愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
いわゆる「いちごT」の批判的検討
ついに司法試験も終わったので、早速予告どおりの内容を書いていくことにします。
試験の手ごたえは…足切りがこわいです。勉強が足らなかったということでしょう。

それではさっそく本論に移ります。答案を書いてきたばかりなのでそういう文体で書きたくもありますが、ここはできるだけ平易に書くことを心がけるようにしたいと思います。

いわゆる「いちごT」の批判的検討

1.はじめに
過日、日本ディベート連盟(JDA)のMLにおいて、日本語ディベート団体で著名な某氏から、以下のような問題提起がされました。

[ぐるめ注:JNDT予選の壁パッチ(関東関西)を]拝見していて気づいたのですが、

Topicalityの議論で
JPN = うるし
the = theater
というのは、きっと何かの誤植ですよね。

それとも、こうした一見して文脈を無視した辞書的な定義を元にTopicalityを議論することに何らかの意味があるというのは、英語アカデミックディベートにおけるコンセンサスなのでしょうか?
[後略]



これは、英語ディベートの論題に含まれるある一語について、辞書から突拍子もない定義を引用し、それをTopicalityと称する、いわゆる「いちごT」という議論についての強烈な批判でした(いちごTについて詳しくは廣江氏のサイトにある「Topicalityレクチャー」などを参照のこと)。
これに対するJDA-MLの英語ディベーター(ほとんどは年長のOB)の反応は概ね2種に分かれており、第一の見解は「議論を出すのは自由であり、制限すべきでない」という方向、第二の見解は「馬鹿げた議論ではあるが、母国語ではないので限界もあるのではないか(後段の点については論者により濃淡があります)」という方向でした。

筆者の見解は、上記いずれでもありません。結論から言うと、少なくともMLで前提とされているような、辞書から定義を引っ張ってきただけのいちごTは、英語だろうが何だろうが採用されるべきではなく、これを評価するジャッジはディベート理論的にも誤っているし、判定者として不適格であるといわざるを得ないということです。したがって、上記第一の見解に対しては、ディベートにおける「自由」の意味を理解できていないと応えることになりますし、第二の見解については、馬鹿げたものにはきちんと馬鹿と言わねばならない(上で引用した問題提起のメールはまさにそういう趣旨であったはずです)と応えることになります。

では、なぜいちごTは否定されねばならないのか。個人的にはJapan=うるしなどと言っている時点で自明であると思われるのですが、どうやらそのように解さない方が少なくないようであると思われるので、以下、理論的に検討してみることにします。

2.Topicalityとは何か
何はともあれ、いちごTもTopicalityを標榜するのですから、最初にTopicalityとは何かという点から考察する必要があります。どうもESSディベートのパッチを見る限り、そこではTopicalityの実質的意味につきほとんど意識がされていないように思われるので、この点はもっと検討されるべきだと考えます(もっとも、予選以降のトーナメントでは本気のまともな議論がされている可能性もあるので、この点はあくまで予選の壁パッチを読んだ限りでの所見に過ぎません)。

当たり前のことから入ると、Topicalityは、肯定側(Aff)が論題を支持できているかを問うための議論です。ディベートでは(この点は後で少し突っ込みますが)論題の是非が争われるのですから、否定側(Neg)が勝つために出す議論は、論題の採択を妨げるものでなければなりません。ですから、AffのPlanがおかしいということや、論題が間違っているということを示すだけではダメで、当該試合において論題が支持されないということを最終的な立証対象としなければなりません。
では、TopicalityはいかにしてAffの論題採択を妨げるのでしょうか。これはいくつか考え方がありうるところですが、一般的な考え方としては「Aff(のPlan)が論題を支持するものでないから、結果としてAffは論題を支持できていない、したがって負けとなる」となるでしょう。いくらADが大きかったとしても、そもそも論題を支持できていないAffに投票することは出来ないということであり、Topicalityが独立で投票理由になるというのはそのような意味です。

それでは、Affが論題を支持できていないというためには、いったい何を証明すればよいでしょうか。それは、Affの出したPlanが論題を支持していない、言い換えればAffのPlanは論題に規定されたアクションを具体化したものではないということを証明するということになります。
今季論題で言えば、”The Japanese government should encourage companies to introduce equal pay for equal work.”という論題に規定されている範囲のアクションを提案していない場合、この論題を肯定する立場にはないということが導かれ、そのようなAffは負けとなるのです。

これを証明するために、Negが示すべきことはただ一つ、「AffのPlanが論題が指示する範囲内のアクションではない」ということです。上記論題で言うなら、Affが法科大学院制度を廃止するPlanを出していて、それがいくら素晴らしいPlanであったとしても、そのアクションは論題が指示する範囲内ではないので、Affは負けとなります。
ここでNegが具体的に論じるべきは、①論題が指示する範囲とは何か(論題の解釈)、そして②AffのPlanは①の範囲に含まれているか、という2点だけです。解釈基準(Standard)がTopicalityの要件だと言われたりもしますが、それは①につき援用される判断の一材料であって、それ以上でもそれ以下でもありません。ともかく、上記2点につき攻防がされた結果、Topicalityの成否が決まるといってよいでしょう。
(この点、一般的には、上記2つに加えて、StandardとImpactがTopicalityの要件だと説明されます[参考:NADEスキルアップ講座 論題充当性第3回(渡辺徹)]が、Standardは必須ではないと思いますし、Impactについては上記で見たとおりの実質的な理解は必要なものの、一般的なアカデミックディベートのジャッジであればその意味するところは共有しているはずです。私見は異なる構成を取っているのですが…)

ここで、いちごTの内容たる「いちごの辞書的定義」は、上記要件のうち①について何か述べようとしているようです。それでは、いちごTが①でいう論題の解釈においていかなる役割を果たしうるのか、というか果たせないのかを見ていくことにしましょう。

3.辞書的定義の証明力
ここで、いちごTの例として、パッチにあった「the=tea party」なる定義に基づく主張を考えてみましょう。実際どのような議論がされているのか理解できないのですが、上記の定義を辞書から引用した上で、それを前提に論題を解釈し、AffのPlanはそこから外れているとするのでしょう。そりゃあ、the=tea partyなる意味に基づいてまともなADの出るPlanを作ることはできないでしょうから、ほとんどのチームのPlanはthe=tea partyにより解釈された論題の定義からは外れるでしょう。

しかしながら私たちは、the=tea partyなる定義が辞書から読まれるということは、ディベートにおいていかなる意味を持つかということについて冷静に考えなければなりません。
当たり前ですが、一つの単語には複数の意味があります。Theについても同様です。そこで、ありうる複数の定義から一つを恣意的に選び出して引用しただけで、なぜthe=tea partyと解釈しなければならないのか。辞書はそれには答えてくれません。したがって、the=tea partyというひとつの珍しい定義を聞いた者としては、せいぜい「そういう意味もあるのね」ということしか確信できず、辞書からの引用はそれ以上の証明にはなりません。

むしろ、一般的には、このようなもの珍しい定義については、引用されても論題とは無関係であるという強い推定が働くはずです(それは論理的でない、変な「常識」を挟むなと言いたい人はもう少し我慢してもう少し後の記述を読んでください)。これは日本語で言えば簡単です。「日本政府は増税すべきである」という文章のうち「日本」について「辞書によると『日』は太陽、『本』は書物なので、日本とは太陽について書かれた本である」といったことを言ったところで、こいつは馬鹿だと思われるだけでしょう(日本語で政策について議論できるレベルの外国人でも同じように感じるはずです)。

そもそも、私たちは、英語であれ日本語であれ、自分が有している言語的感覚や語彙、文脈に即して、論題の意味を理解しているはずです。”The Japanese government should encourage companies to introduce equal pay for equal work.”という文章についても、英語ディベーターの皆さんは同一労働同一賃金についての話題だと(JDAの解説がなくても)分かるでしょうし、それを前提にプレパしているはずです。ジャッジも、何もTが出ないのであれば、そのように理解しているはずです(できなければジャッジなど務まらないでしょう)。
それに対して、the=tea partyなる珍妙な定義が出てきた瞬間、論題の指示する範囲について何らかの新しい証明がされたと考えるのは明らかに不合理です。選手やジャッジは試合前から論題についてあるイメージを抱いている(もちろんぶれはあるでしょう)のですから、これに対してチャレンジする、あるいはそのイメージをより精密にしていく――Topicalityという議論は、いわゆる「普通の」解釈をぶち壊して変な意味を作るのではなく、「普通の」解釈をより精密にしていくことでAffの支持できる議論の範囲を制約している議論であるべきです――ためには、単に代替的な定義を出すだけではなく、その定義にしたがって解釈すべき理由がなければなりません。もちろん、別途理由をつけなくても定義として受け入れられるようなものもあるでしょうが、すくなくともJapanese Governmentの前につくtheについてのtea partyという定義は、通常の言語感覚からすれば受け入れられないでしょう(そもそも文章として有意味な解釈になりうるのでしょうか?最低限その証明をしない限り無理でしょう)。

それでもまだthe=tea partyの定義に何らかの意味があると考える方には、こう問わねばなりません。それではあなたは、他のEvidenceやディベーターのスピーチで出てきたtheについても同様にtea partyを念頭に置いて解釈されるのか、と。この試合ではやたらお茶会が出てくるなぁ…ということにでもなれば、それはそれで一貫して馬鹿だという話になりますが、それを馬鹿だと感じつつもTopicalityについてだけ辞書の定義を一々取り上げるというのも、結局同じことだということに気づいていただきたいものです。

