愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
擬似「セオリー」批判(5・完:総括と提言)
予想外の反響があった今回の連載ですが、コメントも落ち着いてきたこともあり、POPの完全版とやらも公開はかなり先になるらしい(筆者の所属する大学の方がご覧になっているようなので、僕の批判に対する返答を織り込んでいるのではないかとひそかに期待しています)ので、とりあえずここまでのまとめということで、総括を書いておくことにします。
ちょうど10月末日でPOP作成母体の梁山泊は解散したらしく、その弔辞といった趣きにしようかと思ったのですが、名前を変えて存続という某カルト教団のようになっているようです。僕には関係ありませんが、日本のディベート理論の発展が阻害されないことを願うばかりです。

さて、今回の内容についてですが、僕の見解はここまでの4回のエントリー並びにコメントへの返答という形でほとんど言い尽くしてしまっていますので、以下ではそれらのうち重要と思われるものを再度取り上げ、整理するという形を取ります。そのため、新規な議論を展開するというより、これまでの議論の繰り返しに近くなってしまっていることをご了承ください。その割に長くなっているのは仕様です。

最初に
最初に、POPへの批判を端緒としていただいた数々のご意見をいただいたことにつき、感謝の意を表させていただきます。僕の見解に対する賛否に関係なく、いずれも自分の見解を見直すものとして参考になりました。
実際英語ディベートを経験されている方に多くコメントをいただきましたが、このような意見は僕にとって非常に新鮮なものでした。以下の総括ではそれらのご意見を前提にした内容を少なからず含んでいますが、コメントをいただいた方をはじめとするディベーターの方々に対して有益な返答が少しでも含まれているとすれば、それはコメントを下さった方々のおかげです。

また、ここで謝罪しておかなければならないこともあります。ここまでのエントリーやコメント欄でのやり取り(そして以下の議論の一部)で、意図的あるいは無意識のうちに、若干(?)揶揄的なことを書いてしまっていることについては、一応自覚しているつもりであり、申し訳なく思っています。
この結果僕の文章が品位を欠くものになってしまっているという批判は当然のこととして受け止める所存ですが、ここでは某MLとは異なり十分に反論の機会はあると思いますし、POPや一部コメントの語調と対比して許される範囲の記述だと思っているので、あえて個人的な感情を抑えないようにしているということでご理解いただければ幸いです。

ともかく、最初にPOP批判の記事を書いたときには考えられないような展開で、筆者としても大いに刺激になりました。ここの主要な読者はディベート甲子園などの日本語ディベーター中心だと思っていたのですが(だから何も言われないだろうということで批判をしたわけではありません、念のため)、今後もコミュニティに関係なくご意見ご感想などいただけましたら幸いです。もっとも、それに値するクオリティの内容を書けているかは怪しいものですが。
もちろん、当初想定していた読者層の方々も、遠慮なくコメントしていただいて結構です。普段ジャッジをしているような人間に殴り込みをかけることのできる機会もそうそうないと思いますので。

1.「セオリー」とは何か、あるいは何でないのか
最初に、僕の考えるセオリー観についてまとめておきます。
日本における英語ディベートで「セオリー」というのがどのような意味を持っているのかは実際のところよく分からないのですが、POPやコメントの中の用法から僕なりに推測すると、そこでは「ADやDAなどの純利益以外の議論一切」を指すものとして使用されているようです。
しかしながら、そういったものを”Theory”と呼称するのは、その辞書的な定義からも不自然ですし、ディベートという営みを描写するものとしても無益だと感じます。そもそも、純利益(net benefit)に関する議論も、CounterplanやTopicalityなどの議論も、論題を争う手段であるという意味では何の違いもなく、純利益の議論とそれ以外の議論を分けて論じる合理性はどこにもありません。POPの最後の方についている対談には「(純利益以外の議論、という意味の)セオリーはプレパが少なくても勝てるからいいんだ」といったことが書いてありましたが、そもそもそのような理解が間違っているということは後で論じるとして、自分たちの好みで勝手に二項対立的な定義をしてしまっているだけではないか、と感じざるをえません。

正しい「セオリー」の定義としては、「ディベートの勝敗を決定するための枠組に関する議論」といったものを挙げることができるでしょう。そこでは、どうやったら論題を肯定ないし否定できるのか(ADやDA、Topicalityはなぜ投票理由になるのかetc)、どのような議論が許容されるのか(Plan amendやAlternative Justificationは認めてよいのかetc)、ジャッジは出された議論をどのように判断すべきか(Tabura RasaとCritic of Argumentの対立やNew Argumentの判断基準など)といったことが議論の対象になります。これらは、試合を離れて論争の的になりますし、試合の中で議論されることもあるでしょう。

このようにセオリーを理解することのディベート実践的な意味は、試合中でジャッジが裁量的に見解を形成できる範囲を明らかにすることにあります。
POPでは「フィロソフィーはShiftできる」とありますが、これは「Shiftする前にジャッジの初期枠組が存在している」ということを前提にしています。つまり、フィロソフィーとして用意されている判定枠組は、選手の議論によらず準備され、適用されるということです。こうした領域については、ジャッジは選手の議論に拘束されることなく、自らの見解を適用することができます(*)。Shiftの議論は、ジャッジに見解変更を促すことであって、ジャッジに対して判定のための事実(無視できない)を提供する行為とは根本的に異なります。このことを明確に区別するための概念として、セオリーという言葉は意味を持ちます。

(*)ですから、ジャッジはShiftの議論に一応の合理性があっても、なお自らの見解が妥当と考える場合、Shiftの議論を採用せず自分の立場で判定を行うことが許されます。そのようなことは許されない(セオリーに属する議論においても選手の議論や合意が優先される)という見解もありえますが、それすら一個のセオリーであって、議論の余地がある問題です。
この点について、裁判でどうなっているかということを一応述べておきますと、裁判では法律の解釈は裁判官の専権であって、当事者の法律上の主張は一個の意見でしかありません。これに対し、事実の問題については裁判所は当事者の主張や証拠に基づいてしか判断できません。法律問題と事実問題は完全に別個のものであり、前者がディベートにおける「セオリー」に当たります。

以上の理解を前提とすれば、POPで書かれている内容のうち、過去の論題を題材にしてTopicalityの具体例を論じている部分は、セオリーではなく単なる議論の展開方法を書いているだけということになります。だから全く価値がないのだというわけではありませんが、そういった内容をセオリーという名前で呼称することは、セオリーという概念の意義を単なるニックネームのようなものに切り下げることになってしまいます。セオリストなんて呼び名はその象徴として批判されるべきだと個人的には思います。ネットジャーゴンでいうところのスイーツ(笑)みたいなものです。
それでもあえてTopicalityなどの議論にアイデンティティを求めたいのであれば、トピカリティストなどの呼称を用いればよろしいかと思います。POPでの議論を読む限り、トピカリティストを名乗るほどの理論があるとも思えませんが、スピリチュアリストを名乗る某タレントのような人もいますからね。

2.ディベートで参照できる基本原理について
POPの中で(真正な意味での)セオリーについて論じている内容のうち、最も問題だと感じたのは、EducationやFairnessといった要素を理由付けもなく完全に否定している点です。この点において、彼らと僕の(そしておそらく通説に近い)ディベート観が最も相違していると感じましたので、以下に詳述させていただきます。

連載の中でも述べていますが、そもそもNAFAのルールですらEducationをジャッジの基本原理として明記しており、この点でPOPの議論は完全に破綻している(ルールが最重要と言いながら実際ルールを読んでいるのかすら疑わしい。NAFAの大会に出たことのない僕ですら30秒で発見できた規定なのに…)のですが、この点はひとまず置いておきましょう。
POPにおいてはディベート原理の根拠としてルールのみをあげているのですが、そもそもそのような態度でディベートをジャッジすることはできません。POPで論じられている種々の内容についても、ルールにはそんなこと書いていないわけで、彼らも実は「ルール以外の何か」を前提としています。与えられた規則だけで物事の判断ができるほど、言語というものは万能ではないということです。

ジャッジの判断枠組を支える根拠としては、ルールのほか、様々な要素を考えることができます。その中には、EducationやFairnessも含まれうるでしょう。そういった観点を踏まえ、論題を肯定ないし否定するというディベートの基本構造を前提にして構築されるのが、いわゆるフィロソフィーであり、セオリーの議論だということです。

