愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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擬似「セオリー」批判(1:ディベート理論を根拠付ける諸原理について、その他)
そろそろ司法試験に向けて勉強をしなければならないのですが、近時香ばしい文章が発表されたので、息抜き(?)も兼ねてこれにコメントすることにします。

以降紹介するのは、大学ESSの英語ディベート界で一部から支持されているらしい異端の競技者グループ「梁山泊」の手によるテキストです。
最初に断っておきますが、僕はこのテキストにある見解を支持するものではありません。というか、その多くは理解不能であり、理論と呼べる代物ではないと考えています。その意味で、これから書いていく内容は「トンデモセオリー批判」となります。

そんなことをわざわざするのは、このようなわけの分からない文章を万が一信じてしまい、おかしな方向に向かってしまうディベーターが出ないことを願うがためです(最近はディベート甲子園から英語ディベートを志望する人も少なくないようなので。勘違いしないでほしいのは、筆者は英語ディベートそのものを批判しているのではなく、英語ゆえに批判的思考がしにくいフィールドで、おかしな考え方に染まってしまう危険性に注意を喚起しているのです)。
また、もう一つの目的として、誤った議論についてその誤りを正すという過程において、ディベート理論についてのより正しい(完全に正しい理論というものは考えがたい)理解を促すことが出来るのではないかと考えたからです。

以上のような趣旨から、この連載(続くかは知りませんが)はディベート甲子園の現役選手向けではなく、ある程度ディベート理論に興味があり、それなりの知識を有していることを仮定して議論を進めることにします。
一方、対象となるテキストは英語ディベーター向けなので英語の用語がたくさん出てきますが、英語の知識は仮定しません。いずれ書きますが、彼らがTopicalityの例として変な解釈をやろうとしているところは、理論(Theory)と呼ぶべき領域の問題ではないし(だから詳しく取り上げません)、英語の用語が分からなくても全然議論できるからです。以下の記述でも、適宜日本語の表現に直して説明を行います。

また、以下ではこのテキストを徹底的に批判していますが、僕の批判が正しいかどうかは読者の皆さんが考えることです。僕はディベート経験で言えば高校からの8年程度で、ディベート理論についても現代ディベート通論を中心として勉強し、考えた程度の知識しか有していません。また、(必要なのかよくわかりませんが)英語力についていうなら、世界でトップ10にも入っていないような世界的には二流の大学にギリギリ受かった程度なので、たいしたものではありません。その程度の人間が書いているのですから、権威性というものはありませんので、内容で判断してください。もちろん、批判も全面的に受け付けます。

それでは、最初に、彼らのテキストの序章部分について、逐次コメントしていきます。引用して説明したいのですが、PDFからうまくコピペできないので、詳しくは以下に紹介する原文を参照してください。なお、繰り返しになりますが、このブログの筆者はこのテキストは概ね誤っていると考えているので、これを後輩などに渡して読ませるといったことはやめておいたほうがよいでしょう。そのあたりは自己責任でお願いします。

THE PERIOD OF "period"



BASIC STANCE TO LEARN DEBATEについて(2~6頁)
最初に、常識を疑え云々といったことが書いてあります。これは、物事を批判的に検討しろという意味であれば全面的に賛成できます。しかしながら、このテキストの以降の記述や、彼らのスタンスなども含めて総合的に検討すると、ここでの記述は「常識や権威も批判的に検討しないといけない」ということを越えて、「常識や権威は間違っている」という過度の規範を含意しているように読めてしまいます。そこまでいくと、単なる反権威主義者にすぎず、賛同できません。さらに、「彼ら(権威の象徴たる「トップディベーター」)は、私が格闘していた疑問に対する解答など、クラッカーの歯糞ほども見つけていなかったからである」などという(品の良くない)表現などを見ていると、むしろ自分の方が正しいという、新しい権威付けを作ろうとしているのではないかと思えてしまいます。

ここでは、以下のような文章を紹介しておきましょう。ちなみに、同書は読み物として面白く、このテキストも含め、トンデモ理論を振り回す人の思考がみな同一であるということを明快に示してくれているので、ご一読をおすすめします。

マーティン・ガードナー著 市場泰男訳『奇妙な論理Ⅰ』(早川書房、2003年)31~34頁 
誠実な疑似科学者の偏執狂的傾向は、次の五つの形で露呈されるようである。
(1)彼は自分を天才と考える。
(2)彼は自分の仲間たちを、例外なしに無学な愚か者とみなす。彼以外の人はすべてピント外れである。(…)
(3)彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。(…)
(4)彼は最も偉大な科学者や最もよく確立された理論に攻撃を集中する強い衝動をもっている。ニュートンが物理学でずばぬけた名声を保っていたときは、物理学での奇人の仕事は猛烈に反ニュートン的だった。(…)
(5)彼はしばしば複雑な特殊用語を使って書く傾向がある。多くの場合それらの術語や句は彼が自分で作り出したものである。


最後の方で、アメリカのディベート理論についても批判があります。確かに、アメリカのディベート理論だからといって無批判に受容するのは大きな間違いだと思います(例えば、アメリカでは便宜上Topical counterplanが認められているようですが、これはおかしなことだと思いますし、Presumptionについての用語法もあまり賛同できない――アメリカでそうなっているのかはよくわかりませんが――というのは前に書いたとおりです)。しかし、アメリカの理論であるということが警戒を促す要因になるというのはちょっとよく分かりません。アメリカで何かひどい目にあったのでしょうか。ちなみに、アメリカのステーキは赤身でさっぱりしていながら割とやわらかく、おいしかったです。

Basis of Theory Skillについて(7~8頁)
英語の勉強の仕方が書いてあります。ご丁寧に参考書の推薦があります。僕は読んだことがないのですが、受験界の「権威」が書いているようなので、いい参考書なんでしょう、多分。
ちなみに、”the Japanese government should allow the employment of migrant workers from overseas in all or most workplaces by amending the immigration laws.”という文章を和訳して「日本政府は渡り鳥(あるいは働き蜂)を日本に持ち込むことを認めるべき」みたいな解答を書くと、日本の大学には受かりません(受かる大学があるのかもしれませんが)。気をつけましょう。

BASIC CONCEPTについて(9~13頁)
ここが今回の中心となる内容です。
ルールとフィロソフィーについての関係ですが、彼らは「ルールとはインビテ(大会告知)に書かれている決め事で、フィロソフィーは各ジャッジの能力の明細である。セオリーはルールからのみ導かれる」といった趣旨のことを書いています。
ジャッジの能力の明細というのが何を意味しているのか、僕にはよく分からなかったのですが、どうやら彼らの中では正しい理論というのは1つ(あるいは限定された少数)しかなく、それはルールからのみ導かれ、そこから外れるフィロソフィーは全て間違っている(イラジャッジ)ので変えなければならないというように考えているようです。

ここは彼らの分類に従って、ルールとフィロソフィーを分けて考えます。
ルールとは、事前に告知された、その大会(試合)で適用される規範であるということができます。要するに法律ですね。もっとも、彼らがルールとして想定しているものはちょっとよく分からないのですが、インビテに書かれている内容とするなら、ESSの英語ポリシーディベート大会であれば一般的に適用されるようである全日本英語討論協会(NAFA)のディベート大会規則などを指すのでしょう。
ただ、彼らはすぐ後で「Educationはフィロソフィーの根拠にならない」と言っているので、同規則の2章3節2条「全てのジャッジは、その良心に従い独立して試合の判定を下し、この規則及びアカデミック・ディベートの教育的精神にのみ拘束される。」に違反しているようですから、もしかしたらこの規則は彼らの言うルールの範囲外なのかもしれませんね。

さて、同規則を見ても分かるとおり、ディベートの試合で問題となる局面に対し、ルールは全ての解答を与えているわけではありません。それは、ディベート甲子園のルールについて解説してきた内容からも明らかでしょう(もっとも、ディベート甲子園のルールはあれでもかなり「親切」で、通常のディベート大会より細かい規定振りとなっています)。
このことは、フィロソフィーがルールから全て導けるということが誤りであることを端的に示しています(彼らが以降主張する内容も、本当にインビテからたどりつけるルールの明文から導けるかは怪しい――少なくとも彼らは明文を解釈していない――です。多分、彼らの妄想に基づくディベート原理を勝手にルールとしているのでしょう)。

それでは、フィロソフィーとは何でしょうか。それは、ジャッジが議論を判断するに当たって用意する判断枠組です。
この判断枠組は、もちろんルールに反してはなりません。また、この枠組はジャッジごとに裁量で形成された初期条件ですから、うまくすれば議論の中で変更させる(Shift)することもできるでしょう。その限度でテキストの記述は正しいのですが、そこに「ジャッジの裁量」があるということを看過している点で、彼らの議論は独善的になってしまっています。
そもそも、一つしか答えがない(裁量が許されない)のだとしたら、ジャッジはいらないでしょう。脳内でイラジャッジのいない大会を楽しめばよろしいのです。第三者に判定を委ねている以上、そこには様々な考え方があってしかるべきです。だいいち、法律の条文解釈であっても、多くの(おそらくそこそこ優秀な)研究者や実務家が長年格闘して答えが出てこないことが多々あるのですから、ルールや議論の解釈が一通りに定まるなんてことは考えがたいところです。また、第三者に判定を委ねているということは、その第三者の思考を経なければ、答えは出てこないということを意味します。これは、彼らが正しいと思う論理を正しく展開したとしても、第三者たるジャッジがそれを評価するという過程を必要とするということで、その「評価の過程」においては、どのように評価するかという規範が必要となります(例えば、ニューアーギュメントなどの主張制限など)。つまり、唯一つ正しいフィロソフィーがあるとしても、それを確定するためのフィロソフィーが必要であるわけで、そういうことを言っていたら何が正しいのか分からなくなってしまいます。
こう考えると、フィロソフィーは各ジャッジに異なるということ、そしてその内容は試合前にジャッジが事前に定めておく必要がある=裁量があるということを承認するほかないということになります。フィロソフィーはジャッジの裁量に属するので、選手のスピーチと無関係に形成されます。ですから、Shiftを狙ったスピーチが間違っているとしてこれを無視したとしても、ジャッジとして誤りではありません。もちろん、客観的に言って批判の余地はあるのかもしれませんが、ジャッジがフィロソフィーの判断で選手に拘束されるということはないというべきです。
*もちろん、ジャッジが「自分のフィロソフィーに理由がない」と考えるに至ったとすれば、職業倫理としてShiftを認めるべきでしょう。しかし、選手の主張にある程度理由があるとしても、それでも自分のフィロソフィーになお合理性があると考えれば、Shiftしないという選択もまた正当ということです。

続いて、イシュー(議論)がバロット(判定)に反映されるためにクリアしなければならない条件、として議論されている部分(10頁~)を見ていきましょう。
彼らは、Logical Legitimacy(論理的正当性)のみを基準にせよと言っています。そして、純利益の議論(ADやDAの比較)やTopicality、Counterplanなどはルールから論理的に勝敗を確定できるかどうかで争われる、といいます。しかし、先ほど見たNAFAの規則では「どうやったら勝つか」なんて規定はありません。JDAのルールでは、「肯定側が論題を肯定し、否定側はこれを妨げるのが目的」みたいなことは書いてあります(第三条)が、これは各サイドの役割を述べるだけですし、勝敗の判定は「ディベーターが試合中に提示した議論に基づき」決定される(第五条一項)とあるだけです。つまり、ディベーターが当然と思っているイシュー(AD、DAやTopicality)は、慣習上そのような議論で論題を肯定ないし否定できると考えられているだけで、ルールから導かれるものではありません。

もちろん、こうしたイシューにはそれなりの論理的正当性があります。ポリシーディベートが論題の是非を争う競技である以上、その枠組の中で論題の是非につき説得力をもつ議論方法が生き残り、現在一般的に回されているイシューになっているわけですから。
しかし、それは「論理的正当性以外の基準」を排除するものではありません。彼らがどういうものを「論理的正当性」と考えているのかはよくわかりませんが、それがEducationやFairnessを絶対的に排除するものだとすれば、そうであるという論拠を、それこそ論理的正当性の基準で示すべきです。
ちなみに、政策論争以上に厳格さが要求される刑事裁判においては、Fairnessが超重要な基本原理とされ、本当は有罪であってもUnfairな手続きでは有罪にされません。また、政策論争であっても、論理的次元だけではない感情的な要素(いわゆる「失言」など)が問題とされることもあり、そこには一片の合理性を認めることもできます。これは、Fairnessなどの諸要素が別途の基準として採用されているということもできますし、フィールドごとにEducationやFairnessが論理的正当性の一要素として溶け込んでいるという説明も可能でしょう。

