愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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擬似「セオリー」批判(4:Topicalityの意義とその射程)
休みが終わる前に重要部分については全て言及しておこうということで、続きを書くことにしました。今回でTopicalityについての批判を全て終えるのですが、残りの部分で理解できない部分については、これまで僕が論じてきたような考え方から当然に否定されるようなものですから、改めて取り上げる必要はないでしょう。
それだとアンフェアなので、賛同すべき部分や、やっぱりおかしいと思う部分についてだけは、別途取り上げてもよいとは考えていますが、これは時間が許すかどうかという問題です。とりあえず、今回の内容で僕の述べたいことはほとんど出たといってよいでしょう(今のところは)。

というわけでさっそく検討に進みたいところなのですが、今回は趣向を変えて、POPを逐次見ていくというのではなく、僕の考えるTopicalityの体系に合わせて彼らの議論を見ていくという方式をとります。というのも、そもそもPOP(や一部コメントであった方々)のTopicality(ひいてはディベート)に対する考え方は、僕のそれと大きく異なっており、なおかつ理由のないものと見えるからです。
僕はあくまでセオリーについての議論をしたいので、以下で検討するのは全て理論的側面についての論点です。過去の論題が具体的にどう解釈されるべきだったか云々という点は検討外に置き、POPでのTopicalityという議論についての考え方がいかに無根拠であるかということにつき反省を促すという構成で議論を進めます。

THE PERIOD OF "period"



1.Topicalityという議論の意義(正当化根拠)
最初に、そもそもTopicalityという議論がなぜ投票理由となるのか、Topicalityとは何を目指す議論であるのかという点について見ていきましょう。これは、POPの言い方を借りると、TopicalityのLogical Legitimacyを探求する作業です。POPではTopicalityのLogical Legitimacyについて何らの論証もしていません。彼らの理屈によれば合意されたルールで許容されたものにLogical Legitimacyがあるらしいのですが(POP12頁)、ここでいう「許容」の意味がよく分からない(禁止されてなければ何でもよいのだろうか?)のはともかく、NAFAのルールにはTopicalityが投票理由になるといった規定はどこにもありません(ADやDAについてもそうです)。
この点はPOPのみを責めるのは酷で、実際には少なくないディベーターが、なぜTopicalityが投票理由になるのかという点について十分な検討をしてこなかったのではないでしょうか。しかし、ここをきちんと議論しない限り、Topicalityについてまともな理論的検討などできるはずはありません。

それでは、Topicalityとは何でしょうか。POPの言い方に従って、ルール(あるいは競技が当然に予定する議論方法)からTopicalityの正当化根拠を検討してみましょう。
前掲のNAFA規則では、「予選及び本選を通じての全ての試合は、予め主催者が提示した論題(resolution)の下で肯定側と否定側に分かれて行われる」(3章2節1項)とされています。試合の勝敗についてヒントになりそうなのは、(2章のジャッジに関する規定を除けば)ここだけです。論題の下で肯定側と否定側が議論する、ということです。
一般的なディベートのあり方を参考にもう少し噛み砕くと、ディベートでは論題の是非をめぐって肯定側と否定側が争います。肯定側は論題を肯定し、否定側は論題を否定することがその試合の目的で、ジャッジは最終的に「論題は肯定されたか」を判断することになります。

このような当たり前のことを考えただけでも、「論題が文法的に誤っているかどうか」ということは本質的問題ではなさそうだということは思いつくわけですが、その話は後にとっておきましょう。このような枠組において肯定側が勝つためには、論題の採択(政策論題なので「採択」と呼びます。以下同じ)が望ましいという理由を出す必要があります。それがADに当たります。
このADは、論題の採択を支持する理由である必要があります。「日本は死刑を廃止すべきである」という論題で「原発を廃止すると核汚染が防がれる」と主張したところで、論題は肯定されません。これは、ADには論題との対応関係が要求されると表現することができます(DAと論題はどうか、というのは別途問題となりますが、ここでは省略します)。この対応関係の有無について問うのが、Topicalityであるということができます。
例えば、「日本は死刑を廃止すべきである」という論題の下、Affが「日本は死刑をやめて終身刑にしよう」という主張をし、終身刑は死刑で侵害されていた囚人の人権を守るというADを議論したとします。これに対して、「終身刑は死ぬまで人を閉じ込めるという点で『時間による死刑』だから、Affは死刑を廃止していない」という攻撃をするのが、Topicalityです。
しかしながら、もしAffのADの中で「死刑であれ終身刑であれ、閉じ込めたまま死をもたらすことに固有の問題があるところ、死なせることをやめればそれだけで問題は解決する」ということが言えていたとすれば、Affのプランが実際には死刑廃止を言うものでなかった(終身刑もまた死刑だった)という場合でも、当初問題とされてきた「日本は死刑を廃止すべきである」という理由付けとして「死をもたらす刑罰には固有の問題がある(からそれを廃止すればその問題がなくなるだろう)」というものが見出せる以上、論題が肯定される余地はあります。これはおそらく通説ではないのですが、あくまで論題が争われているのだ(Resolution Focus。多分通説)と考えれば、Affがどういうプランを出したかというのはそれ自体重要ではなく、ADと論題に対応関係があればOKということができます。

一般的には、AffがNon-Topicalなプランしか出していない段階で負けになると理解するのですが、上述の通り、そのような考え方はResolution Focusを前提とすれば直ちに出てくるものではなく、ADで出てきた内容と論題が対応していさえすれば論題は支持されうるのですから、Topicalityに絶対的な意味合いを持たせるとすれば、そこには別途の論証が必要となります。
この点、蟹池他3名著『現代ディベート通論[復刻版]』[蟹池](ディベート・フォーラム出版会、2005)56-57頁には、以下のような理由が挙げられています。

1.肯定側は論題を肯定する立場に立たなければならない。よって、肯定側の主張する政策が論題を支持しない場合、それは肯定側と呼びえないものであり、そのような立場に投票することは不可能である。
2.論題には話題(Topic)を提供する役割があり、これを無視することは許されない。
3.肯定側に論題を無視することを許すことは、ディベートの本質的な教育価値を失わせる。否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない。


こうした理由付けなくして、Topicalityが絶対的な投票理由となる理由を説明することはできません(私見は反対です。拙稿「論題充当性の性質に関する一試論」参照)。

ともかく、通説的に考えるとしても、僕のように考えるとしても、問題としているのは「肯定側は論題を肯定できているのか」ということです。そのために、Affが前提としている論題の解釈をチェックし、論題の意味するところを明らかにし、それとAffのプランの乖離を問うという具体的な議論がなされますが、こうした個々の議論(Interpretationの提出などなど)は、それ自体が目的ではなく、最終的には「肯定側が論題を肯定できているか」という説明につながらなければならないのです。
そんなことも考えずに、UnreasonableなInterpretationを示すことがどうとか訳の分からないことを言うことには何の意味もありません(POP39頁参照)。ここではやたら鼻息が荒くなっています(イラジャッジと言いすぎてイライラしてるんでしょうか?)が、TopicalityのLogical Legitimacyは「肯定側が論題を肯定できていないことの論証」ですから、Interpretationを示したかどうかすらそれには関係ないのです。ただ一点、Affのプラン(あるいはAD)が論題とずれているかどうかだけが問題とされるのであって、UnreasonableなInterpretationを示しただけで論題が肯定できなくなるというトンデモ帰結を理由なく書いているほうがよっぽどイリーガルです。アナーキストなのでその辺は気にしないのでしょうか。

2.論題の解釈と「文脈」
以上のような役割からすれば、Topicalityによって論題の解釈を問題とすることは、肯定側が肯定すべき論題の意味、すなわち「ゴール」を明らかにする作業ということができます。それでは、このゴールは、どのように定められるべきでしょうか。
POPや、当ブログに寄せられた多くのコメントでは、ディベートでは常識を参照できないとか、ディベートにおける論題の解釈は外部的な文脈を考慮してはならないということを言います(POP38頁など)。そもそもなぜ外部的文脈を考慮してはならないのかという理由付けが何らされていない(*)というセオリストらしからぬ態度については散々指摘してきましたが、以下では「論題の解釈は外部の文脈をも参照されるべきであるし、そうでなければディベートなどできない」ということをきちんと説明することにします。

(*)ここで、外部文脈排除を主張する論者は「ディベートの試合の勝敗は客観的にされないとダメだから」というのでしょうが、これは「客観的」の意味を誤ったものであるということは前回述べたとおりです。一応補足しておくと、ディベートで求められるのは「AffとNegに対して公平な判断」という意味での客観性であって、主観を排するということではありません(ちなみに普通の裁判でもそうです)。
そもそも、彼らの言う意味(常識に縛られない?)での客観性というのは、何に対する客観性なのでしょうか。辞書などのエビデンスはなぜその客観性を満たすのでしょうか。また、かかる客観性はどうやら唯一の正しい答えを想定しているように思われるのですが、そうするとディベートの判定は本来誰がやっても同じ答えに達するはずだということでしょうか。それとも、自分にとって満足の行く(イラジャッジでない)判定だけが「客観的」なのでしょうか?

