愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
NADE会報トライアングルの新連載に接して
入院生活2年目も二ヶ月余りが過ぎました。とりあえず五月の目標たる問題集3冊は終わったのですが、誤答部分を中心に自分でまとめるなどしないと意味がないということに気づき(来年には忘れている)、全然勉強が足りていないじゃないかという感じです。

そんななか、今日もディベートについて書いてみます。全国教室ディベート連盟(NADE)の会報である「トライアングル」の5月号が発行されたのですが、今回からはCoDA代表理事であり弁論部の先輩でもある瀧本氏が新連載を担当されることになりました。「ディベートを行うことの価値」がテーマなのですが、初回からきわめて刺激的な内容であり、今後が楽しみです。
今回はこの連載を読んだ感想を簡単に紹介するのですが、その理由としては、そこで指摘されている内容が(過去にこのブログでも何度か言及してきた)僕の問題意識と一致していること、そしてトライアングルはNADEの会員にしか送られないため、選手の方々が読む機会は必ずしも多くないと考えられるところ、本稿の内容(とりわけ以下で紹介する一節)はぜひとも多くの人に読んでいただきたいと考えるからです。

原稿の内容について詳細に紹介することはあまりよろしくないだろうということで、ここでは最も印象的な一節だけを引用し、僕の思うところを付しておくことにします。瀧本氏は、「ディベートの技術と発想を学校教育に普及させることによって健全な市民社会を構築すること」という理念からNADEの(そしてディベート甲子園の)あり方が離れていっているのではないかということを述べているのですが、その具体的な表れとして、以下のように書いています。

たとえば、そうした「杞憂」はジャッジをしているときに感じられます。それは、たとえば、「勝敗至上主義」、「演劇主義」、「コミュニケーション"至上"主義」といった病に冒されたディベートです。
詳しくは稿を改めますが、各病気の症状としては、勝ち負けだけに注意が向いてしまい、ディベート本来の教育的価値が忘れられている「勝敗至上主義」、予め作られた、そして顧問が作ったのではないかというシナリオをただ読むだけの「演劇主義」、これはジャッジにも責任があるのですが、アイコンタクトやサインポスティングなどコミュニケーション要素が形式的な有無に関心が集中してしまう「コミュニケーション"至上"主義」といったところです。


これまで僕も上記のような内容を折に触れて述べてきましたが、様々な事情から、ここまで明確に問題を指摘することはできませんでした(自重していた、という)。しかしながら、こうしてトライアングルの紙面に問題提起がされた以上、若干踏み込んでコメントをしても許されるでしょう。以下、瀧本氏の指摘されるそれぞれの問題について触れたいのですが、そのうち「勝敗至上主義」については原稿の中でも既にある程度触れられており、また比較的問題自体は広く意識されていると思われるので、他の2つに絞ってコメントすることにします(もっとも、勝敗至上主義は他の2つの病とも密接に関連する)。

ディベートは演劇ではない
演劇主義という病については、実のところ前々から指摘されていたことです。昔から参加しているディベート甲子園の名門校においても、実際には顧問が原稿を作っているという学校があることは、ディベート関係者の間では周知の事実です。ある程度経験を積んだジャッジであれば、議論を選手自身で作ったかどうかは分かります。
僕が大学生として関東地区に出てきて、初めて練習試合のジャッジをしたとき、あるチームの立論について厳しい評価をしたのですが、その後でスタッフの方に「あれは先生が作っているから、先生の手前気をつけたほうがよい」といったアドバイス(処世術)をもらい、そんなことがあるのかとびっくりさせられました。その後も、試合後に当然のように「今の立論はちょっと量が多すぎたでしょうかね?私が作ったんですけどねぇ」などと話しかけてくる先生や、選手の議論をほめたはずなのに「あれはいいアイデアでしょう」と自分の議論のようにして喜んでいる先生を見る機会は少なくありません。先生方としては善意でされていることなのでしょうが、選手としてディベートに関わってきた人間からすれば、そのような演劇的ディベートを強要されることは、非常に辛く悲しいことです。