では、ディベートにおいて、EducationやFairnessの要素が参照されるべきでしょうか。
Educationの要素について、彼らは「そんなものディベートの参加者は求めていないから不要」と言っています。それがどの程度本当なのかは分かりません(BMDや核燃料サイクルについて学ぶために英語ディベートをやってるわけではないでしょうが、英語で実のある議論をしたいという程度の動機はあるでしょうし、ピリオドの解釈とかくだらなくてやってらんねーよという選手はかなり多いのではないでしょうか)が、たとえディベートの参加者が教育的動機を有していないにせよ、ディベートという競技がその沿革からしても性質からしても教育的性質を帯びていることは否定できないし、ジャッジがそのような信念にのっとって議論を判定することを「禁止」するような原理がディベートの枠組から導かれることはありません。あるというなら、それを論証すべきですし、先ほど見たNAFAの規則を真っ先に批判されるべきではないでしょうか。梁山泊のメンバーはアナーキストらしいので、別団体を作って、教育には何の興味のない人たちだけでディベートをやればいいと思うのですが。
ちなみに、彼らの言う「サッカーでヘディングは禁止しよう」という例について言及しておくと、勝敗の方法がジャッジの裁量に委ねられている(先ほど引用したルールを参照のこと)ディベートと一緒に論じること自体がおかしいし、サッカーであっても、ルールに書いていない方法であれば何でもやっていいということにはならないでしょう(サッカーの競技規則第12条では、「危険な方法でプレー」した場合を間接フリーキックが与えられる反則としており、もしヘディングが危険だと判断されるものであれば反則になるわけです。ディベートでも、ジャッジが説得的でないと感じたのであれば、論題と離れて敗戦理由にすることも可能なはずです)。
Educationの基準があいまいで恣意的であるという指摘もありますが、それを言うなら、論理的正当性という要素だって絶対ではありません。彼らの言い方に沿って説明するなら、「原発労働者の被爆は悲惨なものであり、なくさなければならない」という議論を出したところで、「原発労働者の被爆は自ら選んだリスクに基づくものであり、今以上対策はしなくていい」と言われれば、原発労働者の保護必要性は各人の主観で決まる部分がありますから、これだけで決着はつきません。一つしか答えがない、という意味での論理的正当性は、記号論理の世界などではありうるのでしょうが、ディベートで扱われるような議論では担保されません。
(なお、彼らがここで使っているOffsetという概念は、物事を単純化しすぎるきらいがあり、濫用を避けた方が良いです。たとえTopicalityの教育的意義という点についても、「言語に関する知識」と「教育に関する知識」を、具体的に将来役立つ可能性や利益の大きさから比較検討することは可能であり、同じ「知識」であるからと思考停止することは、優れたディベーターのすることではありません)

Fairnessについて、彼らは「ルールで許容されていれば何でもOKなのだから、Fairnessはいらない。ルールに選手が同意している以上、そこで許容された議論を認めないのはおかしい。Fairnessで否定されるというUnfairな議論だとされてきたのは、それがStrongだと言っているだけだ」ということを言っています。
そもそもルールに使用可能なイシューが規定されていることは(ディベート甲子園での例外を除き)ないのですが、それはさておき、それでは彼らはニューアーギュメント(新出議論)の概念を否定し、2ARで新規な論点をばら撒きまくって勝つという方法をも肯定されるのでしょうか。ちなみに、NAFAのルールも(*1)JDAのルールも、ニューアーギュメントについて規定していません。
普通に考えたら、Affの最強の戦略は、1ACから何も言わずにひたすらにNegの反論に返し、2ARで絶対立つADをいくつか展開して勝つというものになるでしょう。これは相手に反論機会を与えないのでUnfairそのものですが、Strongですよね。だったら梁山泊の武器庫において第一に備え付けられるべきは、こうした議論ではないでしょうか。
もちろん、僕はそんな議論を推奨しているわけではありません。そんな議論はディベートの価値を殺ぎ、ゲームとしても面白くならないからです。しかし、Fairnessを基準としない場合、ニューアーギュメントによる主張制限は説明できません(ちなみに、Educationでも説明できます)。この点をどう説明されるかは知りませんが、ニューアーギュメントを当然に支持しておきながらFairnessを基準から排除するのだとすれば、彼らの体系には論理というものが欠如しているということの自白となってしまいます。
ちなみに、Fairnessという基準は、議論という営み一般に要求される基本原理ということもできますし、ゲームとして議論を行うディベートにおいて当然要求される要素として説明することもできます。少なくとも、ディベートという競技の枠組から論理的に導けないという代物ではありませんので、それを否定されるのであれば特別な説明を要するはずですが、彼らのテキストではそういった説明はありませんね。

(*1)NAFAのルールにはニューアーギュメントの規制にあたる条文があるという指摘があり、確かにその通りだったので、この点は訂正します。ただし、それであっても、本文でいう批判の趣旨はなお妥当します。なぜなら、NAFAのルールにかかる規定がある理由はやはりFairnessやEducationでしか説明できず(JDAのルールにはやはりニューアーギュメントの規定がありませんが、それでもジャッジは当然にニューアーギュメントを許しませんし、選手もそう考えています。その理由は、FairnessやEducationでしか説明できません)、彼らがセオリーの正当性と呼ぶルールにもこうした要素が含まれている以上、セオリーを考える上でかかる要素を考慮しないというのはおかしいからです。関連して言うなら、そもそも、ルールに書いてあるから従う、という考え方自体がおかしいのではないでしょうか。彼らの論理的正当性云々の考え方からすれば、ディベートという競技との関係でルールがどういう趣旨で規定を作っているのかということも当然考えるべきです。ましてや、彼らは自称アナーキストなのですから、ルールがあるから従うといった態度はもってのほかでしょう。[9月23日追記]

最後に、12~13頁のFocus(ディベートにおいて議論の対象となるのは論題かプランか、という議論)についてですが、これは彼らの言うとおりのResolution Focus(論題がディベートの議論対象である、という考え方)でよいでしょう。ディベートでは論題の是非が問題となっていて、プランは論題を肯定するための一手段に過ぎませんから。
この辺は別に変なことを書いているわけでもないと思います。また、(触れるかどうか分かりませんが)後のほうで出てくるCounter Warrantについても、Resolution Focusの立場からも問題なく否定できますから、別に問題はないですね。


と、こんな感じでコメントしていくと結構疲れるので、今後続けていくかは分からないのですが、何となく僕の問題意識は分かっていただけたかと思います。
英語ディベート界の近況がどういう感じなのか実際にはよくわかりませんが、こうしたおかしな議論がある程度の発言力を持っているらしい現状については、健全ではないと思うのです。

もちろん、ニュートンを批判してはならないというつもりはありません。現に、地動説は天動説に取って代わったし、ニュートン力学が一般相対性理論との関係の特殊な近似に過ぎないということはアインシュタインによって示されたわけで、これまでの理論が常に正しいというわけではありません。しかし、既存の理論を批判(?)して新しい考え方を持ち出す際には、それなりの理屈を立てる必要があります。それができたからこそアインシュタインは現代に名を残しているわけです。
そのようなことをスルーし、単に自分のフラストレーションを解消するために変わったことを言おうとするのは、狂人のすることです。そういうものは単なる擬似「セオリー」であって、我々ディベーターが学ぶべきものではありません。

お前は何をむきになっているんだという向きもあるでしょうけど、実際におかしなことになっている人が少なからず存在し、そのために不毛な議論が実際展開されているようなので、このように筆をとった次第です。本当なら、MLで不毛なケンカをしているESSのOBが書けばいいのにと思うのですが、そういうこともなさそうなので、暇な日本語ディベーターが老婆心ながら書かせていただいたということです。
あまり需要はなさそうですし、ここまでの内容で十分「おかしさ」は指摘できたと思うのですが、気が向いたら続けてみることにします。
コメント
この記事へのコメント
どうも、こんにちは。まだディベートを始めてそんなに経っていないのですが、いろいろ興味深く読ませていただきました。

そこで、すごく表面的かもしれませんが、いくつか聞いてみたいことがあったので質問させていただきます。

>”the Japanese government should allow the employment of migrant workers from overseas in all or most workplaces by amending the immigration laws.”という文章を和訳して「日本政府は渡り鳥(あるいは働き蜂)を日本に持ち込むことを認めるべき」みたいな解答を書くと、

これに関する記述はファイルのどの部分にあるのですか?興味があるので読んでみたいのですが。


>BMDや核燃料サイクルについて学ぶために英語ディベートをやってるわけではないでしょうが、英語で実のある議論をしたいという程度の動機はあるでしょうし、ピリオドの解釈とかくだらなくてやってらんねーよという選手はかなり多いのではないでしょうか

申し訳ないのですが、「くだらない」と「education」の関係がよく分からないで、説明していただいてもいいですか?


>たとえTopicalityの教育的意義という点についても、「言語に関する知識」と「教育に関する知識」を、具体的に将来役立つ可能性や利益の大きさから比較検討することは可能であり、同じ「知識」であるからと思考停止することは、優れたディベーターのすることではありません

それらを比較検討して優劣をつけることは可能なのですか?私としてはどちらも必要なもので優劣はつけることができないと感じます(さながら、「数学なんて、古典なんて将来使わないからいらない」といった論理と同じに感じられるのですが・・・。)


>それでは彼らはニューアーギュメント(新出議論)の概念を否定し、2ARで新規な論点をばら撒きまくって勝つという方法をも肯定されるのでしょうか。

これは「立論」や「反駁」といった話でNAFAは規定していると思うのですが、違うのですか?
2008/09/22 (月) 23:06:41 | URL | 下手の横好き #-[ 編集]
よくぞ言ってくれた。

私は、英語ディベート界の人間ですが、梁山泊には煮え湯を飲まされてきた。
彼らが本拠地とする関西地区の大会では、私たちでは到底理解できないようなぶっ飛んだセオリーが飛び交っているが、このような状態になったのは間違いなく彼らのせいだ。

また、大会会場での梁山泊関係者の態度もひどいもので、ジャッジでもないのにジャッジルームの食べ物をつまみ食いしたり、ひどい時には彼らの大学の引退するパンツが表彰された時に、他大学の引退したパンツがもらった花束を横取りして渡したりしていた。それを、周りの人間も見てみぬふりならまだしも、爆笑して盛り上がっていた。もはや、みなが梁山泊の信者となってしまっているのです。
そんな彼らの人を食ったような態度は、今回発表されたテキストからも如実に見て取れます。彼らは人格批判こそしてはいませんが、何か得体の知れない嫌悪感を抱かせる文章を書いています。

彼らは、もはや、さながら英語ディベート界のヤクザか創価学会といったところで、力で全てをねじ伏せて、傍若無人に振舞っています。

これまで、この記事で書かれているように、はっきりと強烈に彼らを正面から批判する人は現れませんでした。
それも、この記事を彼らや関西地区の信者が見れば、もう彼らもおとなしくせざるを得ないでしょう。

見事でした。
2008/09/23 (火) 02:39:21 | URL | 救世主待ち #-[ 編集]
コメントありがとうございます
>下手の横好きさま
ご質問、ご指摘ありがとうございます。

○渡り鳥、働き蜂の話
テキストの中には出ておりませんが、英語の大会でそういう趣旨のTopicalityが出ていたという有名な話があったのでそれにこじつけた話です。後で批判する予定の理屈(論題解釈に外部のContextなど関係ない、といった話)の帰結として、そういう変な議論が出てくるのです。
参考までに、その元となる辞書的定義を紹介しておきます。もちろん、いずれも文脈的にありえない解釈です。

*「渡り鳥」Tの元になる定義
三省堂提供「EXCEED 英和辞典」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=migrant&kind=ej&mode=0&kwassist=0
mi・grant
n. 移住民; 季節労働者; 回遊魚; 渡り鳥

*「(渡りの)働き蜂」Tの元になる定義
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A3%D7%A3%EF%A3%F2%A3%EB%A3%E5%A3%F2&kind=ej&mode=0&kwassist=0
work・er
n. 働く人; 労働者, 工員, 職人; 働き者; 【虫】働きバチ, 働きアリ(など).