Educationについては、現に全国教室ディベート連盟という団体がそれを主要原理にしており、少なくとも「ディベートと相容れない」ということはいえないはずです。NAFAも規則でEducationの原理を肯定していることは既に触れましたが、POPのようにEducationを否定されるのであれば、その理由をきちんと示すべきです。「そんなの関係ねぇ」というのは何の理由にもなっていません。
一応、Educationの実質的根拠について説明しておくと、①沿革的に競技ディベートは議論教育を目的としており、実際にもアメリカのディベートトーナメントや日本の諸団体では議論教育(日本の英語ディベートでは英語教育も?)を目的に活動している、②より優れた議論を促すことは一般的に望ましいことであるし、それがゲーム性を高めることとも符合する、といったことが挙げられます。

ここで、Educationという価値観につき反発を持つ方が多いようである(ちょっと古いのですが英語ディベーターのブログでこういう議論があったりするようです)ので、その点について②の補足ということで書いておきます。
Educationというと、ジャッジの恣意で議論を切るといった悪いイメージがありそうですが、Educationはそんなことを考えるものではないし、「試験勉強」のように辛気くさいものでもありません。上記の通り、Educationというのは、質の高い議論がかみ合って展開されることを推奨するというものだというのが僕の理解です。ですから、それは本来ゲーム性と相反するものではないのです。Educationという言葉は確かに多義的で、何かうっとうしそうだから要らないと言いたい気持ちは分からなくもないのですが、ジャッジがそう思うことを否定する理由付けはないというのが一つあります(選手が望んでないから…というのはどれだけ説得的な理由なのでしょうか)し、何より「楽しければいい」ということでディベートを考え、教育的意義でディベートを語る人を「全否定」する人が、本当にディベートのことを大切にしているとは僕には思えないのです。なので、Educationという原理をかたくなに否定する見解については、自分の議論がしょぼいことをEducationによる「不当な」介入のせいにしているだけの人が多い気がするのが正直なところです。

Fairnessについては、議論という営みから当然に要求されるものということができます。POPでは「強すぎるものをUnfairと言ってるだけじゃないか」としてFairnessを否定していますが、これはFairnessの意味を誤解しています。Fairnessとは、AffとNegの機会を平等にし、対等な立場で議論をさせることを保障する原理です。例えば「Alternative Justification(A/J)はUnfairだ」というとき、それは「A/Jは強すぎて卑怯だ」という意味ではなく、「A/Jは2ARで最も伸ばしやすい1つのケースを守るという利益を得ており、(それはNegにはできないので)平等でない」という実質的な理由を含意しています(もっとも、その分A/Jを取るAffは1つ1つのケースに時間を割けていないので、結果として均衡しているといえるわけですが)。一番分かりやすいのはNew argumentについての話ですが、相手に反論機会を与えないのはUnfairであるということがNew argumentの根拠であって、それを「ルールに禁止されているからでしょ」としか理解しないのは、了見が狭いというほかありません(そのような理解では応用的な場面において何らの解決も与えられないので、ジャッジとしても問題があるでしょう)。
Fairnessの原理は、裁判などを例に出すまでもなく、まともな議論空間であれば当然に尊重される価値です。これを殊更に批判するというのは相当に特異なことで、かなりの理由付けを必要とすると思われます。また、Fairnessを否定することでどのような利益が得られるのかも不明です(Affを選択し続ける…といったこともできないわけですし)。

以上はPOPに対する反論(連載第1回)の繰り返しですが、これを通じて僕が言いたかったことは、ディベートというのは定められた規則だけで扱えるものではなく、様々な要素を考慮して考えなければならないということです。
確かに、EducationやFairnessという要素は一義的な基準を与えるものではなく(論理というものもそういう側面はあると思いますが)、考えにくいところがあるかもしれません。しかし、だからといって面倒そうなものを避けるのではなく、正面からそのような価値観を扱い、妥当な結論を探求するというのが、セオリーを議論するものの正しい姿ではないでしょうか。その結果様々な立場が生じうるかもしれませんが、それこそがディベートの予定する健全なあり方だといえるでしょう。なぜなら、競技ディベートというのは、理由があればどのような見解も許容するという、合理的で開かれた議論空間を志向する営みだからです。

さらに言うなら、そういった多様性を否定し、ややこしそうな概念を避けて「Logical Legitimacy」なるもっともそうな原理(その内容の説明はない=都合よく言ってるだけに思えますが)だけに寄りかかるという姿勢は、セオリーについて精密に考えることを放棄しているという点で、ディベートに対して誠実ではないというべきではないでしょうか。
論理というともっともそうですが、その背景にはいろんなものがあって、必ずしも簡単に語れるものではありません。それでもその中に何らかの理由を見出して自分なりの立場を作っていくというのが「セオリーを考える」ということであって、自分以外の見解について何ら配慮しないという姿勢は、そもそも論で問題があるということです。
*この点、僕はPOPやコメント欄での見解について、どこに疑問があり、なぜ支持できないのかをできる限り論じているつもりです。それでもなお、理由があればそれを認める(自説を変えるかは別として、ありうるかどうかという話でということ)にはやぶさかではありません

3.ジャッジングにおける「常識」と「論理」
コメントの中で一番多かった意見は、「愚留米の議論は常識に縛られていて、論理によってのみ勝敗を決するディベートのあり方とは違う」といった趣旨の内容です。そのうち少なくないものは前述した「偽りのセオリー概念」と関連させられたりしていたのですが、そのこととも関連させつつ、僕の立場を確認させていただきます。

「ディベートでは論理によってのみ勝敗を決する」という命題は、それ自体も批判的な検討の対照とされるべきです。まずもって、そこでいう「論理」とは何を指すのかが問題となります。コメントで頂戴した意見は、この点について明らかに定義するでもなく、単に「愚留米の議論は論理的でない」と述べるにとどまっていたように感じました(どのような点で、なぜ論理的でないかということも指摘されていなかったと思います)。
ただ、コメントの内容から推察するように、そこで言われる「論理」とは、常識を差し挟まないということを含意しているようでした。ということは、そこでは常識というものは論理と相容れないものと捉えられているのでしょう。確かに、常識が常に論理的であるということはないでしょうが、(一般的な)論理的推論の過程で常識を用いることができないということは明らかに誤りです。数理論理の世界ならともかく、一般の意思決定において、経験則などによる推論過程を飛ばして議論をすることは不可能であるか、あるいは著しく非効率です。コメントをくださった方々が常識というものをどのように捉えるのかは分かりませんが、常識というものを「一般人の感覚」とするなら、核戦争のDAを立てる時には「人がたくさん死ぬということはよくないことだ」という議論までしなければならないのでしょうか。

ディベートでいう論理性というものは、一義的に結果が与えられることを意味するものではなく、ある程度の幅を許容する「合理性」を意味するものだというべきです。全ての人が満足する意思決定が常にできるわけではありませんから、ジャッジはAffとNegの議論を比較し、自分の尺度で判断をしなければなりません。その尺度が一般とずれているとか、試合で出された事実と乖離しているという批判はあって然るべきですが、それに理由があるかないかということをすっ飛ばして、論理的だとか論理的でないだとかいう批判しかしないのは、それこそ非論理的だということです。

この点につき、僕のようにディベートにおける論理という概念を合理性と理解する立場に対して、「それはネッター(純利益の議論をする人?)の考え方だ」という反応がありました。これは、少なくともTopicalityなどの議論においては論理のみで勝敗が決せられるべきであるという趣旨かもしれませんが、そのように限定したとしても、完全に主観や外部文脈を排して判断を行うことは不可能です。そもそも、論題の文言について外部文脈を排除するなら、それを解釈しようとする辞書の記述についても同様のレベルの解釈を要求すべきでしょうし、論題だけでなく試合中の全てのスピーチについても同様に厳格な解釈を要求するのが筋ではないでしょうか。そんなことを言っていたらきりがありません。Nativeでないから慎重に…という話についても、そこまでして無理にNon nativeの言語でディベートをするくらいなら、大人しく言語そのものの勉強をして、ディベートはNativeの言語でやればいいんじゃないかというのが素直な感想です。
実際の「解釈」活動においても、契約の解釈などでは当事者の意図や衡平の観点を考慮しますし、言語の翻訳においても最終的には訳者の主観が混じってくることは否定できないでしょう。それなのに、政策論題という一般的な領域に属するテーマにおいて、殊更に「常識」を排除し、普通の解釈活動では行わないような言語研究的解釈を試みることにいかほどの理由があるのか、是非ともうかがってみたいものです。

