愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
擬似「セオリー」批判(3:コメントを受けての小括とTopicalityの基本的考え方)
ここまでの内容について(第二回は不評(?)のようですが…)非常に多くのコメントをいただきました。その多くは筆者に対するご指摘ご批判であり、その中には僕の見落としや認識の誤りを指摘していただいたものもあり、大変ありがたく思っております。

というわけで、最初にコメントの中に見られたご意見のうちこれまでの内容との関係で特に説明すべきと思われる点につき、若干の補足を加えておくことにします(その際、具体的なコメントについては言及しません、悪しからず)。
その上で、続きとして梁山泊のテキスト(POPと呼ぶらしいので今後そのように呼びます)の検討に移ります。なお、梁山泊はPOPの完全版の公開を予定しているそうなのですが、とりあえず現在公開されているものを検討対象とし、完全版における修正部分からしてさらに検討すべき部分については、僕の時間があれば言及するという形を取ることにします。そろそろ休みも終わりなので…

補足1.ルールとフィロソフィー(判断枠組)の関係
コメントの中で、愚留米はルールとフィロソフィー、FairnessやEducationの考慮が否定される領域につきPOPの見解を誤解しているのではないかという指摘を受けました。それに対する返答は当該コメントを参照していただきたいのですが、以下ではこれに関係して、ルールとフィロソフィー(判断枠組)の関係について思うところを述べさせていただきます。
最初に、ルールと判断枠組の定義を整理しておきます。ルールとは、明文によって定められ、各試合で適用される取り決めのことです。判断枠組とは、選手が提出した議論についてジャッジが判断し、勝敗を導くための一連の規範を指し、これは各ジャッジによって定められます。ここで注意すべきは、判断枠組とは、あくまで「枠組」であって、出された議論をどのように理解するかという具体的内容とは別物です。

当然ながら、判断枠組はルールに反することは出来ません。しかしながら、ルールは必要とされる判断枠組を全て与えることのできるものではありませんし、ルールだけが判断枠組の源であるというものではありません。ルールが規定していることはディベートの試合を判定するために必要となる要素のうちほんの一部ですし、我々はルールというものが与えられなくても、論題について議論によりその是非を争う競技であるというアクションから、そこに要求されるべき要素を考えることができます。
また、ルールから判断枠組が勝手に出てくるという考え方も採りえません。ルールは多義的でありうるもので、そこからどのような規範を導き出すかはジャッジによって異なりうるし、その過程では明文だけでなくルールに込められた趣旨なども考慮されます。例えばどのような場合にニューアーギュメントとして規制対象となるかについて、明文だけでは答えが決しない場合が多々あります(昔触れた、総括スピーチがニューアーギュメント(遅すぎる反論)に当たるかどうかというエントリーなどを参照してください)。ルールで禁止されているからダメなんだ、という単純な問題ではないということです。

ですから、梁山泊が否定されるようであるFairnessやEducationの観点については、少なくとも2つの領域で考慮されることがありうることになります。第一に、ルールから判断規範を導く場面で、こうした観点からルールの解釈やその射程の限定ないし拡大が行われる可能性があります。第二に、ルールを補充する規範の根源(正当性の根拠)として、様々な価値観が考慮される可能性があります。
もちろん、そこでどのような価値観を考慮できるかについては、考慮可能だという理由が求められます。その理由については第1回で述べた通りなので(より詰めて考える余地もありますが)ここでは述べません。一点Educationという価値について補足しておくと、ここで教育と言っているのは「核戦争なんて非現実的議論は採るな」とかいう意味ではなく、「意義のある議論をしろ」という意味合いだと思います。核戦争の論点だって、現実的な論証がされれば極めて意義深いわけです。核戦争の議論がEducationの観点から問題になるとすれば、核戦争のDAは強いからリンクに無理があっても立てろ、とかいう安易な考え方にあるということです。そこでは、実はEducationという価値観が判定上使われているのではなく、単に論証不足だと言っているだけです(EducationやFairnessは枠組を考える際の概念であって、事実認定を左右するものではない)
*この例は、Educationという価値に批判的な論者が少なくないようであることに鑑みて用いたものです。梁山泊の見解とは多分無関係です

最後に、参考文献として、ルールを考える方法論の参考として、法律学の参考書を紹介しておきます。僕が法学を学んでいるから挙げているだけで他意はないのですが、日本語で書かれたディベートのルールを解釈する上では、英語の参考書を読むよりは遥かに参考になると思います。