以上、当たり前のことを長々書いてしまいました。一言で言うと「そんな馬鹿な解釈ありえないだろう」ということなのですが、これを「何が駄目なのかよくわかりません」などとおっしゃるジャッジもおられるようなので、丁寧に記述しました。

次の節では、このように馬鹿な定義でも「ディベートでは」取らねばならない、と考える向きの方のため、そのような考え方はディベート理論上もとりえないということを論証することにしましょう。

4.Topicalityの主張立証構造と「推定」論の誤りについて
よく言われるのは、TopicalityについてNegからチャレンジがあった場合、Affはこれに返さなければならないという理屈です。この見解は、NegがTopicalityを出した瞬間に、AffのTopicalであることにダウトがかかり、Affに何らかの立証責任がかかるということです。
これについては、いくつもの疑問を挙げることができます。第一に、ダウトがかからなければAffのTopicalであることは前提とされるのでしょうか。第二に、どんなダウト(NegのT)でもAffに責任を負わせることができるのでしょうか。第三に、Affが負う「立証責任」とはどこまでの内容を指すのでしょうか。

これらの問題を考えるために、AffがTopicalであることは誰が示すべきなのかということから検討してみます。
第2節で見た通り、Affは論題を肯定できていないと負けになります。JDA-MLの過去ログなどを見ると証明責任がどうとかいう話で何か論争がされていて、「主張したものが証明しなければならない(One who asserts must prove)」という原則が出ていたりしますが、これに従えば、Affが論題の肯定を提案するのが試合の構造なので、自身の提案であるPlanがTopicalであることもAffが証明すべきということになります。
また、法律学では証明責任とは「ある事実が真偽不明のときにその事実の存在又は不存在が仮定されて裁判がなされることにより当事者の一方が被る危険ないし不利益」などと定式化され、不利益を課される側が「証明責任を負っている」ことになります。Topicalityについて真偽不明になれば、AffはTopicalでないと考えるのが通常ですから、ここからもAffに証明責任があるということになります(これは、主張した側が証明しなければならないので、Topicalであることを主張するAffはそれを証明できないと不利益を負う、という説明と同じですが、実際には主張責任と証明責任が常に一致するとも限らない――ほとんどは一致するでしょうが――し、いわば消極的要件については誰が主張するかという問題が重要になってくるので、One who asserts must proveという原理だけで主張立証の構造を整理することには限界があるように思われます。JDA-MLの某大御所は論理学の先生なのでその専門的見地から考えるのでしょうが、ディベートにおける議論の審理については法律学の方が近いように思います。まあ僕もよく分かってないのですが)。

長くなってしまいましたが、要するにTopicalであることはAffが証明しなければならない、ということです。この点はほとんど異論はないでしょう。
さて、これを前提とすると、Affは1ACからでもTopicalであることの証明をしなければならないということになるはずです。しかし、普通は誰もそう考えませんし、通常のCaseについてはそのような要求をする必要は無いでしょう。なぜかというと、そんな証明を別途しなくても、我々はAffのPlanがTopicalであるだろうことは(よくあるPlanなら)分かるからです。Topicalityが出ようが出まいが、最初からTopicalでないPlanではAffは勝てません。また、TopicalなAffに対してTopicalityが出されても、それに理由がなければ、Topicalであることは否定されず、Affが負けることはありません。

この点、ESSディベーターの中には「AffにはTopical Presumption(推定)があるから、Negから攻撃されない限りTopicalである」と考える方がいらっしゃるようです。しかしながら、(少なくとも判定上ジャッジを拘束する効力を認める場合)その正当化理由は薄弱です。
「Topicalityはそれだけで勝敗を決めるから」という理由付けでは、Affが唯一出すADについても同様に妥当しますから、これにもPresumptionを認めねばなりませんが、この結論は不当でしょう。「Affの解釈は議論の前提となるから推定を置くべき」というのは幾分ましな理由付けですが、だからこそきちんと議論すべきであり推定など認めるべきでないとも言えるし、逆に議論の前提を掘り返すにはいちごTなどというしょぼい理由付けでは足りないと言えるので、少なくともいちごTに反論必要性を認める論者が援用できる理由付けとはいえないでしょう。
そもそも、Topical Presumptionとか言っている方々は、推定という言葉の意味を分かっていらっしゃるのでしょうか。こういうときこそ辞書などで調べる必要があります。Gooの辞書だと「〔法〕 明瞭でない法律関係・事実関係について一応の判断を下すこと」という意味があります(正確には「ある事実から他の事実を推認すること」です。新堂幸司『新民事訴訟法』3版521頁)が、法律の世界では、推定を破るにはそれを覆滅するための主張立証が必要とされます。「Negからチャレンジがされただけで」推定が破られるという物言いはてんでおかしいということです。
(おそらく、ディベートでPresumptionと呼ばれているのは、真偽不明の際にどっちに入れるかという場面で働く基準のことを指すのでしょう。そういう局面があるのは分かりますが、それをAffが1ACでTopicalityの証明をしなくてすむ理由として持ち出すのが不当であるというのが僕の言いたいことです。つまり、一般的にディベートで言われているPresumptionというのは法律学で言うところの「推定」とは意味が違い、もしAffがTopicalityにつき何らかの証明免除を受けるという説明をしたいのであれば、その際には法律学で言うところの「推定」概念を持ち出す必要があるでしょう。私見は、Affにこのような推定を認める必要もないし理由もないので持ち出すべきでないと考えます)

Affに何らかの理由で(ルールには明文にないので、いわゆるPOP派は口が割けてもいえない理屈のはずです)1ACにTopicalityの証明が免除されると考えた上、その免除効果がNegのチャレンジによりなくなってしまうとするのであれば、もはやいちごTのように辞書引用すらする必要はないでしょう。Negは「Topicalityに疑問がある、全ての単語につき意味が間違ってる」というだけでよいはずです。一種の儀式ですね。
それではダメで、「せめて辞書的定義としても理由がないといけない」と考える場合、既に「チャレンジには一定の理由を要する」という(正当たりうる)立場にコミットしていることになります(法律用語としての「推定」に近い考え方です)。そうなると、なぜいちごTはチャレンジに足る理由になるのかを論証する必要がありますが、それは前節で見たとおり極めて無理筋でしょう。辞書に書いてあるからとか言っている人は、完全に思考停止していて、個人的にはもはやディベーターではないと思いますので、これ以上言うことはありません。

それでも儀式として、Negの何らかのチャレンジを求めるべきだという考え方はありうるのかもしれません。しかし、いちごTであれなんであれ、Tが出されるという「儀式」だけでTopicalityにつき反論の必要性が生じるというのは奇妙ですし、逆に儀式が出なければどんな変なCaseもTopicalなままというのも不合理でしょう。いちごTとは関係なく、Negの反論がない限りはTopicalityは取れないという論者はこれまた多数いるのですが、だったらどんなに証明の薄いADも反論がなかった取るというタブララサを徹底させるべきだといえます(が、今やそんな人はいないでしょうし不当な帰結だと思います)。Topicalityは重要な議論だから…というのは理由にならなくて、普通のADも同様に重要といえるということは前に指摘したとおりです。
さらに、儀式が成立したとして、そこでAffが負うTopicalityについての立証責任とはいかなる内容なのでしょうか。儀式で出てきた理由付けを否定できればよいのでしょうか、それとも論題の全文にわたって正しい解釈を与える必要があるのでしょうか。前者の見解であれば、儀式においても否定するに足る理由付けがされねばならない(つまりいちごTでは儀式は成立しない)と考えるべきでしょうし、後者の見解は、通常のPlanについて一見明白にTopicalであるとの評価を許さないという前提に立つと、Affに過剰な負担を負わせるものといえます。
したがって、儀式としてのNegチャレンジ論は、理由がない上その帰結も不合理であるというべきです。

もう一度前の部分に戻ると、Topicalであることの証明責任を負うはずのAffが1ACでTopicalityを証明する必要が通常ないのは、ジャッジはPlanと論題をつき合わせて、そのTopicalであることを看取できるからです。常識的に証明不要なほど一見明白である、ということです。
これを否定される方は、そのような恣意的なことは許されないなどというのでしょうが、これは恣意とかそういうことではなく議論の評価の問題です。ジャッジがPlanと論題をつき合わせてTopicalかどうかを考えられないのだとしたら、EvidenceとClaimをつき合わせてReasonableかどうかを考えることもできないことになります。母国語ではないディベートだと本当の意味が分からないから慎重に、という意見も昔ありましたが、だったらTopicality以外の議論もそうやって判断すべきだし、もっと言うなら、典型的なPlanが論題の中に入っているか分からない程度の英語力なのだとしたら(多分そうではないと思うのですけど)、英語ディベートはちょっと早いのではないでしょうか。まずは英会話学校に通ったりしたほうがよいでしょう。ネイティブの講師もいるみたいですしね。

5.ディベートにおける「自由」とは
ここまでで、いちごTに判定上何らかの意味があるという立場は取りえないことが示されたと思います。すなわち、いちごTの理由とされる辞書的定義はTopicalityのために何の証明にもなっていないし、Tが出されるという行為自体に判定上の意味を見出すこともできません。何のことはありません、理由のないTでは勝てないという当たり前のことを長々書いただけなのですが、世の中にはそんなことも分からない人がたくさんいる(それも「ディベート」をやってるのに!)というのが驚きです。

