愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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ディベート甲子園ルール運用例百選(2.担当ステージ規制の違反)
試験が終わったので急に更新するという分かりやすい暇っぷりを見せています。採点してみたら足切りがなさそうだったということもあるので、この勢いに乗っていろいろ書ければというところです。
ただ、論題解説の件は次回のトライアングルによい原稿が掲載されることと、しばらく法律の本を読みたくないということもあり、すぐには書かないか簡略版にとどめる可能性が高いです。前回の予告はまだその時と場所の指定まではしていません。そのことをどうか皆さんも思い出していただきたい。つまり、僕がその気になれば論題解説の執筆は10年20年後ということも可能だろう…ということです。まぁ、誰が待ってるんだという話ですけど。

というわけで今日は、関東春季大会であったルール違反の問題について取り上げます。百選といっておきながら取り上げる事例が全然なく、今回も前と問題領域がかぶっているのですが、トラブルが少なくてよかったということですか。
それでは以下、本論です。

2:担当ステージ規制の違反
(関東甲信越地区大会平成21年3月29日・第10回関東甲信越地区春季大会)

【事案の概要】
X学校は6名で大会選手登録をしていたものであるが、当日に主催者に許可を求めることなくある試合で3名のチームにより出場した。
さらに、その試合においてX学校は、細則A-6項に違反して立論と第二反駁を同じ選手が担当する旨のメンバー登録をジャッジ・タイムキーパーに提出し、そのまま登録と同様の担当で試合を開始した。その後、試合途中でタイムキーパーがX学校の担当ステージ違反に気づくに至った。なお、その後の調査で、別の学校でも同様のステージ違反があったことが発覚している。
これに対して関東甲信越支部のした判断のうち、担当ステージの違反の点については、本件では細則C-1項1号や同2項1号の直接適用はできず、またマナー違反としての反則についても、運営側が違反を見逃したという落ち度もあることから反則処分は不相当とし、厳重注意にとどめた。

【評釈・解説】
本件ではX学校が①細則A-3項に違反して許可なく4名未満で試合に出場したこと、②細則A-6項に違反したステージ担当で試合を行ったことの2点が問題となるが、①については本連載第1回と重複するので、今回は②の点について検討する。

本件では、細則A-6項違反についていかなる処置を取るかが問題とされている。この点、ルールにおいては細則A-6項違反の場合の処置につき明確に定めた条文がないため、いかなる処置を取りうるかは解釈に委ねられている。以下、ありうる2つの処置について紹介する。

(1)細則A-4項の類推適用
細則A-4項は「試合開始時点で2名以上の選手が揃わない場合には,その試合は敗戦となります。」と定めているところ、ここでいう「2名以上の選手」とは、当然ルールの要求を満たした形で登録された選手でなければならないと考えることができる。そこで、細則A-6項に反する形でステージを申告したチームが、そのまま試合を開始した場合、細則A-4項が要求する「2名以上の選手が揃わない」ことになり、同項が類推適用されると考える余地がある。これによれば、本件のX学校はA-4項により当該試合で敗戦とされることになる。
しかし、この見解については、細則A-4項はその直前にある1~3項(出場人数制限)を受けたものであり、4項の後に配置された6項の違反への適用は予定されていないと読むべきだという文理上の難点がある。また、本件事案と異なり、X学校がメンバー登録上A-6項に反していたものの試合開始後はA-6項違反に気づいて適法にステージを分担した場合において、上記見解では「試合開始時点」を基準に処分を判断するものと考えざるを得ないから、結論において妥当性を欠く。

(2)細則A-6項(なお5項も同様)は行為規範にとどまる
細則A-5項、同6項は細則A-4項のような敗戦処分の規定を欠くため、結局これらの違反についてはルールは敗戦などの処分を直接に予定しておらず、選手に対して取るべきステージ編成を指示する行為規範にとどまるという考え方もありうる。すなわち、一旦違反がされたあとにその行為を反則その他の処置に付す評価規範としての効果は持たないということである。
この見解では、本件のX学校について、行為規範には背いたとしてもこれを処分することはできず、厳重注意にとどめた判断が是認されることになる。

なお、細則C-1項1号については、届けられたステージ担当自体が異なるという本件事案には適用の余地がなく、同2項1号については、出場登録と異なる選手が出場したものでもない上、出場登録ではステージの担当を明らかにすることが予定されていないから、これも適用されない。