道垣内正人「自分で考えるちょっと違った法学入門」有斐閣、新版、1998年
伊藤正巳、加藤一郎編「現代法学入門」有斐閣、第4版、2005年



補足2.「英語ディベート」「日本語ディベート」という区別の有意味性について
今回コメントをいただいた方の多くは、英語ディベートに実際関わってこられた方のようです。その中で、愚留米は英語ディベートを実際に見たほうがよいとか、英語ディベートではこうなっているだとかいう感じのコメントがありました。確かに英語ディベートを観戦するというのは考えてみたいところですが、僕がここで批判している対象は「英語ディベート」ではなく、「POPという文章に記されている議論」ですから、これは的外れな指摘ではないかというのが正直なところです。
基本的には、英語ディベートがどうとか、日本語ディベートがどうとかいう区別や線引きは無意味なものだと思います。せいぜい、コミュニティを呼称する一個のラベルにすぎなくて、英語でディベートをやっていても日本語でディベートをやっていても、やっているのは同じディベートです。言語が変わると理論も変わると言いたいのかもしれませんが、差異が生じる理由が示されない限り、それは要するに「破綻している」ということです(僕は、ディベート一般に妥当すると考える形で自説を展開しています。それが論理的に破綻している可能性はもちろんあるのですが)。

もっとも、英語ディベートという枠組でのみ適用があり、かつ妥当性がある理論がありうるかもしれません。例えば、Nativeでない人間が外国語でディベートを行うということから要求されるものがあるだとか、そういう考え方はありうるでしょう。コメントにあった「Non nativeは誤ることが多いので、極力自分の知識を排除しないといけない」というのは一つのありうる解答だと思いますし、そのように考えた上でジャッジされるのであれば、その態度は尊重されるべきでしょう。
しかしながら、あくまで私見として述べますと、そんなに無理して「英語で」ディベートをする理由っていったい何なのだろうかというのが単純に疑問に思えます(日本語ディベートが盛り上がっていないとか英語の方がかっこいいとか英語ディベートコミュニティが魅力的だとかいろいろ理由はあるのでしょうが)。また、Non nativeなので語句解釈について謙抑的であれという姿勢を一貫させると、Affの議論もNegの議論も評価不能になるのではないでしょうか。すなわち、どこかでジャッジ自身の「Non nativeなりの見識」を使う必要があるところ、その基準は特にTopicality(論題の解釈)についてより厳格にしなければならないという根拠は、薄弱であるように感じます(ある程度高速のスピーチで読み上げられる専門的内容のエビデンスを正しく理解する方が、明文で出ている論題の解釈より難しいと思います。リスニングが苦手なので…)
*あと、少なくともFairness云々の話については、言語で何か違いが出るという性質ではないでしょう。

関連して述べさせていただくと、英語ディベートでは…という議論の方法は、それ自体が無根拠であるように思います。そこでは「英語ディベートでは常識ではなく理論のみで勝敗を決する」と言われるのですが、その当否はともかくとして、「英語ディベートではそうなっている」と理由付けもなく断言されることは、そのこと自体が「英語ディベート」という常識を前提としてしまっているのではないでしょうか(本当にそんな常識が英語ディベート界に存在するのかは知りません)。
僕の議論が日本語ディベート(ディベート甲子園?)の常識を前提にしているという批判もありましたが、僕は議論の中で「日本語ディベートではこうなっている」ということは一言も述べておりません。僕が前提としているのは、議論一般に臨む姿勢としてどういうことが普通なのかという次元での常識にすぎません。僕は日本人なので、それが「日本語ディベート」ということに感じられたのかもしれませんが…。

