愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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NADE関東地区夏季大会1日目を観ての雑感など
先週の日曜日に関東地区の夏季大会を見てきました。中高ともに2枠の全国代表校が選出され、残りの枠は7月にある2日目の日程で争われることになります。

今回も雑感として、見た試合の個々の感想ではなく、全体を通して感じたことや、聞いた内容から思うところを書かせていただくことにします。また、前回取り上げた内容について微妙に反響があるらしいので、そのことも少しだけ書くことにします。
なお、大会では中学の試合も見たのですが、議論については高校のそれを取り上げることにします。

高校論題の議論の展開について
今回は全部で3試合高校の試合でジャッジを担当し、そのうち1試合は代表決定戦を見せていただいたのですが、率直な感想としては、論題が難しいということもあって例年より議論の水準は高まっていないということを感じました。
具体的には、どのチームも肯定側について解決性の証明がほとんど不足しており、それは全国代表校クラスであっても変わらないという印象です。その意味では、どのチームもあまり力の差が出ていない(反駁などで力の差は感じますが)というように思います。要するに、これを補わない限り例年の常連校も油断はできないということです。

肯定側の議論のほとんどは、製造業など特定業種の派遣労働者について、間接労働に起因して労災など悪い待遇があるのでこれを改善すべきというものでした。どのチームも、現状分析と称して間接労働という構造から問題を分析しており、なかなかの水準で議論を展開していたように思います。
一方、プラン後の解決性に関して言えば、間接労働がなくなることによって本当に問題が解決するのか(裏の証明がない。確かに間接労働が問題であるとすればこれをなくすことで問題がなくなりそう…と微妙に推測できますが、では会社は派遣労働者を直接労働者であるアルバイトにした瞬間に待遇を著しく改善するのか?と考えると微妙ですよね)という点については全く言及がなく、そもそもプラン後に派遣労働者がどのような形で雇用されるようになるのかという分析すら欠く議論も目立ちました。
上記のような間接雇用固有の問題をいうケースであれば、解決性として最低でも①派遣労働を禁止した場合に問題となっている派遣労働者(のほとんど)は直接雇用の形態で再雇用される、②直接雇用による再雇用がされると現状の問題がなくなり待遇が改善される、という2点を示す必要があります。それなのに「直接雇用になります」というだけで解決性ありとするのはあまりに乱暴と言わざるを得ません。フローを見ても、証明のアンバランスさは一目瞭然です(内因性が1ページ半も書いてあるのに解決性がわずか2行!)。

解決性の証明は容易でないし、そこにこの論題が難しいと思われる所以があるのですが、証明が不可能なものではないと思います。思いつきなのでアレですが、労働者派遣がなかった頃はどのようになっていたのかを調べてみると何か見えてくるかもしれません。
また、現時点でされている内因性の議論についても、解決性として捉えなおすことでより有効に機能する議論があるかもしれません。例えば、今大会でなかなかよい分析だと感じたのが「直接雇用だと雇用者が労災を起こすと労災保険の費用が上がるから労災防止の動機が生まれる(ちなみにこの仕組みをメリット制と呼びます)が、間接雇用だと派遣先の会社に責任がないので、労災が起こっても保険コストが上がらず、労災を減らす動機が生まれない」という議論をした後で、「労災は少し注意するだけで劇的に改善する」と示していたものです。このチームは解決性において単に「直接雇用になるので労災を防ぐインセンティブが生まれる」といったことを述べただけですが、本来ならもっと丁寧に論じることでジャッジの心証を強く勝ち取れたはずです。
この場合、「プラン後は直接雇用になる(別途証明がほしい)のでメリット制が適用されるところ、メリット制は労災を確かに防ぐ(現状のメリット制につき論じた資料なら足ります)」と証明することで、裏の証明が一応されたことになります。また、労災が少しの注意で防げるという資料は、内因性ではなく解決性で示した方が「プラン後防げるのか」という印象になります(単に印象論の問題ではなく、論理の流れとしてそうあるべきです)。