「ディベートでは論理によってのみ勝敗を決する」ということを論理的に主張されたいのであれば、そこでいう論理とは何物であるかを明らかにした上で、そのような論理だけで判定が可能であることと、そのような論理以外の要素を考慮することがなぜ許されないのかということを論証すべきです。ここまで書いてきたとおり、僕は(論理=主観的意見の排除、と理解するとして)そのような判定はディベートにおいては不可能であるし、それが可能だとして常識のような要素が排除されなければならない必然性はないという立場を取ります。そもそも、(可能かどうかはさておき)本当に常識を排したいのであれば、常識などの外部知識や主観を交えなければ議論できないような政策論題を選択しているのは不自然でしょう。

なお、この点につき僕の見解と同様の主張をされるものとして、井上奈良彦先生がJDAニュースレター14巻2号(1999)で書いた巻頭言がありますので、紹介しておきます。

最後に、僕の言う「常識に基づくジャッジング」という立場の中でありうる基準について説明しておきましょう。
僕の評価基準は、「論題につき中立の立場にある合理的通常人からしてどのように評価されるか」というものを基準とするあり方です。ここでいう合理的通常人というのはどのような人間なのかが問題となりますが、新聞などのメディアで情報を摂取し、日本で暮らしているそこそこの教養水準の人を想定し、そういう人が議論の中身だけで判断を行うという状況を想定しています。僕は自分のことを「そこそこの人」くらいではあるだろうと勝手に思っているので、多分自分とあまり変わりません。ただ、ちょっと人より余計に法律を勉強しているとかいうことは無視することになります。
*ただ、専門的論題のジャッジを続けていると「常識の汚染」というものも否定できず、その辺はどうやって克服しようか考えないといけないような気もしています。だからといってそういった予備知識を完全否定できないというのは既に論じているので、そこでの方法論は「試合中に参酌できる外部情報の限界」を探求するということになります。

こういう立場に対して、それはジャッジの恣意による介入であるとか、ディベーターの議論を尊重していないとか、(英語ディベートであれば――日本語ディベートでもありうる状況ですが)言葉の本当の意味を分かっていない人間がでしゃばるとよくないとかいう批判がありそうですし、現にそのような批判を頂戴しています。
しかし、然るべき証明があれば別論、自分の知っていることと相違するものにつき、ディベーターが言ったからその通り判断するというのは、むしろ「分からないのに分かったという」点でディベーターに対して不誠実ではないかと思うのです。ましてや、Topicalityの論点だけそういうように考えて、読まれたエビデンスの中身については何となくそういうものだと捉える…という立場があるとすれば、不誠実というだけでなく一貫していないというべきです。
ディベートにおける証明活動というのは、ジャッジの持っている基本的な世界観を前提として、それを修正したり補足したりしつつ、一定の心証を形成する行為です。ですから、ジャッジの世界観(常識)に照らして合わない議論については、それだけ強度の理由付けがないとジャッジの心証を勝ち得ないということになります(分からないものについてはそれだけしっかり説明しなければならない)。これは、価値観云々というより、人間はそういう風にできているので仕方ないという部分があると思います。こういうあり方を完全に否定されるのであればその理由をお示しいただきたいところですが、そういう理由があったとして(*)、少なくともディベートコミュニティ以外の一般社会での合理的な議論というのは、判断者の世界観を前提としているということだけは、理解しておく必要があると思います。

(*)あまりにも理由が示されないので、この無理筋の議論を何とか説明する方法として、僕のほうで一つのアプローチ方法を提案しておきます。事実を判断するための前提情報と、判断される対象である事実そのものについての情報で扱いを分けるというのは、一つの考え方としてありえそうです。すなわち、辞書や専門書については「事実判断の方法」として認められることを受け入れた上で、それによって判断される対象については外部情報を一切参酌しないという方向性です。もっとも、こう考えても「ではどういうものが前提情報として許容されるに値するのか」という議論は避けて通れませんし、事実の判断に外部判断を一切参酌しないということが不自然であるしそれも無理ではないか…という批判は依然として妥当しうるでしょう。

4.<価値ある>ディベートとは何か
POPの記述を読んでいると、POP筆者と僕ではディベートという活動に求めるものが異なるのではないかということを感じました。それが、ここまで見てきた内容の相違とも密接に関係しているというように思います。そこで、僕がディベートにどのようなものを求め、どこに価値を見出しているのかということについて、説明しておくことにします。

POPの筆者は、ディベートを選んだ理由として「先輩がいない」とか「弱いチームを強くできればかっこいい」ということを挙げており、「正直、ディベート自体はどうでも良かった」と記述しています(POP98-99頁)。それ以外にディベートの意義を論じていないところからすると、ディベートは一つの自己満足ゲームであって、それ以上の意義は求めていないのでしょう。
それ自体は別に勝手ですし、他人事ですので批判するつもりもない(ただ、ディベートを語る相手としての魅力はかなり減じられてしまいますね)のですが、そのような価値観をセオリーの根拠に据える(Educationの否定など)のであれば、説得的な理由が示されなければならないはずです。みんながみんなディベートに教育的意義を求めていないということはありえないし、POP筆者の自慰的ディベート観を他の選手に押し付けるというのは迷惑そのものです。もちろん、自説として展開するのは勝手ですが、彼らは独りよがりの自説を元にジャッジなどを批判しているのですから、迷惑というほかありません。

僕にとって、ディベートは他の競技で代替できるというものではなく、それ自体に価値があります。ディベートによって自分の見識が広がったという実感は多少なりともありますし、何よりも「考えること」の楽しさを味あわせてくれる、貴重な機会です。ディベートには他の方法にはない教育的意義がある(万能ではないですが…)ということもその通りだと思いますし、だからこそ少なくない時間をディベート団体の活動に割いています。
こういった意義は、おそらく他の多くのディベーターも、多かれ少なかれ感じているはずです。忙しい学生時代に、膨大な時間を使って取り組むディベートですから、そこにできるだけ多くの意義を求めるというのは当然のことです。学生ディベートコミュニティの中で特異な議論を回して賞賛を得たりすることより、十年後二十年後に生きるような議論能力を身につけることのほうが、ディベーターにとって有益であることは疑いようもありません。
更に言うなら、ディベート大会で優勝したという事実自体も、はっきり言ってさほど価値のないことだと思います。少なくとも僕は、自分の知るディベーターをそういった肩書きで評価することはありません。

ディベートという営みは、現実社会から乖離したものではありません。そこでは、現実の社会で扱われている問題を議論し、その社会に生きる一員としてのジャッジが判断を行います。その意味で、ディベートは極めて社会的な営みであり、自閉した学生ディベートコミュニティの中に限定されるものではありません。現実社会で全く評価されないような議論は、ディベートにおいても高い評価を受けることはないでしょう。それでもなお、現実にはありえないような議論がディベートにおいて評価されてしまっているとすれば、それはディベートコミュニティが不健全であるという証です。
これは梁山泊とは関係ないようですが、Japanがうるしであるとかいう意味の分からないことを言っていて、何を得られるのでしょうか。一度、そういう議論が回っている試合をトランスクライブして、和訳した上で冷静にお読みになってみてはどうでしょうか。そして、その原稿を親や友達に見せて「私は大学でこんなことをしてるんだ」と胸を張っていえるのでしょうか。将来子どもができたときに、「昔こんな議論をしていたんだ」と誇れるのでしょうか。詰まるところ、そういうことだと思います。

最後に、誤解を招くといけないので断っておくと、僕はTopicalityなどの議論がインチキであるとか、そういうことを言いたいのではありません。テーマについてきちんと解釈し、その意図するところを特定する作業というのは有用ですし、論題を争うに当たって必要不可欠である場合もあります(連載第4回で紹介したNDTの議論などはその好例でしょう)。しかし、Topicalityはあくまで勝つための一手段に過ぎないわけで、それを回すことにこだわるあまり、時に無理な議論になってしまうということは大いにありえることです。

5.論題の「善意解釈」について
ここで、僕がTopicalityについて主張するところのうち最も反発の強そうな「善意解釈」論について説明しておくことにします。「善意解釈」とは、論題に何らかの欠陥があると考えられる(その帰結が著しく不当である)場合、論題策定者の意図や論題の置かれた社会的文脈を参酌し、AffとNegの両方にとって公平でかつ無理のない論題解釈を想定するという考え方です。

このように考える必要性としては、さしあたり以下4点が挙げられます。
①そもそも論題はディベートの試合を有意義に成立させることを前提に作られているはずであり、そのような観点から調整を行うことは許される
②論題策定者(論題を選んだ選手も含む)の意図として、議論が論題の有意味な解釈の存否に終始したり、片方だけが不当に有利な形で試合が展開せざるをえないような状況は想定されていない
③Educationの観点から、意味のある議論が展開できる領域を確保できるような解釈が取られるべきである
④Fairnessの観点から、AffとNegで著しく格差を生じさせるような解釈は取るべきでない

