愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
ディベートにおけるPresumption概念について
試験期間中ではあるのですが、ほとんど科目を終えてしまい、あとは楽そうな科目が1つ残っているだけになりましたので、ちょっと記事を書いてみることにします。

昨年の秋季JDAで決勝戦を戦ったときの試合をこのブログでトランスクライブしたのですが、その試合のジャッジをされていた方がコメントをくださいました。その中で、いわゆるプリザンプション(推定)についての話題が出てきました。
詳しくは当該コメントを見ていただきたいのですが、以下ではその本筋から若干離れて、ディベートで言われるプリザンプションという概念について少し突っ込んで考えてみることにします。というのは、先の試験で憲法訴訟における証明責任論みたいなものを勉強したりしていたこともあり、コメントでのやりとりの中でいろいろと思うところがあったからです。

僕はいわゆるディベート理論について日本語文献での記述を越える理解を有しておらず、法律学の理解も怪しい(しょせん入院患者ですから)状態にあります。というわけで、以下の議論は何らかの裏づけがあるというよりは一個のアイデアとしての域を出ないのですが、何かのネタにでもなればということで書いておきます。あまり構成などは考えておらず、いろいろと雑多なことを書いてしまいそうですが、その点はご容赦ください。まあ、いつも構成はひどいわけですが(スピーチでもそうです…)。


1.問題の所在 ~”presumption”という語法は正しいか~
ディベートでは、主張には根拠が伴わねばならないという大前提があります。これを立証責任という概念で表現したりするのですが、このときに関連して出てくる概念としてpresumption(推定)というものがあります。
ディベートにおけるpresumptionの意味として言われるのは、ある議論について初期状態ではどのように評価するのか、という決まりごとのようなものです。実際に問題になるのは議論の結果真偽不明(ノン・リケットとか言ったりします)のときにその論点をどう判断するかという場面なのですが、このときにはpresumptionに従い、その通りに判定されます。このような考え方からは、ディベート甲子園ルールの本則第5条で「メリットがデメリットより大きいと判断される場合には肯定側の勝利,そうでない場合には否定側の勝利となります。」とあるのは、試合の勝敗について「初期状態では否定側が勝ち」という推定が置かれている規定であると理解することになります。

さて、このようなpresumption(推定)の意味についてですが、法律学では異なる意味合いがあるように思われます。
例えば、刑事訴訟法の鉄則たる「利益推定」(疑わしい場合は被告人に有利に推定する)を見てみます。これは、先ほど説明したディベートでの用法と同様であるようにも思えます。しかし、利益推定において推定されるのは全て「事実」であるということに注目すると、違和感が生じてきます。刑事裁判で争われるのは「被告人が犯罪をしたか」という事実であり、それを支える根拠も全て事実(凶器に付着していた血液が被告人のものであるか、被告人が犯行時に現場にいたか…etc)です。一方、政策論題のディベートで争われるのは一見すると「~すべきであるか」という事実のようにも思えますが、現在通説化している政策形成パラダイムの見地から、判定者の観点に立って考えれば、論題の是非は事実問題ではなく、政策判断という評価の問題です。そして、それを支える根拠についても、事実だけではなく価値の議論も含まれます。
もう一つの例として民事訴訟法学における証明責任論を見てみます。こちらでは、証明責任という概念は「ある事実が真偽不明のときにその事実の存在または不存在が仮定されて裁判がなされることにより当事者の一方が被る危険ないし不利益」として定義されています(高橋宏志『重点講義民事訴訟法 上』(有斐閣、2005年)457頁)。ここでも争われているのは事実です。民事訴訟では、民法などの実体法に定められた要件の存否によって法律効果が生じるか否かが決まり、勝負が分かれますので、個々の事実が勝負を分けるのです(要件事実論という、極めてテクニカルな考え方によって訴訟中の議論が展開します)。そして、このような民事訴訟における推定概念は「ある事実から他の事実を推認すること」(新堂幸司『新民事訴訟法』(2004年、第3版、弘文堂)521頁)と定義されるもので、ディベートにおける語法とは大きく異なっています。

もちろん、ディベートでの用語法が法律学の用語法に一致する必然性はないのですが、元々ディベートの起源が裁判にある部分もありますから、全く無関係ということではないでしょう。また、先ほど見てきたような法律学とディベートでの用語法のズレかたを見ると、そこには何か理由があるようにも思えます。すなわち、法律学での推定概念(さらにいうなら「立証責任」という言葉)は事実の存否を問題としているところ、ディベートではそのような限定が特に意識されていないということです。
この点、先に紹介した、当ブログに寄せられたコメントでは、以下のような指摘がありました。

ディベートで「プリザンプション」という場合、少なくとも2通りの使われ方をするのに注意してください。

1. 様々な議論(イシュー)について、証明も否定もされなかった場合にどちらと見なすか。トピカリティー以外は「否定されていると見なす」というのが一般的。(つまり、立証責任とは反対側)
2. プランの純利益が不明(評価不能)またはゼロの場合に、肯定側/否定側どちらの勝ちとするか。