一方、否定側の議論は、チームによってはそれなりによく証明されている印象を受けました(もちろん不備もあるが)。代表決定戦で見た否定側の議論では、ヨーロッパの労働者を観察した結果として、派遣労働を禁止すると企業は既存社員の残業などで穴を埋めるようになり、結果的に常用雇用へのシフト以上に失業が増加するという分析資料が示されたり、企業にとっての派遣労働者のニーズ及びそれが欠けたときに機会損失が生じるといった資料を出していたりと、相当に現実的な分析がされていたように感じました。
いろいろ弾劾の方法もあるのでしょうが、肯定側としてまずすべきことは、否定側が論じている派遣労働者はどういう職種・状況の人を指しているのかを分析した上で、それに即した反論を考えたり、肯定側のケースで分析している対象との違いから有利な結論を導く論理を構築することです。肯定側の多くは特定の悲惨な派遣労働者を取り上げているわけですが、彼らはいわゆる技能労働者ではなく、おそらくはアルバイトなどの形態でも容易に代替できる(あるいは不必要なのかもしれない)職業ではないかと考えられます。否定側のいう派遣労働者がそういう人たちを射程に収めているのかというのが第一段階の分析です。第二段階の分析としては、肯定側と否定側とで論じている対象が異なるとして、それではどちらをどのような理由で優先させるべきか、ということです。ここでは肯定側の「理念」が問われます。

以上見てきたように、今回の論題では一口に派遣労働者としてくくりきれないところもあるし、単純に現在の問題を挙げるだけではどうにもならないところがあり、難しい課題がたくさんあります。しかし、だからといって新しい議論として何があるのか…と深く悩んでしまうのも余計に深みにはまる危険性があります。
まずはシンプル(?)に「どういう仕事の人が」「どのような(派遣特有の)理由で」「どういう風に困っているのか」を考えた上で、派遣労働を禁止するとその人たちが「仕事を続けられるのか」、そして「続けたとしてどういう点で問題が改善されるのか」を想像し、それを裏付けるデータを探してみたりこれまでのリサーチ結果から拾い出してみるという作業をすることがよいのではないでしょうか。

質疑の目的
今大会では、特徴的というか何というか、割と力のあるディベーターが質疑を担当しているように思われるチームが散見されました。質疑も活用次第で有効なパートですから、そのような傾向はよいことだと思います。
一方で、聞いているポイントに実力を感じさせる一方、聞き方で損をしているというか、判定にはあまり影響しないんじゃないかと感じたということもあるので、ここで質疑について思うことを少し書かせていただきます。僕の質疑も下手くそだということは棚に上げてしまっていますけど…。

質疑はルール上立論の補足となっています(本則2条2項)。すなわち、応答の内容は立論の一部として評価されることになり、それ単独で判定に影響しうるものです(本則3条2項で「その後の立論や反駁で改めて述べる必要があります」というのは、いわゆる主張責任を確認したものであり、主張がされていれば根拠としての応答内容を明示的に援用していなくてもこれを判定に考慮できると考えるべきです。ルール解説第5回を参照のこと)。
ここで注意すべきは、判定材料として考慮される応答内容というのは、事実そのものです。ですから、応答者の意見というものは原則としては判定において何の意味も持ちません(応答者が「この部分は間違っています」と答えたとしても、事実上の心証はともかくルール上は何の意味もないということです。だったら応答者が「ここは絶対正しい!」と言えばそうなるのか、ということです)。また、証明があるとかないとかいうことの確認についても、(これは反駁の場合も妥当しますが)事実の評価を勝手にやっているだけで、ジャッジに判定材料を与える効果は皆無です。