そして、このように考えることが許されるという許容性については、以下3点を挙げておきます。
①そもそもTopicalityも普通の議論と同じくジャッジの自由心証により決するものであり、ディベートをする上でおよそ不当といいうる解釈であれば、当然に否定されてよい
②善意解釈がAffとNegに対して公平なフィールドを保障するように行われれば、Fairnessの観点から問題はない
③Negが出したTopicalityが無駄になるという意味での選手の不利益については、善意解釈の要件を「善意解釈しなければ試合がおよそ成立しない場合」と限定的に解釈する(僕も、常に善意解釈すべきとは考えません)のであれば、善意解釈される可能性を予測できるので問題はない(そういうリスクを加味した上で出すべき。事前にジャッジにフィロソフィーをチェックしてもよいでしょう)

このような理由から善意解釈が認められると考えることができますが、否定説からの反論を考えることを通じて、善意解釈が実質的に許されるものであるかどうかをもう少し検討してみましょう。
善意解釈を否定する理由として、論題の文理解釈に反するような解釈は取りえないというもっともな批判がありえます。しかし、文理解釈によってのみ判断がされなければならないというものでもありません。実際にも、文理解釈に沿わない形で法文や契約を解釈する判例は多数存在します。
Topicalityの目的はAffが論題の意図を越えて自己の支持すべき政策を不当に設定していることを非難するものであって、試合の成立を妨げたり、およそ現実的でない帰結を持ち出してNegを有利ならしめることではありませんから、文理解釈だけでおよそ現実的でない解釈を導くことはそもそもTopicalityの所期するところではなく、善意解釈によって「論題が本来担うべき領域」を設定することがTopicalityの趣旨に即しているということができます。
妥当な形での善意解釈は不可能であるという批判もありうるでしょう。確かに、善意解釈を許すことがジャッジの恣意的な判断につながる可能性は低くありません。この点を理由に善意解釈を否定する立場もありうるとは思います。しかし、恣意性を避けるため善意解釈を行わずに論題の解釈だけで一方が事実上勝利してしまうような偏った状況を生むことと、多少の恣意性は生じるかもしれないが善意解釈によってAffとNegの双方にとって公平な状況を作ろうとすることを比較したとき、前者が判定のあり方として優れているとはいえないのではないでしょうか。また、論題の解釈はその他の事実に比べて試合判定のための枠組としての側面が強く、ジャッジによる一定の裁量的判断が許される余地があるとも考えられます。

おそらく、善意解釈を否定する方の意見としては、「勝てる議論をジャッジの善意とやらで制約するのは迷惑だ」というものがあるのでしょう。しかし、ジャッジは政策形成者を模して議論を判断していると考えれば、論題が間違っているだとか、現実的でないといった主張は政策形成において十分なインパクトをもっていないのですから、否定されて当然ということができます。そもそもそんな揚げ足取りで説得される人がどのくらいいるのかということです。関連して、Topicalityだとリサーチがいらないので楽に勝てる…という都合なども、セオリーを構築する上ではどうでもいいことです。論題を肯定したり否定する理由は自由なのですから、Topicalityだけ尊重しなければならないということもありません。
筋の通った揚げ足取りであれば説得されるという人がいるかもしれないし、場合によってはそういうことがあってもよいのかもしれません。しかし、そんな議論は論題の是非を論ずるに当たって本質的でないと考える僕のようなジャッジも存在すると思いますし、それを絶対に否定しなければいけないという理由もないでしょう(少なくともPOPでは議論されていません)。そして、一般社会においては、議論不可能なテーマは適宜修正ないし善意解釈して議論されるものであって、実質的議論と切り離してテーマの解釈を云々するようなことはありません。

善意解釈の方法論についてはなお詰めるべき部分はありますが、基本的な考え方は以上の通りです。ディベートは政策の中身について議論するために行うものであり、テーマの意味について政策論争と関係なく云々するための競技ではないはずです。Topicalityという手段を目的化してしまうことは、結果としてTopicalityという議論が持っている本当の可能性を忘れ去らせることとなり、Topicalityというイシューを腐らせてしまうことになりかねない(実際の例を聞くと、既に腐敗臭が漂っているように感じます)というのが、僕の懸念です。

6.小括~梁山泊及びPOPに対する評価~
以上を要するに、POPに記されている内容の核心的部分は、独善的な動機に基づく、理由を欠いた暴論であるということができます。彼らの方向性に全く可能性がないと言いきることまではしませんが、少なくとも彼らの提示した論拠だけでは、理論としての正当性を何ら証明できていないというべきです。
さらに付言しておくなら、彼らの取る態度は、ディベート理論を真剣に考えることから離れ、「常識」や「公平」など、曖昧ではあるものの避けて通れない価値観から逃げ出す、「逃げの精神」をその本質とするもののように感じます。そのような精神は、荒木飛呂彦先生(ジョジョの作者)も、板垣恵介先生(グラップラー刃牙の作者)も、賛同するところではないでしょう。

梁山泊のメンバーが、理論的であると称してPOPなる経典に記している内容の多くは、まったくのたわごとにすぎません。POPの記述を見る限り、同書の筆者が、本当の意味での「議論」とはどんなものかも知らず、ディベートの初歩的な教科書にも書いてあるような確立された原理すら理解できていないことは明らかです。POPの読者が、批判精神を欠いてPOPの内容を鵜呑みにし、誤った理解をしていないことを願うばかりです。

以上の評価について不当だと感じられる方もいらっしゃるでしょうが、少なくとも僕が当連載で検討し、コメントでのご指摘を踏まえて考えた結果、そのような結論に至らざるを得ません。
ご覧になっていただければ分かりますが、検討の中では、POPの記述のうち賛同できる部分についてはその理由とともに同意し、自説とは異なるものの成立の余地があると思われた部分についてはその旨明示して議論しています。その上で、理由がない内容については、できるだけその理由を明らかにした上で、批判をしたつもりです。コメントの中には「最初からPOPを批判するつもりで見下して読んでいるのではないか」という指摘もありましたが、それは僕の議論に対する幾つかのコメントには当てはまるかもしれませんが、僕の議論に対しては妥当しないと思います。僕の場合は「読んだ結果批判する気になった」というものであり、それ以上の動機はありません。また、某MLでの過去の論争から一部のディベーターが不満に思っているらしい「権威的議論」をしているものでもありませんし、英語ディベートだからどうとかいう不毛な言説にも乗らず、POPの内容に即した検討を心がけたつもりです。
少なくとも、何らの理由も示さずに通説的なディベート理論を批判するPOPの言説に比べれば、遥かに公正中立の立場から論評を加えることができたのではないかと自負していますが、どうでしょうか。

もちろん、以上の評価は、公開されたPOPという文章を対象としたものであり、筆者たる一ノ宮氏のディベート能力全般や、氏の実績などを否定する意図によるものではありません。ディベートにはセオリーだけでなく、スピーチの能力などその他重要な要素が多々あります。POPに記されているような稚拙なセオリー(もどき)の理解しかないとしても、大会で優勝することは十分可能でしょうし、そのような優勝が無意味であるとも限りません。

ここまでの検討ないし評価をもって、僕から梁山泊に対する、弔辞と代えさせていただきます。実際面識があるわけではありませんが、一応ご冥福をお祈りしておきます。
そして、新しく生まれ変わったらしい殺虎塾とやらには、稚拙な擬似セオリーをいつまでも奉じるのはやめて、真にディベート普及の為に意味のある活動をしていただきたいと願っております。エビデンス検証という活動自体は意義があることだと思いますし、POPの中にもまともな議論はあります(例えば、本文でも書きましたが、TopicalityをADの一要素と捉える構成はその通りだと思います)ので、批判的に再検討したうえで、きちんとした「セオリー」について普及を行っていくことは可能でしょう。

7.一ディベーターからの提言
以上がPOPに対するコメントですが、ここからは、今回の一連の議論を踏まえて、敢えて僕なりの提案を記させていただきます。前にも書いたとおり、コミュニティ論争をするつもりはないのですが、一ディベーターとして(それ以前に議論に関心のある一大学院生として)おかしいと感じることが多々あることは否めませんので、敢えてコミュニティを超えた(身勝手な)提言になっていることをお許しください。
*前提事実の多くは伝聞という形になってしまっており、そのため当を得ない提案になっているかもしれませんが、その点はご容赦ください

7-1:真っ当にディベートをしたいディベーターの方へ
コメントの分布や伝聞での内容によれば、英語ディベートで擬似セオリーなど「不自然な」議論が回っているのは主に関西地方(近畿?)で、関東ではいわゆる日本語ディベートとあまり変わらない(といっても毛色は違いますが)、真っ当な議論が回っているように思います。
とすれば、ある程度存在する、真っ当にディベートをやっている英語ディベーターの方々は、そういったディベートに対して、正直食傷気味なのではないでしょうか?