そこで、以下では少し話を変えて、ディベートにおける「自由」について考えてみます。というのも、JDA-MLでは、いちごTへの批判に対して「ディベートでは自由に創造性を働かせて議論するべきで、現実的ではないなどの理由でいちごTなどの議論を制約するのはよくない」といった趣旨の発言がされていたりするからです。
ここまで見たように、そもそもいちごTは現実的云々以前に議論とは呼べない代物なので、このような見解は的外れだと思うのですが(ついでに、ML上ではいちごTを規制しろという議論はされておらず、単にしょぼいと言っているだけなので、その意味でも的外れでした)、このような発現から推測するに、どうやらディベート関係者の中には「理由付けはどうあれ好き勝手言うことが自由だ」というぶっとんだ考え方の持ち主がいらっしゃるように思われます。しかしながらこれはディベートという競技の性質及び意義を全く理解しない、誤った考え方です。

ディベートという競技は、ジャッジを説得するものです。そこでは、説得するための理由付けが求められる反面、然るべき理由付けがされればジャッジはそれを採用するだけの合理的判断能力を有するということが前提とされています。ですから、ディベートにおいては、理由付けさえ伴えばどんな議論でも評価されるという意味での自由はありますが、何でも言ったら取ってもらえるというような自由はありません。それはただの無秩序ないし狂気の世界です(実際、the=tea partyとかいう「議論」が違和感なく回っているとすれば、それは相当気違いじみています)。

もちろん、選手がどういう議論を出すかは自由です。別にいちごTがやりたいのであればいちごTを出せばよろしいのです。しかし、ジャッジはそれを自由に評価してよいものではなく、合理的な判断を下していかなければなりません。
いちごTが評価されるべきかどうかという問題は、ジャッジングスタイルとかフィロソフィーとかいう問題ではなく、単に議論の評価に尽きるものです。要するに、馬鹿な議論を馬鹿と切って捨てられるだけの能力があるかないかということです。そして、馬鹿な議論でも評価すべきだという理論上の根拠もありません(だいたい、そんな根拠まで用意しようとしているジャッジはいるんでしょうかね?これこそ「セオリー」ですよ)。それを「自由」とかいうもっともらしい言葉でごまかすのは、ディベートに対する無理解に加え、ジャッジの職務放棄でもありますから、これは厳しく戒められるべきです。

ディベートで自由に考えることで創造的な議論ができるようになる、というのは確かにあるでしょう。しかし、創造というのは、何も考えずにできることではなく、価値あるものを作ろうと苦しんだ末にようやく達成できるものです。辞書で適当に取ってきた定義を論題の単語にひっかけて読むような議論は、全く創造的ではありません(今やほとんどのチームがやってるようですし)。そんな議論を評価することは、まともな議論を考える動機付けを失わせる点で、むしろ選手の創造性を損なっています。安易ないちごTを戒め、理由ある議論を求めていくことこそが、ディベートにおける自由を尊重する態度だというべきです。誤解を恐れずに言うと、いちごTに理由があるかどうか考えずに「ナイスチャレンジ」だとか言っているのは、柔軟な姿勢などではなく、単に頭がゆるいだけではないでしょうか。

6.まとめ
以上、いちごTの不当性について、そしてそれを認めようとする考え方の誤っていることについて、縷々論じてきました。いちごTについては従来「Tとして弱い」といった角度で論じられていたようですが、そもそもいちごTはそれ自体理由になっていないし、そのように評価できないレベルのジャッジはEvidenceの意味も理解できないはずなので(いちごTを認めるなら、同じことをEvidence内の単語にもすることができますね!皆さん新戦略として試してみてはどうですか?)、いちごTが認められること自体ありえないというのは、僕の思うところです。

もっとも、上記の議論は、実際に試合で議論されているディベーターの方々を責める趣旨ではありません。純利益について十分に議論されているディベーターの方々からすれば、いちごTが馬鹿げていることは当然分かっているはずです(でないと英語の文章を読めませんよね?)。それでもいちごTを出しているのは、ジャッジがそういう馬鹿な議論を取るからでしょう。ディベーターとしては試合に勝ちたいと願うのは当然のことなので、まあそんな議論で勝って何がうれしいんだとか恥ずかしくないのかということを思わないでもありませんが、ある意味仕方ないことではあります。

ですから、いちごTについては、100%こんなものを取るジャッジに問題があると考えます。いちごTなどで時間を浪費させていることは、選手の正当な努力を無視し、ディベートの価値を日々切り下げています。それは、選手に対する教育的効果という面でもそうですし、いちごTのような下らない議論が出ていることが知られることでディベートが怪しい競技だと思われてしまうことからもそうです。だって、英語ディベートって凄いなぁ(実際凄いことだと思います)と思われているところにthe=tea partyとか言ってることがばれたら、こいつら馬鹿かと思われてしまいますよ。事実、僕の友人にこの話をしたら、それはやばいとひいていました。これが普通の感覚です。

というわけで、ここを読んでいるようないちごT派ジャッジがいらっしゃるとしたら、今後はそのような議論に対して批判的に評価されるようお願いしたいところです。もしそうすべきでないと考えるようでしたら、そこには理由があると思いますので、コメント欄ででも是非聞かせていただきたいものです(それができないのにいちごTを取り続けるのはジャッジとしての任務懈怠です)。
選手の側も、勇気を出して、いちごTなる下らない主張はやめて、もっと実のある議論をすべきです。いくらジャッジがいちごTを取るとしても、Case Attackに1枚余分にEvidenceを読むなりしたほうが効果的ではないでしょうか。AffでいちごTを出されたとしても、別にレスポンスする必要はないでしょう。それでいちごTにVoteされたら、ジャッジを締め上げて、お前はこんな単語の意味も分からなくてよくジャッジなんてできるな、と思いっきり批判してやればいいのです。それは、ディベートコミュニティにおいては正当に行使できる「自由」であるはずです(理由もあるし!)。

以上が本論です。意図的に攻撃的な内容にしてありますので、異論もたくさんあると思います。是非ご意見いただけましたら幸いです。


補論 Reverse Voterの可能性とディベートジャッジのあり方
JDA-MLでは、いちごTに対して、そのような程度の低い議論を出した側を負けにすべきだ、という”Reverse Voter”の理論についてもやりとりがありました。Reverse Voterとは要するに、論題の是非以外の理由で勝敗を決すべきという議論なのですが、これに対して「論題の是非で勝敗を決するのがディベートの原則であり、これを逸脱する方法での勝敗決定は許されない」という反対論が展開されていました。

この問題について論じるといろいろ長くなりますので、ここでは、ディベートの原則として論題の是非で勝敗を決するということだけが一義的に出てくるものではないということを論じることにします。
ディベートの原則は、ディベートという競技の予定する方式や構造から導かれるべきです。ディベートは、2つの対立する側に分かれて議論する対審構造をとるものですから、そこから「どちらかに投票しなければならない」という原則が出てきます。また、ディベートでは言語で議論しますから、「試合中の発話に基づき、その内容から勝敗を決しなければならない」といったこともいえるでしょう。しかし、議論のテーマとして論題が定められているということは、そこから「論題の是非で勝敗を決するべき」ことを必然的に導くかというと、そうとも言い切れないでしょう。事実、一般の議論では、テーマがあったとしてもそれ以外の理由(個人的な好みや、スキャンダルなど)で結果を決めることはよくあります。
特に、政策形成パラダイムにおいては、実際の政治での意思決定がディベートの一つのモデルであると考えられるところ、選挙では当事者のスキャンダルなどを理由とした投票行動が見られることもあります。もちろん、ディベートにおいて議論と関係ないスキャンダル(一方チームの選手とジャッジが前に別れたカップルだった…とか)で勝敗を決することは許されませんが、議論の内容と関連したスキャンダルであれば、それを理由に一方に投票することが、ディベートの競技方法上許されないとまではいえないでしょう。

また、Reverse Voterを認める見解に対して、「ジャッジは神ではないから、勝手に投票理由を作ることは出来ない」という批判がありました。これに対しては、上記5節の内容と関連して、理由付けが求められる限りでディベーターもジャッジも神にはなれない、と答えることができます。
Reverse Voterによる投票をするには、それなりの理由が必要でしょう。いちごTのくだらなさに加えてその弊害(教育効果&ディベートのイメージダウン)からして、いちごTを出し続けるチームにAgainstする理由はないでもないと思いますが、何にせよ、そのような投票をするためには、ディベーターもそれなりに説明すべきですし、ジャッジも自身の判定としてこれを正当化できる必要があります。
そして、このような正当化が必要とされる時点で、ジャッジは神として自由に振舞うことは出来ません。ディベーターもジャッジも理由付けを通じて合理的に議論に関わっていく必要があり、その中で自由が認められるというのが、ディベートという競技です。だから、僕もいちディベーターとして、上記の通りいちごT批判に相応の理由付けをしているつもりですし、いちごTをジャッジングスタンスなどとして容認するジャッジは、それだけの覚悟が必要なはずです。
2009.6.23追記

この記事には残念ながらいちごT論者からのご意見をいただけませんでしたが、依然としていちごTは回り続けているようです。
というわけで、「いちごT ディベート」でググった結果から発見したいくつかの記事について、僕のほうからコメントをつけることにします。ちなみに検索結果の1位は僕の記事でした(笑)

NAGUMO BLOG(2009.5.25)
JDA-MLで苺Tの話題が相も変わらず延々と続いている。Japan=漆器というのが母国語(日本語)で考えた時はどう考えても奇異なのに、なんでそんなTopicalityを出すの?と。標準的解釈を定めよう、とか、ジャッジの質を高めよう、とか。はたから見ているとそんな議論のほうが奇異だ。

社会にでて、10年近く、SEをやってきて、その3分の2以上はいわゆる上級SEとして、ユーザーを相手にプレゼンだの、説明だのをやってきたが、ディベートをやっていて一番良かったなと思うのは、打ち合わせやプレゼンの前に話す相手が話題についてどこまで理解しているのかを自然と考えて話す癖がついてしまっていることだ。1年生や、2年生のはじめの頃のディベーターは平気で「常識」なんて単語を言い放つもんだったけど、常識なんて人によって違うわけで。もちろん欧米に行けば信仰する宗教によっても違ったりする。そんな「常識」が違う相手でも説得をして、1票を勝ち取るのがディベートなんじゃないの?違うの?