ですから、少なくないディベーターが漫然と行っている「~という点には証明がありませんね」という質問は、それ単独では何の意味もありません。あるとすれば、その後の反駁において当該部分に証明を伴った反論を予定している場合にそれを予告する効果か、当該論点について何を証明するべきであるかジャッジに印象付ける効果ですが、そこまで意識して聞かないのであれば、証明の有無を尋ねるのは自己満足でしかありません。
繰り返しますが、立論の補足として有益な判定材料を引き出したことになるのは、応答者が事実を答えた場合だけです。例えば、「ヨーロッパでは派遣労働を禁止したときに失業が増えた」という資料を弾劾するときに、「日本とヨーロッパは違いますよね」とか「日本でも同じようになるという証明はありませんね」ということを聞いても意味はないということです(まぁ前者は事実ですが、そんなの聞かなくても分かることですよね)。この場合に問題としたいのは日本でヨーロッパと同じような現象が起こるのかということであり、それを叩くためには、ヨーロッパで失業が増えた原因が何か、その原因は本当に派遣労働と関係あるのか、その原因は日本にも存在するのか…ということを明らかにすることが有益です。ですから、この場合質問すべきだったのは「なぜヨーロッパでは派遣労働者を再雇用しなかったのか」「再雇用されなかった派遣労働者の職種は分かるか」「その職種は日本の派遣労働者のうちどのくらいの割合を占めるのか」「そのときのヨーロッパの経済状況はどうだったのか(失業は本当に派遣労働のせいなのか)」といった内容だったのです(もちろん、これで弾劾が成功するかどうかは分かりませんが)。
こうした事実は、質疑で明らかになれば反駁で自ら示す必要がなくなるのですから、まさに反駁を補う「いい仕事」をしたことになります。一方、事実を出せなかった場合、それは反駁者の仕事を一向に軽減できていないのですから、せいぜい準備時間を稼いだだけでおしまいということになります。質疑は難しいのでいい仕事をするのは大変ですが、意識して準備すればその確率は高まっていくはずです。

最後に、ここまでを踏まえて質疑の役割をまとめておきましょう。
①立論では明らかにされていない事実を聞き出し、反論に使える判定材料を作る
②相手の不備を指摘する中で反論を予告する(ジャッジへの印象付け。これは聞くこと自体に意味がある)
③聞き取れなかった内容を確認する

それぞれについていろいろと考えるべきこともありますが、僕の経験不足ということもあるので、今日はこのくらいにしておきます。

観客が試合中読まれた資料を請求する権利があるか
大会中のある試合で、試合を見ていた観客(ディベーター?)が試合後の選手に対して、試合中に読まれた資料を見せるように要求したという事件があったそうです。何でも、「ルールで認められているんだ」ということを強弁していたのだそうで。
結論から言うと、そんなルールはありません。ルールで認められているというのなら、せめて適用法条を示すなりしてほしいものです。ないので示せないのですが。

念のため確認しておくと、選手による証拠資料の提示について定めた細則B-7項は、対戦中のチームが反論準備のために準備時間中の資料提示を請求できるというものであり、試合をしていない観客に資料請求権を与えたものではありません(法文上当たり前なので解説でも全く触れていないのですが…)。
おそらく、試合中読まれた資料に有用そうなものを見つけたので出典を聞いて自分たちも使おうということだったのでしょうが、だったら「ルールだから」などとわけの分からないことをいうのは止めて、素直に証拠資料を教えてもらうようにすればよいのではないでしょうか。僕も選手の時にはそうやって情報交換をしていましたし、ルールはそのような行為を何ら制限していません(もちろん強要もできませんが)。

ジャッジの議論に対するリアクションについて
これは自分の反省も含まれるのですが、ある試合で僕が議論に対してしていたリアクションに不満が出ていたということを聞きました。相手チームに比べて自分たちの議論へのリアクションが悪く、うなづきが少なかった…とかいうことだそうです。まずは、NADEに依頼を受けて試合を判定していたものとして、選手に不満を抱かせてしまったことは反省しなければなりません。

その上で、僕がそのように偏った――意識していなかったし気づいてすらいなかったのですが――リアクションをしていたことの当否についていうなら、ジャッジはリアクションにより心証を開示すべきでないという立場であればともかく、リアクションを採ってよいという立場に立つとき、そのリアクションが結果として偏ってしまうことに問題があるとは思えないのです。
だいいち、自分たちへのリアクションが悪かったからあいつはダメなジャッジだというのは、自分たちの議論が当然評価されるべきであり、相手より高い評価を受けないのはおかしいという前提に立つものであって、傲慢というべきではないでしょうか。僕も高校時代はジャッジに議論を酷評され(当時の東海支部はジャッジがみんな怖かった)、それこそしょぼい議論を続けていたらペンを置かれてしまう(本当です)環境でディベートを続けていたのですが、それでも「あいつはどうして自分の議論を評価しないのか」と思ったことはありません。それは不機嫌になることもありますけど、自分の議論が至らなかったということを思い知って反省するのが通常です。
僕の判定に疑問があるとかいうことであれば、その旨を伝えていただければ対応しますし、具体的に何がよくなかったのかを聞いてくれればコメントさせていただきます。しかしながら、自分たちの議論ももっと評価してほしいとかいう要望については、それではもっと良い議論をしていただきたいとしか答えることができません。