もし「そういう刺激も悪くない」と思われるのでしたら、それも結構です(もっとも、それはセオリーでもないゲテモノでしかないし、将来役立つこともないということは既に指摘したとおりです)。しかし、本当はそんな議論に付き合いたくないという人も少なくないと思います。
*昔ディベーターのブログをあさっていたら、西の方の変な議論に辟易していた関東の有名なディベーターが愚痴っていたら関西の人に怒られて謝っていたという可哀想なことになっていたのを覚えています。もう消されてしまっていますが…

しかしながら、現状ではそのような人は「そういうもの」だと思ってあきらめるほかは、梁山泊のブログに半ばヤケ気味に暴言をぶつけるということしかできない状況のようです。これは非常にもったいないことです。
僕から皆さんにオススメしたいのは、おかしいとおもったらそれをはっきりと「試合中」及び「ブログなど理論につきじっくり議論できる場」で指摘し、批判することです。皆さんの直感は正しいので、恐れることはありません。僕がここまで書いてきたように、彼らの議論にはほとんど理由はありません。POPの筆者は大会で何かしらの実績をあげているようですが、そんなもの関係ありません。そんな権威など無駄だということは、POP自身が保障してくれています!

大切なことは、暴論に対して暴論で応対しないということです。おかしいと思うのなら、その理由をはっきり示すことです。ジャッジに対しても、おかしいと思う議論についてはおかしいことをきちんと指摘してやればよいのです。くだらないTopicalityのために辞書を引き引き頑張る必要はありません(この辺はよく分からないのですが、部室かどこかに何冊か信用できる辞書を備えておけば足りるのではないでしょうか?)。「なぜこれでAffが負けるのか分からない。分からないものは分からないのだから取るな」と言ってやればよいのです。
後で詳しく触れますが、おそらくPOPにあったり、(梁山泊以外の)一部が出しているような変な議論が取られてしまうのは、そういうものにマトモに付き合ってしまうために批判される機会が失われ、ジャッジの心理として「これを無視すると文句言われそうだなぁ」という(情けない)態度を取ってしまうからだと思います。だったら、おかしい議論にはしっかりと「おかしい」というリアクションを取って、ジャッジにきちんと考えるよう促せばよいのです。

このような戦略は、おそらく最初のうちは受け入れてもらえず、負けることも出てくるでしょう。しかし、それでもよいではないですか。くだらないと思う議論に付き合って「よりくだらない」議論を出すことを目指すより、くだらないものはくだらないと突き放した方が精神衛生上もよいのではないでしょうか。そんなくだらない議論で負けても、何も痛くもないはずです。JapanがうるしだとかいってNegにVoteされたなんて、コンパか何かでいいネタになりますよ。
最初は受け入れられなくても、ずっと同じ批判を続けていれば、ジャッジも気づいてくれるはずです。それに、誠実な異議申立てを続けることは、くだらないと思う議論に真面目に付き合うよりずっとためになること請け合いです。

繰り返しますが、真っ当にディベートをしたい皆さんが取るべき道は、大人しく真っ当でない議論に従うのではなく、真っ当でないということを正々堂々争うということです。これは、きちんとセオリーについて考えるということを意味します。相手は擬似セオリーしか知らないのですから、普通に考えていれば勝つこと間違い無しです。

7-2:POPを信奉するディベーターの方々へ
僕の一連の批判に理由がないと考える方は、僕の提案などどうでもいいでしょうが、一応コメントしておきます。同じディベートという競技に取り組んでいることには変わりありませんから。

まずは、もういちどPOPの内容を読み直し、本当にそれが理由のある内容なのか、そういうディベートをやっていることが自慰的行為以上の意味合いを持っているのかを、考え直してはどうでしょうか(失礼に当たることを承知で書いています)。
かなりの時間を割き、おそらくは英語でのスピーチ能力についてかなり熟練した方々だと思うのですが、そのような能力をもてあまし、政策ディベートでまともに政策を論じないというのは、端的に言って勿体ないことだと思います。僕の知る限り、そのような議論能力を必要とするフィールドは、日本には(そしておそらく外国にも)存在しません。むしろ、真剣にそのようなことに意義があると考えているとすれば、それは極めて有害な思考様式だとみなされるでしょう。

その上で、なおPOPの記述が正しいと考えるのであれば、それはNAFAという団体の基本理念と相反している恐れがあります。これは部外者からの指摘なので実際はそうではないのかもしれませんが、Educationの否定がNAFAの規則に反することは既に指摘した通りであり、梁山泊もとい殺虎塾が第一に行うべきは、当該規則の修正削除を目指したロビイングでしょう(冗談です)。
結社の自由及びそれに付属する団体活動の自由(信教の自由?)は、公共の福祉に反しない限り保障されます。ですから、POPに代表される思想に貫かれたディベートを行うこと自体は自由ですし、それについて僕がとやかく言うことはできません。しかし、ディベートを本当に大切に思っているのでしたら、変な論題だと思うのであれば論題検討の段階でその旨伝えるべきだし、自分の立場と異なるディベーターやジャッジを理由なく非難するのもお控えになったほうがよろしいでしょう。皆さんが僕やその他普通のディベーター(ネッターというのですか?)にとやかく言われたくないように、POP流の擬似セオリーを押し付けられるのが苦痛でしょうがないという方もいらっしゃることに、想像力を逞しくしていただきたいということです。

7-3:ジャッジの方々へ
実際に英語ディベートのジャッジングがどのようになされているのかよく分からないのでこの点は推測の域を出ないのですが、うるしTや渡り鳥Tなど無意味な議論が出されているということに鑑みれば、このレベルの擬論であってもcritic outしないジャッジが相当程度いらっしゃるということなのでしょうか。
それは、Tabura Rasaの立場を貫かれているのでなければ(純粋なTaburaは理論的にも採りえないと思いますけど)、ジャッジとして期待される最低限の批判水準を満たしていないというべきです。特定のジャッジを批判する意図はもとよりありません(知りませんし)が、明らかに理由のない議論を「出されたから」という理由だけで評価してしまうことは、ジャッジとしての誠実性を欠くものだと思います。
もしかしたら、理由がないかどうかも分からないから、とりあえず採用しておこうという立場なのかもしれませんが、それについても「最低限の批判水準」以下であるということは変わりないというのが僕の見解です。英語だから実際の解釈はよく分からない…というコメントもありましたが、そんな程度の英語力しかないようでは、そもそも英語ディベートのジャッジは勤まらないのではないでしょうか(辞書で新しい定義を出されただけで迷っているのであればなおさら)。もっとも、僕は「その気になれば」そういう方でもきちんと英語ディベートの判定は可能なのだと信じています。何しろ、高速で読まれるエビデンスの内容をきちんと理解できている(と思われる)のですから。

さらに突っ込んで言うと、いわゆるBMD論題のTのような、およそまともな議論を不可能にするような解釈についても、疑問を呈するような考え方は持っていてしかるべきだと思います。もちろん解釈としてそのようなもの以外ありえないという判断をされることは自由ですし、それにも合理性はあるのかもしれませんが、そのようなTopicalityで勝負が決まってしまうことが議論のあり方として不自然であるということを感じ取れないのは、ジャッジ云々以前に、議論を行うものとしてどうかと思うのです。

これはジャッジ観にも関わってきますが、ディベートのジャッジというのは社会から隔絶されたディベートという世界(そんなものないと思いますけど)を見ていればよいものではありません。選手として割り切ってディベートしているならともかく、ジャッジとして来ている以上、選手の今後の議論についてもある程度責任を持つべきではないでしょうか。そんな議論は一般では通用しないということを教えず、不自然な議論を喜んで取っているようでは、信徒を破滅させるカルト教団と同じではないですか。