それでは、上記(1)(2)のいずれの解釈が望ましいかを考えると、結論としては(2)を支持すべきであろう。一般論として言うなら、(1)が文理上も結論としても妥当でないことは否めないところであり、あえてA-4項のような規定が置かれていないことからも、(2)のように考えることが自然である。
また、本件に即して言うならば、X学校のステージ担当違反を見逃したジャッジ・タイムキーパーに落ち度があるというのはもっともであり、X学校が違反について故意であったかは不明であるものの、過失あるいはルールの不知による誤りであったとすれば、一旦メンバー登録を受け付けてもらった後で処分を受けるというのは酷と考えられる。

このように考えると、本件での支部の処置は正しかったというべきである。むしろ、ここで疑問となりうるのは、そもそも処分規定を設けていないA-5項・6項には何の意味があるのかということであろう。しかし、同条項を行為規範と解する場合にも、そこには以下のような意義を見出すことができる。
本件では試合前の登録時点で違反が発覚しなかったが、もしメンバー登録の提出時点でジャッジあるいはタイムキーパーが違反を発見した場合、当然ジャッジ・タイムキーパーはその補正を命じ、ステージ担当を改めるように促すことになる。そこで修正されるのであれば細則A-5項・6項はその目的を達するし、この補正命令に選手が従わない場合、細則C-1項7号が適用され、指示不遵守として反則負けとなる。
以上を要するに、行為規範として選手だけでなくジャッジ・スタッフに対してステージ担当の制約を命じ、それを遵守させようとすることに、細則A-5項・6項の意義があるということである。裏返せば、ディベート甲子園のルールはステージ担当についてはチーム人数の編成のような処分規定を不必要と判断し、ジャッジ・スタッフが看過したほか相手チームからも指摘がなければ不問に処すという姿勢を取っていることになる。これは、細則A-2項・3項の趣旨が選手の出場機会確保という教育的な見地にあることに対し、細則A-5項・6項の趣旨は一部の選手が重要なステージを全て担当することにより有利になることを防ぐという公平性の見地を中心とすることにあり、したがって相手方が放棄しうる問題であることからも理解できる(もっとも、細則A-5項・6項にも、特定の選手が重要パートを独占することを禁じ、選手の実質的な出場機会を確保するという趣旨があることは否めない。しかし、同条項は細則A-2項・3項で規定未満の人数による出場を認めるべき理由が肯定された後で問題となるから、パートの偏りが問題となるのは、2名チームである選手が質疑以外の全パートを兼ねるような例外的状況に限定される)。

むしろ本件のような問題から疑問とされなければならないのは、細則A-5項・6項それ自体の合理性である。実質的にスピーチの機会が十分与えられていない選手が生じることは避けなければならないが、細則A-5項・6項における担当の制限は、その要請を遥かに上回る強力なものというべきである。特に、細則A-6項が3人チームで質疑だけを担当する選手がいてはならないと定めることは、ルール上単独のステージとして規定された質疑の位置づけを不当に貶めるものであり、その合理性には疑問がある。
ステージ規制の違反を行為規範と捉える場合であっても、以上の問題については立法論の見地からも検討を要するであろう。また、評価規範として細則A-4項類推適用その他の構成でこれを処分すべきと考える場合には、いっそう規定自体の合理性が問題とされるべきである。本稿が解釈論として行為規範説を取るのも、このような事情によるところが小さくない。

<参考文献>
評者のものとして
「ディベート甲子園ルール逐条解説(2.試合の成立)」(2007年5月2日『愚留米の入院日記』)
がある。
コメント
この記事へのコメント
質疑を兼任することの合理性について
①単純に、スピーチの時間が短いと言うこと。
教育的見地から試合全体としてある一名だけがしゃべる時間が極端に短いのは不都合である。
全パートが埋まっている状況であるのではともかく、より公平な時間配分になる組み合わせを強制することは教育的見地から合理的であると言うことができる。

②質疑の役割が小さい
第2条2項・第3条2項から明らかなように、質疑パートでの議論は他のパートでの補足・前提として扱われるだけであり、そもそもルール上、価値が低い。よって、上記同様、教育的見地から他の重要なパートとの兼任が望ましい。