○「くだらない」と「education」の関係
紹介したテキストの題名の元になっている、悪名高い「ピリオドT」(どんな論題にでも最後に必ずつくピリオド(.)にTopicalityをつけるらしいのですが理由付けは知りません)のような議論を真面目に議論するのは「くだらない」ことで、そんなことをしても何の能力もつかないので教育的ではないだろう、ということです。

○異なる「教育的効果」を比較可能か
そもそも(ふざけた言葉遊びではない真正な)Topicalityの教育的効果とは言語教育という話ではなく、特定のアクションがどこまでの行為を含意しうるのかといったヨリ実践的な思考の一手法だと思うのですが(従って僕はまともなTopicalityには意義があると考えています)、それは措いておきます。
どちらも必要であり比較は出来ない、というのも一つの結論であり、ありうる判断でしょう。しかし、ディベートの試合という場でお互いがそれぞれの教育的効果について利点を述べ合う場合、その優劣によって(少なくともその試合でどう考えるべきかは)比較検討により答えを導けるはずです。
また、一般論として比較が可能かという点についても、個々人の判断の中では優劣はありうると思うのです。数学と古典の例で言うなら、少なくとも現時点の僕にとっては、古典文法よりは数学の方が将来の進路に役立ちます。また、一般的に教育カリキュラムでどちらを重視すべきかという議論をするなら、国家として育てたい人材像などの観点を容れれば、優先順位をつけることはできるし、また実際にそのようにして教育指導要領はできているはずです。もちろんその当否は異論がありうるのですが、ここで言いたいのは「議論の結果、何らかの答えを出すこと自体は可能であり、それを安易に放棄してはならない」ということです。
なお、僕がよくないといっているOffsetというのは、どっちが勝ってるかよく分からないので相殺してなかったことにしてしまえ、といった思考であり、「どちらも正しいから」といった考え方とは違うように思います。

○NAFAの規則とニューアーギュメント
おっしゃるとおり、三-二の4条で「反駁に於いては立論的な議論は行ってはならない」とされていますね。この点は本文を訂正しておきます。
ただ、JDAの規則においてはそのような規定はありません。なぜなら、そもそもニューアーギュメントというのはFairnessやEducationの原理からディベートの試合において当然認められるべき要素であり、それこそメリットデメリットやTopicalityが投票理由として認められるのと同様に慣習化しているからです。ですから、例えばNAFAがニューアーギュメントについての規定をルールから削除したとしても、ニューアーギュメントが許されないということには変わりがありません(今まで書いてあったことをわざわざ削除したという行為自体に、ニューアーギュメントを許容意思を読み取る解釈も可能でしょうけど)。
彼らはESSディベーターですから、NAFAのルールにニューアーギュメントが書いてあるからそれに従っているだけという説明でも一応理屈は通るでしょう(それこそ、彼らは「ルールにあるから従う」と単純に考えるようですから)。しかし、それではなぜNAFAのルールにニューアーギュメントの規定があるのかというところまで遡って考えれば、そこには当然EducationやFairnessの要素があるわけです。それにもかかわらず、なおこれらの要素をディベートの基本原理として認めないのは、依然として筋が通っていないと考えるべきではないでしょうか。

他にも何かご意見があれば遠慮なくお願いします。
2008/09/23 (火) 04:07:30 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
どうもありがとうございます
>救世主待ちさま
過分のお褒めの言葉をいただきどうもありがとうございます。

僕は英語ディベートの大会を見学したこともなく、その点では批判の適格を欠くのではないかと思っていたのですが、JDA-MLでのひどいやりとり(もっとも、この点については互いに感情的になりすぎたところもあると思います。どっちが悪いかは言うまでもありませんが)や、知人の英語ディベーターからの伝聞、公開されているディスパッチなどを見て、これは健全ではないだろうと考え、このような内容を書いた次第です。
そのような内容を、実際に英語ディベート界に所属されている方に支持していただき、非常に心強く思っております。

そのような事情から、僕は梁山泊のメンバーを直接存じ上げませんので、実際彼らがどのように振舞っているのかは正直分かりません(大会優勝しているようなので、トンデモ理論はともかく、もしかしたら結構ディベートは上手いんじゃないかと思っていたりします)。
救世主待ちさまのおっしゃるような状況が現にあるのだとすれば、それは極めて不健全ですし、ディベート理論云々の前に競技者としての道徳を欠くように思います。ただ、ここでは彼らのセオリーと称される議論の問題点を指摘することに留めさせていただきます。

僕も英語ディベートをやっている方(あるいはそのOBOG)を何人か存じ上げておりますが、その中には本当に敬服させられる力量のディベーターもおりますし、一般的に言っても英語ディベーターの大会準備にかける熱意には見習うべきものがあると思っています。
そのような素晴らしいポテンシャルがあるにもかかわらず、一部の下らない議論のせいでその価値が毀損され、本来なら得られたはずの楽しさや教育的効果が失われているというのは同じディベーターとして耐えられません。

本稿(そしてその後続ける予定の検討)が、そのような状況を脱する一助になれば幸いです。
2008/09/23 (火) 04:37:20 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
 私も英語ディベートをかじっていた者です。少しばかり意見を述べさせていただきたいと思います。


>彼らが本拠地とする関西地区の大会では、私たちでは到底理解できないようなぶっ飛んだセオリーが飛び交っているが、このような状態になったのは間違いなく彼らのせいだ。

 なぜ救世主待ちさんが理解できないセオリーが飛び交うと「ぶっ飛んだ状態」になるのか理解できません。
 私には、あなたの意見が、山を張って勉強してきた受験生にしか見えません。つまり、「netもtheoryも試合には出るけどnetだけが出てくると山を張ってプレパしてきた」、「けどその結果負けました。」というだけのこと。自分の知識の足りなさを、相手が異常だと決めつけるのはいかがなものでしょう。もし、その時に出た議論が異常なtheoryならばジャッジはあなたにvoteしていたのではないでしょうか。
英語デイベートにはnetもtheoryも両方あって、両方に良い点があります。それを自分が得意とする視点からだけみて相手を批判するのはraisitと思考が同じだと思います。

 また、このブログは彼らを正面から批判しているが、すべてディベート甲子園などの常識を、英語ディベートに当てはめて考えている主観的な意見でしかありません。一度英語デイベートの試合を見に行かれてはいかがですか。

私は梁山泊の肩を持つつもりはありません、何度か会場に足を運んで彼らを見させていただきましたが、態度は悪く、自分たちが面白ければ、周りの人間もおもしろいだろうという考えで行動しているように思えます。しかし、それとtheoryを突き詰めることが悪いという考えは別です。






2008/09/25 (木) 17:46:55 | URL | 通りすがり #TNMEEIK6[ 編集]
ご意見ありがとうございます
>通りすがりさま
貴重なご意見ありがとうございます。

僕の立場を明らかにしておくと、セオリー(もっとも、ここには「どんな突飛な定義を引いてくるか」といったものは入りません。BMDレゾが文法的におかしいかどうかというのも同様です。なぜなら、それはディベートの勝敗を決める枠組の議論ではなく、ADやDAに何を選ぶかと変わらない次元の話だからです)を議論すること自体は否定しておりません。ここで梁山泊を批判している内容は、セオリーの次元での正当性を争っているつもりです。すなわち、梁山泊のテキストに記載されている内容は、セオリーと称して実際には論理的に破綻しているというのがこのブログの主張です。(もちろん、それをどう判断されるかは読者の皆さまに委ねられており、通りすがりさんが僕の議論を批判されるのも自由です)

日本語ディベート(ディベート甲子園etc)と英語ディベートの違い云々というのは、正直僕にはよく分かりません。確かに僕は英語ディベートを見たことがなく、現状どういう議論が回っているかは分かりません。というか、ここで批判しているような理屈が採用されているとは今でも信じられません。

ただ、僕がここで議論しているのは、ディベート甲子園の常識だとか、主観的な意見といったものではありません(本文でも書いていますが、ディベート甲子園の選手向けに書いているわけではありません。ディベート甲子園の選手でも梁山泊の論理がおかしいということには気づくと思いますが)。
僕は、梁山泊のメンバーが日本語で書いたテキストを読み、その内容に即して彼らの論理を批判しています。そもそも英語であろうが日本語であろうが、ディベートであることには変わりないのではないでしょうか。英語ディベートだから認められる議論だとか、日本語ディベートでは認められない議論だとか、そんなことが本当にあるのでしょうか(英語なので聞き取れない、とかそういうことはあるのかもしれませんが)。少なくとも「セオリー」を名乗るのであれば、それは日本語ディベーターにも理解可能で、日本語ディベートの大会でも説得力を有するべきでしょう。

繰り返しますが、僕はセオリーを突き詰めることが悪いとは思っておりません。しかしながら、梁山泊はセオリーの名に値する論理を展開しえておらず、突き詰める以前に目標を見失っているように思えるのです。
ただ、僕の議論も当然ながら万全ではないと思います。通りすがりさんにお願いしたいのは、僕の彼らに対する批判のうち、内容として正当でない部分があれば教えていただきたいということです。もしかして、英語ディベートの実情からすると理論的に間違っているという議論もありうるのかもしれません。そうであれば、その旨を指摘していただければ幸いです。
(なお、念のため先に断っておくと、英語ディベートでは一般的によく回っているからOK、といった論法は、説得的ではないと思います。梁山泊流に言うなら、その議論が回っていることに論理的な正当性があるかどうかが重要であるからです)
2008/09/25 (木) 23:52:36 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
私も英語ディベートを少し齧っていただけという立場ですが、気になる点があるのでコメントさせていただきます。


>英語の勉強の仕方が書いてあります。ご丁寧に参考書の推薦があります。僕は読んだことがないのですが、受験界の「権威」が書いているようなので、いい参考書なんでしょう、多分。

ここについて、なぜ「権威が書いているようなので」という文が挿入されているのでしょうか。理解しかねます。権威の出版物でも悪い参考書なんていくらでも存在すると思いますが。


>ちなみに(omit)という文章を和訳して「日本政府は渡り鳥(あるいは働き蜂)を日本に持ち込むことを認めるべき」みたいな解答を書くと、日本の大学には受かりません(受かる大学があるのかもしれませんが)。気をつけましょう。

日本の大学に受かるかどうかと、ディベートにおいて論題をどう解釈するかと、どのような関係があるのでしょうか。なぜ、日本で学んだ英語教育(日本の教育で身につけた英語知識)が正しいと考えるのですか?なぜ、native speakerが「働き蜂」のような解釈をすることがないと言い切れるのですか?


>ただ、彼らはすぐ後で「Educationはフィロソフィーの根拠にならない」と言っているので、同規則の2章3節2条「全てのジャッジは、その良心に従い独立して試合の判定を下し、この規則及びアカデミック・ディベートの教育的精神にのみ拘束される。」に違反しているようですから、もしかしたらこの規則は彼らの言うルールの範囲外なのかもしれませんね。


確かに、ここを見る限りは教育的効果もシフトのimpactとなり得るかもしれないですね。


>Fairnessについて、彼らは「ルールで許容されていれば何でもOKなのだから、Fairnessはいらない。ルールに選手が同意している以上、そこで許容された議論を認めないのはおかしい。Fairnessで否定されるというUnfairな議論だとされてきたのは、それがStrongだと言っているだけだ」ということを言っています。

ここから先のfairnessの話はかなり誤解していると思います。

POPの著者はルールにfairnessを求めないとは言っていないです。ただ、シフトの理由にはならないと言っているだけです。

たとえば、サッカーにおいて「オフサイドトラップはルールから見れば許される戦略だが、unfairなので認めません」という議論は成り立つでしょうか。私は成り立つとは思いません。

ルールから判断して許される限りは何をしてもいいと言っているだけで、「ルールそのものにfairnessを求めない」とは言っていません。


>しかし、Fairnessを基準としない場合、ニューアーギュメントによる主張制限は説明できません
new argumentがダメな理由はルールで禁止されているという理由だけです。試合中はそれ以上は議論できません。(その裏にfairnessの概念が存在するとしても、ルールは変えられない。また、ルールの裏のfairnessをPOPの著者は否定していない)


少し読みにくくなりましたがコメントし返してくださるとありがたいです。

また、私自身は梁山泊に対してどういう感情も持っていません。救世主待ちさんなんかのような感情も持っていないですし、変に擁護する気もありません。
2008/09/26 (金) 15:50:12 | URL | 英語ディベート経験者 #-[ 編集]
お返事させていただきます
>英語ディベート経験者さま
貴重なご意見ありがとうございます。
以下、論点ごとに回答させていただきます。

○参考書云々のくだりについて
>ここについて、なぜ「権威が書いているようなので」という文が挿入されているのでしょうか。理解しかねます。権威の出版物でも悪い参考書なんていくらでも存在すると思いますが。

これは、僕が本当にそのように思っているというわけではありません。「権威」とカギ括弧で囲んでいることからも分かるとおり、彼らを揶揄しようという意図によります(かかる意図自体がけしからん、という批判は甘んじて受けます)。
ただ、この点は確かに前提の説明が足りず、内輪向けの記述になってしまっていました。なので、以下にこの部分の表現の前提を補足しておきます。

このテキスト(POP)の著者は、2006年JDA前期論題(BMD中止)が誤っていたのに指摘しなかったことを詫びるという謎の趣旨によるメールを書いているのですが、その中で以下のようなことを書いていました。
『私は今まで日本で最高といわれる英語教師の英文読解参考書を全て読破し、誠実に正当な「日本の」英語教育の恩恵を享受してきました。』(2006年7月2日)
ちなみに、ここで挙げられているのは伊藤和夫氏の著書で、伊藤氏は駿台予備校の先生です。
かかる表現は権威による自己の主張の正当性(実際伊藤氏が彼の考えるようなTopicalityを真っ当と考えるのかはきわめて怪しいのですが)を図るものであり、テキストでの主張に沿わないのではないか…ということを考えたわけです。

このような外部の事情を前提とした記述はよろしくなかったと反省しております。また、この部分は批判の内容としてはどうでもいいので、余計なことを書いてしまったかもしれません。
ただ、本文でも触れていますが、権威と内容の関係については、梁山泊がテキストの中で示唆するような、「権威こそ疑うべき」という考え方は行きすぎではないかとも考えています。伊藤和夫氏は受験英語の神様と呼ばれているらしいのですが、だからといって氏の本が英語の勉強をするに当たって有用であるとは限りません。ただ、受験生が参考書を選ぶに当たって、かかる権威(評判)を参考にすることが的外れであるともいえないでしょう。ディベートでどのように考えるのかという点は議論の余地が多いにありますが、権威性がマイナスないしほとんど参考にならないという主張は、一般的な感覚からすれば違和感を感じます(これは一般論であり、英語ディベート経験者さまがそのような見解に立っているという理解でのコメントではありません。念のため)

○ネイティブはmigrant workersを働き蜂と考えるか?
>日本の大学に受かるかどうかと、ディベートにおいて論題をどう解釈するかと、どのような関係があるのでしょうか。なぜ、日本で学んだ英語教育(日本の教育で身につけた英語知識)が正しいと考えるのですか?なぜ、native speakerが「働き蜂」のような解釈をすることがないと言い切れるのですか?