この理解はおそらくディベートでは一般的なものですが、ここでもやはり推定概念が「事実の推定」を超えて使用されています。しかし、この2つの問題は、本当に両方ともpresumption(推定)という言葉で括ってしまってよいのでしょうか。以下では、このような問題意識について考えてみます。

2.真偽不明の争点の処理に関してpresumptionという言葉は適切か?
法律学における「推定」では事実の問題が取り上げられているということは既に述べました(なお、先に紹介した民事訴訟法学における定義を見れば分かるとおり、民事訴訟での推定概念はディベートでのそれと完全に異なり、ある事実から何を導けるのかという問題に絞られている――いわゆるディベート的なpresumptionのはなしは立証責任という言葉で規律される――のですが、ここでは省きます)。このことは、単にそのようになっているというだけではなく、理由があります。というのは、法律学での立証責任論や推定概念は「あるかないか」を0か1かで決めるためのものであるところ、そのように割り切れるのは事実問題に限られるからです。因果関係について心証の割合に応じて部分的にでも認め、その限度の損害額で請求を認容してあげようという「割合的認定」の考え方は、推定概念の「例外」として捉えられています。

ここでディベートにおける推定の考え方を見ると、そこではむしろ「割合的認定」のような問題が大きく扱われているように思います。例えば、メリットについては肯定側に立証責任がある(これは、推定が否定側に有利に置かれていると表現できます)と考えるのが通常でしょうが、メリットの評価は0か1かというものでないということは言うまでもないでしょう。また、個々の論点に関しても、データで「原発の爆発で100万人が死ぬ」というものが出てきて議論になったとしても、その際の判断としては「1人も死なないか100万人死ぬか」ではなく、「反論も考慮すると、100万人とはいかないが10万人くらいは死ぬリスクがあるかも」というように考えることがありますが、これはまさしく割合的認定です。

推定というのはディベートにおいても「真偽不明の際にどう扱うか」ということを問題としているのですから、その際の扱いが明確にならないような対象については、推定の問題として扱うべきではないと考えられます。ディベートでの事実認定は、民事訴訟のように要件事実(法律効果を生ぜしめるための要件となる事実)と結びつくものでもないし、刑事訴訟のように唯一の答えとして認定しなければならないものではないわけですから、そもそも推定によってばっさり判断するという必要性もありません。
よって、ここでpresumptionという言葉を持ち出す必要はなく、事実をどのように判断するかはジャッジの心証に完全に依存する(真偽不明ならそのように扱っておけばいい)ということになります。この意味で、上で引用したコメントの1番目の類型については、presumptionの問題としなくてもよいだろうというのが僕の見解です。
(*1)引用した部分の1番目の類型は、個々の争点ではなく投票理由の単位となるイシューを単位としたところでのpresumptionを問題としている点で若干異なりますが、結局のところ政策判断の一材料ですから、結論には変わりないと思います。
(*2)Topicalityについては、肯定側のプランが論題を支持しているかどうかという事実を問題にするものであって、支持しているかどうかの判断は0か1かでなされる必要がありそうですから、この点についてはpresumptionの考え方を適用する余地がありそうです。ここで、通説においてはTopicalityでは肯定側に有利な推定がされると考えますが、それは認めるとしても、そこから「Topicalityにつき否定側から挑戦がされなければTopicalityを理由に肯定側を負かすことはできない」ということが直ちに導かれるというものではありません。この点についてはこちらを参照してください。[9/8追記]

3.論題の是非についてpresumptionという言葉は適切か?
それでは、「~すべきである」といった政策論題の是非、すなわち試合の勝敗そのものについてpresumptionというものを考える場合にはどうでしょうか。
ここまでの考え方に沿っていくと、presumption(推定)という言葉は事実の存否について0か1かを決する際に用いるものであるということになります。論題の是非については、0か1かで決することが可能ですし、試合の勝敗としてはそうしなければなりませんから、とりあえずこの点ではpresumptionという言葉にふさわしいと言うことができます。しかし、政策論題の是非という問題を事実として捉えてよいのかと考えると、ここにも疑問があります。

ディベートにおいてもpresumptionの対概念はその内実を決する立証責任(burden of proof)ということになります(蟹池他4名『現代ディベート通論』(2005年、復刻版、ディベートフォーラム出版会)10頁参照)が、法律学での立証責任という言葉は訴訟法的な意味合いとしての「証明しなかった場合に当事者が負う不利益」といった内容であり、この用法に従うと、政策論題の是非についても立証責任を前提とした用語法を用いることは、ゲーム的な便宜に過ぎる気がします。

少し角度を変えて考えてみましょう。そもそも、0か1かで決する必要のある「勝敗」の問題と、それを導く前提問題としての「政策判断」は、異なる次元であるということができます。例えば、本稿を書くきっかけとなった秋季JDA決勝戦で議論になった立証責任の問題は、最終的には勝敗を決する一つのポイントになったわけですが、試合で論じられていたのは「原則を死刑廃止と考えるべきか否か」という政策的意思決定の方針についての問題でした。これは細かく見ていくと0か1かという問題ではなく、どこまで死刑存置の理由を挙げれば原則をひっくり返せるのかという程度問題も含んだ、幅のある議論です。これはpresumptionの概念に沿ったものではありません。