補足3.「論理」とは何か?常識なくして議論ができるのか?
愚留米の議論は常識に立脚していて誤りだという批判もありました。
そもそも梁山泊の見解が論理的に成立しているのかということはさておき(僕はここでそれを問題としています)、僕の見解の当否については独立に問題となりうるので、一応この点も考えておきましょう。
僕の提案は、ディベートで尊重される「論理」とは何かということを真剣に考えた方がよいということです。それが「自分たちが普段試合でやっていること」だとすれば笑い種でしかありませんが、そこまでひどくないとしても、「論理というのは常識から離れて考えることだ」という程度の(というかこれも定義になってない気もしますが)考え方であれば、ちょっとどうかと思わされます。
そもそも、論理というものには様々なレベルがありえます。記号論理の世界では、それこそ極めて厳密に論理というものを判断するようで、その専門家からすれば、僕のような法学生の考え方は論理として理解しがたいそうです。しかし、議論をする上でそのような厳密性が要求されるといえばそうでもないでしょうし、そんなことを考えながらディベートできるものではないでしょう。我々が普段考える「論理」というものは、0か1かという二値的なものではなく、信じられるかどうかといった、幅のある考え方だと思います。そこでは「合理的かどうか」という考え方が支持されるのではないでしょうか。

そこでは、ある種の常識に照らし合わせて合理性を示すという方法も可能です。というか、全く常識を適用せずに真理を判断することなどできません。ディベートで使う言語も、その多義的な解釈から自然な解釈を導いている(Topicalityを論じるスピーチそのものも多義的な文章である)点で常識に属しますし、その他議論を理解するバックグラウンドも常識です。常識を否定するらしい英語ディベート界(本当かどうか知りませんが!)では、Japanese government(JG)と聞いたときに何を考えるのでしょうか。首都はどこ?人口はどのくらい?国家であるということも分かりませんね。そもそもJGなるものは実在するのですか?
先ほど挙げた数理論理学の例であれば、厳密に導かれた公理などから一義的に結論を導くことが出来るのでしょう。しかし、競技ディベートは数学の証明問題とは違います。それは、そもそも時間制限があって厳密な証明(前提となる社会情報一般についての定義など)ができないということでもありますし、政策判断を争う以上、そこでは厳密に論理的ではない思考方法が採られている現実を反映することが許されており、合理的であるということもあります。

それでもなお、ディベートでは常識を排除して議論すべきだという主張はありうるのかもしれません。僕にはそうは思えませんが、もしそのように考えるのであれば、常識とは何であるかを規定した上で、①なぜディベートでは常識を排除しなければならないのか(必要性)、②常識を排除した上でディベートは可能か(許容性)を論証する必要があるでしょう。僕の見る限り、これまでコメントでいただいた批判は、このいずれについても理由を示していないように思います。
個人的には、ディベートでは論理だけで勝敗を決する、という考え方は、非現実的であるとともに問題の本質を外しているような気がします。真に検討対象とすべきは、ディベートでどこまで常識を適用する余地があるか、ディベートにおいて許されない「常識による証明の免除」とは何か、ということだと思います。これは具体的には、判定の基礎として公知の事実などをどこまで含めることが出来るかといった細かな議論になったりするのですが、POP批判とは別にまた考えてみたいところではあります。


以上、長い補足でした。
それでは、ここから引き続いて、前回の続きです。いよいよTopicalityの具体的な記述についての検討に移ります。

THE PERIOD OF "period"



BACIC TOPICALITYについて(21頁~)

長いので、内容ごとに区切ってみていきます。なお、これ以降はPOPに限らず一般的に考えられているTopicalityの理論についても疑問を呈する形になりますが、私見ということでご理解ください。もちろん私見に対する批判も大歓迎です。

○THESIS(21頁)
この項については概ね正しいことを書いていると思います。ADの要素の1つとしてTopicalityを位置づけるという考え方には全面的に賛同します。ただ、僕の場合はSolvencyの枠内で整理できるのではないかと考えており(SolvencyはTopicalな行為から生じているものである必要がある、という理解)、ADがTopicalというよりはADの発生する過程がTopicalなものに拠っていると説明する方が自然だと思うのですが、これは好みの問題でしょう。
(ちなみに、僕のように考えると、この手の議論をTopicalityと呼ぶこともまあ違和感はなさそうだということになりそうです。しかし、これも瑣末な問題だし、個人的にはNon Topicalityという表現の方がよさそうな気もしています)
ただ、最後の段落について、もしここが「Negが仕掛けないとTopicalityの問題が出てこない」という趣旨を言うのであれば、疑問があります。これは後の議論にも関係しますが、TopicalityをADの一要素として考えるのであれば、(Taburaの立場であれば別論)他の要素――Inherency、Solvencyなど――と同様、Affの議論がそもそも怪しい(明らかにTopicalではない)という場合、Negの指摘がなくてもcritic outすることはできるというべきです(だってAffが示すべき要件なのだから)。