JDA-MLでも投稿していた方のブログのようです。

確かにJDA-MLの議論は「奇異」で、そもそも「頭の悪い議論をどうして取ってるの?」という話なのに、標準的解釈がどうとか禁止がどうとかいう話になっているのは僕にも理解しがたいことです。

しかしながら、僕からすれば、このブログの記事はそれ以上に奇異なものです。「常識」が人によって違うということから「常識」の存在を否定することが直ちに導かれることはないわけです。だいたい、この筆者は読者が「SE」という単語がシステムエンジニアという職業を意味していることを前提として文章を書いているようですが、それも常識に依拠しているのだということに気づいているのでしょうか。
まぁ、この方も含めて、いちごT擁護(?)派は結論先行で物を考えるようであるので(僕にはそうとしか思えないのです。彼等が僕が本文で述べたような理由の千分の一でもいちごTの理由付けをしたでしょうか?)、このあたりの破綻をつついてもしょうがないのですが。

というわけで中身について言及しましょう。確かに常識は人によって違うでしょうが、Japanがうるしを意味するという解釈が不合理だというのはそういう問題ではありません。このレベルの相違を否定されるのであれば、あなたはなぜ英語でディベートができるのかということです。少なくとも、Japan=うるしという意味を受け入れた瞬間、全てのエビデンスに含まれたJapanについても「うるし」として理解する必要があるはずですが、それは無理でしょうし、実際にこの方もそうは考えないでしょう。にもかかわらずこれを「常識」云々の問題として捉えているのは、自身の判断に論理的整合性がないことを自覚していないか、自覚した上で言い訳(?)しているかのいずれかで、いずれにせよジャッジとして(というかディベーターとして)不適格であるというだけのことです。

だいたい、「相手が話題についてどこまで理解しているのかを自然と考えて話す」ということと、いちごTの問題を関連させて考えること自体がナンセンスです。外国人と話すときに、Japanの意味がうるしではないか、相手はJapanの意味を自分と違えていないか…ということを意識して話す場面がいったいどれくらいあるのでしょうか。もちろん言語には多義性があり、外国語運用に限らず「すれ違い」はありえますが、政策論題の主体として語られるJapanが「うるし」であるといった、およそありえない(うるしが労働政策を云々するのかよ!)解釈まで「自然と」考えてしまうのだとすれば、それは病気だというほかありません。

確認しておくと、いちごTの問題は「そもそもそんな議論で説得されるのか」という単純な問題です。「説得をして、1票を勝ち取る」とか言ってますけど、いちごTで説得されているジャッジが馬鹿であるという話であって、Japanが日本国を意味するという「常識」にチャレンジする余地があるということとは全然関係ありません。Japanの意味を詰めて考えることはよいことだと思いますが、いちごTはそうではなくて、単に屁理屈(理屈ですらありませんが)をこねているだけです。それに対して「禁止」とか言うのは確かにおかしいことかもしれませんが、いちごTで1票を勝ち取れるとか考えているのだとすれば、その理由を聞いてみたいところです。「常識」を覆す立派な理由があるのでしょうから!
本文で書いたように、言語解釈の問題としてもディベート理論の問題としてもそんな理由はないだろうと僕は考えるのですが、それにもかかわらずいちごTが英語ディベートにおいて正当化される理由があるとすれば、それはこのブログの筆者が述べるように「ESSの少なくないジャッジやディベーターは『いちごティータイム』みたいな変な宗教に入っている」ということなのかもしれません。そうだとすれば説明はつきますが、それはもはやディベートではないということは自覚していただきたいものです。

というわけで僕から疑問を述べるとすれば、この筆者がやってきたことは本当にディベートと呼べるものなのか、ということです。
ブログの筆者からすれば「ESSでディベートセクションに入って試合をやってきたのだからディベートをやっていたに違いない」と言うのでしょう。しかし、ディベートセクションと称する団体に所属してディベート大会と称されるイベントに参加していればディベーターであるというのは一つの「常識」ではあるかもしれませんが、筆者の論理によればそれもまた疑われるべきです。そして、「いちごTには意味がある」という言説より、「このブログの筆者は実はディベーターではない」という言説の方が理由があると僕には思われるのですが、どうでしょうか。

少なくとも、いちごTをディベートで通用する議論と認められない僕にとって、筆者がディベーターであるという結論には受け入れがたいものがあります。筆者は僕を説得する必要性を感じないかもしれませんが、おそらく筆者とは「常識」を異にする僕を説得できる論理を持っていちごTを擁護できないのに「JDA-MLの議論は奇異だ」というのは、MLの論者に失礼ではないでしょうか。


続いての記事は、ESSの現役ディベーター(UTの4年)も変なことを言っているという内容です。

NAFAサイト(2009.6.5)
 今回、2009年に就職活動を行ったディベーターが中心となって、第二回ディベーターのための就活セミナー「ディベートと両立する就職プレパ」を開催したいと思います。
 このセミナーは、昨年度の初開催を受けて、今回も有志で行うものです。内容は、リク○ビなどの万人受けするような内容ではなく、3月にKIDLモデル作りながら、就職活動したい。という学生にとって、有意義なものにしたいと考えています。もちろん、留年してがっつり就職活動のできる某君のような人も大歓迎です。
世間では不況、内定切りだと就職活動では言われ、JDAメーリスでは「いちごT全面禁止」と、世知辛いことこの上ない状況における、一筋の光となれば。と主催者一同考えております。就職活動は、引退のかかったNAFAT山のプレパを乗り越えた精神力を持ってもツライものがあります。
 NAFAセミの今期の展望ではありませんが、ある程度就職活動を全体観をもって把握するにはよい機会となると考えていますので、以下詳細をご確認ください。
(後略)
[2009.7.19追記]要請があり引用元文章の筆者についての記述を削除しました。


最初に、ディベート甲子園OBとして残念なことを述べておくと、この文章の筆者もまたディベート甲子園のOBだったりします。彼が大学でもディベートを続けてくれたことはうれしく思いますが、それと同時に、いちごTなるしょぼい擬論に対する批判精神を高校時代に養えなかった(あるいは洗脳されたのだろうか?)ということについては、残念であるとともに、彼に何かしてあげることはできなかったのかという申し訳ない気持ちにさせられます。大きなお世話でしょうが。
(ついでに彼は大学の後輩にも当たるようですが、年に3000人も合格してしまう大学ですので、中にはいちごTに対する批判精神を欠くような生徒も入ってしまうのでしょう)

さて、筆者が実際にいちごTに意味を感じているかは本当はよく分からないのですが、「JDAメーリスでは「いちごT全面禁止」と、世知辛いことこの上ない」などと書いているので、いちごT肯定派なのでしょう。
いちごTを肯定する方々は一様に「常識とかおかしいです」ということを述べるようであり、きっとこの筆者もそのように主張されるのでしょう。しかし、そのような物言いは、彼の言う「就職活動」における基本原理に真っ向から反しているのだということに、果たしてどれだけ自覚的なのでしょうか。

僕は進路の都合上就職活動をしておりません(7月にちょっとだけやります)が、弟は就活した結果某優良組織に進む予定ですし、後輩も割とよい(と言われる)企業に就職しているので、いろいろ話を聞くことがありました。まぁそんな話を聞くまでもない話ではありますが、そこで語られるのは「常識のある人間が受かる」ということです。当たり前すぎて補足する必要もありませんが、一応補足しておくと、社会の中で活動することで金を儲ける企業において、常識の分かっていない人間が有用であるはずはないのです。

こう書くと、きっと「常識に縛られない自由な発想が…」とかいう反応があるでしょう(JDA-MLでもありました)。しかし、自由な発想というのは、何でも言っておけばいいというものではありません。常識というものを踏まえたうえで、そこからどのように外れているのか、その外れ方に理由があるかどうかを評価できなければ、そこらの小学生と変わりありません(…これは小学生に失礼でした。全国の小学生の皆さん、ごめんなさい)。
そもそも、いちごTというのは新規でもなんでもなく、今やどこのチームでも無批判に垂れ流しているようですから、いちごTを誇ることには何の意味もありません。むしろ、そんな下らない議論をいつまでも回し続け、無批判でいることは、無能の証明以外の何者でもありません。
ついでに言っておくと、(気持ちは分からないでもありませんが)いくら気に入らない大御所の言うことを聞きたくないとしても、それだけの理由で意固地になって「世知辛い」とか言っているのは、反骨精神でもなんでもなく、ガキなだけです。皆さんが就職しようとする企業には、もっとうっとうしくて理不尽な上司がたくさんいるのです。そんなこともわからずに就職するから、3年でやめるとかどうとかいう問題があるのです。それは全く格好いいことではないということは、しっかり自覚しておくべきでしょう。