演劇主義の問題点は、以下の2点に集約されます。
第一に、演劇主義はディベートをまったく教育的でないものにしてしまいます。ディベートで身につく思考力や分析力といった能力は、当然ながら自分で思考し分析することによって養われます。たとえ用意された原稿が完璧であったとしても、それを読むだけでは自分で考えることがないのですから、それによって力がつくということはありません。
第二に、演劇主義はディベートの楽しさを奪ってしまいます。ここでいう「楽しさ」とは、議論を考えることの楽しさと、自分たちの力で試合に挑み、勝敗を競うことの楽しさの2つを指します。これらの楽しさが奪われていると実感させられた体験としては、あるチームにディベート指導をしていたとき、立論の作成方法を教わっていない(つまり、顧問が議論を作成している)ということを生徒が愚痴っており、その場で簡単に立論の構成などを教えたところ、とても喜んでいたというものがありました。また別の例として、明らかに議論を自分たちで作っていないチームをジャッジした際、「この立論はどうしてこのようになっているのか、誰がこの部分を考えたのか」と聞いてみたところ(その場に顧問の先生はおられなかった)、とてもばつの悪そうにうつむいていた選手の姿を挙げることができます。自分たちが提出した議論に責任をもてないこと、そして脚本を読んでいるということに罪悪感を感じさせてしまうことも、演劇主義の問題です。一方で、自分で作った議論であれば、勝ったときも負けたときも選手は喜んだり悲しんだりした上で、納得を得ることが可能です。

演劇主義というあり方がディベートにふさわしくないことは、演劇では脚本とともに演者の表現が重要となってくる一方、ディベートでは議論の内容だけが評価されるということからも明らかです。ディベートで演劇主義を実践するということは、選手たちに評価されるべき役割を与えず、「物を言う道具」として使っているということを意味します。そのようにして試合をする選手にとっては、自分たちの力で勝ったり負けたりしたという実感もないでしょうから、結果がどのようであっても、ディベートを楽しいと思うことはないでしょう。事実、演劇主義といわれているチームの卒業生がその後ディベートに関わる割合は、他の学校と比べてあまり高くありません。
それにもかかわらず演劇主義が横行しているのは、それが生徒や後輩のためであるという(誤った)善意から来ているのが半分で、もう半分は多分に自己満足の契機として脚本を書いているということがあるのでしょう。自分が作ってあげた議論で生徒や後輩が勝てばうれしいのかもしれませんが、それが選手を食い物にする行為であるということについて疑う余地はありません。

ディベートはコミュニケーション能力を育てるための競技ではない
ディベートによってコミュニケーション能力を育てるということがよく言われますが、少なくともディベート甲子園のような形式の競技ディベートにおいては、コミュニケーション能力は副次的に養われるとしても、それを主たる目的として追求するということは予定されていません。
競技ディベートの目的は、あくまでも「議論教育」であるというべきです。もっとも、その内実には様々な理解がありうるところですが――僕個人の見解としては意思決定のために必要とされる能力の集合として「議論教育」を捉えています――、スピーチの評価を議論の内容と議論の伝達手法とに二分できるとすれば、ディベートの関心は専ら前者にあり、後者の要素は議論の内容を評価するために必要な限度で備わっていれば足りるのです。このことは、ディベート甲子園のルールが「勝敗とは別に」コミュニケーションの評価を設けたりしていることからも分かります。ディベートは議論の内容で勝敗を決するのではありません。

ではディベートにコミュニケーションが不要なのか、と疑問に思われる方もおられるでしょう。それに対しては、上述したように「議論の内容は伝えないと評価できないので、その意味でコミュニケーションも無視はできない」ということを指摘できます。しかし、より適切な答えとしては「コミュニケーション能力を養うのであれば、他にもっと効率の良い方法があるだろう」というものがあります。これは連載を担当されている瀧本先輩も第1回JDA秋季ディベート大会の感想として述べているところです(ここで書かれている内容は、いずれ連載の中でも敷衍して議論されるのだと思います)。