ディベートで選択されている「論題」は、我々の生きる社会において生起している問題です。論題は話題性がないといけない、などということが言われたりしますが、政策論題として選ばれているのは、いずれも社会的意思決定が迫られている重要なテーマといえます。
そのようなテーマをあえて選んでディベートをしている以上、ディベートでは社会問題を論じるのと同様の態度が要求されているといえます。すなわち、選手やジャッジは一定程度の前提知識(常識)を有するものとされています。また、ジャッジは意思決定者として一定の立場を前提として試合に臨みます(日本政府がAgentの論題では、アメリカ人や宇宙人などの意思決定主体はdefaultでは想定されない。この点はPOP64~65頁でも正当に指摘されている)。そして、論題の理解についても、その論題が選ばれた社会で生活している一般人の見地からされることが想定されているというべきです。
そんなの関係ない、とおっしゃる方は、JDAで論題が決定される過程を想起してみてください。JDAの推薦論題は、JDAから候補が出され、その中から試合を主催する団体やJDA会員が投票して選出されます。そこでは、論題の文言だけでなくその論題が想定している議論内容によって態度が決定されます(Topicalityがつきやすいかどうかという視点で選ぶ人もいるのかもしれませんが)。このような民主的過程で決定された論題については、その背景となる「当該論題についての一般的な理解」を前提とするのが自然だということができます。POPではいわゆるFramer's intent(論題策定者の意図)というStandardについて「JDAの意思を尊重しようということ」(POP29頁)と説明していますが、これは誤りで、実際には「論題を決めたみんなの意思」ということなのです。彼らのルール-フィロソフィー論からすれば、当然に尊重されるべき意思ではないでしょうか。

関連して、コメントでの指摘として、Non nativeとしては文言の意味を誤って解釈する可能性があるから、常識は排して考えようという議論がありました。文言の解釈について常識的英語力を排するという姿勢についての疑問は前回述べたとおりですが、このような考え方にはもう一つの疑問があります。それは、Non nativeとして英語の正確な文言が分からないからこそ、外部文脈に依存する必要があるのではないかということです。
Non nativeの英語学習者は一般的に経験することだと思いますが、我々は単語や文法の意味が分からなくても、一部の分かった部分や文章のテーマから分からない部分を類推し、言わんとすることを理解しようとします。これは実のところ母語についても同様のことがいえて、聞いたことのない熟語や読めない漢字が入っていても、我々は一定程度その意味を類推することができます。
ディベートの論題についても、厳密に一字一句解釈を定める必要はなく、全体として「論題が意図するアクション」が分かれば足りるはずです。Topicalityとの関係で問題となるのは「Affが論題を肯定しているといえるかどうか」ですから、それが分かる程度に論題の意味が特定されれば、我々は十分にディベートできます。現に、ADやDAの判断について、我々は厳密な比較ではなく、証明がなかった点について一定程度補充しながら比較検討しています。論題だけこれと全く次元を異にするといわなければならない理由は、実際にはないのではないでしょうか(ある程度の厳格さは要求されるのかもしれませんが)。

3.あえて「教育的意義」からTopicalityを考える
ここで、POP著者らが最も忌み嫌うEducationなどの価値観から、Topicalityに期待されているものを考えてみましょう。

前に紹介した通論の説明では、Topicalityの正当化根拠として「否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない」ということが挙げられていました。これは、一般的にイメージされる「教育」という言葉を越えて、ゲームとして面白いかどうかということを挙げています。これはある意味当然のことで、ディベートが教育的であるということの中には、競技として楽しんで取り組めることが結果的に選手の努力を促し、教育につながるということが含まれているからです。教育的というと反発が多いようですが、その内実には、競技として楽しめるようになっているのかという観点が含まれているのです。
このようにして考えると、論題の解釈について「常識」を排し、文法的な誤りなどにこだわってAffのプランを否定しようということは、ゲームのあり方としてどうなのでしょうか。

そうしたゲームのあり方を楽しんでいる人は確かに存在するようなので、そのような需要はあるのでしょう。しかし、ディベートという競技はみんなで取り組むものですから、全体の需要を考えた上でディベートのあり方を論じるのが健全でしょう。
ここに寄せられたコメントだけを見ると「常識排除派」が多数のようですが、公開されているディスパッチを見る限り、関東地区で行われている議論は割と「普通」で、変わったTopicalityはあまり出ていないようです。また、先に述べたようなJDAでの論題決定経緯からすれば、多くのディベーターが論題の解釈論より論題の中身について論じたいと考えているように思います。また、僕がこれまで接してきた一般的な知的好奇心を有する大学生から判断するに、文章の文言解釈にウンウン唸るよりは、社会問題について議論したい人のほうが圧倒的に多数だと思われます(というか前者のような人はほとんどいない)。

これはお節介かもしれませんが、ディベートという活動には、リサーチからブリーフの作成、練習試合などなど、膨大な時間がかかっています。ディベートという活動を選んだ我々は、貴重な青春時代のうち少なくない時間を、そうやって本を読み、文章を書き、スピーチを練習するという、一見華やかではない地味な作業に費やしているわけです。
せっかくそういうことをしている以上、我々は「意義ある」活動をすべきではないでしょうか。Non nativeとして常識を排して英語を勉強することや、社会的な前提を無視した議論の立論方法を勉強することには、おそらくほとんど意味がないと思います。それだったら、これまで習ってきた英語の力を生かして社会問題を英語で議論するという活動に打ち込む方がずっとためになるでしょうし、そしておそらく楽しいはずです。それでもなお、「常識」に反発することに快感を覚えて議論をするという楽しみ方はあるのかもしれません(コメントにあった、解釈態度としてNon nativeなりの謙抑的態度をとるというあり方は、僕は賛同しませんが謙抑性の程度によっては一定の理由があると思います)が、それは「ディベート」の楽しみ方とはズレているというべきです。少なくとも政策論題のディベートからは外れているように思いますので、英語の構文集か何かから適当な文章を取ってきて、その解釈論を競うような論題を作ればよいのではないでしょうか。そもそも、アナーキストがJDAの論題に従う必要などはなから存在しないはずですから。

それでは、反転して、我々「常識派の」ディベーターが待ち望むTopicalityとは何か、考えてみましょう。僕のイメージでは、過去に出版されていた書籍に載っていた1981年のNDTのFinalです(日本語スクリプトつきだったので全部理解することができました)。その時の論題は「RESOLVED: "That the United States should significantly increase its foreign military commitments." 」というものだったのですが、Affは「アメリカを含む数か国で核管理委員会を作り、核兵器の管理方法や効果的核抑止のための核兵器運用方法を共有する」というプランを出していました。これに対するNegの主要な攻撃としてTopicalityが出ていたのですが、そこでは”military commitments”の解釈が「危機の際の援助」という意味合いであり、Affのプランは危機の際の援助とはいえないといった議論や、AFfのプランは「核に関する情報の開示」という国内政策に過ぎず、対外的ではないから”foreign military commitments”に当たらない、といった議論がされていました。こうした議論が、実例の援用やAffの解釈を取った場合の帰結(Fairnessなどを考慮する)から提示され、Affもそれと同様に実質的な理由付けで返すという、読んでいるだけでわくわくする内容でした。
POPの筆者はアメリカの議論を毛嫌いしていますが、紹介されたところに拠れば史上最強の英語ディベーターらしいので、多分このスクリプトも読んでいるのでしょう。それでもなおPOPで推奨するようなディベートの方がアメリカのディベート(今は違うのかもしれませんが)より質が高いといっているのだとすれば、おそらくアメリカのディベートについてきちんと理解していないということなのだと思います。くだらない(失礼!)文法の解釈でぐだぐだやるのと、僕が見たNDTのスクリプトのように「論題の射程」についてきちんと議論するのと、どっちが楽しいかと問えば、100人中99人は後者だと言うのではないでしょうか。

こうした「論題の射程」については、今季の論題(核燃料の再処理)についても盛んに議論しうると思います。日本語で恐縮ですが、再処理の「放棄」とは何を指すのか、国内でやめて海外(フランスなど)に処理を委託する場合は放棄にあたるのか、といった議論がさしあたり考えられます。こうした観点は、論題を肯定ないし否定するにはどうすればいいのか…ということを考えるなかでしか出てきません。最初からTopicalityありきで考える思考は、ディベートという競技に取り組む姿勢として不自然だということです(Topicalityの正当化根拠からして不自然だということ)。

4.「誤訳」が投票理由になるか?
ここからは、POPで大々的に取り上げられ、彼らの「功績」(?)になっているらしい、論題の誤訳という問題について触れます。ただし、僕は論題の解釈そのものにはさして興味がないし、この点での批判能力には乏しいので、専ら理論的観点(*)に限った指摘を試みることにします。

(*)前にも少し述べましたが、Topicalityという議論を提出する行為そのものは、セオリーではありません。セオリーというのは、勝敗を決定したり議論を処理するための枠組に関わる議論です(いわゆるシフトの議論がこれに該当する)。それに対し、BMD論題がいかに誤っているかとか、カジノ合法化論題が実際にはパチンコ合法化論題を意味しているだとかいう話は、セオリーでもなんでもなく、単なる議論の選択に過ぎません。既に述べたところから明らかですが、TopicalityもADやDA(いわゆるnetの議論)と同じ次元の、論題の是非を争う一手段に過ぎません。その位置づけを論じるのはセオリーの範囲ですが、既に指摘したとおり、POPでは肝心のその部分が完全に欠落しています。これでセオリストを自称するのは、昔の日本人が舶来品を有難がっているのに似た、ちょっと恥ずかしい態度だと思います(カステーラ、みたいな)。
日本語でのディベートでは、こうしたセオリーの議論はあまりなされておらず、その点ではちょっと弱いところがあるのかもしれません(それが議論の質を下げているとは思えませんが)。日本の英語ディベートで僕が見た中で一番興味深かった「セオリー」の議論は、93年のJNDT-FinalにおいてAffが提出した、ディベートにおける論題は法的義務を意味し、AffはDAにもかかわらず、論題として挙げられた法的義務を具体化する一例を示すことで勝つことができる…といった趣旨の議論です(ディベートフォーラム33号(1994年)145頁以降を参照)。結果はAffの負けで、議論の中身自体にも賛否両論あるのですが、このような創造的なチャレンジこそが、我々が理想とすべき「セオリー」だと思います。

POP51頁及び85頁以降の付録では、BMD論題(2006年前期)が文法的に間違っており、存在していないものをAbondonさせるのが無理だからAffは勝てない(論題を支持していないという意味なのか、その論理構成は不明)といった趣旨のことを長々と書いています(*)。
しかしながら、まずもって検討されるべきは、そのような誤訳があったとして、それはAffを負けにする理由になるのかということです。この点の「セオリー」を詰めず、鬼の首を取ったかのように誤訳を主張して喜ぶのは、セオリストの態度ではありません。そこで、この点について以下で検討してみましょう。

(*)誤訳云々の中身については議論しないと言いましたが、ここで単純な疑問を呈しておくと、それではどうして早くそれを伝えなかったのか?ということが気になります。だからJDA-MLであてつけ的な謝罪文なるものを書いたのでしょうが、そこまで論題委員会に申し訳なく思うのだったら、委員会に参加するなり、委員会にコメントするなりして修正すればよかったはずです。本当にディベートという営みを大切に思っているのなら、その能力を生かすべきです。それを、後になって「あの論題は間違っていた!」というのは、論題委員会の方々だけでなく、そのシーズンに試合をした全てのディベーターに対して失礼でしょう。