もっとも、ESSディベーターの方々は、ディベートはディベート、ただのゲームだと割り切っているのか、あるいは就職活動の「武器」として都合のよい経歴だと考えるにすぎないのかもしれませんね。それは一つの見識ですが、そんな風に適当にディベートに取り組まれて、いちごTもディベートだとか言って吹聴する(NAFAのサイトにはパッチとして残っている!)のは、真面目にディベートをやっている人間にとって迷惑極まりありません。
まともな企業であれば、「Japan=うるし」などという話を平気でやっているような競技は、有害無益であると感じるでしょう。このセミナーを受けるような意識の高いディベーターは、いちごTのような話はせずに、英語ディベートのウケそうな側面だけをプッシュするのかもしれません。それが不作為の詐欺になるのではないかとかいうのは司法試験受験生の妄想なので気にしなくて結構ですが、少なくともそのような振る舞いが自身の一貫性を損ねていること、すなわち一方では平気でいちごTを回し後輩に伝えておきながら、他方ではそれを恥ずかしいものとして隠しているということについては、しっかり自己分析してほしいものです。そして、いつか後輩たちが「ディベートってあの、うるしがどうとかいう?」などと馬鹿にされるのではないかということについても、心配してあげてください。
(ちなみに、もし僕が弁護士事務所かどこかの採用担当になることがあったとすれば、そのときには英語ディベート経験者を名乗る人については相応の調査をしてみようと考えています。まぁこれは心配しなくてよいことだと思いますけど)

念のために忠告しておくと、いちごTがまともな議論なのだと信じて、それを就活のアピールポイントにしようと考えている方がいれば、それは少なくともあなたにとっては最悪の結果につながることになるので、よく考えた方がよいでしょう。もう二度といちごTなどというクソ議論を回すまい、後輩に同じ過ちをさせてはならないと決意し、真っ当な議論に戻ることが、あなた方の取るべき最良の道です。
これは僕の言葉だけだと説得力がないかもしれませんので、「いちごTなどとくだらないことを言っている人間は絶対採用しない」という、東大法学部助手から某No.1コンサルティングファームに入って活躍した某ディベート団体代表理事の言葉を紹介しておきます。もっとも、普通に考えて「いちごTに意味がある」と勘違いするような人は、いちごTについて暴露しようがすまいが、別の理由で採用されないような気がしますが…。
コメント
この記事へのコメント
最後のReverse Voterに関しては、ジャッジの存在意義やジャッジングあるいはディベート(もしくはその1つの試合)そのものの存在意義にまで遡及して話をすれば、投票理由に充分なりうる可能性があるな…と自分としてはエントリを読んでて思いました。

さて、しかしいちごT派の方からのコメントが一切ないですね。
しかし世界は変わらず回り続けるのでしょうか。
その理由が知りたいところです。
「みんながやってるから」「先輩にそう言われたから」「道を外れたようなことに快感を覚えるから」
とかなのかなあ。
2009/06/09 (火) 22:59:11 | URL | aki.s. #-[ 編集]
確かに寂しいですね
>aki.s.さま

コメントありがとうございます。
Reverse Voterの点については、いちごTレベルのしょぼい議論に対して大展開する実益があるかどうかはともかく、理論的にありえないものではないでしょうね。おっしゃるとおりの理由付けを深めていけば、十分な理由付けになると思います。少なくとも、いちごTに投票するよりずっと合理的だと思います。

そもそもこのブログがにぎわったのも一時だけの話で、いちごTにかかわっておられる方々はこんなところはご覧になっておられないのでしょう。
もちろん、筆者としてはいちごTを平然と受け止めている方々に本文を読んでいただき、ご意見を頂戴したいと考えているのですが。

最近あったEast Westの壁パッチを見ても、関東では相変わらずいちごTが回っているようです。こんなブログには目を通していないとしても、おそらくJDA-MLは見ているでしょうから、それでも恥ずかしげもなくいちごTを回すというのは、何か深いものがあるのかもしれません。

というわけでいちごT信者の方々に対してコメントを。
筆者としても「馬鹿である自由」は否定しませんので、いちごTを回したいということ自体は別に構わないのですが、それをディベートにおける合理的な議論と称するとか、そうした議論をとがめない人間がディベートジャッジであるとかいうのは、ディベートという競技に対して大いなる侮辱だと思いますので、是非改めていただきたいと考えております。
試験も終わり、コメント返答能力も十分ございますので、この点につき活発な意見をいただければうれしいです。公序良俗に反しない内容であれば、ディベートという競技の意義についてでも、本文に述べたいちごT無根拠論に対する反論でも、何でも構いませんので。
2009/06/10 (水) 22:28:29 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
コメントを2点
たびたび、拙文に言及して頂きまして、恐縮です。今般は、NADEに成り代わりまして(!)、御礼申し上げます。

さて、興味深く拝読した今回の記事に関し、2点、コメントを申し上げたいと思います。

【コメント1】 論題充当性の議論構成

>この点、一般的には、上記2つに加えて、StandardとImpactがTopicalityの要件だと説明されます[参考:NADEスキルアップ講座 論題充当性第3回(渡辺徹)]が、Standardは必須ではないと思いますし、Impactについては上記で見たとおりの実質的な理解は必要なものの、一般的なアカデミックディベートのジャッジであればその意味するところは共有しているはずです。私見は異なる構成を取っているのですが…)

発言のご趣旨は理解します。議論の構成は、論旨明確化上の便宜ですから、いろんなバリエーションがあると思います。実際、私がTopicalityの議論を先輩から学んだときには、1)Standard 2)Violation 3)Impactでした。とすれば、私自身「議論の構成【要件】」という、少々キツイ表現をしてしまいましたが、議論の【ポイント】ぐらいで良かったかとも思います。

その一方で、初学者向けの説明としては、1)基準(=実のところ、否定側の解釈・定義の妥当性を主張するための【根拠】です)、2)対抗定義・解釈、3)肯定側プランの逸脱部分の指摘、4)結論という4つのポイントを示すというやり方を、しばらく続けようと思います。この方法、説明が冗長になりがちという欠点がありますが、説明に必要なポイントを理解してもらうためには、初学者向けとしては、親切だと感じるからです。

2)と3)については、貴兄の言う「上記2つ」に対応するポイントですので、特に申し上げることはありません。

4)についても、論題充当性の議論である以上、結論では「肯定側に投票することはできない」ということを必ず言う訳ですから、言わずもがなの感があるのは事実ですが、場合によっては、「あまりに悪質な解釈なので、肯定側に投票してはならないのみならず、無得点敗北が相当である」というような変化球を投げる余地を持たせることができるので、特に初心者は、4)を一つのポイントして、きちんと言語化する習慣を身に着けてほしいと感じます。

また、1)については、通常、対抗定義・解釈を持ち出すだけではだめで、「なぜ」否定側の定義を採用すべきなのかの理由が黙示的にも示されないと、審判は否定側の解釈を採用しづらいというのは、「いちごT」問題でも明らかですし、実際、貴兄も「単に代替的な定義を出すだけではなく、その定義にしたがって解釈すべき理由がなければなりません」と論じておられる通りです。であれば、初心者向けの説明では、「自らの解釈を採用するための【基準もしくは理由】は、明確に述べるという習慣をつけてください」という指導がしやすいという意味で、別建てのポイントにしておきたい、というところです。

これは、将来的に「うるし」の毒(!)に染まらないよう、初心者を指導していく上で大切にしたい点でもあります。

【2】 「馬鹿」な定義とそうでない定義との境界線、如何?

>Topicalityという議論は、いわゆる「普通の」解釈をぶち壊して変な意味を作るのではなく、「普通の」解釈をより精密にしていくことでAffの支持できる議論の範囲を制約している議論であるべきです。

この点、まったく異論はありません。論題充当性の1)基準の議論として、「通常の解釈が採用されるべきである」というのは古典的な議論の一つでもあります。

あえて問題を提起しますと、「馬鹿」を論難し、「普通」であれと主張していく際、「馬鹿でなくなるための境界線」は何によって定まるかについて、ちょっといっしょに考えて頂きたい、ということです。

概ね「常識」に準拠すべきだというのは一つのご意見です。しかしながら、一般的な「常識」が堅牢な定義を与えてくれない場合には、少々問題が発生してしまいます。以下、例を用いて考えます。

A)「苺は野菜である」という一文に、「普通」の人は、違和感を感じるのではないでしょうか。実際、農林水産統計では、苺は野菜に分類されるというトリビアをお示ししますと、少なからず驚いた顔をされます。定義の厳密さという点では、「苺は野菜なり」との定義の方が上であり、すくなくとも私にとっては、「苺は野菜なり」というのは「常識」です。このとき、一般人の使うように「苺は果実なり」とする定義をもって「常識」であるとして、農林水産統計上の定義を「非常識」として排除できるでしょうか。

B)「Nationalityの取得を厳格化すべきである」との論題があったとします。論題作成者の意図として「人の国籍」取得が想定されていたとしても、この語句には「人の国籍」のほか、「船の国籍=いわゆる船籍」という解釈も可能です。この時、大多数の人が「人の国籍」であると理解していたということをもって、「船籍」という定義を「非常識」なものとして排除できるでしょうか。

要するに、「常識」や「普通」という概念を持ち出さずに「馬鹿な定義」を切り捨てるにはどうしたらよいか、ということです。あるいは、「日」と「本」の事例は印象的ですが、これをさらに抽象的に考えたらどうなるか、ということです。「馬鹿は馬鹿だ」と切り捨てるのは容易ですが、この点、もう少し理論武装がある方が良いと思います。いろいろと私も考えてみているところですが、いっしょにお考え頂ければ幸いです。
2009/06/24 (水) 19:25:17 | URL | 岳南亭 #1Nt04ABk[ 編集]
特に2つ目のコメントに対して
>岳南亭さま