○TOPICAL PRESUMPTION(21~22頁)
Topical presumptionの説明については正しいと思います。ちなみに僕は「置いていないジャッジ」です。TopicalityもSolvencyと同様に考えるので当然です。

○REQUIREMENTS(22~23頁)
Topicalityの要件がInterpretation(論題の解釈)とViolation(論題からの逸脱)だけであるという指摘についても正しいと思います。ただ、より突き詰めれば、InterpretationはViolationを説明するための前提に過ぎず、Violationだけが唯一の要件であると言うこともできそうではあります。また考えてみたいところです。
Impactが証明不要であるということについては、試合での議論展開においてはその通りなのですが、いちおう「なぜTopicalityがAffを勝たせるのか」という理由は確認しておくべきです。特に、彼らはADの一要素としてTopicalityを説明しようとしているのですから。通説では、Affは論題を肯定する義務があるといった説明をしますが、そもそもResolution Focusの立場を採るなら(多分これも通説)、Affは事前に定められたResolutionについて常に抽象的には肯定しているといえます(Non-Tなプランしか出していないということが直ちにResolutionを否定しているということにはならない)。通説の見解を維持するには、Affが一旦論題を支持する方法ととしてプランを出した以上、それによって議論が進むのであるから、Negの期待や、議論が論題の下でかみ合う必要性などを考慮し、FairnessやEducationの観点からTopicalなプランを出すように推奨する必要がある…といった別途の説明を要すると思います。
で、僕の立場はというと、そもそもTopicalityはADがResolutionをサポートするものであるか(Resとの関係でSolvencyがあるか)をチェックする議論であって、ADを切ることになっても直ちにAffを負かす絶対・独立の理由になるというものではない(ResからADが出ているかどうかは、プランがTopicalかどうかとは独立に判断できます)というものです。ただ、出されたADが全てプランを前提としている場合、TopicalityによってプランがNon-Tとされれば、結果的にADは全てResとの関係でSolvencyを有さなくなり、結論としてはAD=0で負けるということです。

○THE STRONGEST WEAPON FOR AFFIRMATIVE(23頁)
この部分についても特に異論はありません。実際、Negがいくら変な解釈を出してきても、Affのプランがきちんと論題を肯定していると言えればよいわけですからね。

○HOW TO JUDGE INTERPRETATION(24~25頁)
「間違った解釈は無視される」ということが書いてあり、これは非常に正当です。この記述にもかかわらず、第一回で多少揶揄的なことを書いてしまったのはよくなかったですね。コメントで指摘してくださった方、どうもありがとうございます。
紹介されている3つの立場については、それぞれ理由がありうるのでしょうが、僕はReasonabilityしかありえないのではないかと考えています。Topicalityが問題とするのはAffがResをサポートしているか(僕の説明では「ADがResから出ているか」)ということなので、とにかくAffのアクションがResの解釈として妥当かどうかだけが問題となるはずです。この点はPOPも同様の見解に立っているようです。

○HOW TOW BEAT THE AFFIRMATIVE DEFFENCE?(25頁)
ここも特に問題ないと思います。

○STANDARD(26~28頁)
基本的には問題ありません。しかし、ReasonableのジャッジにおいてはComparisonタイプの基準は通用しない、というのは違うように思います。これは使い方の問題です。例えば、「より限定的な解釈を採るべきである」という基準(本当は論題の具体的語句や対象領域に即して理由付けすべき)を出す場合、論題が予定している解釈のあり方はこのようである…といった議論を展開できれば、Reasonableジャッジに対して「Affのプランは(あるべき解釈の幅からすると)逸脱している」と言わせることは可能でしょう。うまい理想例を出してそれとの比較での乖離が言えれば、結果としてAffのプランそのもののUnreasonabilityも証明しうるということです。

○THE LIST OF STANDARD(28~29頁)
いろいろStandardが載っています。個々の基準の理由付けが載っていないのが残念ですが、完全版に期待しておきます。それにしても、関税を尊重するとか、布団を尊重するとか、一体何を言ってるんでしょうか。彼らがそれを支持しているというものではないのでしょうが、だったら載せるなと。