第一に、たとえ論題が文法的におかしいとしても、それは直ちにAffを負けにする、すなわち「Affが論題を肯定できていない」ということにはなりません。
例として、POP51頁でBMD論題の英語版の訳とされている「(日本政府は)全ての防衛システムを導入しようとする全ての試み(をやめるべきである)」を挙げてみましょう。確かに、「全ての」という言葉が重複しており、文意が良く分からないように思えます。しかしながら、これによって直ちに「この論題は肯定できない」という結論にはなりません。これと同じテーマでシンポジウムが開催されたとしても、参加者はテーマの文章に違和感を持つ(打ち間違いかな?とか)ことはあっても、言わんとするところを察して、BMD計画の是非を議論するでしょう。要するに、みんなそんなに馬鹿じゃないということです。
この「誤訳」をもってAffを負けにするには、Affが論題を肯定できていないというところまで議論を推し進めなければなりません。そのための一つの方法としては、上の例文から何らかの合理的と思われる読み方を持ってきて、Affの支持方法がそれとズレていることを示すものがあります。要するに普通にTopicalityをやれってことです。もう一つの方法としては、論題の文言からは想定できるアクションがない(論題が間違っている)場合にはAffが負けるという理由を理論的に示すということです。POPではここが抜けているわけですが、本当に想定できるアクションがないという前提で、そんな論題を支持することはできないのでAffが負ける、といった理屈はありうると思います。ただ、そんな風に考えるのはおかしいだろうということは、続けて論じます。

第二に、論題が誤っており、そこから想定できるアクションがないとしましょう。しかし、本当にその論題は何の意味も有さない支離滅裂な文章なのかというと、そうではないはずです。POPでも梁山泊がこの論題からどういう議論ができるか検討していたという経緯が書いてありますが、論題が文法的におかしいとしても、それが一般的に指し示す問題領域は分かるはずです。日本語版の論題がなかったとしても、普通に読んでいれば分かるでしょう。
そのような代物について、厳密に解釈したところ議論不可能なのでAffの負け、というのは、いったいだれが望むのでしょうか。むしろ、推薦論題が投票によって選ばれるという経緯や、議論の予測可能性(屁理屈として「オレにはわかんねーよ」というのは別として、普通の人間は渦中のBMD論題の中身が意味するところについてはだいたい分かるはず。ちなみにくだんの論題はNative checkも経てるみたいですね)があることからすれば、議論不可能と思われる場合には指し当たって一般的に理解できる文脈で解釈することも許されるのではないでしょうか。これに対してNegがFairnessなどの見地で反論することはありえますが、「論題が間違っているのに、間違った部分を補うなんておかしいよ!」というのは、先ほどのシンポジウムの例で「皆さん、このテーマは誤植か何か知りませんが間違って表記されているので、無意味です。帰りましょう」と言っているのと同じで、非常識な人間の考え方だということができます。
(こういうとまた「お前の常識を入れるな」と批判がありそうですが、おそらく多くのディベーターは「論題の中に書いてある政策を争うため」に試合に出ているのであって、「そんなの関係ない、論題の厳密な解釈こそセオリストの命」などというのは普通じゃないし、そんな常識こそディベートには存在しないのではないでしょうか)

第三に、以上の補足のような位置づけになりますが、ディベートにおけるTopicalityの意義という点から考えると、文法の間違いだけで投票理由を左右するというのは、そもそもTopicalityの予定するところではないということができます。Topicalityは揚げ足取りの道具ではなく、Affが論題を肯定できているかの検証材料にすぎません。検証の理由付けとして論題の意図するところを限定し、それとAffとの乖離を問うことは求められますが、論題のあら捜しをすること自体には何の意味もありません。論題が間違っていてAffが困るという場合が本当にあったのだとすれば、そこで健全な(FairnessやEducationの精神も背景とした)Topicalityが志向するのは、試合がまともに(これは「AffもNegもできるだけ公平に」ということを含む)進むよう論題を善意解釈することであり、絶対Affが勝てないというような、大会を台無しにするような判断ではないはずです。

以上、誤訳Topicalityについてそもそも考えられるべきと思われる点を指摘しました。
これにもかかわらず、論題を外部の文脈(論題選択者の意図など)から解釈するのはおかしいという見解はあるのでしょう。僕はこれまでの述べたとおり、そんなこと不可能だという立場(外部の文脈なしで議論などできない。Affは全ての語句について定義してからディベートをはじめないとダメなの?もちろん、引用した辞書で出てきた語句も全て!)ですが、それでもそういう態度を無理して取るというグループは出てくるのかもしれません。それについては、少なくとも僕には関係ありませんので、仕方ないことです。ただ、そのせいで政策ディベートをきちんとやりたい人が困っているとすれば、気の毒だとは思います。
これは最終的には、ジャッジの問題だと思うのです。僕はある判定を軽々しくイラジャッジだとか言うつもりはありません。しかし、分からないものを分かったふりして判定するのは不誠実だと思うし、自分の直感にある程度自信がもてないというのなら、そもそもそんな活動(選ぶ言語も含めて)は辞めて、より適切なNativeに判定をさせればいいんじゃないかというのが正直なところです。僕も日本語のディベート大会を審査する際に、全ての予備知識をもって判定できるわけではありません。もしかしたら論題の解釈も誤っているかもしれない(可能性としては否定できない)し、議論されなかったところは無意識であれ意識的であれ、僕の推測が入ったりすることは避けられません。それでも求められている程度に合理的な判断はできると思うからこそ、きちんと「判断」する責任を引き受けて、ジャッジを引き受けています。そして、選手として大会に参加するときには、同じような責任を引き受けているであろうジャッジの判断を信用しますし、そのジャッジと「常識」も含めた論理的な結論を共有できるように努めようとします。

ある論題が誤訳だといって、それを否定するのは簡単です。しかし、その背後には論題委員会の献身的なリサーチがあり、またそれが選ばれるに当たっては、そのテーマで試合をしたいという多くの人の希望があります。そういうものを否定し去って、常にAffが負けるとかいうゲームとして非常識な(つまり「楽しくない」)帰結を導くのが「セオリー」の役割ではないはずです。
ディベートという活動にどんな特殊な意味を読み込んでいるのかは分かりませんが、ディベートコミュニティだって他のそれと同じく、みんな何かしらの意義を求めてやってきます。シンポジウムで誤植を見つけて騒ぎ立てる人間がナンセンスであるのと同様、論題が間違っているというだけで試合の勝敗がどうこうと決め付けるのは、端的に言って迷惑なのではないでしょうか。ましてや、TopicalityのLogical Legitimacyとの関係で何らの理由付けもないただの揚げ足取りだとすれば、彼らの言う「論理」のみによっても、その存在は否定されるべきです。


今回はちょっと感情的なきらいのある記述が入ってしまいましたが、Topicalityについては概ねこんなところです。POPへの具体的言及は少なくなりましたが、既に言及すべき観点については触れてしまっているので、「Fairnessは関係ない」などの該当記述を見るたびに「その理由はどこにあるんだよ!」などとつっこみを入れていただければ足りるという感じです。

ここまで書いてきた内容は、あくまでPOPの内容に対する議論であって、既存のディベートコミュニティに対する提言を意図したものではありません。もしそのように読まれたとすれば、その観点からコメントしていただくことはご自由ですし、僕も可能な範囲でお答えしますが、僕の議論はあくまで「素材」にすぎません。
もし、僕の議論に賛同し、そこから何らかの変革すべき事情を見出している方がいらっしゃるとすれば、ご自由に援用していただいて構いません(もっとも、より洗練させていただかないとダメでしょう)。僕の見解が誤っており、僕と同様の「誤解」をしている人間にイラっときている方々は、ここで僕をこてんぱんにして、その余勢を駆って誤解している人間を駆逐されればよろしいでしょう。
ともかく、僕の稚拙な検討が何らかの意味で皆さまの議論を喚起し、ディベートという営みがより価値ある形で展開されれば、相応の時間を割いて駄文を垂れ流してきた甲斐があったというものです。

とりあえず以上で連載自体は一休みすることにします(とかいって再開した過去はあるのですが…)。お読みいただいた方々、そして貴重なご意見ご感想をコメントしてくださった多数の方々には感謝しております。どうもありがとうございました。
コメントには引き続き可能な限りお答えいたしますので、遠慮なくお願いします。
コメント
この記事へのコメント
完全にneterの視点からものを言ってるね
>例として、POP51頁でBMD論題の英語版の訳とされている「(日本政府は)全ての防衛システムを導入しようとする全ての試み(をやめるべきである)」を挙げてみましょう。確かに、「全ての」という言葉が重複しており、文意が良く分からないように思えます。

たしか彼らがやっていた議論は「全て」と
いう言葉が重複しているから文意がよくわからないとかあいまいなことではなく、
「日本政府が全てのBMDを手に入れようとする試みをしているというInherencyを証明できていない」ということに対してTopicalityを出していたはず。つまりあの論題ではADを証明する要素であるinhをが欠けてしまう。つまり、論題の提示するactionを起こそうにも、そもそも日本政府が現状で、そのような行動を起こしていないので、論題が問題提起している現状を解決することができず、AFFは文脈を肯定できていない、ということだったはず。

>これと同じテーマでシンポジウムが開催されたとしても、参加者はテーマの文章に違和感を持つ(打ち間違いかな?とか)ことはあっても、言わんとするところを察して、BMD計画の是非を議論するでしょう。要するに、みんなそんなに馬鹿じゃないということです。

こういう空気を読みあって論題の提示する政策を一般的常識だけでdebateがしたい人はパーラーでやってると思います(academic debateに参加している人でこの意見に賛成している人がいるかもしれませんが参加する場所を間違えてますね)



>論題が文法的におかしいとしても、それが一般的に指し示す問題領域は分かるはずです。日本語版の論題がなかったとしても、普通に読んでいれば分かるでしょう。

普通に読むというのは、またしても一般的常識に基づいて、ということですか。どこでその一般的常識に対しての総意がなされるのかがわかりません(されていない場合は一個人の思い込みになるのでは)。


>むしろ、推薦論題が投票によって選ばれるという経緯や、議論の予測可能性(屁理屈として「オレにはわかんねーよ」というのは別として、普通の人間は渦中のBMD論題の中身が意味するところについてはだいたい分かるはず。

パーラー的な考え方ですね。academic
debateでは大体とか普通などという考え方は客観的なジャッジングを損ねるので採用されません。なぜなら、それはジャッジの主観が絶対的なものになり、どちらか片方に理不尽な判定をもたらすからです。少なくともジャッジの常識が正当な論拠によって覆らないのはおかしいですけどね。



>ちなみにくだんの論題はNative checkも経てるみたいですね)があることからすれば、議論不可能と思われる場合には指し当たって一般的に理解できる文脈で解釈することも許されるのではないでしょうか。

checkしたnativeが最強のdebaterなら、このような問題は起こりませんが、そうではないようです。現状を証明できない論題の一般的に理解できる文脈とはどのようなものですか?