そこで、論題の是非に関する問題については、さらに2つに分けて考えることができそうです。
第一の次元は、勝敗を定めるという便宜的な意味でのpresumption(正しい意味での用法)です。これはいわゆるゲームのルールであり、本当に困ったときにしか適用されない「羽毛」のようなものです。かかる便宜的な理解は、蟹池・前掲11頁にも見ることができます。
第二の次元は、論題として示された政策判断の方向性についての議論です。これは、presumptionの問題ではなく、政策の是非を争うに当たってどのような形で事実を評価すべきかという問題です。これをジャッジの側から見れば、政策判断について論証すべき内容をどのように肯定側・否定側に分配すべきかという問題であり、立証責任とは区別された「論証責任」についての問題であると表現することができます。

引用したコメントの2番目の用法は、上でいうところの第一の次元に対応するものであり、またそれに限定して理解されるべきです。そうでなければ、presumptionに頼った安易な結論に流れてしまうことになりかねないからです(コメントをいただいたジャッジの方がそうだという趣旨ではありません、念のため)。
*そういえば、この意味での推定について、決勝で試合した方のブログで若干やりとりをしたのを思い出したので、気になる方はこちらを見てください。ここまでの内容を踏まえると、Advanced debateの論文もpresumptionという用語法に疑問があるということになりますが、英語なのでよく分かりません(笑)

一般には、ここまでで見てきたよりも広い意味でpresumptionが捉えられてきたように思いますが、推定という言葉の意味からすれば、その登場機会は「0か1かに決める必要がある」場合に限り、羽毛程度の意味しか与えないことが望ましいと思います。
それにもかかわらずpresumptionという概念が広く扱われてきた理由としては、法廷闘争を範としたストックイシューパラダイムから政策形成パラダイムに考え方が移ったにもかかわらず、概念の「翻訳」がうまくなされなかったからではないかと思います。ストックイシューに対する批判として推定概念の硬直性がよく持ち出されるのですが、その正当な批判はpresumptionという考え方そのものに内在していたのですから、その概念をそのまま政策形成パラダイムに移行させることは本来適切ではなかったのではないか、というのが僕の見解です。

4.presumptionにかわる議論の規律概念
ここまでの内容を簡単におさらいしておきます。presumption(推定)という概念はゲームのルールとしての最低限の初期条件を定めるにすぎないものであって、個々の論点についてはジャッジの心証をそのまま反映させれば足りるから独自の概念を立てる必要はないし、論題の是非についても政策判断の方針といった要素はpresumptionではなく論証責任の分配という形で理解するべきだということを考えた、というおはなしでした。

それでは、ディベートでよく言われる「立証責任」というのは、実際には不要な概念なのでしょうか?もちろん、「主張には根拠を伴わなければならない」というのは一般的な議論の約束として言えることですから、それを否定するつもりはありません。
ただ、立証できなかった場合にどうなるのかという問題については、もう少し精緻に概念構成される必要があると思います。ここまでが長くなってしまったので、以下ではやや短めに、思うところを書いてみることにします。

民事訴訟法学では、立証責任について、真偽不明の際にどのように扱うのかという形で客観的に考えるのではなく、当事者としての行為責任として主観的に立証責任を考えようという議論があります。詳しくは勉強していないのであまり語れませんが、ディベートにおいても客観的証明責任ではなく主観的証明責任を考えていくのがよいのではないか、と思うのです。
このように考える理由は、既に述べたとおり、真偽不明の際に客観的証明責任を持ち出して認定を一にする必要性はディベートには存在しないからです。ですから、客観的な判断規範として立証責任を位置づける必要はなく、単に「ジャッジの心証を得るにはきちんと証明すべきである」という当事者へのメッセージとして立証責任を考えれば足りるというわけです。また、当事者に行為責任として立証責任を負わせることで、立証がない主張については審理しなくてもよいという意味での訴訟法的効果を認めることができます。

個人的には、ディベートにおいて訴訟法的観点から重要なのは、立証責任よりも主張責任であると考えています。主張責任は、ジャッジの心証にもかかわらず、選手が主張しなかった争点について審理判断してはならないというものです。自己に有利な争点を主張しないと判断を受けないので結果的に不利益になるという意味で、客観的主張責任を観念することが可能でしょう(主観的主張責任というものも考えられるでしょうが、特別に取り上げる必要は薄いと思います)。このような概念は、不意打ち的判定を防ぎ、選手の議論を尊重するという意味で、ディベートを基礎付ける重要な考え方ということができます(ルール解説で説明した「弁論主義」と関係します。主張責任を考えた上で、主張された争点はいずれに有利に評価してもよいという「主張共通原則」の説明とあわせて、こちらを参照)。


以上、ディベートにおけるpresumption概念の意味とその限界について、思うところを書いてみました。本来ならばこの続きとして、具体的な主張立証責任の展開論について書いたり、論証責任の分配に関して議論したかったのですが、ここまででかなりの長さになりましたので、このへんで自重しておくことにします。
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