先に紹介したメールの記述からすれば、日本の英語教育をきちんと受ければ英語は理解できるようになるらしいのですが、それはさておき返答させていただきます。
日本の大学云々というのは言葉のあやであって、要するに言いたいのは「そんな解釈普通ありえないだろう」ということです。なお、日本での英語教育がどの程度正しいのかはよくわかりませんが、少なくとも僕がアメリカに行ったり学習の関係で英語論文を読んだりしたときは、ある程度役に立ちました(スピーキングが入ると散々ですが)。
本題は「native speakerが「働き蜂」のような解釈をすることがないと言い切れる」かどうかでしょう。僕はnative speakerではないので、言い切ることはできません。ただ、日本で勉強してきた内容からすれば言い切ることは可能ですし、論題全体を見たときに文脈(Grammar&Contextという基準ですか)で考えれば、働き蜂とか渡り鳥とかいうことは普通考えないでしょう(もっとも、梁山泊の方々は外部の文脈を考慮しないということなので違うのかもしれませんが、そんなことが不可能であることは批判の続きで議論する予定です)。
こう言うと、「お前の普通とは何なんだ」とおっしゃるかもしれませんが、これは「日本できちんと英語を勉強した普通の人間」を想定しています。僕も日本の高等教育&大学で英語を履修し、大学入試ではそこそこの大学に合格しているので、日本人としてある程度の英語力を語るだけの資格はあるでしょう。native speakerがどう考えるかは分かりませんが、そのような日本人(英語ディベートのジャッジもそうですよね。まあ僕よりはるかに英語に秀でているのでしょうが)が英語のスピーチを聞くときには、native speakerがどう考えるかではなく、普通の日本人としてどう考えるかで判断すれば足りると思うのですがどうでしょうか。それとも、英語ディベートでは「native speakerがどのように考えるかが重要」といったStandardを提出した上で、渡り鳥etcの解釈はnative speakerが一般的に想起しうる解釈であるという議論が回っていたりするのでしょうか。そうであれば、どのような論証がありうるか興味があるので、是非ご教示ください。
それはないのだとすれば、不自然な解釈を出す側には、単に辞書を読むだけではなく、それが文脈上正当であるという論証が必要なはずです。この点、英語ディベート経験者さまは、例にあげた論題を解釈するに当たってmigrant workersを働き蜂や渡り鳥と理解することが普通にありうるとお考えでしょうか。

○Fairnessの論点についての理解
>POPの著者はルールにfairnessを求めないとは言っていないです。ただ、シフトの理由にはならないと言っているだけです。

確かに、ルールにfairnessを求めないという明示的な主張はないのかもしれません(そう考えているように読めはするのですが)。ただ、僕は何も「POPの著者がはルールにfairnessを求めていない」ということを批判しているわけではありませんから、ご指摘の内容は僕の論理展開に何らの支障も生じさせないと思います(彼らの言う「ルール」や「フィロソフィー」の意味がいまいち分からないということもあるのですが)。
僕が問題としたいのは、ジャッジングにおいておよそFairnessやEducationが考慮に値しないという主張です。これは、かかる要素がシフトの理由にならないと考えることも含みます。また、シフトの理由にならない以上、ジャッジの初期条件(defaultのフィロソフィー)においてもFairnessからくる枠組を認めないということになりますが、そのように考えるためには「Fairnessなどを介さずルールから導ける規範だけでディベートの試合をまともに判定できる」という前提が必要ですが、(「まとも」の意味にもよりますが)そんなことはできません。なぜなら、ルールに書いてあることだけがフィロソフィー(判定枠組)の根拠になるという考え方そのものに無理があるというのが僕の考えです。詳しくは後で論じますが、NAFAの規則やJDAのルールからそのまま導ける内容だけでディベートのジャッジはできないということです。

順番が前後しますが
>ルールから判断して許される限りは何をしてもいいと言っているだけで、「ルールそのものにfairnessを求めない」とは言っていません。

という指摘について、梁山泊はルールそのものにFairnessを求めることは許すということでしたら、まだ主張がまともになりますね。この点は僕の読み込みすぎでしたかね?
とはいえ、ルールそのものにFairnessの観念を認めるのだとすれば、なぜルールの規定においてはそのような観念が正当化されるのかを説得的に示す義務があるでしょうし、かかる観念がルールにあるとすれば、ルールからジャッジングの規範を導く(あるいはシフトする)に際して、そうした観念を援用することは当然許されるのではないでしょうか。
この点、ルールは明文だけを見て解釈すべきであり、その趣旨などは切り捨てられるという見解があるのかもしれませんが、そのような考え方はおかしいです。そもそも明文を見て解釈が一義的に定まり、全ての状況に答えが見つかるということはありえません(そんなことになったら僕は将来飯が食えなくなる)。また、「ルール」の解釈方法を云々する法律学の作法においては、法文の立法趣旨や適用時の妥当性などを当然に考慮します。もちろん、明文の規定を重視するか、その他の要素を重視するかは事案や論者によりますが、明文の規定からは読みえない解釈だってありうる(そしてそれが最高裁の判例になったりする)のが現実です。ディベートにおいてそうした解釈方法がおよそありえないのだとすれば、その理由が示されるべきです。

>たとえば、サッカーにおいて「オフサイドトラップはルールから見れば許される戦略だが、unfairなので認めません」という議論は成り立つでしょうか。私は成り立つとは思いません。

最初に、そもそもサッカーの例とディベートの例は同一に論じられないということを指摘させていただきます。ディベートでは勝敗の理由がジャッジに広く委ねられており、またサッカーのような物理的行為と異なり、議論の公正さというのは判断しにくい部分もありますし、それこそ「セオリー」という領域が認められるように、議論のルールそのものについても確定されていない部分が大きいからです。
その上でサッカーの例について述べておきますと、僕もオフサイドトラップはサッカーで認められると思いますが、その理由は「オブサイドトラップはunfairではないから」というものです。本当にunfairなら、反スポーツ的行為として禁止されるでしょう(ルールに警告理由として存在しているようです)。
ちなみに、もう少し怪しそうな「選手全員で円陣を組んでボールを囲みながらドリブルする」という仮想事例については、Unfairなものとしてルール上禁止されるものかどうかということで論争になっていました。参考までに紹介しておきます。
http://okwave.jp/qa579547.html

>new argumentがダメな理由はルールで禁止されているという理由だけです。試合中はそれ以上は議論できません。(その裏にfairnessの概念が存在するとしても、ルールは変えられない。また、ルールの裏のfairnessをPOPの著者は否定していない)

そのように考えるということは、英語ディベート経験者様は、New argumentについて制限規定がないJDAの大会で一般的にNew argumentが禁止されていると理解され、選手ジャッジともにそのように考えているということは間違っているとお考えでしょうか。日本語ディベートには興味がないのかもしれませんが、見解をうかがえましたら幸いです。
僕の見解を確認しておきますと、ルールに禁止されているからNew argumentは許されない、という考え方はおかしいと考えます。そもそも、ルールだけが根拠であるという考え方そのものに理由がないと思います。というか、大会ルールはそこまで万能ではありません。本当にルールの「明文」からだけ考えるとすれば、Topicalityは明文から直ちに導ける投票理由ではありませんので、考慮不能となります(論題を肯定していないから当然勝敗理由になると言うのでしょうが、そもそも肯定側はどんなプランを出そうが「ルール上」抽象的に論題を肯定する立場にあるのだから、Topicalなプランが出されているかどうかはルール上勝敗と直接関係ありません…というかResolution Focusの立場からすれば、どんなプランが出たかという事実そのものが投票を左右することはないというのが一貫しているのではないでしょうか(僕はそのように思っていたりします)。Tを独立の投票理由として正当化するには、Affがプランを規定したことに何らかの規範的効果を認めるなり、Non-Topicalなプランの提出が議論をずらしてしまい教育的でないなり、何らかの説明を要するはずです)。その他、セオリーとされている議論の多くは、ルールから直ちに問題となるわけではないので、全て許されないということにもなりかねません。というか、NAFAの規則には「どうやったら肯定側が勝つか」という規定すらないようなので、ルールしか考慮できないという立場だと英語ディベートはできなくなってしまうのではないでしょうか。
我々はルールを前提にディベートを行いはしますが、それだけではなく、論題を争うための議論という形式から要求されると考えられる諸条件をも読み込んで試合に臨んでいるというのが正しい実態であるというべきです。
*なお、ルール外の根拠が許容される理由については、サッカーの例についての返答の最初の段落の記述も参照してください。

さらに、New argumentの規制の適用をルールからだけで完全に説明することは不可能です。なぜなら、ルールの明文は解釈を必要とするところ、そこでは規定の趣旨も考慮しなければならないからです。そもそも「反駁に於いては立論的な議論は行ってはならない」という規定振り自体、一義的ではありません(これがNew argumentの禁止だと理解できるのは、我々がそのような前提を共有しているからです。そもそも「立論」や「反駁」の定義すらルールにはない)

参考までに、New argumentの適用にあたってFairnessの要素が必要となりうる具体例を挙げておきます。前にどこかの英語ディベーターがブログで書いていた事例で以下のようなものがありました。
「1NCでCPを出し、その中でNon-TのDefinitionを読む。2ACでこのエビがDropされたら、2NCでNon-Tで読んだDefinitionをTとしてCross Applyする。このDefinitionはDropされているから1ARではNew argumentになり返せず、Affは勝てなくなる」
辞書からDefinition読んだだけでTが立つのはおかしいということはさておき、このDefinitionに1ARでアタックすることがNew argumentとの関係で許されるか否かは、ルールの明文で判断できるものではありません。2NCでTが新たに出された場合、これに対する反論は普通であれば許されます(TのDefが2NCで読まれたときですね)。上で紹介した見解は、論拠となるエビがいつ出たかを基準にしてNew argumentを判断しようとしていますが、主張として反論が構成された時点を基準とすれば、Def自体がいつ読まれたかは本質的でなく、Newにはなりません。
なお、僕はこの場合後者の見解を取り、AffはNewにならないと考えます。簡単に理由を言うと、New argumentの趣旨は不意打ち防止や反論機会の保障というFairnessにあり、Newとして規制するためには「十分反論できたという事情」が認められるべきところ、1NCの段階でCPの一部として出されたというだけではTとして転用される可能性が不明確であり、反論すべき理由がまだ発生していない以上、ここでDropしたことを「十分反論できたのにしなかった」というのは不当だと考えるからです。

ルールの裏のFairnessを梁山泊が否定していないという指摘については、既に述べたとおり、そこを否定しない(これ自体は正当)のであれば彼らの主張(シフトの理由にFairnessは入らない)は成り立ちません。


以上、かなり長くなり、かつ分かりにくい答えになってしまいましたが、回答です。なお、回答の趣旨の一部は本文の内容にも現れておりますので、よろしければ再度本文をお読みいただければ幸いです(このようにして僕の表現力の不足を読者の皆さまに押し付けるのはよろしくないということは承知しております…)。