>おそらく多くのディベーターは「論題の中に書いてある政策を争うため」に試合に出ている

少数だとしても厳密な解釈をしたいdebaterをないがしろにしてもいいという少数抹殺の考え方をお持ちのようですね。また、厳密な解釈で相手を負かすことができる方法があるにもかかわらず、それには目をつぶる、という考え方の利点がわかりません。厳密な解釈を行うことができて初めて論題の政策が肯定されるのだと思います。正しい解釈なしでは具体的な行動主体の決定や、その主体が何に対して、どのような行動を起こすのかということを証明できません。証明できないと、政策を採ることは不可能ではありませんか?

2008/09/30 (火) 16:00:23 | URL | ジャッジ1 #lICd2zaU[ 編集]
BMD問題と常識の介入について
> たしか彼らがやっていた議論は「全て」という言葉が重複しているから文意がよくわからないとかあいまいなことではなく、 (以下略)

この点は私も賛成です。厳密に解釈しようとすれば、彼らの指摘するような意味に「しか」とれないでしょう(all の重なり方に関しては、です。他の単語の意味は知りません)。文章の意味を厳密に取り扱うことは、論理的な議論展開の基礎にあたるわけですから、よほどの理由がない限り他の解釈をすることはできないと思います。all の意味を変えないとすると、唯一ありえそうな解釈は「任意の空集合の要素e についてP(e)」は述語P の形に依存せず真である、という種類の解釈以外には思いつきません(し、この解釈についてはPOP でも触れられています)。

> checkしたnativeが最強のdebaterなら、このような問題は起こりませんが、そうではないようです。

という点についても同感です(といっても、チェックして下さった方を揶揄する意図は一切ありません)。一般にネイティブチェックを通れば問題ない、というのは危険だと思います。日本人だって日本語の厳密な解釈のためには訓練を要するわけですから。見落としなどは十分に考えられると思います。ネイティブの方がこのall の重なりは問題ないという根拠をお持ちなら話は別かもしれませんが、そのような指摘もないままネイティブが良いと言ったというだけでは弱いと思います。

ところで、ジャッジ1さんやその他の方に対しての疑問なのですが、常識の使用はどの程度許容されるものなのでしょうか。これが愚留米さんの問題提起の中で最も大きいものだと思われますし、(一部の)反論者との乖離が最も大きい点だと思います。

例えば名無しさんや口ハサミさんは常識を一切排すべきだという主張をされているようにみえます。例えば口はさみさん
> 常識など存在せず、理論のみが絶対的存在であり、それのみが客観的に勝ち負けを判断できる材料になるっている
とありますが、そのようなことは可能なのでしょうか。愚留米さんは不可能だという議論をしていますし、私も信じられません。愚留米さんの根拠に加えて言うのであれば、言語という記号と推論規則だけでは現実世界の問題を取扱い切れないであろうことは、人工知能の分野の記号接地問題などが端的に示していると思います。言語哲学や論理学からも援用できそうな議論があるように思います(クリプキのパラドクス、グルーのパラドクス、自然言語の単語が自己同一性を持たない問題、モンタギューの意味論が英語全体の解釈に至らないこと、などなど)。

口はさみさんの場合には、「勝敗を論理的に判断すべし」という原則からの推論が示されていますが、この原則の妥当性は如何にして保証されるのでしょうか。特にこの原則の前提であるはずの「論理のみで判定ができる」という点について、どのように保証するのでしょうか。

その他の方についても
(1)常識の介在は許されるのか(常識なしの判定は可能か)
(2)介在が許されるとすると、それはどこまでか
に答える必要があると思います。ちなみにここでいう「常識」とはラウンド外のもの一切をさします。その意味でかなり問題を単純化してしまってはいます。

さて、少なくとも問に答えない限り、愚留米さんの常識の援用を否定することはできないと思います。つまり、常識をすべて排することの可能性か、常識を使う際の基準が明確にならない限りにおいては、どれほど常識を援用しようとも否定はできないはずです(もちろん、他の方法で否定されても構いませんが、私にはいますぐは思いつきません)。

ちなみに、私も愚留米さんは常識を使い過ぎていると思います。が、愚留米さんの見解を否定するのも、そんなに簡単なことではないと思います。
2008/09/30 (火) 21:15:18 | URL | とおじま #YInHV9pY[ 編集]
ご意見ありがとうございます
>ジャッジ1さま
長文をお読みいただいた上でコメントをくださり、どうもありがとうございます。
以下、回答です。

○BMD「誤訳」Topicalityについて
そうですか。僕が本文で述べたところの「何らかの合理的と思われる読み方を持ってきて、Affの支持方法がそれとズレていることを示す」という普通のTopicalityをやっていたということでしょうか。
ただ、『「日本政府が全てのBMDを手に入れようとする試みをしているというInherencyを証明できていない」ということに対するTopicality』というのは、ちょっとよく分かりません(一応POP87頁は参照しました)。
具体的には、そもそもそんなInherencyが必要なのかが疑問です。「全てのBMDを手に入れようとする試み」が現在されていないのであれば、Affはその現状をサポートしていると理解すればよいのではないでしょうか。それだと廃止する対象がないからそんなアクションできない…ということかもしれませんが、将来の導入可能性も含めて否定していると解せそうです。
僕はこのTopicalityの論理そのものについてはあまり関心がないので、この点についてはこのあたりでやめておきます。あくまでも「きちんと試合になるような解釈を取るべきだろう(少なくともそういう立場は理論的にありうる)」という見解なので。

○「客観的なジャッジング」とは何か
>こういう空気を読みあって論題の提示する政策を一般的常識だけでdebateがしたい人はパーラーでやってると思います(academic debateに参加している人でこの意見に賛成している人がいるかもしれませんが参加する場所を間違えてますね)

僕はパーラメンタリーディベートを実際見たことがないのでよくわかりませんが、アカデミックとパーラの差は「一般的常識を考慮するか否か」であるということはこれまで聞いたことがありません。
僕は本文及びコメントでの返答の中で、アカデミックディベートにおいても一般的常識は当然必要とされるし、またそれを導入してよい根拠があることを論じてきました。これはまさしく、ディベートの理解についての「セオリー」だと思います(パラダイム論などの領域でしょうか)ので、ほかに考え方はありうるのでしょう。しかし、POPが前提としていたり、またここでジャッジ1さまが前提としている「一般的常識の無視」という規範がディベートに求められるという理由については、どこにも示されていないと思うのです。「ディベートではそうなっているから」というだけでは説明とはいえません。せめて、①一般的常識抜きでディベートができること、②ディベートで一般的常識を排除しなければならない理由、の2点については、論証していただけると、不勉強な筆者にとってありがたいです。

②の理由としてジャッジ1さまは「debateでは大体とか普通などという考え方は客観的なジャッジングを損ねるので採用されません。なぜなら、それはジャッジの主観が絶対的なものになり、どちらか片方に理不尽な判定をもたらすからです。」と説明されますが、これは本文でも指摘させていただいたとおり、客観的という言葉の意味を誤っているのではないでしょうか。片方に理不尽な…というのがどういうことか分かりませんが、これを「ジャッジ1さまが理不尽だと思うもの」だとすれば、ジャッジ1さまの絶対的な主観によって望ましい判定が決せられることになってしまいます(ほかに理由付けがない以上、僕にはそう感じられてしまうのです)。
客観的というのは、ジャッジがAffにもNegにも予断を抱くことなく、自分の有する最低限の見識と試合中の議論だけで勝敗を決するということだと思います。その上で、第三者の立場から合理的な理由付けによって勝敗が定められれば、そのジャッジングは客観的だといえるでしょう。それ以上の客観性というのは僕には想像不可能で、それこそ神がかり的なコンピュータによる判断しかイメージできません。そのような崇高な評価方法が学生ジャッジにでも可能だというのなら、裁判や政治的意思決定はとてもスムーズに進行していくのでしょうね。

もちろん、僕の立場でも、正当な論拠があれば自分のなかの「常識」は修正します。僕が本文やコメントで指摘させていただいているのは、POPが正当な論拠を欠いていたり、検討すべき点をスルーしているということです。
失礼ながら、ジャッジ1さまのように、僕が正当な論拠を欠いていることの指摘をせずに「アカデミックディベート的ではない」といった趣旨のことを書かれているほうが、アカデミックディベートのジャッジらしからぬ論法ではないでしょうか(パーラ的、というのはパーラメンタリーディベーターに失礼ですね)。

>普通に読むというのは、またしても一般的常識に基づいて、ということですか。どこでその一般的常識に対しての総意がなされるのかがわかりません(されていない場合は一個人の思い込みになるのでは)。

という点についてですが、これは多くの人が知っている知識に基づくのではないでしょうか。日常的に日本で生活し、新聞やニュースを見ている人間が、日本のBMD導入や北朝鮮の脅威などの話を知っているなら、それもカウントされるでしょう。
ジャッジ1さまのコメントを読んでいると、ディベートのジャッジは「無色透明の人物」でなければならないという前提があるように思われますが、そのような前提はいったいどこから出てくるのでしょうか。NAFAのルールに拠れば、ジャッジは「その良心に従い独立して」判定をする(2章3節2項)そうなのですが、この明文の解釈としてそういう主張をされているのですか?この点の見解をお聞かせ願えれば幸いです。
そもそも、客観的判断が求められているとされる(NAFAのルールは、憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ…」をモデルにしているようですね)裁判官だって、公知の事実や自分なりの価値観を持って裁判をするのですが、ジャッジ1さまが理想とするディベートというのは、いったいどのような儀式なのでしょうか(別に僕は「裁判みたいにディベートをやれ」と言いたいわけではないですよ)。
最後に、JDA推薦論題の読み方の「総意」としては、論題委員会の過程や投票の際の推薦文、投票結果などから導かれるディベートコミュニティ全体のFramer's intentが存在します。一般的に、法律の解釈においては立法者意思も参考にされますし、ディベートにおいて同様の議論をすることも可能でしょう(誰でも参照できるのでFairnessの観点からも問題ない)。