ジャッジは、いかなる権威からも自由に、出された論拠を批判的に検討し、その上で正しいと思う答えを導き出さなければなりません。ただ単に出されたというだけで評価するのではなく、そこに理由があるかをきちんと吟味し、自分の良心に照らしてディベートの判定として妥当と思われる判定を出すのが、ジャッジの仕事です(NAFAの規則も同様の趣旨を確認するものでしょう)。
そこでは、自身の評価という「常識」の要素がある程度加味されることも避けられないでしょう。それだけにジャッジの判定には重みがありますし、その結果は(講評なども含めて)選手の今後の議論にも大きな影響を及ぼします。その意味で、ジャッジの仕事は責任重大です。そんな中、分からないものは分からないと、ダメなものはダメだと言ってあげることのできるジャッジこそ、ディベートで求められているのではないでしょうか。

8.あとがき
長くなりましたが、以上で総括を終わります。
例によって、意見や感想などあれば自由にコメントしていただいて結構です。可能な限り応対させていただきます。

POPの完全版は今シーズン終了後に出るということなので、受験勉強との関係で言及する余裕はないように思われます。ただ、僕の見解を修正する必要性を感じた場合には検討のうえその旨少しでもコメントできればと考えているので、POP筆者の方には頑張っていただきたいと思います。

それでは、最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
コメント
この記事へのコメント
「常識」への疑問
はじめまして。

私は日本語ディベーターなので、管理人様のPOPへの意見はその通りだなあと思って読ませて頂きました。ただ、ひとつ疑問に思ったのが、管理人様はジャッジによる常識の介入を「仕方ない」とするのではなく、それ以上に「良し」とするフィロソフィーをお持ちではないでしょうか?

そうなると、これは危険なことではないかと私は思います。というのも、当然ですが「常識」というのはその人が育ってきた環境など、様々なものに依存し、ジャッジがどのような「常識」を持っているかは、ディベーターには分からないからです。

こうなってしまうと、ディベートのゲームとしての「一般性」が失われてしまい、ゲーム性が低下するのではないでしょうか。ディベーターにとっての「常識」が、ジャッジの「常識」と異なり、しかもディベーターの「常識」の方が実はより一般的であることも、十分にありえるからです。

もちろん、ジャッジが全ての「常識」を排除するなどということは絶対に不可能なことですが、少なくとも「常識」を排除しようとすることは必要なんじゃないかと思います。

こう書くと「結局実生活の上でも常識というバイアスがかかるのだから、ディベートでもそうあるべき」と言われるかも知れませんが、しかし、それを言うなら現実世界では説得的でない技法は全て排除されるべきですし(例えば早口のスピーチや、フローシートをとることなども、現実世界では想定しづらいと思います)、それをしない以上、やはり「ディベートというゲーム」としては、このゲーム性に着目して、「ジャッジの常識はできるだけ排除するようにつとめる」という姿勢が重要なんじゃないかと思います。

なお、このコメントは、管理人様が「こう考えていらっしゃるのではないか」というのをブログから想像して書いただけなので、的はずれであれば申し訳ありません。

長文失礼しました。
2008/11/04 (火) 00:01:01 | URL | 通りすがりの日本語ディベーター #QMnOeBKU[ 編集]
難しい問いですね
>通りすがりの日本語ディベーターさま
(以下、コメント主さまと呼びます)

貴重なご意見ありがとうございます。
非常に鋭い指摘だと思いますし、完全に答えるのは難しいところですが、以下思うところを述べさせていただきます。非常に長くなっていることを最初におわびしておきます。

まず、ここでいう「常識」というものには、いくつかの程度や分類があると思います。
第一に、判断の前提として必要とされる知識としての「常識」です。極端な話、日本語ディベートでは日本語の基本的語彙について持ち合わせていることは前提となっているはずです。その他、日本政府の政策についての議論を判断する以上、日本を取り巻く諸状況や、物事を判断する前提としての基本的経験則なども要求されるでしょう。この点にはコメント主さまも異論はないと思いますがどうでしょうか。
第二に「常識」と呼称されるものは、その人の主観的な判断によって「当然知っているべきもの」と考える知識です。言い換えれば当人の有する専門知識です。例えば、法律を勉強していない人間にとって「主観的予備的併合とは何を意味するか」なんてことを知るはずありません(知る必要もありません)。今季JDA論題に即して言うと「放射能の人体に与える影響の評価は放射能の量であるベクレルではなく放射線の種類ごとに異なる放射線荷重係数を乗じて得られるシーベルトの単位で見なければならない」という知識は、一般的に言って専門知識というべきでしょう。
第三に、評価の前提として各人が持ち合わせる価値観も「常識」と呼ばれることがあります。しかしこの次元まで来ると、客観的な基準はなかなか定まりません。人が死ぬことは悲しいというのは一般的な価値観だと思いますし、僕もそう考えますが、その想いの強さは人にとって違うかもしれませんし、もしかしたらこのように考えない人がいるかもしれません。あるいは、自由がないなら死んだ方がいいという価値観もあります(パトリック・ヘンリーの言葉が有名)が、そう考えない人も少なくないと思いますし、僕も悩んでしまいます。

常識を完全に排除することができない(この点は共通認識だと思います)以上、コメント主さまの指摘される「ゲーム性」なども考慮しつつ、こうしたそれぞれの次元での「常識」について、ディベートで参照することがどこまで許されるか、何を排除しなければならないのかということにつき、分析的に考える必要があると思います。
このテーマは難しい問題をいくつもはらんでおり、ここで論じきれるものではありません(僕の能力の限界もあります)が、以下簡単にコメントさせていただきます。

第一の次元(前提知識)については、一定の基準を定めて参照を許すしかないでしょう。ここで問題となるのは、第二の次元(専門知識)との切り分けです。特に、同じ論題で何度もジャッジをしていると、その論題の専門知識に該当する内容も「前提知識」となってしまう、あるいは無意識のうちにそのように評価してしまうということがあります。これはジャッジだけでなく選手も注意しなければならない(つい説明がおろそかになってしまう)ところですが、理論的には厳密に分けられるべきであり、その意味で「前提知識として許される以上の知識」は排除されなければならないといえるでしょう。
一方、前提知識としてジャッジに要求される内容は論題によって異なり、例えば核燃料再処理の論題においては核燃料サイクルの仕組みについてはある程度知っている必要があるだろうという考え方もあります。前提知識というのはその論題を判定するために過不足ないよう要求されるものであり、論題に関する基礎知識は、たとえ普通の人が知らないにせよジャッジとして勉強しておくべきであるというものです。程度は難しいですが、僕も基本的にはこの考え方に賛成しており、その意味で第一次元の「常識」は流動的にならざるを得ません。その意味で、コメント主さまのいう「ゲーム性」を保持するには、こういった意味で積極的に「常識の範囲」を拡張する必要もあるのではないでしょうか。

第二の次元については、特に注意して排除されるべきです(第一の次元での「常識」に含まれる場合は別です)。なぜなら、ジャッジがどのような専門知識を持っているかは選手に明らかではなく、公平性に疑問があるからです。ゲーム性という点からも、ジャッジの特殊な知識から不意打ち的に判定されるのでは困ってしまいます。
この点では、コメント主さまの指摘はその通りだと思いますし、僕もこういう意味での排除を否定するものではありません(むしろ必要だと考えます)。

第三の次元は、非常に難しいところです。なぜなら、価値観というのは議論の評価の根幹に関わり、それが論題への「予断」ということになって勝敗に直結しかねないからです。例えば、昨年の死刑論題については、被害者の救済と死刑囚の人権という価値観のいずれにより共感するかという価値の対立がそのまま試合の勝敗に直結します。これは両サイドの公平を著しく欠く、ゲームとして不当な状況を作り出す危険性がありますから、警戒されるべきです。
その一方で、議論の評価に当たって無色透明の価値観を持つということもまた不可能です。この点においては、第一の次元と同様、何らかの初期状態を置かねばならないのですが、第一の次元と異なり主観的な内容であるため、その基準を客観的に用意することは極めて困難です。ただ一つ規範としていえるのは、勝敗に直結するような「論題についての予断」は排さなければならないということでしょう。それすら難しいという論題もありえますが、それでも論題についての自分の見解を判定に反映させることはディベートの根本を否定することになり、許されません。
とはいえ、現実的には、価値観につき統一的な基準を定めることは難しいでしょうし、それはある意味仕方ないと思います。そうなるとジャッジの常識とディベーターの常識にずれが生じえますが、それは避けようがないというほかありません。
また、教育的観点からは、一定の価値観については否定的バイアスをかけることが求められるということも考えられます。例えば「死刑囚は重罪を犯したのであるから何らの権利もなく、苦しんで然るべき」という価値観は、(割と一般的かもしれませんが)現代においては暴論に過ぎ、容易に評価することはできないと思います。もちろんきちんと理由付けがあれば採用しうるとは思いますが、このような価値観を簡単に前提とすべきではないし、そのような前提で出された議論については厳しく評価するということは許される余地があります(全てのジャッジがそうすべき、という主張ではありません)。