最後に、本稿での僕のスタンスについて再度補足しておきますと、公開されたテキストについてその内容の誤りを指摘し、もって誤った議論が展開されることを防ごうとするものであり、それを越えてかかる議論が回っている(らしい)英語ディベート大会そのものを批判する意図はありません。もちろん、結果的にそのような帰結を導く可能性はあるのですが、それはあくまで間接的なものです。
僕も、梁山泊という団体そのものについては特に思うところはありません(本当にアナーキストなのかな、という感想めいたものはありますが)。単に主張に賛同できないだけです。また、英語ディベートだとか日本語ディベートだとかいうほとんど意味のない区別にも興味はありません。僕はディベートという競技が好きなので、こんな長文を垂れ流しているのです。
2008/09/27 (土) 04:51:45 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
これだけは知っておいて
批判するのは自由なんだけど、事実と異なる部分があるから、それだけは指摘しとく。

まず、「渡り鳥」どうのって話なんだけど、POP筆者は「渡り鳥」の解釈を肯定はしていないよ。
「渡り鳥」とかやってたのは、大阪府立大学ね。で、POP筆者の人は関西大学ので、府立大学をボコってたんだよ。結局、府立大学はPOP筆者には一回も勝てなかったって聞くけど。だから、むしろPOP筆者は「渡り鳥」の天敵なんじゃない。

periodのTに関しても、POP筆者は別にそれが正当性のあるTだとは言ったことはないよ。ただ、ネタで面白がってperiodっていう言葉をタイトルに使ってるだけ。


あと、これは私の受けた印象だけど(違ったらごめんね)、最初から梁山泊やPOP筆者を見下して、このテキストを読んでないかな?理解できるできない以前に、全部否定してやろうっていう前提で読んでるように見えるんだけど。
ディベート甲子園の人は知らないんだろうけど、POP筆者は名実ともに英語ディベート史上ぶっちぎりで最強のディベーターだよ。
日本語ディベート界がどれだけレベルが高いところか知らないけど、少なくともPOPには敬意を持って対する価値があると思うよ。そして、もっと自分の考えを疑ったら、もしかすると考えひっくり返るかもしれないよ。
2008/09/27 (土) 07:43:01 | URL | 英語ディベート界を知るモノ #-[ 編集]
 ブログを読ませてもらいました。英語ディベート界の一部と筆者には共通の問題点があると思ったので書かせていただきます。 


 英語ディベート界の問題点として、ジャッジが自分の中の常識に判断基準を大きく委ね(間違った知識を先輩から引継ぎそれが自分の中で絶対的になっている人が多い)、それが正当な理論で展開されたargumentを採らないといったことが頻繁におこる。何が問題かというと、常識に縛られてflexibleな思考が失われていることだ。
 例えば、論理的な観点からは正当な議論にもかかわらず、ジャッジが「相手に勝つ余地がない」などと勝手に判断し正しい理論に裏打ちされた議論にvoteしないことが多々起こる。これはジャッジの中で勝手に反論の限界線を引くことで起こってしまうパターンである。完璧なissueなどというものは存在せず、いくらでも反論可能であるにもかかわらず自分の能力の限界線でissueを判断してしまう最悪のパターンである。
 話がずれてしまったが、私が言いたいことは、常識が理論の上に立っている場合が多いことが問題点である。ちなみにこのブログの著者は日本語ディベートや法律を争う場が理論の頂上と考えているかもしれないが、これら二つは論理的には筋が通った話でも、それらが現実世界の常識と照らし合わせれば、受け入れない場合があるということだ(一部の英語ディベーターにも感染しているが)
英語ディベートでは常識など存在せず、理論のみが絶対的存在であり、それのみが客観的に勝ち負けを判断できる材料になるっている。だから、ブログの筆者の生きてきた世界(常識に縛られている英語ディベーター然り、特に救世主待ちさん)は英語ディベートの世界は解釈不可能だと思う。
 手始めに、自分の中の常識でpopを読むことをやめた方がよいのでは?
 ちなみに私は梁山泊の肩を持つ気はさらさらない。彼らと話したことはないが、行動を観察する限り、現実世界でも理論が良識や感情を上回っている輩と判断できるからだ。
2008/09/27 (土) 12:08:00 | URL | 名無し #halAVcVc[ 編集]
 
>こう言うと、「お前の普通とは何なんだ」とおっしゃるかもしれませんが、これは「日本できちんと英語を勉強した普通の人間」を想定しています。僕も日本の高等教育&大学で英語を履修し、大学入試ではそこそこの大学に合格しているので、日本人としてある程度の英語力を語るだけの資格はあるでしょう。

残念ながら、Topicalityによって論題に対するgrammerやcontextの解釈が議論の中心になると、大学のレベルや、何を勉強してきたかなどというものは、役に立たなくなる。なぜなら大学受験や大学の勉強にTopicalityや文法の合否を論理的に競う場がないからである(因みに試合では一流大学や帰国子女が中学生でもわかるような解釈を間違って判断することがある)


>native speakerがどう考えるかは分かりませんが、そのような日本人(英語ディベートのジャッジもそうですよね。まあ僕よりはるかに英語に秀でているのでしょうが)が英語のスピーチを聞くときには、native speakerがどう考えるかではなく、普通の日本人としてどう考えるかで判断すれば足りると思うのですがどうでしょうか。

 これはすべて論題に前後の文脈ありきで判断しているからでは?そもそも、論題以外に「普通」や「常識的に」を持ち込むことは論理的に勝ち負けを判断することは不可では?これと同じ間違った考えを持った輩は関東のOBによくいる。
2008/09/27 (土) 12:45:38 | URL | 口はさみ #TNMEEIK6[ 編集]
コメントありがとうございます
皆さまコメントありがとうございます。
個々にお返事させていただきます。

>英語ディベート界を知るモノ さま
事実認識の誤りについてはご指摘ありがとうございます。しかしながら実際に渡り鳥Tが試合で回っていたというのは、門外漢としては驚きです。そのような議論を否定する存在として梁山泊が活躍してきたのだとすれば、名前どおりの義賊なのかもしれませんね。

それはともかくとして、僕が今回問題としているテキストの内容について理解できないとすれば、それは具体的にどの点でしょうか。教えていただけると勉強になります。
なお、僕の梁山泊やそのテキストに対する認識としては、最初から見下して読んだとかではなく、読んだ結果として低い評価を下したまでです。
もちろん彼らに対して敬意を抱いていることもありません(知らないし)。英語ディベート界を知るモノさまは「もっと敬意を抱くべきだ」とおっしゃるのですが、英語ディベート界で彼らがどんな実績を収めているかはともかく、僕は彼らの権威性ではなく書いている中身から判断して敬意を抱く対象ではないと感じただけです。この点はむしろ英語ディベート界を知るモノさまが、敬意を持ってPOP2~6頁を読むべきではないでしょうか(お気を悪くしたらごめんなさい)

自分の意見については、今の段階では本文及びコメントで返事させていただいた内容に尽きております。それを不十分だとおっしゃる趣旨の指摘であれば、内容に応じて反省いたします。しかしながら、ここまでの段階で皆さまからいただいたコメントなどを踏まえて再考した段階では、一部の事実認識に対する修正は除いて、僕の見解を修正してPOPへの評価を改める必要はないと考えております。

>名無しさま
「常識に縛られてflexibleな思考が失われていることだ」とおっしゃられますが、ここについては3点異論があります。

第一に、常識を無視して考えるべきであるという命題を肯定することは、常識に反する議論を然るべき論証なくして採ってよいこととは異なります。例えば、炭素税導入で核戦争が起こるとか教科書検定で右翼(左翼)テロが起こるとかいう、常識では考えがたい議論についても、ディベートでは(というか実社会でも)きちんと説明がされるのであれば評価される可能性があると思います。ただし、そこにはきちんとした説明が必要であって、一定の心証に達しないのであれば、ディベートであってもかかる議論は評価されるべきでありません。
僕は、梁山泊の方々の見解について、そもそも理由がない部分があるということを指摘しております(ルールからしかフィロソフィーが導けない…など。何か理由付けがありましたか?せいぜい「合意しているのはそれだけ」と言ってるだけで、ルールだけをよりどころにしても判定が可能であるという許容性や、ルール以外の要素を参照してはならないという裏の理由付けはなかったと理解しています)。「論理的な観点からは正当な議論」であるかどうかについてそもそも疑問がある、ということです(ですから、梁山泊の議論のうち、理由があると感じた部分についてはその通り評価しているつもりです)。

第二に、常識や予断を無視して考えるということは本当に可能なのでしょうか。我々が普段使用している言語の解釈(英語もそうです)は、常識の範囲に含まれるのではないでしょうか。極端な話、辞書に正しい定義が載っているというのも「常識」ですし、そもそも辞書で読まれた単語の定義だって、常識的な語学力がないと理解できないのではないでしょうか。
また、これは感想の域を出ないのですが、名無しさま(やその他の方のコメントの一部)も、「英語ディベートの常識」という異なる常識を前提に議論されているのではないでしょうか。もちろん、そのような常識が存在しうることや、それが大会で通用しているということ自体は問題ないと思います。しかし、そのような「常識」を疑わない姿勢については、反省されてしかるべきではないでしょうか。

第三に、なぜディベートにおいて理論と常識が併存していてはだめなのでしょうか。これは価値観の相違かもしれませんが(なお、それは「英語」だからとか「日本語」だからとかいうことで生じる相違ではなく、単にコミュニティの多数がどう感じているかに起因するだけのものでしょう)、ディベートをする目的は常識を無視して理論を突き詰める(?)ようなことなのでしょうか。
僕の理解では、競技ディベートは合理的な意思決定という枠組の中でいかに説得的に議論するかを競う競技だと思っています。そこでは、理論的な正当性も強力な武器になりますが、常識だって正当な武器になりえると思います。もちろんそこでは理論が常識に優位するということはありうるし、理由がなければ常識に反してもよいということが許されてはいますが、それは直ちに常識を排除するというものでもないでしょう(既に述べましたが、常識はディベートで参照できない、と理由もなく言い切ってしまうのは、それが一個の常識だというべきです)。
前にいただいたコメントの表現を借りさせていただくなら、ディベートには理論的観点もバランス感覚的な考え方も両方あって、両方に良い点があります。それを自分が得意(?)とする視点からだけ見て考えるのはよろしくないと思う次第です。

>口はさみさま
Topicalityの考え方についてですが、これはもしかしてNativeとしてその言語でディベートをするのと、そうでない場合では違いがあるということなのかもしれません。その可能性を留保した上で、一応僕の考えるところをお返事とさせていただきます。

そもそも、「文法の合否を論理的に競う」のがTopicalityの議論であるという考え方が、僕には理解できません。Topicalityとは、Affが支持する行為が本当に論題の範囲内であるか、すなわちAffは論題を支持しているか否かをチェックするための議論だというのが僕の理解です。そこでは、その一手段として論題の解釈を文法文脈により明らかにするということがありうるでしょうが、専門的な解釈方法(?)を採らないとTopicalityが議論できないというものではないでしょう。
そもそも、Affが論題を支持しているかどうかというのは、(少なくともNative的な感覚があれば)直感的に分かるものでしょう。例えば「日本は動物園を廃止すべきである」という論題について、人間も動物だから動物園とは公園も含まれる…とかいう解釈については、たとえ主張がされても、よほどの論証がないと採用できないと考えるのが普通でしょう。他方、趣味でたくさん動物を放し飼いにしている人についてはどうか、動物園というのは学校で飼っているウサギ小屋のようなものも含むのか、といった議論になってくると、多少議論の余地が出てくるかもしれません。これについては、「動物園」の定義や実際の用例、法令の規定振りを参照して検討する必要があります。しかし、そのベースとしては、一般的な言語運用力が要求されるだけです。

「論題以外に「普通」や「常識的に」を持ち込むことは論理的に勝ち負けを判断することは不可では?」とおっしゃいますが、僕には逆に、論題だけがごろっと与えられても、論理的な勝ち負けの判定は不可能だと思います。そもそも、メリットがデメリットを上回ればそれは実行すべきだという観念も、「普通の人」の考えることです(損得考えずに行動する「非合理的」な人も世の中にはたくさんいます)。また、論題の解釈それ自体も、(日本語が母語の英語ディベーターであれば)これまで勉強してきた英語の運用力を前提にしているはずです。辞書の定義に記されている文章だって、文脈や一般的語法を考えなければ理解できないわけで、もしそうした一般的文脈を全て排除するのだとすれば、どのように論題を解釈するのでしょうか。