○「現状を証明できない論題の一般的に理解できる文脈」とは何か
先ほどのFramer's intentが一つの回答になりうると思います。また、その論題を論じるジャッジの知識からして、現在日本政府が論じなければならない政策課題というものが前提として存在しますから、それに合わせて理解することができるでしょう。
POP的な考え方からすれば、そのような理解をしてAffを救済(?)することは、Negの文法論争Topicalityの準備を無駄にするからよろしくないというのでしょう。確かにFairnessからすれば、Negが出しえた議論を制限するのはおかしいかもしれませんね。しかし、論題の解釈をできるだけゲームを充実させるように行うといった価値観を取れば(それに反するPOP的価値観も取りうるでしょうが、アカデミックディベートで僕のような価値観が許されないという論理的理由付けはされていません)、一般的に想定される「BMD政策の見直し」的文脈を議論するものとして理解をしてもよいはずです。
あと、Nativeが最強のディベーターか否か、ということについては、そんなのどうでもいいでしょう。JDAやNAFAの論題検討過程がどうだったかという話をする気はないのでこの点はスルーしますが、要するに重要なのは「その論題で議論できるのか?」ということです。細かく読めばおかしいかもしれないけど、少なくとも論題が対象とする政策が想起できるのであれば、それで試合は可能だということです(もちろん、そこで想起されるべき政策とは何か、文法文脈から議論し、それとのズレを指摘するという議論もありえるでしょう。その点については本題ではないので省略しますが)。

○何のためにディベートをするのか
>少数だとしても厳密な解釈をしたいdebaterをないがしろにしてもいいという少数抹殺の考え方をお持ちのようですね。
別にそんなことはありませんよ。本文でもお断りしたように、僕はセオリーと称される議論の中身を批判しただけで、その結果かかる信仰を奉ずる少数者が抹殺されるかどうかということは興味の外ですし、僕がそのような権力を持っているというわけでもありませんので。
ここで「多くのディベーターがどう考えているか」ということに言及したのは、POP11頁(Education批判)にある「参加者一般に教育的効果を求めるのは、筋違いであるし、それに他の参加者が付き合う必要はない」といった考え方に疑問を呈するためです。確かに、POPの著者が無理してそういうものに付き合う必要はないので、アナーキストらしく暴れるのは自由ですが、自分の考え方を押し付けて、教育的効果を求めているディベーターにまで「Educationなど間違っている」とか「常識なんて捨てろ」などと叫ぶのはどうかということを思うのです(自説として言うのは勝手ですが、イラジャッジとか何とか、極めて侮辱的な言辞を弄している点は問題でしょう)。

>また、厳密な解釈で相手を負かすことができる方法があるにもかかわらず、それには目をつぶる、という考え方の利点がわかりません。

僕からすれば、「厳密な解釈」とかいうもので、Affがその論題のアクションを実行できるかとか何とか言って勝とうとすることの利点が理解できません(高額賞金などがもらえるのならちょっと考えますけど、英語ディベートって参加費も結構高いですよね…)。
また、「厳密な解釈」の結果にもかかわらず、諸要素を考慮してその解釈と異なる結論を支持するという理屈がありうるということは、既に説明したとおりです。そこが「セオリー」の出番だと思うのですが。

>厳密な解釈を行うことができて初めて論題の政策が肯定されるのだと思います。正しい解釈なしでは具体的な行動主体の決定や、その主体が何に対して、どのような行動を起こすのかということを証明できません。証明できないと、政策を採ることは不可能ではありませんか?

そもそも、ジャッジ1さまやPOPで言われているような「厳密な解釈」などというものは、現実の政策形成においてどの程度考慮されているのでしょうか?実際にはそんなこと証明(?)しなくても、世界は動いています。別に、ディベートという活動に「厳密な解釈」が求められているわけでもないと思います。
「正しい解釈」というのは、唯一つではないし、いろんな要素によって決まります。憲法9条の解釈も、政治的な理由でころころと変わっています。それを批判するのはもちろん自由ですが、現実の政策形成というのはそのような要素も含んでいるということです。
ましてや、ディベートで論じるような問題について、文法書や辞書を引かないと全く議論できないというのは、ちょっと理解しがたい世界です。テーマの解釈にそんなに力を注いでいては、まともな政策判断はできないでしょう。
2008/09/30 (火) 21:37:21 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
行き違いでしたね
>とおじまさま
コメントありがとうございます。
僕からお返事差し上げるべき(できる)と思われるところについてだけ返事させていただきます。

>文章の意味を厳密に取り扱うことは、論理的な議論展開の基礎にあたるわけですから、よほどの理由がない限り他の解釈をすることはできないと思います。

BMD論題の解釈論そのものについては良く分かりませんのでその点についてのコメントは差し控えておきます。
その上で、(とおじまさまは「常識的に過ぎる」とおっしゃるのでしょうが)僕の立場からすると、この場合に善意解釈の余地があるのではないか、というように考えます。その方法論は本文やコメントで示唆した程度にとどめておきますが、いささか(というかかなり?)論理から外れるとはいえ、ディベートの目的などから考えれば正当化できる議論だというのが僕の考えです。
*例えば最近の例であれば、行政事件訴訟法36条について、文理上忠実な解釈を離れて立法者意思に沿った解釈がされるといった議論があります。長いので説明は省略しますが

>ちなみに、私も愚留米さんは常識を使い過ぎていると思います。が、愚留米さんの見解を否定するのも、そんなに簡単なことではないと思います。

この点については、自分でも自覚しているところはあります。もちろんそこには理由もあると考えており、そのあたりは議論の余地があるのですが、そういったところを積極的に議論するのが「セオリー」だと考えています。
このセオリーには、一つの答えというものはありません。ですから、僕も自説が絶対に正しいとか、他の考えをとる場合に全てイラジャッジだとか言うつもりもありません。ただ、とおじまさまも指摘されているとおり、POPの見解や他の方のご指摘を拝見させていただく限り、AlternativeとしてのLogical Legitimacyが示されていないというように感じられ、その限りで批判をさせていただいている次第です。
僕の援用する「常識」や、その根拠としての「ディベートの意義論」とかEducation、Fairnessというものについては、その理由付けについてさらに検討されるべきでしょうし、批判の余地も少なくないとは思います(特に「常識の援用が許される限界」といったところは、個人的にも詰めて考えたいところです)。そういった次元の「セオリー」の議論が盛り上がっていけば、ディベートという営みはもっと面白くなっていくと思います。

もっとも、最後の方のコメントは、とおじまさまのご意見を拝見させていただいた限り、釈迦に説法のような気もしますが。
2008/09/30 (火) 22:03:13 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
気になったこと
英語debaterの駆け出し者です。

>要するに重要なのは「その論題で議論できるのか?」ということです。

現在では使われていない、pac1や他国が配備しているBMDを全て得ようとする試みが将来行われるということを前提に議論を行うということですか?その論題の解釈で本当に議論は可能ですか?


>僕はこのTopicalityの論理そのものについてはあまり関心がないので、この点についてはこのあたりでやめておきます。あくまでも「きちんと試合になるような解釈を取るべきだろう(少なくともそういう立場は理論的にありうる)」という見解なので。

このTに関心がなくても、どんな論題の元でもきちんと試合になるような解釈ができることをBMDの論題を使って証明してもらえませんか?


>最後に、JDA推薦論題の読み方の「総意」としては、論題委員会の過程や投票の際の推薦文、投票結果などから導かれるディベートコミュニティ全体のFramer's intentが存在します。一般的に、法律の解釈においては立法者意思も参考にされますし、ディベートにおいて同様の議論をすることも可能でしょう(誰でも参照できるのでFairnessの観点からも問題ない)。

Framer's intentionによって行われた同意は「日本政府は全てのBMDシステムを得ようとする全ての試みを放棄すべきだ」であって、その文章を忠実に守って議論しているpop著者であって、Framer's intentionを無視した議論を肯定しているのはあなたではないですか?


>そこで想起されるべき政策とは何か、文法文脈から議論し、それとのズレを指摘するという議論もありえるでしょう。その点については本題ではないので省略しますが)。


ジャッジ1さんはこの点について話していると思うのですがスルーですか?
2008/10/02 (木) 12:08:08 | URL | 駆け出し #bbxfQIXk[ 編集]
コメントありがとうございます
>駆け出しさま
お返事させていただきます。

>現在では使われていない、pac1や他国が配備しているBMDを全て得ようとする試みが将来行われるということを前提に議論を行うということですか?その論題の解釈で本当に議論は可能ですか?

そのように論題を理解する場合、いくつかの帰結がありうると思います。将来そのような試みが行われる可能性を想定して、そういうことが絶対ないようにその可能性を否定するべきだという論題と理解する(Affが現状維持的な立場に立つという理解でしょうか)場合、試合は可能でしょう。ただ、POPでも書いてありますが、それだとAffは1種類でもダメなBMDがあれば勝ってしまうことになるので、非常に不公平な論題になりそうです。一方、将来行われる見込みがないアクションを否定する決議に意味がないと考えれば、それだけでAffが負ける可能性もあります(意味がない=決議しなくてよい、という説明も一応必要でしょうけど)。

いずれにせよ、そのような形で論題を解釈する場合は試合をまともに続行できなくなる(Topicalityとその周辺だけで議論が決まってしまう)ことになり、論題決定時の意図に反してしまうという場合、善意解釈してBMD論題の意図する政策フィールドにつきまともに(AffもNegもある程度公平に)議論できるような論題解釈を取ろうという考え方もありうるのではないか(別に「それしか答えがない」とは言っていません、念のため)というのが、僕の見解です。

>このTに関心がなくても、どんな論題の元でもきちんと試合になるような解釈ができることをBMDの論題を使って証明してもらえませんか?

そのような証明がなされる必要性がわからないし、無理だと思います。意味不明な文字の羅列も決議された以上論題になりうるとすれば、無限に反例は作れます。証明は無理ですが、そこから何かの有意義な帰結が出てくるものではありません(意味不明の論題は作るな、という当たり前の帰結が出てくるだけです)。
論題制定意図や社会情勢、文理解釈などを総合しても、試合になるような解釈が一つも導き出せないとすれば、そのときには僕の言う善意解釈の余地もないでしょう。しかし、そんなことはほとんど考えられないし、そういうことになったらそのときには論題委員会やかかる論題の支持者を批判されればよろしいのではないでしょうか。
証明云々の例についていうなら、いかなる論題においても外的コンテクストや前提知識を全く援用せずに試合を判定できるという証明の可否を問題とするほうが、今回の一連の議論にとって有益だと思います(駆け出しさまに要求しているのではありません。そしてこの証明も無理だと思います)。

>Framer's intentionによって行われた同意は「日本政府は全てのBMDシステムを得ようとする全ての試みを放棄すべきだ」であって、その文章を忠実に守って議論しているpop著者であって、Framer's intentionを無視した議論を肯定しているのはあなたではないですか?