以上、常識とされる3つの次元の内容についてコメントしましたが、共通するのは、試合を判定するために必要以上の知識を動員することは公平性を損ない、ディベーターの議論と関係ないところで勝敗を決めてしまう危険があるため、できるだけ排除すべきであるということです。この点で僕の見解はコメント主さまの見解と相違しておらず、本文での内容もそのような趣旨で書かせていただいたつもりです。

ただし、ジャッジが議論の評価をその職務とする以上、そのために必要な知識については当然参酌できるし、むしろ積極的に援用して議論を批評すべき義務があると考えます。
この点、コメント主様は「ディベーターにとっての「常識」が、ジャッジの「常識」と異なり、しかもディベーターの「常識」の方が実はより一般的であることも、十分にありえる」とおっしゃいますが、かかる状況がジャッジの判定に対する事後的評価の材料となることはありえるものの、これを理由にしてディベーターの議論につき批判を避けるということには理由がないと考えます。ジャッジが不適切な評価をしてしまうリスクはいつでもありますが、それでも自分の良心に照らして正しいと思う判断をするのがジャッジの仕事であって、選手が言ったことだから…ということで思考停止する(これはコメント主さまの見解とは異なるでしょうけど)ことは許されません。そして、そこでジャッジが議論を批評するに当たっては、予断を排除して判断することを試みるという配慮はもちろんのこと、その反面批判の論拠として許される範囲で「常識」を積極的に援用することもありうるというのが、僕の見解です。それによって健全なゲーム性が確保されるという場面もあると思うからです(明らかに理由のない議論を切らないことで試合が散漫になり、変な判定になるということは十分ありえます。本文で言及したうるしTはその最たる例でしょう)。

コメント主様のおっしゃる「一般性」というのは、確かに尊重されるべきです。僕もその意味で「論題につき中立の立場にある合理的通常人からしてどのように評価されるか」という規範を一応立てているのですが、結局のところこれもフィクションであって、ジャッジが完全に同一の前提を持って試合に臨むことは不可能ですし、ディベートという競技もそこまでの要求をするものではないでしょう。試合によっては複数のジャッジによる判定がされますが、これは「誤審の可能性を下げる」という消極的な理由ではなく、多様な価値観に照らして試合を判定することでよりよい評価ができるという積極的な理由によると思います。現実社会においては多様な考え方の人間がいて、「ディベートジャッジ的な」判断というものを考えることはできません。そういう(合理性という枠に収まった)多様性を許容することが、ディベートというゲームの面白さを損なうということはない――むしろそこに妙味がある――というのが、僕の意見です。

ただ、そうやって多様性を許容し、そこに意義を見出していく立場は、コメント主さまの指摘されるような危うさをはらんでいるということはその通りだと思います。本文中で述べた善意解釈論についても、そうした危険性は少なからずあり、その意味でギリギリの理論だということは自覚しております。
それでも、その上で「参照すべき常識」と「排除すべき予断」を切り分け、よりよい判定を目指すという方向性はありうると思うし、僕個人としてはそのようなジャッジングのあり方を目指せればというように考えております。
(実際にはなかなか難しく、本当の試合で善意解釈論を迷いなく取れるかというとそうでもないとは思いますけど!)
2008/11/04 (火) 03:27:51 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
返信ありがとうございました。

まず、常識の第一次元の話については、私もその通りだと思います。ジャッジをするには、ある程度「その論題で常識とされる程度の知識」というのは身に付けておくべきだとおもいます(まあ、これも「常識とされる程度の知識の線引きは難しいですが、それは仕方のないことだと思います)

第二の次元については、管理人様のコメントにもあるように、意見の相違はありません。

第三の次元について、一部の議論について「教育的バイアス」という部分にだけは意見の相違があるんじゃないかと思いました。

というのも、例えば管理人様が例に挙げておられた「死刑囚は重罪を犯したのであるから何らの権利もなく、苦しんで然るべき」という考え方も、管理人様もおっしゃるように「日本では割と一般的」な考え方であり、そうであるのにこれを排除するのは如何なものでしょうか。

ここについては、ディベーター同士の議論で決着をつけるべきであって、そこでの議論がない場合、そのような考え方であってもとらざるをえないと思います。

何故そうかと言えば、このように「教育的」という名の下でのジャッジによる排除が行われるなら、既存の「常識」を破った議論を出すことにディベーターが躊躇いを覚えますし、そうなると「当たり障りのない」価値基準で、「当たり障りのない」議論をまわすしかなくなるからです。

もし、その価値基準や議論が教育的でないと考えるのであれば、それは判定に入れないで、試合後のコメントで話せば教育性についても事足りると思いますが、如何でしょうか。

ここで管理人様は「明らかに変な議論を切らないことで試合が散漫になる」という話をされていて、その例としてPOP的な議論をあげておられましたが、これについては少なくとも日本語ディベートにおいては、第一次元の「言語的常識」からはずれていることは明かであり(ここについて、日本語であれば我々はネイティブなので、日本語ネイティブスピーカーが「渡り鳥」と解釈しないなんてことは、幼稚園児でもすぐ分かるはずです)、その程度の議論が生き残るとも思えませんし、そんなに大きな問題が出ないと思います。

管理人様は「ディベーターの言ったことだからこうしておこう」というのをジャッジによる思考停止と非難していますが、しかしそれはやはり先ほども書いたように、「ジャッジによる講評、コメント」などで対応すればよい話だと思います。

ちなみに私がジャッジをするときは、「ここに関しては、今回は比較がなかったし、どちらが正しいというのも結局明らかにならなかったので、どちらともとりませんでした。例えば私が肯定側ならこういう比較をし、逆に否定側ならこういう比較をします。個人的にはこちらの方が~という点でより説得的だとは思っていますが、それは人によって違うと思うので、色々考えてみてください」みたいなコメントをするようにしています。

判定を出すよりこのコメントを考えて、比較の仕方を考える方が大変な仕事だったりする場合も多いです(笑
2008/11/04 (火) 13:18:16 | URL | 通りすがりの日本語ディベーター #QMnOeBKU[ 編集]
基本的にコメント主さまと考えるところは同じようですが、見解の相違もはっきりしたと思いますので、その点につきコメントさせていただきます。
もっとも、僕もコメント主様のおっしゃることには理由があると思いますし、それを否定するものではありません。

価値観の次元における教育的バイアス(一定程度で判断者の価値観を援用すること)については、それを認めることでディベーターに対する萎縮効果が生じる危険性があるということについては、コメント主様の指摘されるとおりだと思います。また、ディベートという競技の本質に照らして、たとえ教育的理念に照らしても、ジャッジが望ましいと考える価値観を優先させることは許されないのではないかという議論もありうるでしょう。

しかし、一定の価値観について試合で一切排除するというのならともかく、ある価値観についてはより強い論証が要求されるという程度であれば、教育的観点、あるいはジャッジの良心に照らして他の議論と異なる扱いをすることは許されるのではないかというのが僕の見解です。
その理由は、①説得活動とはその人に当初から存在する心証を動かすという活動であり、説得対象者(ジャッジ)の価値観に反する議論を出すためにより大きな負担が要求されることは必然といえる、②ジャッジの良心に照らし、妥当でないと思われる価値観については、より厳しい審査を課すことが少なくともジャッジの有する教育理念を達成するためには有用である、③理論的には現代社会においていかなる価値観が前提とされるかも意思決定によって必要とされる(第一の次元の常識として)ところ、かかる前提として基準となる価値観を設定するにあたっては「健全な政策決定に資するような」価値観という前提を置くことも許されるはずである、というものを挙げることができます。