素直な感想として述べさせていただくと、文脈などを考慮せず、「普通」や「常識的に」を徹底して排除するような解釈は、生きた言語である英語の解釈方法として本当に可能なのでしょうか。そのような方法は、全く未知の「宇宙語」に対する研究姿勢としては正しいのかもしれませんが、政策について論じるディベートという競技においては違和感を拭えません。
あるいは、Non nativeとして行うディベートでは英語学習の方法としてあえてそのような考え方をするのだというポリシーがあるのだとすれば、それは一つの見識なのかもしれません。ただ、そのような能力が活かせる職場は残念ながら今の世界にはほとんどないと思いますし、個人的にはあまり面白そうな活動とは思えません。

口はさみさまは上記のような意見を「間違った考え」とおっしゃるのでしょうが、もしよろしければ、どのように間違っているのかという点について、英語ディベート界の慣習(?)や常識ではなく、具体的な理由付けとしてご教示願えないでしょうか。もちろん、お忙しいとは思いますので無理強いはしませんが。



正直な感想として述べさせていただいた内容が気に障ったとしたら申し訳ありません。
何度もお断りしておきますが、ここでは一般論として英語ディベートを否定していることは決してありません。最近公開されていた神田外語大学のモデルディベートは僕の理解できた範囲でも興味深い内容でしたし、過去のDebate Forumのスクリプトや昔出版されていたNDTのスクリプト(これは日本語訳付き)を見ても、さすがにレベルの高い議論だと感心させられる内容が多々ありました。そういうものにあこがれてこれまでディベートを続けてきた身として、言語の違いを越えて何か参考になるものはないかと様々なディベート関連の文章を読み、その中で今回取り上げているPOPを見つけた、それだけのことです。
2008/09/27 (土) 19:07:51 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
> ディベート甲子園の人は知らないんだろうけど、POP筆者は名実ともに英語ディベート史上ぶっちぎりで最強のディベーターだよ。
> 日本語ディベート界がどれだけレベルが高いところか知らないけど、少なくともPOPには敬意を持って対する価値があると思うよ。そして、もっと自分の考えを疑ったら、もしかすると考えひっくり返るかもしれないよ。

これは笑止千万ですねw
JDAの論題検討委員会にでもご参加になり、同様の議論を役員の皆様の前でして頂きたいものです。
2008/09/27 (土) 19:37:52 | URL | fromJDA #-[ 編集]
>そもそも、「文法の合否を論理的に競う」のがTopicalityの議論であるという考え方が、僕には理解できません。

英語ディベートにおいて、それはTopicalityの議論の焦点となる1点であって、それがすべてではないです。



>Non nativeとして行うディベートでは英語学習の方法としてあえてそのような考え方をするのだというポリシーがあるのだとすれば、それは一つの見識なのかもしれません。
その認識で合っていると思います。管理人さんがどの程度英語のできる方かは存じ上げませんが、大学で専門に英語を勉強してきた身としては、今まで日本の中学、高校で勉強してきたことを覆されたこともありました。

つまり、Nativeでない私たちがジャッジをする際には本当に自分の知識を挟んではいけないのだと思います。なぜなら、文法についての知識など、誤っている点が多分にあるからです。(ある程度、自分の知っている知識を使わないと何もできないですが、極力、自分の知識を排除しなければならないと思います)

また、そこから自分たちの考えている個々の単語の意味も議論の余地があると思います。つまり、Nativeがどのように考えているか分からないということです。日本語で「動物園」と言われれば自分の常識に従って考えることもできるかもしれませんが、英語という母語ではない言語では非常に難しいと思います。(というか、それが間違っている場合が往々にしてあるということです)


>fromJDA
よく分かりませんが、誤訳は避けてほしかったですね。(膨大なリサーチには感服いたします)
2008/09/27 (土) 22:32:31 | URL | aoi #-[ 編集]
このような長文の文章を作成されお疲れ様です。
多少POP作者への揶揄(皮肉)が入っているもののディべー界のためという意識に基づき、どのようなコメントにも返答する姿はすごいと思います。

さておき、一点ご質問させてください。


>例えば「日本は動物園を廃止すべきである」という論題について、人間も動物だから動物園とは公園も含まれる…とかいう解釈については、たとえ主張がされても、よほどの論証がないと採用できないと考えるのが普通でしょう。

難しい所かもしれませんが、この証明されないといけない「よほど」程度が人によって違いすぎるのはいかがでしょうか。
命題の文脈以外からの常識を挟んでしまうと「よほど」ブレ幅が大きくなってしまうと思います。

例えば、動物園が動物のいる場所という意味であり、人間は動物なので、公園も動物園という解釈もできると言われると、私ならまあそういう考え方もあるかなと思ってしまいます。(もちろん人間を含まない解釈の方がbetterではありますが)。


人それぞれの、命題の文脈以外からの知識(常識)は試合前からは判断しにくいものであり、試合後の結果でしかそれを知ることはできない出場者から見れば、理不尽さを感じてしまうのではないでしょうか。そもそもそんなキワドイ議論を使うなという話ですが。


>JDAさん

>これは笑止千万ですねw
JDAの論題検討委員会にでもご参加になり、同様の議論を役員の皆様の前でして頂きたいものです。

私からしたらJDAさんが笑止千万に感じてしまいます。何がおかしいのでしょうか。JDAの論題委員会は何か笑いのセンスが違うのかもしれませんね。
POP著書者がすばらしいディベーターであったのは事実ですよ。(POP自体は賛否があるのでおいといて)
2008/09/27 (土) 22:52:58 | URL | 鼻もげら #-[ 編集]
皆さまコメントありがとうございます
これまた個々に返答させていただきます。

>fromJDAさま
論題検討ご苦労様です。いつもディベーターとしてお世話になっております。僕も何か手伝わなければとは思っているのですが…
(前にODA論題をリサーチしたのにカットされてややへこんだから…というのは嘘です)

梁山泊のメンバーは優れたディベーターということですので、そのような方には是非論題検討に積極的にご協力いただきたいというのはその通りですね。

>aoiさま
貴重なご意見ありがとうございます。
先程本文の続きを書き、その中で僕の返答を書きましたので、以下に引用しておきます。

――――――
コメントにあった「Non nativeは誤ることが多いので、極力自分の知識を排除しないといけない」というのは一つのありうる解答だと思いますし、そのように考えた上でジャッジされるのであれば、その態度は尊重されるべきでしょう。
しかしながら、あくまで私見として述べますと、そんなに無理して「英語で」ディベートをする理由っていったい何なのだろうかというのが単純に疑問に思えます(日本語ディベートが盛り上がっていないとか英語の方がかっこいいとか英語ディベートコミュニティが魅力的だとかいろいろ理由はあるのでしょうが)。また、Non nativeなので語句解釈について謙抑的であれという姿勢を一貫させると、Affの議論もNegの議論も評価不能になるのではないでしょうか。すなわち、どこかでジャッジ自身の「Non nativeなりの見識」を使う必要があるところ、その基準は特にTopicality(論題の解釈)についてより厳格にしなければならないという根拠は、薄弱であるように感じます(ある程度高速のスピーチで読み上げられる専門的内容のエビデンスを正しく理解する方が、明文で出ている論題の解釈より難しいと思います。リスニングが苦手なので…)
――――――

>鼻もげらさま
なんというか、すごい「暇」なだけなので…。そんなこと言ってる場合ではないような気もするのですが。
ただ、書いている中で自分の見解が整理されるということもありますので、全く無益でもないかなぁというところです。

動物園の例とジャッジごとの主観的判断の差異についてですが、これは突き詰めれば価値判断の問題であるということをとりあえず置いておくと、僕の意見は「それはしょうがない」というものです。
合理的な判断というものは、必ずしも1つではありません。動物園という語句の意味についてもそうでしょうし、僕の感じ方(人間は普通動物園の動物には入らないだろう、というもの。もちろん理由があれば考えは変えます)と、鼻もげらさんの感じ方は違うのだと思います。しかし、これは判断者が神ではない人間である以上仕方ないし、またその差異はみんな違ってみんないい、というように言えると思うのです。合理的である以上考え方の多様性を許容するということが、ディベートに限らず議論一般に言える基本原理だと考えるからです。

もちろん、そこに合理性という制約は必要で、きちんとした説明があったのに「動物園に人間は入らないんだよ!」と言ってしまうことはディベートでは許されないと考えます。ただ、その制約に「命題の文脈以外からの常識の排除」を加味することはきつすぎるのではないか(また、実際には無理ではないか)というのが、僕の主張するところです。
自分の主張した内容が採用されないとか、場合によって判断が異なるというのは、確かに理不尽さを感じることもあるかもしれません。ただ、明らかに理由がないというなら別論、個々の感じ方によって判定がずれるというのは仕方ないことだし、実際にも「万人を説得できる議論」というのは存在しない(特にディベートではそういうテーマを扱っている)のですから、そこを無理にあわせようとする必要もないのではないかと。
「そもそもそんなキワドイ議論を使うなという話ですが」ということをお書きになっていますが、まさにその通りで、ディベーターはジャッジのブレも考えた上で「ブレリスクの少ない」議論を考えるという戦略も要求されているということではないでしょうか。僕は実際そのようにしていますし、ジャッジのくせや反応でスピーチ内容を差し替えたりすることも(余裕があれば)やっています。そんな競技はくだらないしやりたくない、という意見もあるかもしれませんが、僕はそこにも楽しさはあると思っていますし、実際の議論に役立つのはむしろそういう部分なのかも、と感じています。

最後にお断りしておきますと、僕はPOP著者のディベーターとしてのスキルを否定するものではありません、念のため。
(POPの内容そのものも、全否定しているわけでないということはお分かりいただけると思います)
2008/09/28 (日) 00:42:51 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
英語でdebateする理由は英語がdebateに向いている言語だからじゃない??簡潔で分かりやすい。あいまいな表現を避けることができる。
日本語は曖昧な言語でdebateには向いていない。
因みに私は英語debaterではない。
2008/09/28 (日) 09:59:25 | URL | koko #TNMEEIK6[ 編集]
コメントありがとうございます
>kokoさま
コメントありがとうございます。
ちなみに、ディベーターでないとコメントできないなどの制約は一切ございませんので、その点は気になさらないでください。

英語がディベートに向いており、日本語はディベートに向いていないということですが、この点について思うところを3点述べさせていただきます。

第一に、そもそも言語によって議論の向き不向きというものはあるのでしょうか。
英語が簡潔で分かりやすいとか、日本語が曖昧だとかいうことはよく言われますが、それがどの程度真実かは分かりません(おそらく運用の仕方にもよる)し、簡潔か曖昧かということが議論の質を左右する絶対的要素であるとは限りません。
実際に、英語でも読みにくくて中身の薄い文章はありますし、日本語でも簡潔で中身の濃い文章はあります(僕は読みにくくて薄い文章を書いてしまっていますが…)。要するに、言語の問題ではなく誰が使うかという問題ではないでしょうか。

第二に、一般論として言語的な向き不向きがあるとしても、競技ディベートで政策を議論するような場面で、言語ゆえの限界に直面するような極限状況はほとんどないと思います。
例えば、契約書の解釈などで言語ゆえの制約が出てくるということは考えうるでしょう(ただ、先日法律事務所でインターンをして契約書作成に関わらせていただいた感想からすると、これも運用の問題でクリアできるようですが)。しかし、ディベートで特定の政策の当否を議論するという場面で、日本語では表現できないニュアンスといった問題に直面したことはないし、想像もしにくいです。どの程度厳密な議論を求めるかにもよるでしょうが、ディベートにおいて英語と日本語の違いが議論の質を変えるほどの重要性を持つことはないでしょう。

第三に、競技ディベートという活動に限定していうなら、英語につきNon nativeの日本人が英語でディベートをするというのは、日本語でディベートをすることより遥かにコストがかかるもので、普通に考えれば議論の質は低下するはずです(これは現実の英語ディベートが日本語と比べてどうだという趣旨ではありません。実際には、英語ディベーターは日本語ディベーターより時間をかけて準備をしており、議論の質は平均的に言えば同じくらいか、英語の方が高いのではないかと思います)。
もっとも、英語文献を大量に援用できるという利点があるので一概には言えませんが、日本語の曖昧さを回避して英語の簡潔さを生かすというメリットを、Non nativeのディベーターが十分に生かすのは難しいのではないでしょうか。

以上の点について補足しておくと、ここで述べた内容は英語ディベートという活動の意義を否定するものではありません。
英語ディベートには固有の楽しさがあるということを聞いたことがあり、それは僕にもある程度イメージできます。また、英語でディベートをするコストについても、「英語を使って議論をするトレーニング」と考えれば、それ相応の価値があると思います。
ただ、個人的な感想としては、Non nativeとして英語の解釈は厳格に行うだとか、常識を排除して判断するのだとかいうことをしてまでやる活動なのかという気はします。大学での専門的英語教育かそれを越えるようなレベルでの解釈方法がなければ正しく議論できないというのであれば、日本語でディベートをやって、英語は別に勉強するという方が効率的だし、多分楽しいんじゃないかなぁということです(言語の厳密な解釈によってディベートをすることでお金をもらえる仕事がたくさんあるというのなら別ですけど)。
2008/09/28 (日) 17:22:05 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
はじめまして。コメントする人が増えて議論がわかりにくくなってしまいますね。それを承知でコメントさせていただきます。すみません。質問にお答え頂ければ幸いです。


ルールは万能ではないので、ルールから読み取れること、例えばfairnessをimpactとして考えることなど。このことに関してですが、ディベートは「競技」であるので、ルールのすみをつついて勝ちにいくという考え方はいかがでしょうか?またそのような戦略は教育的とは言えないでしょうか?