○HOW TOW BEAT THE AFFIRMATIVE DEFFENCE?(25頁)
AffのInterpretationにはClear Cut Boundary(明確な基準)がなければならない…ということを書いています。しかしながら、あればそれに越したことはないとはいえ、常にそこまでAffに求められているのかと考えると、疑問のある内容です。
ここで出されている例(Boundaryがある/ないが逆になっているという誤植はスルーします)は、「ほとんどまたは全ての(all or most)職種で外国人労働者の雇用を認めるべき」という論題で「保険会社以外の職種で外国人労働者の雇用を認める」というプランを出す場合のMeetを示すためには、「ほとんど」の定義として「70%以上」などの明確なものを出し、保険会社を除いた職種がこれに当てはまることを示す必要がある…というものです。
しかし、我々は数字などで明確な境界線を引かないとしても、ある対象が「ほとんど全て」と言えるかどうかを判断することはできます。もちろん、保険会社がどの程度の大きさを占めるのかなどの情報は必要でしょうが、保険会社を除いた対象がどのくらいであるかということについては、感覚として概ね分かります。

何を言いたいかというと、Clear Cut Boundaryは一つの説明方法に過ぎず、Affに対する絶対的要求ではないということです。こう書くと、感覚的な解釈は論理的でないからありえない…とか反論が来る気がしますが、既に述べた通り、常識的感覚というのもディベートからは排除されていませんし、我々が日常(そして政策論争など高度な意思決定において)使用するレベルの「論理性」は、明確な基準以外を許容しないものではありません。さらに踏み込んで言うなら、Topicalityという議論の実質的な意義はAffの揚げ足取りではないのですから、厳密性に躍起になるのはどうかと思います。

関連して、ディベートでの議論は客観性を有さなければならないということが書いてあることについては、そこでいう「客観性」とは何かが問題とされるべきです。確かにディベートは客観的な勝敗がつけられる必要がありますが、それはいわゆるジャッジの主観に基づく判断を排除するものではなく、客観的というのは「AffとNegのどちらにも予断を持つことがない」ということを意味するにとどまります。Affに不当に有利な解釈をするのはアウトですが、判断の必要がある部分についてジャッジの感覚で評価すること自体はセーフだということです。「客観性が求められるディベート」と言ってもそれだけでは無内容で、なぜそれが求められるのか、何が客観性かということをきちんと詰めて考えることが必要なのです。
ついでに言うと、ジャッジの主観を完全に排除した場合、ほとんどのディベートの試合で判定は出せません。ADやDAの帰結が常にClear Cut Boundaryを持っているわけではありませんし、たとえ両方とも数字で出たとしても、「ADは100人死亡、DAは100億ドルの損失」ということになったとき、ジャッジはどのように明確な判断をなしうるのでしょうか。ここでも「1人の死亡を金銭に換算せよ」などとおっしゃるのかもしれませんが、そもそもそんな換算が常に可能であると考える前提自体に無理があるというべきです。

さらにコメントしておくと、どうもPOPの著者はディベートを特殊なコミュニケーション活動と捉えていらっしゃるようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。手続的な特殊性などや、論理を「尊重」(絶対視とは限らない)するということは指摘できるでしょうが、ディベートが特殊に論理的である(べき)とか、そういったことが本当に言えるのかは極めて疑問です。ポリシーディベートでは現実社会で問題となっている社会問題が論題に選ばれ、議論されていますが、それは「社会問題についての議論」という普通の(あるいは少し高度な)議論を志向していることを意味するのではないでしょうか。

○INTERPRETATION OFFENCE/DEFFENCE(31頁)
NegのInterpretationがReasonableでなければならないという考え方はおかしいのではないか、と断りつつ、そういうジャッジもいるから一応そのような反論方法も紹介しておこう、といった形です。
NegはReasonableなInterpretationを出さないとTopicalityで勝てない、というのが間違っているという点については僕も同様に考えます。ただ、それが精神衛生上どうこうというのは蛇足であって、僕は理解しがたい内容を含む記述に対してもこうしてコメントをしているわけです。暇なだけですか。

NegがReasonableなInterpretationを出す必要はないということについて補足しておくと、これは「NegはそもそもTopicalityに対してInterpretationを出す必要はない」という意味です。どういうことかというと、TopicalityはAffのプランがNon-Tであること(AffのプランをTを言う根拠としてのAffのInterpretationが間違っていること)を示せば成立するところ、そのためにNegが独自にInterpretationを示す必要は義務ではないということです(AffのInterpretationを正すということが独自のInterpretation定立だと考えるなら別ですが、これは言い方の問題に過ぎない)。
この話は後で出てくるTopical presumptionの説明と関連しているので、そちらで詳しく説明します。