コメントありがとうございます。
連載の方でも言及していただいて恐縮です。

1点目のコメントについては、4つのポイントを明示して説明することの教育的意義などは共感しておりますし、実のところ僕も普段はそのように指導しております。
なぜ本文のように説明したかというと、Topicalityという議論の機能からストレートに出てくる要件だけを挙げることで説明を明確化したかったという意図があります。それと、Standardについては、パッチを見る限りどうも「要件なので出さないと」といった意味合いで用いられていて、とりあえずClear Cut BoundaryだとかGrammer and Contextだとか述べているように思われますので、むしろ形式的に要件に掲げるのではなく、必要に応じて援用されるべきものに過ぎないというニュアンスを表したかったというだけです。実際には、適切にStandardが提示されるべきというのは、ご指摘の通りです。

2点目のコメント(馬鹿なTopicalityとそうでないTopicalityの境界)に関しては、非常に重要なご指摘であり、改めて記事を書くべきとも思われるのですが、とりあえずここでお返事差し上げることにします。

そもそも僕としては、社会通念(常識)――もちろんこれはある程度の幅を有するものです――に反する議論はその分説明を要するのであって、それを怠っている時点で採用されないのは自明であると考えるのですが、そこにいう「常識」についても様々な意味がありますので、もう少し説明を要するというのはご指摘の通りです。

それでは、いかなる場合に不合理な(馬鹿な)議論となるのかを考えると、一番分かりやすいのは「当該定義を採用することで有意味な解釈をすることができない」ということです。
僕がJapan=うるしを馬鹿だと思うのは、そのような定義を採用したとき、論題を有意味に解釈することが出来ないからです。うるしが政策主体になるということはおよそありえないことで(これも常識といわれればそうですが、このレベルの前提を否定する場合、もはや政策ディベートはできません)、それにもかかわらずJapanはうるしであると主張し、さらにそこに何の説明も与えないというのでは、およそ採用することはできません。そして、このような定義を、辞書から読まれたというだけで採用するのは、馬鹿というほかありません。

A)の例も、B)の例も、この基準に拠れば、ともに論題を有意味に解釈できるような定義だと思われますので、それだけで排除される理由はありません。
僕が「辞書的定義だけで解釈するのは馬鹿だ」というとき、それは「明らかに有意味な解釈を導けないのに、辞書から引いただけで正当化できると考えるのは馬鹿だ」ということを意味します(実際には「ある単語の定義を問題とするTopicality」全てが不当というものではありません。「いちごT」というのは、文脈を無視して一語の辞書的定義だけで無理やり解釈をしようとする議論を揶揄する用語であるというのが僕の理解です)。
この点、書いていてちょっと僕のほうでも「常識」という言葉を不用意に使いすぎている気がしましたので確認しますと、ここで問題とされる「常識」とは、単語の意味に関する社会通念ではなく、言語解釈上前提とされる文法・文脈の理解だということができます。つまり、Japanがうるしか日本国かという話ではなく、当該論題文においてJapanをうるしとして理解することがありうるのかどうかという次元で、「文脈上ありえない」という判断をすることになります。

現在問題となっているようであるいちごTは、概ね以上の要件を満たさず、論題を適切に解釈できないことが明らかですから、その時点で排除されるべきでしょう。文脈上ありえない解釈であって、こんなTを出しておきながらGrammer and Contextなどと述べているのだとすれば、英語だけでなく日本語も勉強しなおす必要があります。

一方、「馬鹿」といってしまうことは行きすぎかもしれないまでも、不合理である定義というものもあります。それは、当該定義を採用することでまともなディベートが不可能になるような解釈です。日本語ディベートで実際に見たことある例としては、「着床前診断は診断しか意味しない(三省堂の定義)。よって、着床前診断を認めてもそれを子宮に戻す作業は論題外であり、そこから出るメリットはカウントするな」といった議論がありました(回していたのは英語ディベーター)。
僕は、ディベートの論題というのは別に論理式のようなものではなく、その背後に前提される社会通念があって、その中で「議論すべき対象」として設けられているものと理解しています。したがって、論題の解釈を「その論題が本当に意味するところ」の探求として捉えるというより、「その論題がディベーターに期待するところ」を探求することだと考えています。
こう考えると、およそ相手にまともな議論を許さないような解釈が妥当だと主張することは、それだけで不合理であるということになります。前述した着床前診断の議論も同様です。少なくとも、法律の解釈では、帰結が不合理である(不公平になってしまったり、適用例がなくなってしまう)ことは、それだけで採用し得ない解釈と考えることになります。これを言い代えると「社会通念上とりえない」といったことになり、要するに常識がないという話になるのですが、このような感覚に共感するかどうかはディベートに対する考え方の違いなどで異なると思いますので、この点で私見と異なる主張をされる方を「馬鹿」と呼ぶつもりはありません。
(もっとも、政策ディベートの目的などから考えれば、かなりズレていると感じますが)

いささか話がそれてしまった感があるので、最後にTopicalityの意義に遡って、意味のあるTopicalityと馬鹿なTopicalityの相違について説明することを試みます。
Topicalityというのは、機能的にいうなら、論題の意味を精緻化することで、Affに不当に有利なフィールドを与えないという目的からされる議論です。要するに、Negが対処できないようなPlanを出されないようにするという目的です。
ここからすれば、文法も文脈も無視してとにかく単語の特殊な定義を引用する(Affの前提としているであろう定義に全く配慮せず!)作法は、そもそもTopicalityの目的と外れています。
また、たとえ文法的に整合性を取りうるとしても、典型的なAffのケースを全て無意味にするようなTopicalityについては、直感的におかしいと考えるべきだといえます。TopicalityはNegを不当に有利にするための議論ではないからです。

このような考え方は、自由な発想が損なわれるとかいう批判を招くかもしれません。しかしながら、自由な発想というのは制約のあるところからも生まれるのであって(むしろ制約にチャレンジする中で生まれるところも大きいでしょう)、文法文脈的解釈に加えて現実の妥当性も考えようという姿勢こそが、より柔軟で有意義な議論を作り出せるはずです。
だいいち、自由が大事だとか言ってるESSディベートでは、昔からあいも変わらずいちごTが出まくっているようですから。そういう意味では、特に理由のない議論が永遠と回され続けている状況そのものを「馬鹿」と評することができるかもしれません。
2009/06/25 (木) 01:21:31 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
英語ディベーターはみんな、いちごTはそれ単体で勝てる議論だから回しているんじゃなくて、AFFのCounter Definition(Interpretation)を誘い出させて、そこから議論を深めていくんですが。。。
パッチには2NC以降の重要な議論の方がほとんど載ってないですからね。
2009/06/26 (金) 22:31:24 | URL | 英語でぃべーたー #1jhbtX.k[ 編集]
コメントありがとうございます
>英語でぃべーたーさま

コメントありがとうございます。
特に、僕の知らない英語ディベートの事情について教えていただいたことは参考になります。

その上で、いくつかの疑問ないし質問を述べさせていただきます。

第一に、パッチに載っているような「あてずっぽうな」Definitionを提示することが、AffのDefinitionないしInterpretationを吟味することとどうつながるのでしょうか。
本文で詳細に述べたように、いちごTのような形でDefinitionを出したところで、Affの拠って立つDefinitionは少しも揺るがないはずです(珍妙な辞書的定義だけで揺るぐと考えることが「馬鹿」だというのが本文の趣旨です)。つまり、そもそもいちごTにAffが反応しなければならない状況そのものが異常なのです。
いちごTで「AFFのCounter Definition(Interpretation)を誘い出させ」ることができると考える立場は、何らかの儀式としていちごT(Topicalityと称して辞書的定義を披露すること)を捉えているとしか思えません。それは理論上根拠がないし、宗教的信念(ある種の「常識」)でしか説明できないのではないかというのが、僕が本文で批判したところの要旨です。この点、英語でぃべーたーさまはどうお考えでしょうか。

第二に、先の疑問とも関連しますが、どうしてNegはいちごTのようにしょぼいTopicalityでAffにチャレンジしようとするのでしょうか。Topicalityの議論を深めたいのであれば、もっとまともな定義や解釈でチャレンジして、Affが反論を余儀なくされるようなTopicalityを構成すべきではないでしょうか。それとも、そのようなTopicalityは考え付かないということでしょうか。

第三に、これは質問ですが、「2NC以降の重要な議論」というのは例えばどのようなものでしょうか。
この点、僕も「さすがにこれはネタなのだろう」と思ってJDA-MLを読んでいたのですが、ESS関係のいちごT擁護者も、そしておそらく昔同様の議論を回していたのだろうと推測されるOBも、いちごTに続く「重要な議論」があるという示唆すらしておらず、いちごTがしょぼいこと自体はあまり異論がなかったように思われました。
僕もTopicality、とりわけ英語ディベートにおけるTopicalityの主張立証の実践については不勉強ですので、ご教示願えれば幸いです。
*一応、廣江氏の一連の論考は参照しておりますので、その程度の知識は前提としてもらって結構です
2009/06/26 (金) 23:05:50 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
批判について
いつも拝見させていただいております。

インターネット上で、人を名指しで批判するのは【常識的】にみてどうなのでしょうか?そのような方はいちごTを批判的に見れない人とは違い、就職活動に成功し、社会でも成功するのでしょうか?