ディベートにコミュニケーション能力を求めるという立場は、NADE内部(スポンサーなど)においては相当に有力です。それは例えば、ガイドライン改正において立論の字数制限を盛り込む旨の要望がされたり、大会開会式においてコミュニケーションに対する配慮が特に強調されたり(それもスポンサー向けの配慮であることを隠さずに!)することから見て取れます。
確かに、コミュニケーションは悪いより良いほうがいいに決まっています。しかし、ディベートにおけるコミュニケーションはあくまで手段であって、先立つのは議論の内容です。我々ディベーターは、ジャッジが理解できる範囲内であれば、聞きやすいスピーチよりも聞きにくいが密度の濃いスピーチを選ぶべきです。そして、かかるスピーチが評価される仕組みが、現在ディベート甲子園が採用している、ディベート経験者をジャッジとして判定を行う方式なのです。

そのようなディベートの特質を無視し、コミュニケーションを手段ではなく目的としてしまうことは、実のところコミュニケーション能力養成にとっても害をなしています。引用した瀧本氏の文章にもそれが書かれているのですが、コミュニケーションが備わっていればいいということで形式的にアイコンタクトやサインポスティングがされ、結果として議論伝達の手段としても不完全な形で「きれいなスピーチ」がされているということをよく感じます。
具体的には、反論時のサインポスティングとして議論の何点目がどうとかいうことを意識しているのはよいものの、対象となる議論の内容やそれに対応する反論の趣旨を述べることなく、形式的に議論の場所だけを指摘するというスピーチがあったりします。サインポスティングは反論をかみ合わせるために行うものであるはずなのに、それをすること自体が目的になっているため、本来の意義が損なわれているという例です。他方、コミュニケーションという面で言えば、単なるダウトに過ぎない反論だったにもかかわらず「よってこのメリットは発生しないので取らないでください」などというスピーチをすることは、相手の議論を不当に低く評価しようとするものであって、コミュニケーションとしてはほめられたものではないと思うのですが、そのようなことはほとんど問題とされません。

ディベート関係者諸氏は、ディベートという競技を価値あるものにしている要素は何であるかという点から、我々がディベートに求めるべきものとはなにか、コミュニケーションという要素はそれとの関係でどのようなものであるのか、という点について考えるべきです。
コミュニケーションという要素を謳うことが一般受けするだとか、スポンサーの理解を得られるだとかいうことは、自分たちが意義を感じている内容を曲げてイベントを存続させるという本末転倒の事態です。極端な話、スポンサーが「ディベートは難しすぎるのでスピーチ大会にしろ」と言われればそのように変えてしまうのか、ということです。これは極端すぎるとおっしゃられるかもしれませんが、僕からすれば、現在行われている競技ディベートを、昨年の全国大会で行われたエキシビジョンの即興ディベートに変えることは、この例と同様に受け入れがたいことです(エキシビジョンとしてああいうことを行うこと自体を絶対に受け入れないという意味ではありませんが)。


以上、演劇主義とコミュニケーション至上主義について、思うところを述べさせていただきました。ディベート甲子園も第13回を迎えていますが、この歴史が輝かしいものであったかというと、必ずしもそうは言えない部分もあったと思います。その理由は、瀧本氏も指摘するように、当初の理念がいつの間にか薄れてきて、形式化・衰退が進んでいるという点にあるのでしょう。
そこで「健全な市民社会」などの崇高すぎる理念を持ち出して議論しなければならない、とは思いません。ただ、ディベートという競技に関係するものとしては、「どうして我々はディベートをやっているのか」といった基本的な部分を確認する必要はあります。そして、現在それが十分なされていないように思われるというのが、僕の「杞憂」です。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2005 愚留米の入院日記 all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。