる問題があるのか、ご教示願えれば幸いです。

肯定側の戦略については、確かに様々な勝ち筋がありそうだと感じていて、うまく土俵を設定する必要があると感じたのですが(戦争の議論をあえて適当に流したのは、逆にそちらの方が争点として不十分であるというアピールになるかと考えたこともあります。一応エビデンスはあったわけですが…)、結局こちらとしても絞りきれなかったのが残念です。
肯定側も再生可能性と終身刑的処遇の矛盾など全体として必ずしも一貫しておらず、両チームともリサーチ量に準備が追いついていなかったところはあるのかもしれません(ベストディベーターが前におっしゃっていた「1シーズン100ラウンド」が実際必要だということですか)。

死刑論題の否定側は肯定側の議論に対抗するような戦略を構築するのが難しく、ネガティブブロックを活用して個々の論点を大量に積み上げて勝つというパターンになりがちだというのが、シーズンを通しての感想です。今思えば、死刑の規範的存立理由をきちんと議論したうえで各論を立てるという方法はありえたのかと思うのですが、それに対する肯定側の反論もまた多数存在するということを考えると、犯罪の論点など比較的戦えそうな部分で戦うのが比較的に容易だったという判断です。
この点、もう少し時間や試合機会があればそのような検討もできたのかもしれません。死刑論題が再度どこかの大会で採用されることもあるとは思いますので、そのときにはそうした否定側の戦略が見られるのではないかと期待しています(さすがにもう自分が出ることはなさそうなので)。
2008/08/31 (日) 02:47:56 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
2種類の「プリザンプション」
再びお返事いただき、有難うございます。(匿名のつもりだったのですが……うそです。)

ディベートで「プリザンプション」という場合、少なくとも2通りの使われ方をするのに注意してください。

1. 様々な議論(イシュー)について、証明も否定もされなかった場合にどちらと見なすか。トピカリティー以外は「否定されていると見なす」というのが一般的。(つまり、立証責任とは反対側)
2. プランの純利益が不明(評価不能)またはゼロの場合に、肯定側/否定側どちらの勝ちとするか。

あの決勝では、肯定側は2番目の使い方をしていると私は理解しました。つまり、プランの純利益がゼロだったり評価不能だったりする場合、普段の試合では否定側の勝ちとすることが多いと思いますが、死刑の特質を考えると逆に肯定側の勝ちとすべきであるという主張です。肯定側がわざわざ「プリザンプション」という用語を使っているのも、そのような意図があってのことだと理解しました。

念のためトランスクリプションを読み直してみましたが、今も同様の考えです。(トランスクリプションの作成、非常にお疲れ様です。自分のジャッジングを見直すのにも非常に役立ちます。)

さて、上で「プランの純利益がゼロだったり評価不能だったりする場合、普段の試合では否定側の勝ちとすることが多い」と書きました。つまり、ジャッジはジャッジで、そういう場合にどういう根拠でどちらの勝ちにするかを予め決めてあるわけです。これが「フィロソフィー」(の一部)です。だから 2の意味でのプリザンプションの議論が出てきたら、普段持っている根拠と合わせて考える必要が出てきます。

なお、『現代ディベート通論』の2章の「(3) パラダイムの色々」を読むと、純利益がゼロだったり不明だったりしたときのどう判定するかがパラダイムごとに説明されています。私は「政策形成パラダイム」の説明にある通り、リスクの少ない政策を提示した側を勝ちとしています。簡単にいうと、「無難な」方です。

普段の試合では、特に指摘がない限り、肯定側のプランを採らない方を「無難」と見なしています。しかし、あの決勝では、肯定側が団藤のカードを読んだ時点で、死刑が無い方(=プランを採る方)を「無難」と見なすようにしました。