○VIOLATION OFFENCE/DEFFENCE(32頁)
この点は特にありません。

○EXTRA TOPICALITY(32~33頁)
Extra topicality(論題外性:Affのプランの一部がNon-Tという議論)がabsoluteな投票理由にならないというのはその通りでしょう。ただ、POPでは普通のTopicalityがabsoluteな投票理由になる理由をきちんと書いていないので、「普通のTopicalityとは違い」という記述には意味がありません。
僕がどう考えるかは既に書いたとおり、普通のTopicalityもabsoluteな投票理由にはならない(結果的にそれに近くなるだけ)というものです。この考え方からすれば、TopicalityはExtra topicalityの一種(特に成功したもの)で、absolute PMAみたいなものだと理解することになります。こっちの方が一般的な理解に比べて理論的に明快だと思うのですがいかがでしょうか。

○EFFECTS TOPICALITY(33~34頁)
ここでは、少し考えが整理できていないところがあります。もしよろしければ読者の方々のご意見をいただければうれしいです。
まず、effect topicalityの定義についてですが、POPでは「Effect型のResolutionの下であるADがAFF PlanのEffectではなく、Plan Action自体から発生してしまっていることを指摘するTopicality」だと書かれています。一方、蟹池ほか4名著「現代ディベート通論」(ディベート・フォーラム出版会、復刻版、2005年。以下「通論」とする)58-59頁では、effect topicalityが問題とするのは、Action自体はNon-TだがEffectから見ればTopicalな場合にAffの(Action自体Non-Tの)プランは命題的か否かということだという趣旨が書いてあります。

なお、POPに出てくるEffect型(結果型)のResolutionというのは、行為ではなく目的とする結果を支持させる論題のことで、例えば「日本は間接税の割合を上げるべきである」というようなものがあります。このような論題では、Affはプランを出す場合には結果を実現するための方法を提案することが要求され、それが結果をもたらすことまで示してはじめてそのプランがTopicalになります。詳しくはTについて日本で最も詳細に検討していると思われるサイトのコンテンツ「過去のresolutionと解釈のコツ」を参照してください。
Effect型の場合に問題となるのは、Plan Action自体からADが発生しているかどうかという話ではなく、Plan ActionがTopicalかどうかということです。Plan ActionがTopicalでなければ、Plan ActionはADの発生源とはなりませんから、これは重要なことです。一方、TopicalなPlan Actionであれば、その結果は全てADになるのかということも問題になりますが、ここではPlan Actionが論題の所期するEffectとどの程度密接に関わっているかによるのではないかと考えます。すなわち、論題のEffectを間接的に達成するアクションについては、その「間接的促進過程」そのものはADの発生源にならず、論題の結果だけがADの発生源になるということでしょうか。一方、「日本は刑事訴訟における証拠資料の範囲を拡大すべき」という論題では、「自白の補強法則(自白だけで有罪に出来ない)をやめる」などのアクションはそれ自体が論題の政策であるので、このアクション自体から出るADを論題によるADということが出来ます。とにかく、論題とADの対応こそが重要なのであって、プランは単に論題を具体化してADの説明を容易にする一手段に過ぎないということです(Topicalityをabsolute Voting issueと考えると、必ずしもそう割り切れないのでしょうが)。

話がそれましたが、ここで例として挙げられているところを見ていきましょう。
POPでは、「日本は増税すべき」という論題でAffが「日本政府が歳出を増やす」というプランを提示し、その上でメリット1として「歳出拡大が需要を増大させて経済をよくする」というもの、メリット2として「経済の向上が税収を増やし、それにより政策の選択肢が増える」というものが出されたというものが設例として挙げられています。
そもそもこの論題が結果型なのかもちょっと怪しいところで、増税というのは、炭素税の導入と一緒で、税率を上げるとか新税を作るような行為なので、抽象的な行為型論題のように思えます。この点はincrease taxesの解釈によって左右されるという指摘が最後にありますが、そういうことです。とりあえず結果型と考えておきましょう。