と言うことでどうでしょう?
2009/05/26 (火) 15:09:25 | URL | 通りすがりの名無し #-[ 編集]
コメントありがとうございます
>通りすがりの名無しさま

ご意見ありがとうございます。

この「合理性」については、2つのレベルがあると思います。
第一は、質疑だけを単独で担当することを禁じることの合理性です。
第二は、質疑は兼任を義務付けるとしても、立論と質疑の兼任を禁止することの合理性です。

コメントしていただいたのは第一の点についてで、おっしゃるような理由は一応あると思いますし、そのような趣旨でルールが作られていることも確かです。
しかしながら、そこにどれだけ説得力があるかを考えると、本文に述べたように疑問があります。

①のスピーチ時間の短さについては、全く試合に出られていないことと対比すれば、一ステージを担当しているだけで十分だと考えることができます。
「1人だけ極端にスピーチが短いから質疑は単独ではダメだ」という点を強調すると、4人チームであっても質疑は時間が短すぎて出ている意味がないということになりかねません。4人未満であるなら…という説明であっても、正規の4人チームにおいて単独で担当できるとされるステージが「それだけだと少なすぎる」とされることには違和感があります。

②の役割については、質疑が補足的なものであることがルール上示されている点はその通りです。しかしながら、優れた質疑者であれば実質的な役割を大きく果たすこともできます。また、難易度という点でも、事前に用意した原稿を読み上げることがほとんどである立論のステージと比べて、質疑の方が難しいということができます。能力の劣る選手に形式的にステージを担当させることを防ぐという目的からすれば、立論を単独で担当させることも同じく望ましくないと考える余地があります。

*もっとも、大学以降のフォーマットでは質疑は単独のステージではなく、必ず兼任されることになっています。そのように考えれば質疑を特別扱いすることもありでしょうが、ディベート甲子園ではルールが質疑を単独ステージとして規定していることを優先すべきでしょう。少なくとも僕は「質疑はただのおまけ」と言うことには躊躇してしまいます。

第二のレベルの不合理性については、以下のコメント欄で書いておりますので参照いただければ幸いです。
http://lawtension.blog99.fc2.com/blog-entry-8.html

再度繰り返しますと、質疑の兼任を義務付ける規定に全く理由がないとは考えておりません。しかし、同規定を存続させることにどれだけの理由があるかと考えると疑問であるというのが、現時点で考えるところです。
2009/05/26 (火) 19:29:02 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
> 特に、細則A-6項が3人チームで質疑だけを担当する選手がいてはならないと定めることは、ルール上単独のステージとして規定された質疑の位置づけを不当に貶めるものであり、その合理性には疑問がある。

    とありますが、この点に対して反論があります。この根拠は『ディベート甲子園ルール逐条解説(2.試合の成立)』中の

> 3名のチーム、2名のチームでは、特殊なステージ担当の規制がある。このような規定が設けられた趣旨は、特定のメンバーが試合の重要スピーチを独占することがないようにするということにある。

    あたりから来ているように思いますが、「このような根拠に基づいてルールが規定されていいる」ということは "ルールのどこにもかかれていません" 。愚留米さんの議論は「(愚留米さんの考える)あるべき原則」が、あたかも「実際の原則」であるかのように述べていますが、この点は疑問が残ると言えます。

    例えば、次のような原則を掲げれば、必然的にルールの規制になります。

 ①「スピーチ時間」の偏りを最小にする
 ②4人制、3人制、2人制の担当には連続性を持たせる
  (1) 3人制の構成は、4人制の担当のうち1組をくっつけることで行う
  (2) 2人制の構成は、"3人制" の担当のうち1組をくっつけることで行う

    この原則から、必然的にルールの制限が得られることは分かってもらえるでしょう。
    また、この原則は、ほどほどに妥当です。②を原則に掲げる理由として、「3人チームが2人チームに」や「2人チームが3人チームに」という、ありえる変化への配慮が考えられます。「3人チーム」から「2人チーム」へ(またはその逆)という変更があったときに、担当の構成が大きく変わっては大変であるからです(ちなみに「変更」というのは大会当日のことを指すのではなく、大会に向けての準備段階でのことです。メンバー1人の増減は、僕も体験していますし、ありふれたことでしょう)。