ご質問にお答えいただけると幸いです。

p.s. 東京大学の彼はいちごTに賛成なのでしょうか?ただの皮肉のようにもみえますが・・・(JDA MLで毎日あれだけのメールが流れたらいちごT反対派であっても若干皮肉をいいたくなると思いますけどね。)アイロニーを感じ取る能力がなく、批判できることをネットで探す人がどのような人なのかは『ネットは馬鹿と暇人のもの』(題名はうろ覚え)という新書に書いてありますので、自己分析がてら読んでみてはいかかでしょうか。

p.s.2

1. いちごTに反対+いちごTを禁止できると思う人 → 世知辛いとは言わない。ぐるめさんタイプ。

2. いちごTに反対+禁止できると思っていない人 → 世知辛いという可能性あり。

3. いちごTに賛成 → 世知辛いと言うはず。

の三タイプがあると考えられますが、ぐるめさんの議論は、『1.ではないから東京大学の彼は3.だ。いちごTを批判的にみれず、社会でも成功するはずがない。』という論調ですが、これは2.の可能性を排除しており、2.であれば、『いちごTは有害であるが禁止はできない。なのに禁止しろというMLが流れる。現場を知らない人は何とでも批判できる。=世知辛い』という考えになります。

短い文章から、東京大学の彼を3.であると決め付けて批判するのは稚拙であり、論理的に批判ができていないと思いますが、ぐるめさんはどのようにお考えですか?
2009/07/17 (金) 14:15:22 | URL | 過去のディベーター #-[ 編集]
貴重なご指摘ありがとうございます
コメントありがとうございます。また、不快な思いを抱かせてしまったようで申し訳ありません。
以下、お返事差し上げます。

1.インターネット上で、人を名指しで批判するのは【常識的】にみてどうなのか、という点
常識的に、本文のような叙述が誹謗中傷に当たることはないし、事実無根の内容でもないと考えております。
第一に、本文の目的は引用文章の筆者個人の人格否定ではなく、①引用文章筆者も含むいちごT支持者(積極消極含む)に対して、②いちごTなる言説及びその言説を信奉することに含まれる問題点を指摘することであり、このことは文章全体から明らかであると考えます。結果的に批判対象者の批判的思考能力を否定することになるかもしれませんが、それは付随的効果であって、そこまで配慮しなければならないとすれば、公共的言論の多くが自重すべきことになってしまい妥当とは思われません。
第二に、これは後でまたお答えいたしますが、引用文章を普通に読む限り、その筆者がいちごT支持派(少なくとも消極的容認派)であることは明らかです。これは現在のUTがいちごTを実際回しているようであることからも傍証されるでしょう。また、たとえ彼がいちごTについて賛成の立場を採っているとしても、私の文章の目的は上述の通り彼の攻撃にあるものではないので、いささかも文意を損ねることはありません。私はいちごTが回っている事象そのものが有害であると指摘しており、それが就職活動にも影響を与えるのではないかと危惧しているのですから、彼は自分の見解に関係なく、就活セミナーの講師として「いちごTなど今すぐやめろ」と言うべきでしょうし、本文でもそれを示唆したつもりです。

なお、当ブログのような文章を書く人間が成功するかどうかという点については、自分でも良く分かりません。今のところ就職活動は成功と言って差し支えない状況にありますが、それも試験の結果次第ですし、そもそもそのようなことが将来の成功を保証するものではありませんので。しかし、いちごTなどの理由のない議論を繰り返すことより、それを批判的に検討するほうがずっと生産的であり、何かしら役にたつということは間違いないのではないでしょうか。また、「インターネット上で、人を名指しで批判する」こと自体は多くの著名人も行っており、それ自体が問題とは全く思われません。問題なのは、それが誹謗中傷に該当する場合でしょうが、上記の通り本文の内容はそのようなものでないだろうというのが筆者の見解です。もちろんこれは読み手に係る問題であり、それで筆者の評価が下がることはあるかもしれませんが、それはそれで仕方ないものと受け止めております。

2.追伸1(私の文章が皮肉を解さない馬鹿で暇人の言論であるという指摘)について
引用文章の筆者がどのような見解に立たれるかは次にお答えしますが、JDA-MLの内容に皮肉をいいたくなるというのは同感です。私が本文で書いた内容は、第1節を見ていただければ分かるとおり、JDA-MLの内容への批判をも含んでいます。

さて、ご紹介いただいた新書の内容について軽くググってみました。どうも、私のように長々駄文を垂れ流す人間は暇人であるという指摘があるようですが、全くその通りですし、自覚もしております。この点についてはよりよい余暇の使い方を考えた方が良いのかもしれませんが、どうせ本格的に働くことになればこのブログを更新する暇もなくなるはずなので、今のところ特に気にしておりません。
また、私が批判のネタを探すためにネットサーフィンをしているといった受け取られ方をしていることについては、いささか心外です。そもそも今回追記したのは「いちごT ディベート」で軽く検索してみたら1ページ目にあった文章がいずれも問題を含むものだと考えたからというだけのものですが、これはストレス解消だとかそういうものではなく、このような言説がディベートという競技にとって有害であると考えるがゆえのことです。私も過去にこのブログでした別のトピックへの批判についてかなりの否定的意見をいただいたのですが、それについては可能な限り応答させていただきましたし、今回のエントリでもそのようなつもりです。ですから、それなりには責任を持っているつもりではあります。無記名である点が責任の所在を明確にしていないということはありますが、ぶっちゃけて言えば本ブログの内容(たとえば2007年JDA秋季大会で準優勝した…)から検索をかければすぐに本名に突き当たる程度の匿名性でしかなく、便所の落書きとも言われる某匿名掲示板とは異なり、変なペンネームを使用しているのは直接名前で検索をかけてヒットしないという程度の意味に過ぎません。

3.追伸2(引用文章の筆者の見解について私の理解が誤っているのではないかという指摘)について
最初に、私の文章の真意は引用文章の筆者の批判そのものではないということをご確認ください。つまり、彼が本当はいちごT消極的容認派(コメントでいうところの2番目)であっても、文意はいささかも損なわれない、すなわち、いちごTなどという考え方を明示的に否定しないのに就職セミナーをやるという考え方がグロテスクであるという点は変わらない、ということです。
さて、過去のディベーターさまは、私が「いちごTに反対+禁止できると思っていない人」という可能性を排除しているとおっしゃいます。しかし、『JDAメーリスでは「いちごT全面禁止」と、世知辛いことこの上ない』という部分から、コメントにあった2のような読み方が出てくることは通常なく、読み込みすぎというべきではないでしょうか。これは常識的に読んで、いちごT禁止というアクションそのものを批判したいのだということだと思いますし、少なくともそう理解されても仕方ありません。私の読み方が真意とずれているという可能性は否定しませんが、少なくとも私の読み方は不合理とはいえないはずです。論理的な批判というのは、ありうる全ての場合について配慮しなければならないものではなく、ありうる可能性に応じて議論を展開すれば一応の水準として足りるのではないでしょうか(ましてや、繰り返しになりますが、私の意図は彼の見解そのものを否定することにはありません)。
また、これは外部文脈になりますが、どうもNAFA界隈では、JDAの論題検討委員会絡みでいちごTについて批判的な意見があるということから、いちごTへの規制(?)に反発して論題を独自に策定しようという動きすらあると聞いております。もちろんこれは伝聞に過ぎませんが、少なくともコメントで言う3のように考える論者は多いようです。

ただ、この点について指摘していただいたことについては、示唆的なものを感じています。おそらく、少なくない現役選手は、いちごTを消極的に容認するにすぎず、よくないことは分かっているが容認すべき空気があるしジャッジもなぜか取ってしまうので仕方ない、といったところで支持しているのでしょう。そこに、私も含めたいちごT否定派が批判したところで、ジャッジが変わるわけでもないし、現場は揺るがないから、粛々といちごTを回すほかない、という感覚があるのかもしれません。私の見解は「そんな現場なら変えるべきだし、変わらないのなら要らないのではないか」というものなのですが、自身の所属するコミュニティについてそのように割り切れないというのはもっともであり(実は、私自身所属している弁論コミュニティでも同様の問題はあります)、理解できないでもありません。


以上、お返事になっているか分かりませんが、返答させていただきました。
過去のディベーターさまに納得していただけるかどうか分かりませんし、おそらく私の一連の記述について不快感を抱かれた点については変わらないのではないかと思うのですが、また機会がございましたらご意見などいただければ幸いです。

それでは失礼します。
2009/07/17 (金) 20:56:41 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
こんばんは、英語ディベーターとして一語Tを実際に出していたものです。

>4.Topicalityの主張立証構造と「推定」論の誤りについて
>よく言われるのは、TopicalityについてNegからチャレンジがあった場合、Affはこれに返さなければならないという理屈です。
>第一に、ダウトがかからなければAffのTopicalであることは前提とされるのでしょうか。
>第二に、どんなダウト(NegのT)でもAffに責任を負わせることができるのでしょうか。
>第三に、Affが負う「立証責任」とはどこまでの内容を指すのでしょうか。

この部分がよくわからなかったのでご意見いただけないでしょうか?以下に自分がどのように考えていたのか記載しますので
それにおかしい部分があればご指摘いただけたらと幸いです。

1.【ダウトがかからなければAffのTopicalであることは前提とされるのか?】
自分はTopical Presumption(以下T/P)は法律での「推定」もしくは「常識的に証明不要なほど一見明白である」という意味ではなく、
肯定側、否定側の時間的格差をなくす、ルール上のものであると考えていました。

ここでいう時間的格差とは、スピーチの時間制限の関係上、肯定側がTを証明する義務を負った場合、
その分否定側より多く証明責任を負うことになってしまうということです。
この格差をなくすために肯定側が毎回Topicalityを証明しなくてもよいという措置としてT/Pが存在すると考えてきました。

2.【どんなダウト(NegのT)でもAffに責任を負わせることができるのか?】
自分は否定側からチャレンジがされた場合(本当にTopicalなの?という疑問ではなく、実際にViolationが出された場合)
否定側が肯定側と同程度の証明責任を負ったため1.の措置が部分的解除され、肯定側が証明責任を負うと考えてきました。