JDAの論題推薦理由(*)を見ると、僕のように考えるのがFramer's intensionだと思います。ただ、どういう解釈が本当にFramer's intensionなのかという議論は、それ自体議論の余地があります。実はこの点はPOPも多少言及していて(92頁)、論題が検討された過程やその際の議論状況などを見ていけば、「だいたいレゾに近いプラン」という結論を導きうるということです(なお、この解釈について「客観性がない」という批判が書かれていることについては、客観性の理解によってはAffとNegのいずれかにめちゃくちゃ厳しくなる解釈をすることの方がむしろよくないという議論もしうるということを既に示唆しています)。ここで議論されるべき論題検討過程というのは「オープンかどうか」ということだけではなくて、会員の投票が支持したのは文面そのものか、それともその背景にある問題領域(何を議論したいか)なのかということも含みます。少なくとも、この点については十分Affの主張を通す余地はあるように思います。

(*)http://japan-debate-association.org/propo/06sel.htm

>ジャッジ1さんはこの点について話していると思うのですがスルーですか?

とおじまさまも指摘されているように、僕の意見がほとんどスルーされているのも悲しいです…というのはさておき(まあ長いので)、簡単にお答えします。
僕はジャッジ1さまへのお返事で「僕が本文で述べたところの「何らかの合理的と思われる読み方を持ってきて、Affの支持方法がそれとズレていることを示す」という普通のTopicalityをやっていたということでしょうか。」と解答しており、ここがジャッジ1さまの指摘への返事になっています。その上で、そのようなズレを許容しないと試合がまともにできないから善意解釈しよう、という議論が、僕の提案するものです。


以上がお答えですが、以下、皆さまの質問の趣旨を踏まえて、個人的な感想を補足しておきます。

僕がここで述べている内容は、一つのありうる考え方としてのものに過ぎません。POPの記述やいただいたコメントのうち少なくないものを見ると、その前提として「ディベート理論(あるいは個々の議論)には答えは一つしかない」という考え方があるように思いますが、それはディベートの理解として正しくないように思えます。ディベートでは、理由があればいかなる結論も尊重されるという意味で、多様性を基礎とした競技だというのが僕の理解です。だから、論題としてDebatableなものを選び、AffとNegという2つの(CPなどのオプションをあわせればもっと多い)立場による議論という枠組で試合をさせているのだと思います。
論題をギリギリつめて解釈した結果だけを見て試合を進めるというあり方も、(そういう解釈になるのだとすれば)一つの道だと思うのです。しかし、それは「論題はそこに現れた明文だけで解釈すべき」という理論を前提にしたときには絶対の答えであっても、その他の理論(僕の言う善意解釈などを考えるあり方)を前提とすれば、他の答えが出てくる可能性があります。
ここで問題とされるべきは、そういった理論の妥当性だと思うのです。そして僕は、POPでは無視ないし否定されている考え方につき、ありうるものとして展開したというわけです(僕の自説でもあるので)。それに対するご批判をたくさん頂戴しており、そのことは非常にありがたいのですが、そもそも皆さまが前提とされる理論の理由付けはいかなるものであるのかという点についても、同様に検討されるべきではないかと感じています。僕は本文やコメントでその点を指摘させていただいているのですが、この点につき何か説得的なご意見が出てこないというのは、ちょっと寂しいです。

*もちろん、僕の立場に対するご意見については独立してお答えいたしますので、何かございましたら遠慮なくコメントしてください。
2008/10/02 (木) 16:14:28 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
はじめまして、英語ディベートの活動に二年前まで参加していたものです。


自分は、英語ディベートで行われるようなトピカリティというものを、どうしてもいい年をした大学生が真面目に話すに値する議論とは思えずに、ディベーターの端くれとして使うことが恥だと考えておりました。

ここで、こういう考え方を持つ人間は英語のアカデミックディベートをする資格が無いという事を仰っておられる方がいますが、自分もこの間違った人間だったという事なのでしょうか。

少数だとしても一般常識を持つ大多数の人々が眉をひそめないような議論を行いたいというdebaterをないがしろにしてもいいという少数抹殺の考え方をお持ちのようですね。


確かに、大会で勝つ事のみを目的とした場合は、このような議論を使わざるを得ないと思います。
しかし、ご自分たちの英語ディベートに求めるものと違うものを求める人間は、アカデミックディベートをする資格が無いなどという差別的発言を容認する事は出来ません。



記事には直接関係ありませんが、コメント欄を見るだけでは、
現役に近い英語ディベーターの全体が、コメントを付けている方々と同じ考えと勘違いをされる恐れがあると考え、このような事を書かせていただきました。

記事やコメントの流れを無視した発言になってしまい、申しわけありません。
2008/10/02 (木) 17:02:25 | URL | 最弱英語ディベーター #a2H6GHBU[ 編集]
どうもはじめまして
>最弱英語ディベーターさま
コメントありがとうございます。
僕からお返事差し上げる内容ではないのかもしれませんが、一応感想を申し上げておきます。

一般の英語ディベート大会でどのようなTopicalityが回っているのかは分かりませんので、具体的にどういう議論を「恥」だと感じていらっしゃったかは分かりませんが、POPで言及されているような議論の中には、(恥とまでは思いませんが)自分では絶対回さないと思えるようなものもありました。ただ、試合中でいかなる議論を選択するかということ自体は、各選手の自由だと思います。

その上で、試合中に出された議論の当否について言うなら、その中身が妥当かどうかという見地から批判するのが筋でしょう。僕はそのような見地から、POPの内容や、ここに寄せられたコメントの中身の一部に疑問を投げかけているつもりですが、議論の中身を越えて「間違っている」とか「ディベーターでない」といったことまで主張する気はございません。
(いただいたコメントも同様の趣旨だと理解しております)

確かに、POPの論調は自分たちの主張と相反する議論に対して過度に敵対的で、個人的には不快な読後感を否定できません。ただ、ディベートという競技をより実りあるものにするためには、そのような感情的な議論には乗らず(といって僕も多少乗っかってしまっているところもあるのですが…)、議論の中身について批判的に検討する姿勢が固持されるべきです。
先ほどもコメントさせていただいたのですが、ディベートとは多様性を基礎とした営みであり、議論の上で勝負を決するというものですから、抹殺だとかそういう穏やかでない議論はやめて、理性的に対話を進めていきたいというのが、管理人としての僕の立場です。

そういうわけで、もしよろしければ、具体的に「どのような議論が、どのような理由で真面目に話すに値しないと考えるか」についてご意見をいただけると幸いです。
2008/10/02 (木) 23:53:14 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
自分の意図としましては、英語ディベートにおいても、ディベーターたちの考え方は一律ではなく、多様な考え方を持つ人間が集まっているという事を、
この記事を読んでいる方々に知っていただきたいという事にありました。

ごく一部の方の発言に対して感情的になり、意図の読めない文章になってしまい、大変に申し訳ありませんでした。



自分がトピカリティに嫌悪を抱くようになったきっかけは、所謂、一語Tと言われるものでして、

レゾリューションの文言のある一つの単語の意味を辞書で調べてきて、
そのNegの調べてきた単語の意味を当てはめたときのレゾリューションの解釈と、
Affのプランアクションが一致しないので、論題充当性を満たしていないという類の議論でした。

最もわかりやすいもので言えば、
「Japanという単語には漆器と言う意味があり、漆器には政策を行う能力が無いため、プランが取れない」というものがその一例として挙げられると思います。

このような事を、レゾリューションの文言を構成する、それぞれの単語ごとに、立論の時間の限り相手からだされ続けた試合を経験し、
その一つ一つに付けられたNegのレゾリューションの解釈が文法的には合っていても、文章としては通じないものであった時に、(漆器が政策をする等)
この議論を単なる言葉遊びとしか受け止める事が出来ず、これをディベートとして議論する気にはなれなかったと言うのがその理由になります。


ただ単に自分の求めるディベートとは違ったという自分勝手な理由でありますし、
その考えを他人にまで押し付けてしまっていたということに関しては反省していきたいと思います。
2008/10/03 (金) 01:12:10 | URL | 最弱英語ディベーター #a2H6GHBU[ 編集]
>最弱
>この議論を単なる言葉遊びとしか受け止める事が出来ず、これをディベートとして議論する気にはなれなかった
別にNegがどんな変なTを出そうが、Affが自分たちのreasonableなinterpretatonにmeetすれば問題ないのでは?相手うんぬんではなく、自分たちの正当性を語れば事足りるのに何を言っているのですか?

また、Negも「うるしが政策を実行できない」ということを議論したいのではなく、Affのinterpretationが適切かどうかを議論したいだけではないのですか?


>それぞれの単語ごとに、立論の時間の限り相手からだされ続けた試合を経験し
立論の時間の限りとはすごいですねw16分間ですか?それは私も見たこともないですね・・・。てか、そんなに出せるのか疑問ですが・・・。
2008/10/03 (金) 10:29:04 | URL | 普通の英語ディベーター #-[ 編集]
最弱なんでしょうがないのでは?
meetして終わりでしょう。最近のJapanが入っているレゾは短いですよ。そんなargument出してもらうほうがAFFとしては楽ですけどね。それともAFFのinterpretationをexcludeされたなら、自業自得だよね。Tを嫌いになるのは結構だけど、対策せずに負けて文句を言うのは最弱だよね。
2008/10/03 (金) 13:08:14 | URL | 通りすがった #-[ 編集]
コメントありがとうございます
順番が前後しますが、個々にお返事差し上げます。

>普通の英語ディベーターさま
僕の感想を述べさせていただきます。

>また、Negも「うるしが政策を実行できない」ということを議論したいのではなく、Affのinterpretationが適切かどうかを議論したいだけではないのですか?