通論の考え方によれば、effect topicalityとは、以上の例のうちメリット1を問題とするものではなく、メリット2の途中までのリンク(プラン→メリット1→税収UP)を理由にAffのプランがTopicalであるといえるかどうかを問題とする議論です。メリット1は当然にNon-Tなアクションから発生している、あるいはメリット2の説明の前提に過ぎないので、メリットにはカウントされません。ここで、メリット2は結果として税収を増やしているので(これは政府が税率を上げるなどの政策ではないから「増税」ではないのですが、それはさておき)増税されたものと見ることができると考えたとき、増税そのものでない歳出増加なるプランをTopicalといえるかどうかが問題だということです(そこが認められるなら、メリット2はTopicalになる)。
結果的に増税になっている以上そのプランは論題の示す結果を達成しているからTopicalということになります。結果型の論題なので当然ですから、独自の概念は不要です。ただし、もし論題が「大幅に」増税すべきというもので、AD2がとても大きいので結果的に大増税になるからTopicalということができるかというと、そのようなプランはTopicalにならないということがいえる余地があります。なぜなら、そのようなプランは、結果的に増税の結果が出ることを条件にしかTopicalにならないものであるから、そのような主張はEffectの程度という議論の結果によってTopicalにもNon topicalにもなりうるというものにすぎず、Affの立場として論題を支持しているとは言いがたいからです。とはいえ、これは結局「大幅に」という語句が肯定されていないという普通のTopicalityにすぎませんから、あえてeffect topicalityと言う必要はないのかもしれません。したがって、effect topicalなる概念の独自の意味は否定されるということになります。…というのが通論の説明です。

一方、POPの説明は上記の例につき「AD1はEffects Topical、AD2はTopical」としています。AD1は結論としてEffect topicalを否定しているのでNon-Tという点では結論を同じくしますが、通論の見解からは、そもそもAD1は議論するまでもなくアウト(プランが論題を支持していない以上、論題からADが出ていないことは明らか)ということで、こんな当然のことを独自の概念で問題提起する必要はないということになります。
AD2はTopicalとしていますが、この点は論題をEffect型と考える限りその通りです。その後の補足説明(AD2もeffect topicalでは?というところ)も多分正しいです。

以上、POPと通論の見解を並列に検討してみたのですが、どっちも言っていることは外れていないような気がしますが、両者の見解が合致しているかというとそうでもない気がします(矛盾までしているとも思えませんけど)。そこで思うに、通論のeffect topicalityの説明も、POPの説明も、この点の問題状況を十分説明できていないのではないでしょうか(だから僕の上記の議論が整理できていないんだ…というのはほとんど責任逃れですね)。これは、「重要なのはプランとADの関係ではなく論題とADの関係だ」という点が十分意識されていないからではないかと思うのです。
effect topicalityとか何とか言っても、結局判断すべきは「そのメリットは論題から生じてるのか?」ということ一本だろうというのが、TopicalityをSolvencyの議論と捉える僕の立場からの見解です。そのように考えると、結果型の論題におけるプランの役割は「論題の必要的具体化」(抽象的なアクションの想起が難しく、結果的にADの説明がほぼ不可能だから)ということになるのですが、そこで具体化することはADを論題との関係で説明するための手段に過ぎず、そこでTopicalityを問題とすることの本質は「論題の具体化結果からADが出ているか」ということです。
こう考えると、effect topicalityという独自の用語を立てる意味はなくて、その意味でPOPの説明は徒労に終わっているということになります。一方、通論も「(結果型メリットでは)どんな行為も結果さえ導けばTopical」と書くだけで、その先のADの妥当性につき説明がない点で不十分に思えます。

結論としては、POPの言うとおり、肥満児に痩せろというときに「ウォーキングすれば心肺が強くなるぞ」というADを言っても意味はないので、こういう議論はスルーすべきです。ただ、それはeffect topicalityという用語を使って記述するまでもなく、そもそもADの成立要件として必要なTopicality(僕の場合Solvencyの一部)が欠けているだけと議論すれば足りるということです。

○USHIRONOSHOUNENDARE...AIKIDO TOPICALITY(34頁)
ネーミングはともかく、そういう議論もありでしょう。相手の議論を活用することは重要です。

○TOPICAL PRESUMPTION AGAIN(34~35頁)
この点に関する僕の見解は単純で、そもそもAffに特別なTopical presumptionなどなくて、合理的だと思えなければTopicalityを理由にADを切る(一般的にはAffを負かすと表現します)ということです。もちろん、他の議論に比べてストライクゾーンは広いかもしれませんが、それでも、特別な説明がない限り、常識的な理解に合わないプランやそれに基づくADは評価しません(この点「常識」という考え方に異論はあるでしょうが、これは個別の返答のほか、後日本文の中でも詳しく説明したいところです)。