3.【Affが負う「立証責任」とはどこまで】
自分は2.で部分的に解除された範囲(単語、文法)が常識的に納得できれば立証責任を果たしたと考えてきました。


>法律の世界では、推定を破るにはそれを覆滅するための主張立証が必要とされます。
ディベートに法律的な解釈が持ち込まれたのはなぜでしょうか?法律学的にはそうであってもそれがディベートにも
当てはまる理由がよくわからなかったので教えてください。


最後に、噂によると「Japan=イギリスのロックバンドの名称」というものがあるらしいのですが、これを用いると「馬鹿」なことに
なってしまうのでしょうか?常識的に考えてありえない解釈ですが、有意味ではあると思います。
2009/08/05 (水) 17:48:54 | URL | 指名打者、英語ディベーター #mQop/nM.[ 編集]
ご意見ありがとうございます
>指名打者、英語ディベーターさま

どうもはじめまして。
打席にあがっていただき、どうもありがとうございます。ご期待に沿えるかは分かりませんが、お返事差し上げます。

1.【ダウトがかからなければAffのTopicalであることは前提とされるのか?】
時間的格差による説明は「実質的公平(Fairness)」の観点からありうるものだとは思います。ただ、そのような理解を取るとしても、そのような概念を濫用し、一見明白に不合理な解釈にも推定を与えることはFairnessの観点からT/Pは否定されるべきです(ここでFairnessを否定する場合、スタートである時間的格差での処理をも否定すべきです)。

なお、時間的処理の必要性を認める場合、これに対してNegが理由のないものでもTを出した瞬間T/Pが破れると考えるのでは、T/Pを認める理由がなくなってしまうのではないでしょうか。この点、後述する2以降の議論と関係するのでそちらで説明します。

2.【どんなダウト(NegのT)でもAffに責任を負わせることができるのか?】
この点において、T/Pを認めるかどうかという点のほかに僕とコメント主様で差異があるのは、Topicalityに関する肯定側(否定側)の証明責任として求められる内容の強さにあるように思われます。
僕は、Topicalityの証明責任は形式的にDefinitionが出されるだけでは満たされず、ジャッジに対して「Topicalである/ない」との心証を抱かしめるものでなければならないと考えています。これは通常の議論の証明責任と変わりません。通常の議論でも、Claimが出ただけ、Evidenceが読まれただけで議論を取るということはないはずであり、それと同様です。

3.【Affが負う「立証責任」とはどこまで】
この点コメント主様は「否定側が肯定側と同程度の証明責任を負ったため」と表現されますが、まずいちごTが証明責任を満たすもの(Violationを示したもの)と考えることに疑問があることは本文の通りです。
また、このようなTによりT/Pが部分的解除され、肯定側が負うことになった証明責任の内容は何であるかも疑問です。上記に引用した表現からすると、それは否定側に要求されるものと同様とお考えのようですが、そうすると肯定側は何らかのDefinitionを提出した上でそれとのMeetを主張立証できれば足りるということでしょうか。

理由のないTについてもそのような説明を要求されることは、それ自体肯定側の時間が損なわれており不利といえますから、T/Pを認める理由を時間的格差に求める場合、やはりいちごTでは足りず、理由のあるTによってのみT/Pを破れると解すべきではないでしょうか。あるいは、いちごTに対して肯定側が2AC以降対抗してDefinitionなどを読んでも実際の試合に支障がないようでしたら、逆にT/Pを認めなくてもよろしいのではないでしょうか(もちろん、僕の考えでは、本質的問題はいちごTのような議論を採用することそのものにあるのですが)。

「部分的に解除された範囲(単語、文法)が常識的に納得できれば立証責任を果たしたと考えてきました」という点については、「部分的に解除された範囲」という点の表現を除き、意味合いとしては同意いたします。ただ、このレベルの立証責任は、通常のプランであれば別段の証明(辞書などの説明)がなくても肯定されると思います。それが僕がT/Pを不要とする理由であり、いちごTを無意味と考える理由です。つまり、普通の理解にかなっているかどうかは説明されなくても分かるし、逆に言えばそれが分からないようではその言語でディベートはできないということです。

4.【ディベートと法律学の関係】
一応、ディベートが裁判での闘争を元としている部分がある(いわゆるストックイシューパラダイムは刑事裁判が元とされています) という点で親和性があると思いますが、別に僕は「法律学のようにディベート理論を考えろ」と主張しているものではありません。ただ、参考になる部分はあるだろうと考えるだけです。

「推定を破るにはそれを覆滅するための主張立証が必要」というのは、法律学の理屈を超えて、一般的に妥当な考え方だと思います。
(そもそも僕はTopicalityについて特別の推定を認めませんが)推定を認める以上、そこには推定をおくべき理由があるはずです。法律学であれば、ある事実の存在がその他の要件の充足を推定させる(例えば、前後2区間での不動産の占有が証明されると、その間占有が継続していたと推定されます)といった理由があります。T/Pについて時間的格差を理由とするのであれば、肯定側に便宜を与えるべき理由がこれに該当します。
そのような理由が推定に存在する以上、これを覆滅する事情がない限り、推定を破ることは認められるべきではありません。そうでなければ、推定を認めた目的が達せられないからです。このことは上でも述べたとおりです。

5.【「Japan=イギリスのロックバンドの名称」によるいちごTについて】
これは「有意味な解釈」とは何かという問題によります。たしかにロックバンドは何かしらの行為主体になるかもしれませんが、ロックバンドは明らかに企業に同一労働同一賃金を強制する立場にないし、日米安保条約をどうこういう立場にありません。したがって、かかる定義をいきなり持ち出したいちごTは、本文の趣旨からすると「馬鹿」な議論ということになりましょう。有意味であるというのは、議論をする上で意味があるかということです。

上でコメント主さまは、Violationがきちんと出されたときにT/Pが破れるという趣旨のことを書いております。
僕の理解では、Violationを示すためには、Counter Definitionを出すだけではなく、Affの依拠する(と思われる)Definitionを排除する必要があると考えています。もちろん、Counter Definitionに相応の説得力があれば、それによってAffのDefinitionが排除されるか、対抗してDefinitionを提示する必要性を生ぜしめることはできるでしょうが、いちごTのように適当にとってきたDefinitionを読むだけでは不足であり、当該定義がその論題に当てはまりうることをきちんと論証する必要があるはずです。
2009/08/06 (木) 00:52:28 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
とりあえず、引用したなら引用したで、TBを打つなり、コメントをするなりがBLOGにおけるマナーですな。
それと、あなたは「真剣」かもしれんが、引用元は単なる「駄文」かもしれない。そんな「駄文」程度の文章を引っ張ってきてばっさり斬るのも如何なものかねと思う。
2009/08/24 (月) 17:00:06 | URL | 仕事中の暇つぶし #W23bkkXE[ 編集]
ご意見ありがとうございます
>仕事中の暇つぶしさま

ご意見ありがとうございます。

Blogのマナーに関するご指摘についてですが、そのようなマナーが一般的であるという認識はありませんし、先ほど「Blog マナー」などの用語で軽く検索してみたところ、コメント主さまのおっしゃるようなマナーが記載されている記事は見当たりませんでした。
もちろん、批判記事を書いた以上その先にTBなりコメントなりすべきとの立場もありうるでしょうが、僕としてはそのような考え方に立つものではありません。最低限、批判先の典拠を示し、検証可能であればよいと考えますし、著作権法上公正な範囲での引用も許されておりますので、本文のような批判方法は許容されているという立場です。
(これは、書籍や論文で批判的言説を著すことを考えれば見易い結論です。人の議論を批判する際に、その人に連絡しなければならないという慣行を僕は聞いたことがありません)

引用先の文章が批判対象として適切かどうかという点ですが、それは読み手の方が判断されることであるというほかありません。コメント主さまは不快に思われたようで、その点はお詫び申し上げますが、そのことは本文での記述及び今後のBlog執筆方針を変更する理由にはならないと考えております。
参考までに僕が当該記事を取り上げた理由を記しておくと、①当該記事の内容が本文での問題意識に照らして相当に問題があるということ、より具体的には「社会人の立場」からいちごTが有益であると称する言説であり、これを取り上げて批判することに本文の議論を補強するための意義があると考えたこと、②ディベート業界は狭く、個人のBlogにある言説などが影響力を持つことも十分あると考えられること、③当該記事はJDA-MLを参照した上でそこでの議論を批判しており、その分批判を受けても仕方ない立場にコミットしているといえることの3点が差し当たりあげられます。

最後に、ネットマナーに関する僕の立場を代弁している記事を見つけましたので、紹介の上で主要部分を引用させていただきます。

東北大学教授 後藤斉「ウェブページのリンクおよびその他の利用について」
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/webpolicy.html

――自分のウェブページに勝手にリンクを張られることを好まない人はいます。確かに個人が趣味で作るウェブページに対して本人の意思に反して批評を加えることやリンクを張ることは、もしかすると、その場にいない人の噂話をするのと同程度にエチケットに反する行為であるのかもしれません。しかし、著作物を公開する行為は責任を伴うことであって、一般の批評にさらされることもそのうちに含まれると考える方が、むしろ妥当性があります。

――リンクを張ったことを通知する行為は場合によって推奨されます。ウェブページは相互に有機的に関連を結ぶことによって、単独で存在するときの何倍もの価値をもつものであり、このような有機的な結びつきにつながる行為は大いに望ましいことです。したがって、リンクを張った側がこのようなウェブサイト同士の結びつきを望む場合には、通知すればよいでしょう。しかし、通知は義務ではありませんし、被リンク側がリンク元に要求できる性格のものでもありません。
2009/08/24 (月) 20:25:31 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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