これは本文でも述べましたが、Affのinterpretationをチェックするためにうるしを持ってくる必要はないでしょう。かかるチェックのためには、Affの定義が妥当でないと思われる根拠を持って来ればたりるので、必ずしも対抗定義を持ち出す必要はないし、何の説明もなくうるしを持ち出すことでAffの解釈の妥当性が揺らぐことはないはずです(辞書に載ってるから…というだけでは何の理由付けにもなりません)。

>通りすがったさま
最初に、言葉遣いに少し気をつけていただくようお願いいたします。

Meetすればいいという点では、僕も同意いたします。ただ、(どういう説明でうるしが出てきているのか知りませんが)何の脈絡もない定義を出してTopicalityを試みている場合には、そもそも必要な立証がない(POPに書いてあるような「NegからInterpretationが出てきたらAffはResolutionをAffirmできない」という話には何の理由もないことは本文で述べました)ので、無視してしまってよいと思います。すなわち、Meetの必要性すらないということです。

どういう形でうるしT(?)が立っているのかよく分からないのですが、もしそれにまともな説明がない(定義を読んでるだけ)とすれば、そのように「論証のない」議論を切らないのは、ジャッジの責任が大きく(Taburaを貫いているなら別ですが)、ディベーターのせいにするのは酷でしょう。

ともかく、そういうしょうもない議論はAffにとってむしろありがたい、という点では、全く同感です。


>最弱英語ディベーターさま
(ちょっと名前が自虐的すぎて呼びにくいのですが…)

追記していただきありがとうございました。そんなこともあるのかと参考になりました。

>レゾリューションの文言のある一つの単語の意味を辞書で調べてきて、そのNegの調べてきた単語の意味を当てはめたときのレゾリューションの解釈と、Affのプランアクションが一致しないので、論題充当性を満たしていないという類の議論でした。

このような議論が本当に流行っていたのだとしたら、正直驚きです。
かかる議論の意義については、別にコメントがあったのでそちらに思うところを書かせていただくのですが、簡単に感想を申し上げておくなら、単に辞書から違う定義を読み上げるだけのスピーチは、Topicalityでも何でもないと思います。
最低でも、漆器を主語に据えたときに有意味な(論題の解釈としてまともな――漆器が主体の政策を議論することができるのか?)解釈ができ、それがAffの解釈の妥当性を脅かすという説明をしなければならないはずですから。

ただ、こういった議論を下らないと思っても、それが受け入れられない現実があるとすれば、それに対して「セオリー」で対抗するという方途は保証されていると思います。例えば、以下のような主張が可能でしょう。
(理論構成は本文を参照してください)

1.TopicalityはAffが論題を支持しているかどうかのチェックであり、AffのInterpretation(Plan)が論題とずれていることの証明がない限りVoterにならない
2.Negは単に定義を持ってきただけで、それが妥当な定義であることも、AffのPlanが論題に合っていないという説明もできていないから、この定義では何の意味もない(複数の定義を出されていても、ここで一発で返るはずです)
3.念のためAffのInterpretationを示す(Meet)…AffのPlanによりますが、僕はこの過程は不要だと思いますけど
4.ディベートの目的は論題の是非を争うことではなく、単なる言葉遊びではない。Negのように、辞書から適当に定義を漁ってTopicalityと称してぶつける姿勢は、ディベートの目的から外れているし、そのような議論を蔓延させることは議論が深まらない原因となりうるので、このような「下らない」議論を出したことを理由にNegを負かすべきである

以上のうち、1~3は本来不要(当然にジャッジが切るべき)だと思いますが、現実にそういった「いちごT」が取られているのだとすれば、一応反論しておくのがよいでしょう。
4の部分は賛否分かれるでしょうが、いちごTを疑問なく認めるジャッジには受け入れられないとしても、こういった話を真剣にすれば、もしかして取るジャッジがいるかもしれません。その試合では無意味になるかもしれませんが、毎回こういう議論を出すことによって、ジャッジや選手に自分の主張を訴えかけることができるかもしれません。

このようにして「試合の中で」相手の議論を批判していくという姿勢が貫かれていけば(それが大きなコストであることは分かります)、実際の議論がまともな方向にいく可能性もあるとは思います。
(もちろん、ここでいう「まとも」については異論があるのでしょうが、それも含めて試合で争うべきものです)
2008/10/03 (金) 18:58:33 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
意味
今回の一連のエントリーお疲れ様です。
興味深く拝見させて頂いております。

この手の議論はだいたい6~7年に一度くらい出ている気がします。
今現役でやっていらっしゃる大学生ディベーター(日本語・英語問わず)の方は読んだことがないかもしれませんが、2001年頃には矢野先生が「ディベートとディベ」という題材で、トンデモeviとトンデモTが乱立する英語ディベートの構造について批判を加えた文章をJDAで執筆し、色々と反響を巻き起こしていました。
(そしてその時の英語ディベートの方々の反応も同じようなものでした。トンデモeviに対して、「ドロップされている以上、ジャッジは主観(常識)によってこれを無効とすべきでない! 宇宙人は来るんだ!」みたいな)

話題の中心になっている、どの程度「常識」を加味するかどうかは、これはもうフィロソフィーの領域に属しているので、徹底的にタブララサで行ってしまって、「japan=漆器」という定義がaffから提出されて、reasonableな反論がnegからない以上、この試合では「japan=漆器」という可能性を留保しなくてはいけないのだ! という判断をするのも結構だと思います。
尤も、あなたはディベートから離れた現実世界でもそう考えるのか? と問いたいところではありますが。(もしそうなら何らかの精神科疾患をお持ちだとも思いますが)

で、今回ここにコメントされた方にお聞きしたいのは、果たしてあなた方は何のためにディベートをしているのか、ということです。貴重な大学の青春の数年間、人生の何割かをディベートに費やしている意味は何なのでしょうか。
基本的に、入ることを強制されてコミットしているわけではない以上、何らかの「投資・費用対効果」を念頭に置かれているはずだと思います。
そして一般的にディベートは、"logical thinking","critical thinkng"のトレーニングになると言われています。また副次的にプレゼン力、ESSの方なら英語力も身につくのでしょう。
とすると、当然のことながらディベートをする際には"logical & critical thinking"の学習効果を最大にするよう、それに臨み、また試合や議論を設計することがより効率的です。
しかし、第二のウィトゲンシュタインになりたいというような奇特な方ならともかく、多くの人は「実生活で役立たせるためにそのスキルを使う」のがその目的であるはずです。(academic debateは世界各地で行われていると思いますが、哲学者・記号論的論理学者養成をその目的としているという話は聞いたことがありません)
であるならば、我々は普段日常・常識と不可分な状態で存在している以上、その"logical"は実生活のfieldとはむしろ「乖離しない方が望ましい」のです。

ジャッジ1様は「普通に読むというのは、またしても一般的常識に基づいて、ということですか。どこでその一般的常識に対しての総意がなされるのかがわかりません」と述べていますが、「(線引きが)分からない」ということと、「それを用いるべきでない」とは全く別の論点であることに留意すべきです。

もう一度繰り返しますが、果たして皆様は何のためにディベートをしているのでしょうか。
もしご自身の将来に資するため、そのスキルを得るための投資としてディベートを考えているのであれば、できるだけ「常識」に即した議論をして、また、ある論題と議論に対して正面から臨んだ方が、より望むものが手に入るのではないでしょうか。
2008/10/03 (金) 19:47:25 | URL | 日本語ディベーター(s) #5c/ZqPWI[ 編集]
少し話がずれるかもしれませんが、日本語ディベーターの方々のおっしゃる「一般常識」とはどういうものでしょうか。また、一般常識を介入させるのとさせないのでは、どうジャッジングが異なるのでしょうか(いわゆるAD, DAの話において)。


ちなみに私個人の感覚ですと、宇宙人の話に関してはトンデモeviであるとは感じませんが。(eviがただ根拠もなく、「来るかもね」とか言ってるだけなら、ディベートの議論において不十分ですが、適切な理由付けがあるなら、特に私の常識に反することはありません。)
2008/10/04 (土) 15:19:14 | URL | 英語ディベーターg #-[ 編集]
re:
>gさん
日本語ディベーターが全員どう考えてるかなんて知らないので私の話になりますが、
「原発の開発をする必要はない。なぜならば2012年に今の人間文明の危機を憂慮した宇宙人がプレアデスからやってきて、エネルギー問題は全て解決するとのチャネリング結果が数百例寄せられているからだ」
とか語られて「常識的日本人」が100%信じるとはあまり思えません。
少なくともそれを政策判断にダイレクトに反映させるべきとは考えません。
同様に、ミサイル云々の話の時に漆器が論点の中心になるとも思えません。
その程度の「一般常識」です。

※その一般常識の正当性について評価が難しい(線引きが分からない)という理由だけで、安易にタブララサに流れるのは、ただのジャッジの思考停止(放棄)です。
一般常識の援用と、一般常識の否定による思考停止と、どちらが「正しい」のかは人によると思いますが、教育的・実用的観点からは後者にはあまり利益がないだろうと思うのが、私のスタンスです。

すると当然、試合ごとに、「この議論を『一般常識』と照らしてジャッジの裁量による評価をしていいのかどうか」と熟考しますし、他の議論の立証責任のハードルとの整合性を常に考えながら双方に、および全議論に対して不当に有利/不利にならないように(少なくともその場の全員に対するアカウンタビリティを果たせる程度に煮詰めて)判定を出すわけです。
ですから、
>一般常識を介入させるのとさせないのでは、どうジャッジングが異なるのでしょうか
というご質問に答えるならば、「一般常識」からかけ離れているAD/DAほど立証責任は厳しくとる、という形で判定には反映されると思われます。
2008/10/04 (土) 16:21:52 | URL | 日本語ディベーター(s) #-[ 編集]
>sさん
お返事ありがとうございます。

>「なぜならば2012年に今の人間文明の危機を憂慮した宇宙人がプレアデスからやってきて、エネルギー問題は全て解決するとのチャネリング結果が数百例寄せられているからだ」
とか語られて「常識的日本人」が100%信じるとはあまり思えません。

私はそれを自分の常識に照らして信じないということはないです。ただ
①地球人以外の宇宙人の存在の証明(可能性の示唆)
②その宇宙人が地球に来れるabilityの証明(可能性の示唆)
③どのように解決するのかの証明(説明)
④チャネリング(?)があると言っている人の信頼性の説明
⑤チャネリングに関する過去のデータ(実際、何かを予言したことがあった)
という事柄が証明されない限りは信じないというだけです。



たとえば、今であれば核燃料リサイクルについてディベートしているのですが、その中に『放射線と白血病は関係がない』といった話も見られます。私の中での常識に照らし合わせると両者は関係があると思います。このとき、私はどのように判断すればいいのですか?(sさんはどのように判断されますか?)