最後になりますが、私以外のジャッジに対して、このプリザンプションの議論は、プリザンプションとしては機能しなかったと記憶しています。確か、一人は純利益がマイナス、もう一人は純利益がプラスと判断し、どちらもプリザンプション(2 の意味) とは無関係の判定です。あとの一人は、「プリザンプション」の箇所の議論を、プリザンプションとしてではなく、これそのものが勝敗を決めるものととらえてました。
(チーフジャッジのコメントを録音していなかったので、そちらで確認していただけると幸いです。記憶違いがあったら、すみません。)
2008/09/03 (水) 01:32:00 | URL | ひろろろろ #-[ 編集]
プリザンプションの理解について
プリザンプションに2種類あるというのは一応理解していたつもりです。民事訴訟法学では各争点についての「挙証責任」(1の意味でのプリザンプション)が、原告の請求を基礎付けるか否かに直結するため、2の意味でのプリザンプションと実質的に同義になるのですが、ディベートでは個々の議論の帰趨が論題の是非に直結するものではないので、2つを明確に区別する必要があるということですね。
(憲法判断についてはディベートと同様の状況があるので、個々の事実についての「挙証責任」とは別に「論証責任」という概念を立てることがあります。僕の前のコメントでもそれを意識した用語法にしています)

決勝戦において2番目の意味のプリザンプション(論証責任)が問題となっていたことについてはおっしゃるとおりで、少なくとも肯定・否定の両チームの意識においても共通見解になっていたと思います。我々も肯定側では同様の議論を回していますし、ああいう形で論証責任を転換しようとする議論は今シーズン一般的に見られたものだからです。
僕にとって新鮮だったのは、ひろろろろさんが最後に指摘されているように、例の議論が必ずしも論証責任の転換論として捉えられていない、ということでした(講評は録音していませんが、そのようなことをおっしゃっていたと記憶しています)。

その意味では、プリザンプションの議論についてスピーチする際には気をつけなければならないということが言えると思います。ただ、決勝のように理解が分かれていたという場合でも、団藤のカードにまつわる論点を議論することは無意味ではなかったと思います。不足していたのは、論証責任を元通り肯定側の負担に戻したとしても、純利益の比較で肯定側が勝っているという状況についての言及でしょうか。この点については確かに弱いところがあり、人権論のターンアラウンドなり犯罪論のまとめなりをして、純利益でも勝っているという話をする必要があったということでしょう。
そうなると結局両方を論じなければならないということになるので、ならば純利益だけ論じればよいというのがひろろろろさんの最初の指摘だということであれば、確かにそのように言えるかもしれません。あの試合では犯罪関連の議論で勝ちきる筋がちょっと不明確だったのでプリザンプションの話に逃げようとしたところがあるのですが、いずれにせよもっときちんと論じるべきだったと反省しています(その上でプリザンプションについても簡単にまとめ、純利益の評価にあたって否定側に有利になるようスピーチすべきでした)。

ただ、(少し話は変わりますが)あの試合に関連して述べるとすれば、肯定側の読んだ団藤のカードはメリットのうち人間の尊厳に関連する議論(ケースの論点3-A)を前提としており、この部分でメリットを評価していない場合、論証責任の転換を認めるという結論は取りえないものであるとも言うことができたと思います(というかそのように言おうとしてはいたのですが)。その意味では、肯定側がプリザンプションとして出していた議論は、実のところメリットの重要性にすぎなかったと評することもできそうです。だから判定がどうなるというものではないのですが。
2008/09/03 (水) 17:57:06 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
フローを読み返し、再び考察してみました。
何度も失礼します。
「プリザンプション」の2番目の意味は、ディベートがゲームであるという特徴に由来していると理解しています。極端な例として、両チームが言葉を一言も発しなかった場合でさえも、一方を勝ちとしなければならないからです。

さて、決勝のフロー用紙を見て、判定の過程を思い出してみました。

プリザンプションの議論について考慮したジャッジが少なかった理由についてですが、これは非常に簡単で、ジャッジが論点を自分で取捨選択してしまったからです。なぜ取捨選択したかというと、試合後に多くの論点が未整理のまま残ってしまったため、限られた時間内(20分も無かったと記憶しています)で、全部の論点を考慮して一貫した判定を出すことが困難だったからです。

ジャッジごとにどのような取捨選択が行なわれたかを思い出してみると、以下の通りです。(1番目以外は推測ですが)

(1) 自分のジャッジングフィロソフィーに合致している論点のみを考慮した。(合致していない議論は捨てた。)
(2) 義務やプリザンプションの話を捨て、純利益の議論のみを考慮した。
(3) 義務やプリザンプションのところで出てきた議論のみで試合の勝敗も決めた。(純利益の議論は捨てた。)