以上の理由につき、①についてコメント主様は「ディベートのゲーム性を保ち、ディベーターに萎縮効果を与えないためには、そのような差異を意図的に排除することが求められる」と考えられるのだと思いますが、第一の次元の常識につき前提を覆すためには強度の論証(少なくとも「実は日本は核兵器を密かに作っていた」といった議論をするためには、他の議論より強度の証明が要求されるでしょう)を要求しても不自然ではないと思われるところ、これは第三の次元の常識についても同様に妥当するはずです。ジャッジの価値観については事前開示がないから予測可能性を欠くという相違はありますが、この点は事前に質問してある程度確認できますし、いずれにせよ相当の証明がされれば採用されるわけですから、さほど問題はないようも思います。
理由の②については、「試合後のコメントで話せば教育性についても事足りる」とのご指摘があり、それはごもっともではあるのですが、判定に反映させる方がインパクトが大きいことは間違いないですし、ジャッジとして望ましくない議論に投票するのは不自然であるということもいえると思います。この点は予断排除の徹底とジャッジの自由心証の尊重でいずれを優先させるかという選択の問題であり、どちらが正しいとも言いきれませんが、僕は今のところ後者に魅力を感じるということです。
理由③については、例えば死刑論題における死刑囚の人権論について、現代文明国家において政策形成の場面で死刑囚の人権を無視することはおよそ考えられません(国民感情は別として)。そういった理由があれば、判断の前提として一定の価値観につき厳しい審査を課す(当然覆すことは可能です)ことも許されると考えます。

当たり障りのない議論しか回らないのではないかという懸念もありますが、僕の立場を採っても、証明があればいかなる価値観も採用されうるのですから、致命的な問題にはならないと思います。また、ジャッジの価値観は一つではありませんので、たとえ僕がある価値観につき厳しい判断をするとしても、他のジャッジに対してはその価値観でチャレンジすることに何の不利益もありませんから、ジャッジごとの多様性というレベルで萎縮効果はクリアされると考えます。

もっとも、このようにして前提となる価値観を積極的に定めることに注意すべきというのはおっしゃるとおりで、特に論題の賛否と直結するような価値観については可能な限り中立に設定されるべきです。
また、実際の試合でジャッジとしての価値観を強く押し出すことがためらわれるというのは僕も同様です。ただ、コメント主様より僕のほうが積極的に自分の価値判断を援用する場面は多いのかもしれません。ジャッジの際にも、議論がなかった点については一般的と考えられる価値観に沿って僕のほうで比較してしまうことはそれなりにありますので。
そのようなジャッジングにつきよいか悪いかについては議論の余地があることは承知しておりますが、少なくとも許されない範囲ではないとは思っております。
2008/11/04 (火) 16:10:37 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
ジャッジの予断
管理人様のおっしゃっていることと、私の考えの相違点は、結局管理人様もおっしゃっているように、「ジャッジの予断排除」と「自由心証」のどちらを重く捉えるか、というところに集約されると思います。

私が何故予断排除の方が大事だと思うかというと、それはディベートもゲームである以上、やはり選手が主役だと思うからです。ジャッジも選手も同様に主役であって、教育効果こそが重要、というのであれば、大会など開かずに、勉強会のようなやり方をすれば事足りると思います。それをゲームという形にする以上、やはりそのゲーム性、公平性というのは、重視されなければならないと思います。

ディベート大会が、全ての試合で5人くらいのジャッジがいる、というものであれば、ジャッジの価値観の多様性による教育効果を重視して、管理人様のようなジャッジングを行うことの方がむしろ望ましいと思います。大勢の人の自由心証が集まることこそが、何より「常識」というものをよく表すことができ、それこそがまさに「公平」なジャッジングになるからです。

しかし、ほとんどの大会で予選ではジャッジは1人であり、しかも一敗でもすれば決勝進出が絶望的になるという現行の大会運営のあり方では、管理人様のおっしゃる「判定に影響が出ることのインパクト」がディベーターにとって大きすぎるのではないかと思います。

なので私は、現行の大会運営方針であれば、予断排除をできるだけ優先すべきではないかと思っています。

もちろん、それでも予断が入ってしまう場合もありますが、それは人間がジャッジングをすることの限界であって、仕方のない面もあると思います。ただ、それをできるだけなくしていこう、と努力することが大事なんじゃないかと思っています。

ちなみに、大会運営方針を変えるというのは、それはそれで人員や資金、さらには会場の手配などの面からかなり困難だと思いますので(それでも無理矢理強行しようとすれば、大会参加費が今の2倍、3倍を軽く超えてしまい、それはそれで参加障壁ができてしまいます)、そうやって大会運営のあり方自体を根本的に変える、ということは無理だろうと思っています。
2008/11/04 (火) 17:49:12 | URL | 通りすがりの日本語ディベーター #QMnOeBKU[ 編集]
度々ありがとうございます
帰ってきたらお返事があって驚きました。取り急ぎお返事させていただきます。

予断排除と自由心証のいずれを重視すべきかという問題は、両極のいずれかを取らねばならないというものではなく、ある程度幅のあるスタンスの中でどのような立場を採るかというものだと思います。そして、許される幅(コメント主さまのいう「ゲーム性」や公平性を不当に害しない範囲)を越えないようにすることが、ジャッジに求められるものだといえるでしょう。

ここまででの僕の議論は、自由心証が許されることに力点を置いたため、かなり大胆にジャッジの価値観が働くかのような印象を受けたのかもしれませんが、僕の意図するところはそこまで思い切ったものではなく、「ある価値観についてはより強い論証が要求されるという程度」で自由心証を認めるものです。
コメント主さまのおっしゃるような公平性の問題は、かなり極限的な状況を想定したものだと思います。僕の考え方からしても、ある程度理由付けがされた場合にその価値観をジャッジの専権で切り捨てるということについては、問題になります。ただ、万人が疑いなく受け入れられるような価値観と、判断の分かれうる価値観につき、必要となる説明の程度が分かれるはずであるところ、「判断の分かれうる価値観」の設定においてジャッジが有する初期状態がある程度尊重されてもよいのではないか(というかせざるをえないのではないか)というのが、僕の見解です。

十分議論されなかった点や、根拠がなかった点については、ジャッジは批判的に検討する権限を有しています。選手が試合の主役であるとしても、主役が論じなかった点についてはジャッジが補充しないと判定が出せませんし、主役が議論したとおりにジャッジが判断しなければならないというものでもないはずです(これも程度がありますが、純粋Tabura Rasaの立場は理論的に成り立たないと思いますし、ジャッジの批判的検討が許される点についてはコメント主様も同じ見解に立つものでしょう)。
ですから、価値の議論につき選手が主張立証しなかった場合、判定のため必要的にジャッジの初期的価値観が参酌される必要があるはずです(それすら放棄して「比較できなかったのでNeg」という立場を支持するとすれば、それこそ思考停止でありジャッジの職務を果たしていないと考えます)。
コメント主様と僕の見解の相違は、その先にある「選手が主張した価値観につきジャッジが自らの価値観を参酌して批判的検討を加えることが許されるか」というところにありますが、これは一切許されないかどうかという問題ではなく、どの程度ならありうるかというものであるはずです。コメント主様はできるだけ排除すべきという立場ですし、僕はある程度許されると考えます。「ある程度」が不明確であるという批判がありえますが、これについては、かかる価値観が一般的に受容されているか、政策形成の過程においてかかる価値観が採用されているかどうかなど諸般の事情を考慮して、合理性があると認められる程度のものであれば許されると考えます。このような考慮は怪しすぎると思われるかもしれませんが、同様の考慮は第一の次元での常識を判断するときにもされているものです。

ジャッジの初期状態を定めたところで、選手は理由付けさえともなえばそれにチャレンジすることができますし、そのような理由付けすらせずにジャッジに切られてしまったのであれば、それは不公平というほどの問題ではないというべきです。ジャッジが1名であっても、その判定が完全に予測可能でなければならないというものでもありません。僕のような見解を完全に否定されるのであれば、いわゆる立証責任の基準についても、全ジャッジで共通の基準を設けなければならないことになりますが、そのようなことは不可能です。そこでは、「合理的かどうか」という幅のある基準が緩やかにジャッジを規律していると捉えられますし、それは価値観の設定についても同様だと思います。

ジャッジが何らかの基準を持って「批判的に」議論に相対することを求める以上、それは価値の次元においてもある程度の裁量をジャッジに認めることを意味するはずです。その裁量には当然合理性が求められますが、ジャッジがそれぞれの良心に照らし、一定の基準を用意した上で議論を評価するということは、試合の成立においても必要ですし、よりよい議論を促す(これは「望ましい価値観の推奨」というより「議論の余地がある価値観につき立証することの推奨」という要素が強いのかもしれません)ためにも求められているのではないでしょうか。
ただ、以上の見解は僕の私見であって、コメント主様のような謙抑的な立場を否定するものでも、それと矛盾するものでもないと思います。価値観につき一切の裁量(ジャッジによる初期設定)を否定するというのであれば、理論的にも実践的にも無理があると思いますが、コメント主様はそこまでの主張をするものではないというのが僕の理解です。
2008/11/04 (火) 20:40:54 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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