ちなみに、私はあまり自分の中の常識というものに自信がありません。たとえば、CO2によって温暖化するということを信じてきましたが(世の常識と化していると思いますが)、そうではないという議論もあります。つまり、世の中には自分の知らないことがまだまだあり、自分の常識で判断するということに自信が持てません。


>一般常識の援用と、一般常識の否定による思考停止と、どちらが「正しい」のかは人によると思いますが、教育的・実用的観点からは後者にはあまり利益がないだろうと思うのが、私のスタンスです。
私のスタンスはsさんとはまったく逆です。私の中での常識で勝手に判断して「そんなことはありえない」と言ってしまえば、そのことがディベーターのやる気を削ぎ、逆に非教育的になると考えます。

(ちなみに、私は常識は介入させませんが、証明責任に関しては厳しく考えています。)
2008/10/04 (土) 16:42:35 | URL | 英語ディベーターg #-[ 編集]
>gさん
私も、「一般常識に即してありえない」と言って議論を切ることはけしてありません。
基本的に「一般常識」からかけ離れた議論ほど、gさんが私の例に対してコメントしてくれたように、立証しなければならないハードルは高くなるので、「宇宙人が来るという議論は、他の議論に対して十分な立証責任を果たしているとは言いがたい」と言って切ると思います。
とすると、基本的なところでは実はあまり相違はないのかもしれないと、コメント交換をして思いました。

>『放射線と白血病は関係がない』
という件について。
何のauthorityもない一行eviなら「立証不足」で切ります。
ただ、専門分野の人の話であったり、学術論文であったり、それなりの理由を資料中で示したeviであれば、相手方から充分な反駁がない限り、採用するでしょう。
(※「充分な」…相手方からの反駁が「常識的にあり得ない」だけだったら、「反証責任を果たしていない」とすると思います)

そもそも、放射線と白血病の話や、CO2と温暖化は「ほとんど全ての日本人は首肯するだろう」とまでは言いがたいので、試合中で出された議論について介入はほとんどしないと思います。
漠然と「CO2は温暖化に悪いのかもなあ」というのをジャッジング初期状態に設定します。
(個人的にはほとんど無関係だろうと思っていますが)

最後に、
>私の中での常識で勝手に判断して「そんなことはありえない」と言ってしまえば、そのことがディベーターのやる気を削ぎ、逆に非教育的になると考えます。
とありますが、必要以上に「常識」を介入させることは、日本語でもほとんど行われていません。
あくまで「本当に極端な例」(渡り鳥労働者説や漆器など)に対して実施される(「Neg.が『常識的に考えてこの論題は鳥/漆器について扱っているとは考えがたい』とコメントすればそれを採用する。もちろん、極めて困難と思われるが、充分な対抗理由をAffが示せば採用する)だろうということです。
それを認めない(一般常識を無視し、あくまで試合上で提出されたevi:辞書のみを採用する)のは、「最弱英語ディベーター」さんのおっしゃるように、言葉遊びを許し、本質的でない部分でディベートが終始するという意味で、モチベーションや教育的効果を失わせるだろうと思います。
2008/10/04 (土) 16:59:49 | URL | 日本語ディベーター(s) #-[ 編集]
訂正
>何のauthorityもない一行eviなら「立証不足」で切ります。
と書きましたが、切らない気もします。相手方のargumentの立証度合との兼ね合いによるし思います。
2008/10/04 (土) 17:02:35 | URL | 日本語ディベーター(s) #-[ 編集]
私見を述べさせていただきます
>日本語ディベーター(s)さま
>英語ディベーターgさま
*以下、sさま、gさまと呼ばせていただきます

有意義なコメント、議論をどうもありがとうございます。
途中で割って入るような形になってしまいますが、思うところを書かせていただきます。

なお、僕の立場としては、第三回の内容で書いている通り、日本語ディベートや英語ディベートといった区別はコミュニティの違いを意味するものでしかないと考えていませんので、日本語ではどうかとか、英語ではどうかという議論はいたしません(Non nativeの言語に対するスタンス、という点では違いが生じえますが、今話題となっているTopicとは関係ありませんので)。
お二方が「コミュニティ闘争」をしようとしているものではないことは承知しておりますが、念のため。

gさまの
>一般常識を介入させるのとさせないのでは、どうジャッジングが異なるのでしょうか(いわゆるAD, DAの話において)。
という指摘は、非常に重要だと思います。僕自身としては、sさまのいう
>「一般常識」からかけ離れているAD/DAほど立証責任は厳しくとる、という形で判定には反映されると思われます。
という意見に一般論として同意しますが、その具体的なあり方については、詰めて考える必要があると思います。

宇宙人の例で言うなら、宇宙人がいるかいないかという可能性のレベルでは、それほど確たる「常識」はないと思います(個人的には、いないと断定することはできないと感じています。SF小説を好んで読んでるくらいで、特に天文学などの知識があるわけではありませんが)。
しかし、宇宙人が近い将来にやってきて地球を攻め滅ぼすとか、エネルギー問題を解決するといった話については、「常識」的には信じがたいということになりそうです。このような議論を主張する場合には、具体的な論拠に基づく強固な論証が必要でしょう。少なくとも、ほかに「原発の停止」とか「プルトニウムによる核武装」など、現実的に想像できそうな論点があるのに、殊更にADやDAとして取り上げて検討するだけの理由付けが必要ではないか、ということです。

一般の政策論争においても、あらゆる可能性を考えることは必要とはいえ、意思決定のための資源(時間や調査資金など)が限られている以上、ある程度ありうるシナリオについてのみ考えるのが通常です。こうした事情はディベートでも同様に妥当しますから、ジャッジが聞いて「そんなことあるのか」と思うような議論については、ジャッジの心証を動かすだけの強い論拠を要すると考えてよいでしょう。
そのために必要な議論を宇宙人の例で具体的にいうなら、gさまが挙げられた①~⑤のような事情や、(チャネリングと関係しますが)そういう宇宙人が地球にやってきて何か影響を及ぼすという具体的な可能性の存在が示される必要があるでしょう。

とはいえ、宇宙人の例はあまりに突飛ですから、gさまが挙げている、もう少し現実的な例を考える方が有益でしょう。
放射線と白血病の例について言うなら、僕も「常識」としてあるていどの関連性を肯定しますが、もしある程度の権威性を有する資料によって、その因果関係がないことをそれらしい理由付けで述べられれば、少なくともその試合では見解を改めることになると思います。もっとも、因果関係は0か1かの関係ではないので、「関係は弱いのかも」といった中間的な認定もありうると思いますし、むしろそのようになることが多いでしょう。
CO2と地球温暖化の関係については、学界でも議論がされているようで、なかなか難しいと思います。この場合も、ジャッジとしての最初の推定は「何か関係はある」というものでよいでしょうが、議論の結果それがひっくり返ることは十分ありうるでしょうし、実際僕が選手で議論をしたりジャッジをしたときも、CO2と温暖化の因果関係をかなり弱めたり、否定したという例はありました。
(常識として「CO2は温暖化の原因である」というものがあっても、CO2の削減を優先すべきという理由付けを強めるためには、CO2の温暖化効果について積極的に証明するべきです。「常識」を明確化することには、反論がなかったとしてもそれなりの意味があるはずです)

僕も、gさまのおっしゃるように、自分の常識に十分自信を持っているわけではありません。特に専門的分野についてはそうです。政策論題におけるJapanがうるしを意味しないことはほぼ100%の確率で正しいと確信していますが、放射線と白血病の関係などについて、100%正しいという常識を持つことはできないし、もし僕が放射線の研究者であってそのような(業界での)常識を持っていたとしても、それをジャッジの際に反映させることは許されないと思います(ジャッジが何らかの分野の専門家であるということは想定されていないと思うので。もっとも、この点は議論の余地があるかもしれません)。
その意味で、常識に頼って判定することの危うさについては、十分自覚的でなければなりません。しかし、ジャッジとしてより妥当な判定を志す場合、まずは自分の常識を参照し、それに沿わない議論が出てきた場合、その議論が自分の「常識」を覆すに足る強度を持っているかチェックするという(常識に沿う議論より厳しい)過程を課すことは、必ずしも判定の妥当性を下げることにはならないでしょう。
(逆の場面、すなわち常識の「具体化」についても、同様のチェックが必要です。例えば、放射線の威力を自分の常識より強く主張する議論については、放射線の威力を否定する議論と同じく、注意して検討するべきでしょう)

最後に、「一般常識の援用と、一般常識の否定による思考停止」(sさま)のいずれが教育的かということですが、これは二者択一の問題ではなく、どちらの側により強くふれるかという問題でしょう。
コメントを拝見させていただいた限り、sさまも全ての場合に常識の援用を認めるものではないし、gさまも常識に照らした判断を全否定するとか、一般常識を否定して思考停止するといった立場ではないはずです。その意味では、両者の見解には根本的な対立はなく、常識への信頼程度が異なるだけではないでしょうか。

僕の立場は、自分の常識(これにもその「強度」がある)を前提とした上で、それに反する議論を展開する側には、それだけの強度の証明を要求するというものです。
この見解に対しては、僕の中の常識の程度が全部開示されないことでgさまの指摘される「勝手な判断」になってしまうという批判がありえます。しかし、以下二点の理由より、正当化は可能と考えています。第一に、自分の常識を完全に捨ててタブララサを貫くことはかえって妥当でない判定を導きかねない(そもそも純然たるタブラの立場は取りえないとも思いますし)以上、常識の存在は否定できません。第二に、援用する「常識」については、一般的にそう思われているであろうというものを前提とするように努めれば、ある程度の予測可能性はあるはずです。これは、いわゆる「専門家の視点」の除外で、例えば死刑論題をジャッジする場合でも、僕は法科大学院生としての専門的知識を入れることはしません。もちろん、僕の理解する「一般的視点」(そもそもそんなもの想定するのは至難ですが)と現実の一般的視点はズレがありうるのですが、おそらく普通はそう考えるだろうという態度でジャッジをする場合、致命的な恣意性は排除できそうですし、ディベーターにも一定の予想は可能なはずです。それでも除去されないズレについては、「判定の合理性」という次元で、そのズレがおかしいかどうかを個別に問うという形で配慮することになるでしょう。
2008/10/04 (土) 17:31:14 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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