また、periodのTや渡り鳥Tなど、あれらは一見バカに見えますが、このような議論で勝つことができたディベーターは、私が見た限り、本当に上手な理由とプレゼンを使っていると思います。これはディベートの一つの教育効果、戦略、そしておもしろみだと思いませんか?



また、ルールに、fairnessやeducationをimpactとするとはっきり書いてくれていないのはなぜでしょうか?


あと、これも重箱の隅をつつくようなことですが、
>さらに、New argumentの規制の適用
>をルールからだけで完全に説明すること
>は不可能です。なぜなら、ルールの明
>文は解釈を必要とするところ、そこでは
>規定の趣旨も考慮しなければならない
>からです。そもそも「反駁に於いては立
>論的な議論は行ってはならない」という
>規定振り自体、一義的ではありません
>(これがNew argumentの禁止だと理
>解できるのは、我々がそのような前提を
>共有しているからです。そもそも「立論」
>や「反駁」の定義すらルールにはない)
ここの立論や反駁の定義こそ、善意解釈をしようと思わないのですか?

2008/10/03 (金) 17:14:15 | URL | 関西の普通のディベーター #-[ 編集]
感想ありがとうございます
>関西の普通のディベーターさま

コメントありがとうございます。僕のほうでは把握しているつもりですので、お気になさらないでください。

>ルールは万能ではないので、ルールから読み取れること、例えばfairnessをimpactとして考えることなど。このことに関してですが、ディベートは「競技」であるので、ルールのすみをつついて勝ちにいくという考え方はいかがでしょうか?またそのような戦略は教育的とは言えないでしょうか?

ルールの解釈論として「ルールのすみをつついて」勝つという方法を見つけるというのは、戦略としてはありうると思いますし、そこには意味があると思います(実際、そうやって租税回避スキームを考えることに一生を費やす弁護士などもいます)。
この点について、もしPOPに記されているような考え方(Fairnessを無視するとか何とか)がルールのすみをつついた議論だというようにお考えでしたら(違っていたらごめんなさい)、それは間違いだと思います。本文でも指摘していますが、彼らは「ルールから導かれるのがフィロソフィー」と述べるものの、どうして彼らの主張がルールから導かれるのかという説明をまったくしていませんし、むしろルールの解釈として彼らの議論は間違っています(Educationに関する規定の無視や、ルールの趣旨を考えない態度など)。
なお、ルールに書いていないということは、それだけで何らかの帰結を導くものではありません。ルールだけがディベート理論の理由付けというものではないということも、第三回の補足で述べさせていただいたとおりです。

関連して、
>また、ルールに、fairnessやeducationをimpactとするとはっきり書いてくれていないのはなぜでしょうか?

という点についてですが、NAFAの規則を見ると、Educationについてはきちんと規定されています(2条3節2項)。同項の「良心」を広く解せば、Fairnessも読み込めるでしょう。
そもそも、ルールには全てを規定しなければいけないというものでもないし、当然のことは規定しないという姿勢もありえます。公平について明文の決まりがなくても、裁判官は公平に裁判しようとするし、またそうしなければならないのです。

>また、periodのTや渡り鳥Tなど、あれらは一見バカに見えますが、このような議論で勝つことができたディベーターは、私が見た限り、本当に上手な理由とプレゼンを使っていると思います。これはディベートの一つの教育効果、戦略、そしておもしろみだと思いませんか?

実際どういう理由付けでそういった議論が回っているかは分かりませんが、もし説得的な理由付けがあったのだとすれば(興味があるのでよろしければご教示ください)、そういった説得をなしえたという意味での実力はあると思いますし、教育的なのかもしれません。
ただ、そういった能力があるのだとすれば、その能力を政策の是非という本筋に注力された方がより素晴らしい試合になると思いますし、教育的でもあるでしょう(無理しないと説得できないような理屈をつけることで活躍できるフィールドは、日本にはあまり用意されていないように思います)。
また、個人的な感想として申し上げると、どの論題にもついているピリオドにTをつけるという発想の異常性(そんなものが認められるとすれば全部Negが勝つので試合は成立しないし、論題を決めた意味もない)に気づかないようではディベート以前の問題だと思いますし、そういった議論を無批判に取るジャッジも反省すべきでしょう。

>(編注:New argumentについて定めるルールにおける)ここの立論や反駁の定義こそ、善意解釈をしようと思わないのですか?

善意解釈という言葉は違うような気がしますが、それでよいと思います。僕の本文での記述は、ルールがきちんと機能するように解釈すべきだし、またジャッジや選手もそのようにルールを読んでいるはずだという趣旨を言うものです。いちいち定義がなくても、言わんとすることはだいたい分かるし、その帰結が望ましくなるように運用されているということです(もちろん、この点の理解にチャレンジする権利は選手に留保されています)。
ただし、僕は「ルールにあるからNew argumentの規制が認められているのだ」という立場を取るものではありません。もちろんルールで明確化すること自体は否定されませんが、そもそもルール以前の、ディベートという枠組が予定する原理から、New argumentの提出という行為が否定されることは説明可能だからです。

というわけで、ルールの解釈について関西の普通のディベーターさまのように理解することは正当だと思います。
そういった姿勢を推し進めると、論題の解釈についても、試合がうまく回る(ここの理解は人によるし、議論の余地があるでしょう)ように善意解釈するという結論が出てくると思います。ご案内の通り、僕はそのように考えるのですが、その理由付けや「善意解釈の限界」については、より詳細に検討される必要がありますので、POPの批判云々の文脈を離れて、別途考えてみたいところです。
2008/10/03 (金) 19:21:27 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
 あまり若者のしたことを相手にしても仕方がないのではないでしょうか?
問題の諸悪の原因に関西の大学生の多くは、英語力が低く、論理的に弱く、いわゆるネットベネフィットという議論をすることができない現状にあります。
 ご存じのように、どんなに強いディベーターがいても、パートナーがその議論をextendすることができなければ、ディベートでは勝つことができません。
 そこで、一ノ宮さんが選ばざるを得なかった選択肢が、セオリーで自分一人の力で勝つということです。
 たとえばnegativeでは1NCはべた書きを読むだけ、1NRはCPを2ACの議論に返すことなく伸ばすこと、試合の合間はアイスクリームを食べているだけという文字通り豚のようなパートナーとともに試合に出ていました。
 また、AFFでは相手が何も話せなくなるように、新奇をてらった議論で相手に何もできなくなるようにするといった戦略を採っています。
 やり方はどうあれ、この方法で能力的に大学一年生大会の水準に達していないパートナーと出て全国制覇したのは事実であり、また彼のargumentation能力を持っていることをご理解いただきたいと思います。
 年上の方への失礼な言動は賛成致しかねますが、同じチームの豚みたいなパートナーを一度として責めることなく、全国制覇した彼はある意味尊敬に値するとはお思いになりませんか?
 私ならとっとと養豚場に彼を売りさばいていたと思います。
 また、現役の子に話を聞いたところ、「あれ、おかしいですよね。先輩に、これはおかしいとか話しながら一緒に読んでます。」とのことでした。考えてみればディベートをやっている子というのは情報の取捨選択をできる子なので心配はいらないのかもしれません。
 ただ後輩を見ていて思うのは、間違ったargumentでも、強ければマネをしてしまうという傾向があるように思います。 
 この結果、関西の大学を中心に間違ったシフトのargumentをまねるという傾向があります。問題の深刻性を考えた際こちらの問題の方が対策を打つべき問題であり、彼らのことは相手にせず、代わりに論理的に間違ったargumentへの返し方のレジュメと、ベタ書きをJDAメーリスなどに流した方が ディベート界に有益なのではないかと思います。
2008/10/10 (金) 10:04:11 | URL | 大学で英語ディベートをやっていたものです。 #-[ 編集]
コメントありがとうございます
>大学で英語ディベートをやっていたものです。さま
*以下「コメント主さま」と呼ばせていただきます

どうもはじめまして。
お返事させていただきます。いくつかの内容に分かれますので、それぞれお答えさせていただきます。

○最初に
これまで別の方からいただいたコメントでもそうですが、セオリーという言葉の理解について僕と意見の相違があるように思われる節がありますので、最初にこの点を述べさせていただきます。

僕は「セオリー」という言葉の定義を「ディベートの試合の勝敗を決する枠組みについての理論」と考えており、POPで書かれているTopicality論などの内容はそのほとんどがセオリーではないと考えています。この点につき最初にお断りしておきます。
僕は自分をセオリストとか呼ぶつもりはありませんし、自分の考察も不十分な点が多々あることを実感しておりますが、ディベート理論についてある程度関心のある者としては、POPにおける「セオリー」概念の誤用は残念でなりません。
*もっとも、ネットvsセオリーなる、不毛かつ実質的意味のない二項対立的思考を前提とする呼称が慣例であるというのなら、あえてそれに異を唱えることはしません

○POP筆者の評価について
僕はPOP筆者(一ノ宮氏)のディベートの実績や能力について興味があるわけではなく、従ってその評価をしているつもりはございません。確かに氏は大会でも数々の優勝経験があるようで、きっとスピーチは上手なのでしょう。

僕がここで書いた一連の記事は、POP筆者個人を貶めるためではなく、広く公表されたPOPという文書の論理が誤っている(一言で言うと「セオリーではないものをセオリーと称している」)ということを、いちディベーターとして論じたものです。
POPに記された内容は僕の目からすれば理論と呼ぶべき水準には達しておらず、もしこれをPOP筆者が本気で主張しておられるのだとすれば、少なくとも氏のディベート理論に対する理解(ひいては考察能力一般)についても疑問を感じざるをえません。しかし、ディベートはセオリーだけではありませんし、リサーチの巧拙やスピーチ能力など様々な能力が必要とされるものですから、POPにおける内容不備の一事をもって氏のディベート能力を否定することは不適当でしょうし、またそのつもりもありません。

○氏のディベートに対する取り組み方への評価、あるいは「ディベート大会観」について
コメント主さまのお言葉が正しいのだとすれば、一ノ宮氏は力不足の(それを「豚」と称するのは失礼であり、この点は正直賛同できません)後輩を盛り立てて優勝したということで、素晴らしいことだと思います。
しかし、本当に後輩のことを思っているのだとすれば、変な策を弄せずとも試合で勝てるように後輩を教え導くという方向をとるべきだったのではないでしょうか。

ここからは僕の価値観に基づく私見であり、万人の賛同を得られるものではないことを承知で書きますが、果たしてディベート大会で優勝すること自体に何の価値があるのでしょうか。
僕もディベーターですから、出場する大会の試合では全試合勝ちを目指しますが、そこでは自分の納得行く議論を展開した結果勝つことが目標とされるのであって、勝つことそのものは正直どうでもいいと感じています。
ですから、コメント主さまが「やり方はどうあれ」とおっしゃる点については、個人的には共感できないところがあります。最近は日本人のノーベル賞受賞ラッシュが話題となっていますが、ノーベル賞が尊いのは、対象となる研究内容が素晴らしいからであって、ノーベル賞受賞者という肩書きそのものには意味がありません(ノーベル賞の権威は、過去の受賞者が打ち立ててきた科学的成果の素晴らしさに裏付けられているのであって、その逆ではない)。

急いで付け加えておくと、上記のような物言いは、一ノ宮氏が優勝してきた大会の権威や、氏の実績を否定する趣旨ではありません。その客観的な意味合いについては、何も変わるところがないからです。
しかし、一歩はなれて「その大会から何を得たか」という点で見たとき、POPで議論されている水準の内容や、一部コメントであった(僕にとっては)有意義と思われない考え方に基づく試合によって得たものは何かと考えたとき、そこにはディベートを離れて有用な能力はさほどないのではないかという気もいたします。
これは余計なおせっかいかもしれませんが、選手が求めるべき価値というのは、その大会の優勝という形式的なものではなく、その過程でめぐらせた思考の深さでしょう。そして、ジャッジはそのような思考が試合においてよりよく展開されていることを評価すべきであって、理由のない擬似セオリーを安易に勝たせるべきではないと思います。