ただ、(どのチームが不満を述べていたか分からないのですが)おそらく僕に対する批判の真意は、僕がリアクションをどうやっていたかとは別に、僕が公平に判定をしていないのではないかという不安があったからなのでしょう。もちろん僕は公平にジャッジをしているつもりだし、判定理由については合理的な理由が伴っていると考えていますが、公平性については選手からどう思われるかという主観的な面も無視できませんから、その意味で僕が選手の信頼を得ていないということについては反省したいところです。
ではどうして信頼されていないのだろうか…と考えると、ここで怪しいことを書きまくっているということもあるのかもしれませんが、一つ思い当たるとすれば、僕が選手のマナーであったり議論の内容についていろいろと書いており、その批評の対象者として「あいつは自分たちのことをよく思っていないのではないか」と感じているのではないか、ということです。
僕は批判対象の言動とその主体を(少なくともジャッジングにおいては)分けて考えていますから、そのような不安は当たらないのですが、そんなことをいくら言ってもどうなるものではないというのはそうでしょう。ただ、世の中にはツンデレという言葉もありますが(!)、普段厳しい評価をしているからこそ、褒められたときにうれしいということもあるわけです。だいいち、僕がここでいろいろ書いている内容は、それによって今後議論の水準が上がるのではないかと期待しているからであって、本当にどうでもいいと思っているならそもそも取り上げないわけです。ですから、僕が批判している内容は、むしろ期待の現われと捉えていただければうれしいです(たまに度を過ぎている点につき、入院生活の憂さ晴らし的要素がゼロかというと断言は出来ないかもしれませんが…)。

演劇主義批判についての補論
ツンデレとかわけの分からないことを書いた後で何ですが、前回書いた内容のうち、演劇主義についていろいろと反響があるようです。個々の見解に返答することはしませんが、一般論として僕の思うところを補足させていただきます。

第一に、僕は指導者が議論の原稿を作成する行為の一切を否定しているものではありません。指導の初期段階において、いわゆる「型」を教えるためにシナリオを渡して議論をさせてみるというのは有効な指導方法たりうるでしょう。その上で、シナリオの改良をさせたりして段階を経て、最終的にいちから議論を作り上げるようになれば、素晴らしいことだと思います。そのほか、指導者が作った議論に反論する練習というのもあるでしょう。指導者が議論を作るとしても、(かなり難しいとは思いますが)選手と一緒に取り組むという活動方法もありうるところです。こうした取り組みを「演劇主義」と呼ぶつもりはありません。
しかし、本番の大会において、指導者が議論を渡すのは、もはや一線を越えた行為であると思うのです。理想を言えば、大会で使用する議論については、いちから選手が考え付いたものであってほしいです。指導者が議論を渡して「これをもとにして考えてね」というのは、選手にとって大きなプレッシャーになります(先生や先輩が作った議論を否定するのは難しいでしょう?)。指導者がすべきことは、議論構築のための方法論や論題の基礎知識を教えることや、証拠資料を提供したりして選手の議論構築を助けてあげることであって、選手の代わりに議論を作ってあげることではありません。

ディベート経験のない生徒に対しては議論をいちから作るというのは難しい、という声があることも理解はしています。ただ、後で述べるように、それは目標を変なところに置いているからではないかという疑問もありますし、指導が難しいからディベートでなく演劇をさせようというのは本末転倒ではないでしょうか。それは、自分の生徒が志望校に合格できそうにないのでカンニングペーパーを持たせることと何が違うのでしょうか。カンニングで合格することに教育的意味がないのと同様、渡した議論で試合に臨むことにディベートをやることの意味はないというのが、競技者としての僕の考えです。
中学生においても、適切に指導し、必要なデータなどを与えれば、その質はともかくとして自律的にディベートに取り組むことは可能だと思います。実際に、東海支部で見ていた中学生はそのようにして全国大会に出場していましたし、彼らは本当に楽しそうにディベートをしていました。僕がジャッジやスタッフとしてディベートに関わっているのは彼らのようなディベーターのためであって、脚本者のためではありません。