取捨選択をジャッジに委ねてしまうと、ディベーターにとって勝ち負けは運任せとなってしまいます。だから、最終反駁のスピーチでは、ジャッジに取捨選択させないようにするかが重要だと思います。

(一旦ここで切ります。)
2008/09/09 (火) 00:08:21 | URL | ひろろろろ #-[ 編集]
続きです。
さて、上で書いたジャッジの取捨選択を見ると、確かに、否定側が力説した項目があまり反映されていないように見えます。その原因について、当時のフローと上のトランスクリプトを見ながら考えてみました。

フローの上では、論点1(プリザンプションと義務)のところで議論がクラッシュしています。しかしその一方で、これらの議論が試合の勝敗にどのように影響するか、説明不足のまま終わった感があります。そのため、試合後にジャッジが「さて、勝敗を決めるのにフローのどこから手をつけようか?」と考えたときに、論点1は避けられてしまう可能性が高かったと思います。

また、義務の話にしてもプリザンプションの話にしても、否定側は結論の一言を述べていないので、それが取捨選択で不利に働いていると思います。結論の一言とは、義務なら「義務で勝敗を決めるのは止めて、普段どおりプランの純利益で勝敗を決めてください」、プリザンプションなら「純利益がゼロだったり不明だったりしたときは、普段どおり否定側の勝ちとしてください」といった感じです。試合中にこの結論は一回も出てこなかったと記憶しています。特に、義務の話については、否定側は賛成なのか反対なのか最後まで分かりませんでした。

一方で、肯定側は 1AC から結論を繰り返しているので、ジャッジの印象に強く残りました。そういった点も、試合後の取捨選択で肯定側に有利に作用したと思います。

もう一点追加すると(シビアですみません)、2NR の最後で出てきた「人間の尊厳を確認するために死刑がある」という主張は、話の順番上、私のフローではデメリットのところに記述されました。(他のジャッジも同様だと思います。) でも否定側としては、ケースの論点1の箇所と関連付けて欲しかったはずです。一つの主張がフローの複数の箇所に分散していると、ディベーターの予想とジャッジの判定とが食い違いやすくなると思います。(自分が喋っていることがフローのどの箇所に書き残されるのかを意識するのって、とても重要です。)

なお、肯定側も否定側も、「なぜ自分たちが勝ちなのか」を説明しないまま最終反駁の時間が終了してしまったと記憶しています。(「純利益とは無関係に義務で肯定側の勝ち」という一点を除く。) そのため、一番肝心な点がジャッジ任せになってしまいました。スピーチの最後に言おうとすると時間切れとなる場合が多いので、最終反駁の最初に宣言する習慣をつけた方が勝ちやすくなると思います。


以上で失礼します。

2008/09/09 (火) 01:33:19 | URL | ひろろろろ #-[ 編集]
スピーチはやはり難しいですね
度々コメントしていただきありがとうございます。

おっしゃるとおり、2NRはジャッジの判定を有利に整理するようなスピーチができていませんでした。ジャッジ任せにしてはいけないと講評の時には言っているのに、実際自分で喋ってみると全然だめだなぁと反省させられます(自分の試合を書き起こすのはそういう意味でも大変でした…)。

記事の本文でも書いていますが、単に議論を出すだけでなく、その意図するところをきちんと明示しなければならないということを痛感させられた試合でした。普段は各論できちんと勝てていたり、論点があまり出てこないので表面化しなかったのですが、決勝では相手の実力の高さや、論点が複数出てきたこともあって、そのあたりの不備が響いてしまいました。今後試合をする機会があったら、特に注意したいところです。その際には、コメントでいただいたことを反映させていきたいです。

最後になりましたが、プリザンプションについては少し考えるところがありましたので、新たに記事を書いてみました。内容の骨子は「プリザンプションとして把握されるべきはひろろろろさんの挙げられた類型のうちの2番目(まさに「ゲームのルール」として)だけである」というものです。プリザンプション(推定)というのは0か1かで判断しなければならない場面で適用される法技術であって、ディベートでそのような必要が生じる場面はほとんどないのではないか、ということです。
内容についてはいろいろ異論もあるとは思いますが、着想となった貴重なご指摘をいただいたことについて、この場でお礼を述べさせていただきます。
2008/09/09 (火) 22:18:55 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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