POPでは「何かしらのInterpretationが提出されたらTopical presentationが消える」という見解を支持していますが、そうなるとInterpretationの提出行為というのは単なる「儀式」となるのではないでしょうか。この点につき、①そんな儀式だったらもはやInterpretationを出さずに「AffのプランはNon-Tだと思う。以上」と言うだけでもよいのではないか?という方向性や②儀式化はよくないので、最低限の疑いを持たせるだけの批判をする義務がNegにはある、という方向性がありえます。
僕は①をおしすすめ、そもそもTについてNegから反論があったかどうかに関係なく、ダメなものはダメとして勝手にTでAffを負かすこともできると考えます。これはかなり少数説だと思いますが、TopicalityがADの一要素として考えられることを前提とすれば、理由はあると思います(他の要素はcritic outしても許されるというジャッジが多いでしょう)。
一方、②をおしすすめ、ReasonableなInterpretationの提出をNegに求めることもありうるでしょう。もっともこの場合、Affが最終的に示すべき基準よりは緩く解する(合理的疑いの提示、というもの)ことも可能でしょう。理由付けは多々ありえて、TopicalityのImpactの大きさからして、これを審理するにはそれなりの論拠を要求するというFairness(かな?)によるものや、そもそもNetについての反論だって理由がなければ採らないわけで、Tの「理由」は最低限のReasonabilityによって根拠付けられるべきだろう、というものが考えられます。

というわけで、POPのように、②の方向性をばっさりと切ってしまうのは行きすぎ&自分の立場の「儀式性」に無自覚すぎるきらいがあり、他方①の可能性を検討しない点が不十分だというべきです。
なお、AffもNegもunreasonableな見解を出したときにどうするんだということが書いてありますが、これはむしろTopical presumptionなる特別扱いをしていることそのものの問題ではないかと思います。僕の見解であれば、この場合TopicalityでAffは負けとなります。Negが言ったか言わないかでUnreasonableなInterpretationしか出さないAffが勝つか負けるかが左右される(言わないとAffは勝つ)ということの不合理性からすれば、この見解が支持されるべきだと思いますが、どうでしょうか。


かなり長くなりましたが、今回の内容は以上です。
途中、混乱した部分もあり、いつも以上に読みにくくなってしまっています。POPの見解も全てが間違っているわけではありません(本当に理解できない部分は、彼らの基本原理と、そこから導かれる一部の議論だけなので)。そのため、自分の見解も整理されるという点では、ここで長文を書いているのは僕にとっても無益な活動ではないと思っています。

ただ、ちょっと長すぎてアレなので、今後はもう少しコンパクトに書ければというところです。一応受験生なので…
コメント
この記事へのコメント
>Japanese government(JG)と聞いたときに何を考えるのでしょうか。

単純な質問ですいません。でも英語debate界では結構重要なんで・・
あなたはThe Japanese government
をどのように解釈しますか?
2008/09/30 (火) 16:09:25 | URL | Give me the answer #-[ 編集]
お返事になっているか分かりませんが
>Give me the answerさま
ご質問ありがとうございます。
僕がこの質問に価値のある回答を与えられる人間なのかどうかよくわかりませんが、一応お返事差し上げます。

”The Japanese government”の置かれている文脈にもよるのでしょうが、ぱっと聞いて思い浮かぶのは「日本政府」という理解でしょうか。
心配になってGoogleなどで検索をかけたのですが、”The Japanese government”で日本政府を意味しているらしき用例は多数ありましたし、公式文書(ポツダム宣言など)にも日本政府という意味で採用されているようでした。

ただ、英語の解釈とかではなく、日本政府という語句の意味するところについては、いろいろ問題となりそうです。一般的には政府とは「行政府」を意味するように思われますが、行政権の概念については学問上さまざまな争いがあり(国家作用から立法作用と司法作用を除いたものであるとする控除説が通説です)、具体的にいかなる権限を有する組織なのか…と議論する余地がありそうです。
しかし、そういったことを考えなくても判断できる状況であれば、さしあたっては我々が日常で理解するレベルでの「日本政府」として考えればよろしいのではないでしょうか。
2008/09/30 (火) 22:11:51 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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