そういう意味で、結論としては、僕は氏の全国優勝という結果について、(POPに書かれていたような内容で勝ち上がっていたという条件においては)尊敬する気にはなりません。これは、POPにあった「権威だけで信用してはならない」という考え方に共感した上での結論でもあります。
ただ、これは僕の評価にすぎませんので、コメント主さまやその他の方がどのように評価されるかは自由ですし、そういった評価を殊更に批判するつもりもございません。

○POPの批判的受容について
>また、現役の子に話を聞いたところ、「あれ、おかしいですよね。先輩に、これはおかしいとか話しながら一緒に読んでます。」とのことでした。考えてみればディベートをやっている子というのは情報の取捨選択をできる子なので心配はいらないのかもしれません。

それを聞いて安心しました。ここで僕が書いている文章も含めて、ディベーターとしては対象となる議論を批判的に検討する必要がありますから。

○ディベート界に有益なありかたについて
JDAのMLに記事を流すという対案をいただきましたが、この点については種々の理由から現在のところ見送っております。
その中には「若造なので…」というチキン的な動機もあるのですが、最大の理由は、過去の(加えて最近の)MLでの展開を見るに、論争的内容によってMLが荒れ、無関係な方も含めて多くの方が不快に思われる&結果的にあまり実りがないという結果になりそうな予感がするということにあります。
その点、自分のブログであれば、盛り上がるのはせいぜい自分の管理するブログのコメント欄だけですし、MLと違って逐次長文でお返事差し上げることもできるので、こちらのほうがよいと思ってブログという場での批判を選ばせていただきました。

今回の一連のエントリーについては、正直なところ予想外の反響があり、正直驚いているところです。
コメント主さまのいう「関西の大学を中心に間違ったシフトのargumentをまねるという傾向」が実際にあるのだとすれば、それについてより突っ込んだ考察をする必要があるのかもしれません。それを英語ディベートにつき門外漢の僕が行うことが的確であるかはさておき、POPの見解やコメントとしていただいたご意見などを材料に、ここまでの考察の延長線上に別途検討する余地は少なくないと感じています。しかし、そこでJDA-MLその他の一般的な展開を行う予定はありませんし、ブリーフという形で落とし込むこともないと思います。ありうるとすれば、あくまで私見の披露という形であって、もし僕の見解に賛同する方で何らかの参考にしていただけるのであれば自由に使っていただいてよいという形を取ることになるでしょう。
2008/10/10 (金) 21:06:06 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
いくつか気になった点があります。
1. 「全部書けない」というのは理由になるのか?
「全部は書けないからジャッジが判断する」という意見がありました。確かに「ルールに全部書くことは出来ない」というのは理解できます。しかしながら「じゃあ書かない」というのはいかがなものでしょうか?「警察は犯人を全員逮捕できないから不要だ」という議論と似たものを感じます。そのような曖昧なルールがなぜ放置されているのでしょうか?

2.法律と違うのでは?
記事を見ていると「法的には」という言葉が出てきます。しかしながら、法律においては「裁判官が好き勝手に解釈・判断してもよい」ということはないはずですし、 少なくとも解釈・判断の基準である法律についてはジャッジが勝手に制定することは許されないはずです。
百歩譲って「ルールを基に解釈・判断しているからOK」とします。しかしながら、法律の世界では「ルールに書いていない『ルールのようなもの』を裁判官が作ってそれを基に判断する」ということが許されているのでしょうか?また、それが許されるとして無制限に許されているのでしょうか?
魔女狩り裁判の時代であれば上記のような行為が普通だったとは思いますが、現代においてもそのように教育されているのでしょうか?

3.ディベート=裁判と考えてよいか?
2.と関連しますがディベートと裁判を同一視してよいのでしょうか?裁判においては膨大な法律・判例が存在し、「裁判官がルールを基に解釈・判断をする」と言ってもほとんど解釈の余地がないように思います。また、裁判に参加する人間もこれらを了解して臨んでいます。
その一方でディベートの場合はルールが曖昧でいくらでも解釈の余地があるように思います。加えて参加する人間はそれらについて理解している人間だけとは限らないはずです。
その中でなぜ敢えて法学部的な価値観を使うべきなのでしょうか?
2015/09/01 (火) 12:48:11 | URL | #-[ 編集]
コメントありがとうございます
ずいぶん昔の記事にコメントいただきましてありがとうございます。
以下、順次回答させていただきます。

1.ルールですべてを規定し尽くせないことを前提にどう考えるか
ルールにすべてを規定することができないという点については共通了解になっていると思いますので、これを前提に、どうすることが望ましいのかということを考えてみることにします。
一つあり得るのは、可能な限り細かく規定する、ということです。原理的にそれが難しいという問題は措くとして、当該ルールを採用するコミュニティの間で合意できれば、細かく規定していくことはできるでしょう。

しかし、そのように細かく規定することがディベートにとって望ましいのかという点については疑問があるところです。
第一に、細かく規定しすぎることは、議論の幅を制約し、ゲーム性を削ぐ恐れがあります。例えば、TopicalityについてBetterで見るジャッジとReasonableで見るジャッジがいるルールと、片方しか許容しないルールでは、前者の方が、複数の立場に対応して議論を準備するという幅と、いわゆるShiftの議論を試みる余地があり、大変な反面、様々な議論を展開できる楽しさがあります。また、ジャッジや、ディベート理論を考察する?人間の立場からも、自分で選択できる余地がある程度用意されている方が楽しいでしょう。
第二に、上記とも関係しますが、ルールに解釈の余地や幅があるほうが、現実に役立つ経験ができる=教育的です。ルールがかっちりと決まっている場というのは社会にはそれほどありませんし、様々なルールにうまく対応できる能力が身に付く方が有益です。
第三に、ルールで細かく決めすぎることで、結論の妥当性を欠く場合が出てきます。こう書くと、そもそもディベートで「結論」が決まっているのはおかしいと突っ込みが来ると思いますし、それにも一応理由があると思いますので、ここは議論の余地があることを前提に書きますが、この論題ではこういう議論の余地があってもよい、といった話は実際上あり得るところで、例えば、Kritikは認めない、あるいは特定の要件でのみ投票理由とする、というルールがヘイトスピーチ論題において望ましいのかどうかは、大いに議論の余地があるでしょう。

もちろん、予測可能性が十分担保されないところで議論しても面白くないし、教育効果も上がらないということはあります。コメント主様はこれを危惧されているのだと思いますが、筆者は、現状のディベートにそのような問題があるとは思っておりません。
この点につき、近時NAFAで問題提起があり、規約改正の話題が出ていることは、筆者も承知しております(今回のコメントもそれに関係しているのではないかな?とも推測しておりますが、言うまでもなくそれはどうでもよいことです。)。筆者はNAFAと関係ないのであくまで第三者的立場からの意見となりますが、仮に、ジャッジの判断が予測不可能だということがあるとしても、それがルールで縛るという方向で解決するのかについては疑問があります。推測するに、「ジャッジの判断が予測不可能だ」という不満の多くは、ジャッジの説明能力が低いことに起因するものであり(選手の説明能力が低い可能性もあります。しかしいずれも可能性に基づく「推測」ですので悪しからず。)、ルールを規定したところで、不満の残るジャッジングは続くものと思われます。なお言えば、当該規則改正が志向している「選手の議論を尊重する」という点についても、選手の議論の優劣をどう判断するのかという疑問、例えば「より美人のチームが勝ち」という議論が出てこれに反論がなかったらそれで判断してしまってもよいのかという原理的疑問などなど、種々疑問があるところです。

話がわき道にそれましたが、要するに言いたいことは、全部書けないところを無理に書かないのは、書けないから仕方なくそうしているのではなく、幅を持たせた方が望ましいからではないか、ということです。もちろん、この幅の広狭については議論の余地があるし、そのためにルールを議論することは大いにあってよいと思いますが、幅が狭ければ狭いほどいいというわけではないでしょう。この点についてコメント主様のご意見を是非ご拝聴できればと考えております。

上記を踏まえれば、「警察は犯人を全員逮捕できないから不要だ」という比喩は、ルールを論じる上で当たっていないと思います。別に、ディベートのルールは、あいまいなまま「放置」されているのではなく、敢えてそのように規定されているのだというのが、筆者の現時点での答えです。

2.法律とのアナロジーについて
まず前提として、筆者は、ルールを論じる上で、「法的には」という言い回しは用いていません(ブログ内検索とページ内検索で調べたので間違いないと思います。)。
おそらくコメント主がおっしゃりたいのは、法学とのアナロジーでディベートを論じてもよいのか、ということですが、これは筆者が法学のバックグラウンドを持っているからそうしているだけで、別にそれに従わなければならないということは微塵も思っておりません。筆者が主張しているのは、「私はこう考える」ということと、別の前提に立つ見解に理由がないように思われるということだけです(「法律とのアナロジーで考えなければならない」という趣旨の主張が万が一あったとすれば、修正を要しますので、ご指摘くださいますと幸いです)。

筆者は、ルールを無視して無制限に裁量的判断ができるという主張をしたことは一度もありませんので、この点に関するコメント主様の質問は、率直に言って趣旨がよく分かりません。
「裁判官が好き勝手に解釈・判断してもよい」わけがないことは当然のことですし、ジャッジも、ルールを無視してはいけません。しかし、ルールに従いつつ、そこに規定されていない(ルールだけでは解決できない)問題について、ルールの趣旨に反しない限りでジャッジが裁量に基づき判断することは当然可能ですし、それができなければ判断は不可能です。適用できるルールがないので判断しません、ということでは、ディベートジャッジは判定が出せませんし、裁判であれば判決が書けません。
あとは、その判断がルールの解釈として妥当なのか、ルールに違反しているのではないか、という、判断の当不当の問題になりますし、中には間違った判断も出てくると思いますが、そのことが、ルールの「解釈」をしてはいけないということを帰結するものではないでしょう。それこそ、「警察は犯人を全員逮捕できないから不要だ」という話と一緒で、大変ナンセンスな話だと思います。

3.裁判とのアナロジーについて
この項につきましても、コメント主様の質問の趣旨を図りかねるところがあるのですが、まず一応述べておくと、裁判において法律の解釈の余地がないというのは全く違っていて、先例のない問題はいくらでもありますし、個々の事件ごとに事実が異なる以上、法律の適用結果も当然違ってきます。また、裁判に参加する当事者も、本人が弁護士を使わずに訴訟をやっているのであれば法律をよく知らないことは珍しくないですし、恥ずかしながら、弁護士だって不勉強な人はいくらでもいます。裁判官だって、例えば全員が会社法の最新判例を追っていたりするかというと、そういうわけではありません(追っていてほしいですが…。)。おそらくこの段落は回答に資するところがないのでこのあたりにしておきましょう。
ディベートにおいてルールに解釈の余地があるというのはそのとおりで、ジャッジや選手もルールについてよく考えを巡らせているという人は多くないと思います。だから解釈の余地を狭めて予測可能性が出ないようにするのがよいという考え方も成り立つと思いますが、それは程度問題であり、現状のディベートルール(例えばJDAルール)に問題があるかというとそうでもないのではないかという筆者の私見は、上記1で述べたとおりです。

「法学部的な価値観を使うべき」ということを述べた覚えもないのですが、上述のとおり、筆者は法学のバックグラウンドに基づいて話をしているだけで、それに従えという主張はしていませんし、異なる前提を排除したつもりもありません(理由がないという批判はしています。)。
仮に「法学部的な価値観」というのが、ルールについて解釈の幅を認めるべきとか、ジャッジの裁量を一定程度尊重するという考え方(これも全部の法分野に当てはまるわけでもなくcase by caseですが)を指すのであれば、筆者はそれがディベートという競技をより豊かにするのではないかと思っておりますが、他方で「解釈に幅があってよい」という自説の帰結として、解釈の幅を狭めるべきという立場についても、理由がある限りで尊重すべきと考えておりますので、価値観の押し付けは全く意図するところではありません。
もう少し一般的に、裁判・法律とのアナロジーが説得的でないというご批判であれば、それはそれで成り立ち得ると思います。ただ、stock issue paradigmというものもあるように、ディベートの淵源を法廷闘争に求めることもできますし、裁判は一つの議論の形でもあるので(ディベートとかなり違うことはそうですし、筆者も、裁判での議論形式をそのままトレースする見解はナンセンスだと考えています。)、それを参考にすることには一定の合理性はあると思っています。

以上、お答えになっているのかどうかわかりませんし、一部意図してご質問の射程外の話題にも言及しておりますが、取り急ぎの回答です。
追加でコメントいただけましたら、本業で首が回らない場合を除き、息抜きを兼ねて回答させていただきますので、遠慮なく書き込みください。
2015/09/02 (水) 03:41:12 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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