第二に、演劇主義が根拠としているように思われる「議論を用意してあげないとうまくいかないところがある」という言説について、もしそれが「試合での勝利」を目標として言われているのだとすれば、それは大きな誤りであると考えています。すなわち、ディベートにおける成功は試合や大会で勝つことそれ自体ではなく、そこまでの過程であるということです。
確かに、勝利を目指して取り組まないディベートには意義はないでしょう。そもそも試合の目的は勝つことですし、本気で勝とうとしないのであれば、本気になって考えることはないからです。しかし、ディベートがそういうものであるということを別にすれば、指導者が評価すべきことは選手が試合に勝ったか負けたかではなく、そこに至る過程だったり、その中で得た成長であるはずです。選手が勝ちしか見えなくなってしまうことは分かります(僕も高校時代そうでした)が、そこで結果と直結しない過程を評価してあげることが指導者の仕事であり、それこそが教育ではないでしょうか。ディベートの大会で優勝したという肩書きは、はっきり言って何の意味もありません。本当に価値があるのは、優勝できるまでに至った選手の能力や、優勝までの取り組みでしょう。自分の力で得た肩書きであってもそうなのですから、誰かが用意した脚本に依存して得た肩書きなんかに何の意味があるでしょうか。
(こう書くと、脚本を使いこなすのも選手の能力のうちだとおっしゃるかもしれません。しかし、ディベートの教育効果の最たるものは脚本たる議論を作る能力であるはずです。優勝したけど自分で議論は作れないというのでは、何のためにディベートをやってきたのかわかりません)

生徒や後輩を勝たせることが素晴らしいことであるという価値観については、相当程度疑ってかかるべきです。生徒や後輩に勝ってほしいという気持ちは自然であり、理解できることです。しかし、そのことと指導者として教育的に求められることは分けて考えられるべきことですし、そもそも生徒や後輩が望んでいることは単純に「勝つこと」なのか、ということについては、真剣に検討されねばなりません。彼らが望んでいるのは「自分の力で」勝つことではないでしょうか。
少なくとも、僕は高校三年間、先輩や後輩と一緒にリサーチを重ね、自分たちの力で大会に挑んできました(後輩にとっては、僕が議論を作っていた点でそう思っていなかったのかもしれませんが)。結果として負けた試合もたくさんあるし、最終的に全国優勝もできませんでしたが、それを通じて僕はディベートの面白さを知りましたし、ディベートを始めた頃とは比較にならないほど、議論構築の方法を学ぶことができたと思っています。顧問の先生がディベートの基礎を判りやすく教えてくれていればもっと助かったかもという思いはないでもありませんが(試行錯誤が楽しかった点もありますけど)、顧問の先生が回すべき議論を作ってくれるような環境だったとしたら、僕は今こうしてディベートに関するどうしようもない長文を書いていることはなかったでしょう(それがよいことなのかと問われると困りますけど!)。

僕は特定のチームを継続的に指導した経験がないので、もしかしたら上記の内容は現場のあり方として事実誤認を含んでいるかもしれません。もし何か思うところがありましたら、遠慮なくご意見をいただけましたら幸いです。
僕も至らぬディベーターではありますが、もし演劇主義的方法のAlternativeとしての指導方法に行き詰っているところがあるとすれば、競技者としての経験から何かお役に立てることがあるかもしれませんし。

*誤解していただきたくないのは、以上で論じている内容は、いわゆる演劇主義的な関係者を論難するものではなく、そのあり方について批判的提言を行うものであるということです。忙しい中、生徒や後輩にディベートを指導している関係者諸氏には頭の下がる思いです。しかし、一競技者として、そのような努力の中には生徒や後輩のディベート意欲を殺いでいるものがあるのではないか、もしかしたら間違った方針によってディベートが指導されているのではないかと危惧するが故に、上記のようなことを書いています。あえて批判的な論調を採る部分もありますが、それも含めて「よりよい指導方法はないのか」という問題提起であるということをご理解いただけると幸いです。
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