    また、「この原則を採用している」と考える方が「愚留米さんの掲げた原則を採用している」と考えるよりも妥当性があります。というのは、「愚留米さんの掲げた原則を採用している」と仮定すると、質疑と第一反駁の兼任が許されるなど、中途半端な部分が残るためです。

    愚留米さんは「愚留米さんの掲げる原則」が「ルール策定の原則」であることを(暗黙に)仮定していますが、この仮定はかなり危ういものと言えると思います。したがって、この仮定から得られた結論である「ルールは質疑の位置づけを不当に貶めている」というのは、妥当ではないでしょう。
    僕の考えとしては、「スピーチ時間」のみを考えることによって、「ステージの重要さの軽重」に対する判断を避けたのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。
2009/05/26 (火) 23:52:40 | URL | とおじま #-[ 編集]
直前のコメントへの補遺
    二点、忘れていました。

> ①のスピーチ時間の短さについては、全く試合に出られていないことと対比すれば、一ステージを担当しているだけで十分だと考えることができます。

    「全く試合にでられていないこと」と比較することの妥当性が分かりません。3人制は例外であることが掲げられている以上、もし比べるとするならば4人制とにするべきでしょう。

> 「1人だけ極端にスピーチが短いから質疑は単独ではダメだ」という点を強調すると、

    と言っていますが、「通りすがりの名無し」さんも、ルールも、そんなことを言っているようには見えません。単に「できる限り公平なスピーチ時間」を実現していないから、と言っているに過ぎないように読めます。


2009/05/26 (火) 23:57:46 | URL | とおじま #-[ 編集]
コメントに関して
>とおじまさま

コメントありがとうございます。

最初に断っておきますと、規定の合理性に関する議論は、解釈論というより立法論の問題であり、どのような規制が望ましいかという見地で検討すべき問題です。したがって、僕の掲げた原則が「現在のルール」に沿うものであるかどうかという点は、本質的ではないと考えています。

>「このような根拠に基づいてルールが規定されている」ということは "ルールのどこにもかかれていません

ということ自体は、規定の趣旨を議論するうえで特に障害とはなりません(法律学の作法ですが)。
その上で

*****
 ①「スピーチ時間」の偏りを最小にする
 ②4人制、3人制、2人制の担当には連続性を持たせる
  (1) 3人制の構成は、4人制の担当のうち1組をくっつけることで行う
  (2) 2人制の構成は、"3人制" の担当のうち1組をくっつけることで行う
*****

という考え方については、理由としてありうるものだと思います(現行ルールの「説明」にはなるということ)。 ただ、それが絶対とも思われないし、政策上望ましいとはいえないというのが私見です。
まず①について(とおじまさんの見解でしょうか)は、スピーチ時間の偏りがさほど重要であるとは思われません。3分と4分でどれだけ違いがあるのか、3分の選手が出ないように7分(質疑+反駁)にすることを強制する必要があるのか、個人的には理由を見出せません。全く試合に出られないこととの比較をしたのもこの点と関係していて、たとえ3分の質疑でも出られている以上、それが少ないとか公平でないとかいう必要はないということです。
②については、チーム人数が変動したときの差を少なくするためとしていますが、そのときの変動が選手にとり困るというのであれば、制限を緩和して選手が自由に編成できるようにする方向のほうがよいといえるでしょう。また、3人制と2人制の関係は分かります(上記(2))が、4人制と3人制で「4人制の担当のうち1組をくっつける」処理を求めるなら、質疑は兼任でなければならないという条件をつける必然性はなく、反駁を別の人がやるというだけで足りるはずです。

質疑と第一反駁の兼任が許されることが僕の説明する原則(重要スピーチ独占の禁止)に反するというのはその通りです。ですから、現行ルールには合理性がないと言っているのです。
この点きちんと説明すると、僕が言う「趣旨」というのは、「本来あるべき趣旨」という意味です。それが実際の立法趣旨かどうかは分かりません(僕も改正担当だったのですが、正直なところ細則レベルで詰めていたわけではありません)。しかし、スピーチの担当に制限を設けるとすれば、それは重要スピーチの独占を防ぐことであると考えられます。それは、2~3人での出場を例外的にのみ認めることが、わざと弱い選手を外して登録することを防ぐことにあるという趣旨(これも明文にはありませんが、こちらの立法趣旨はステージ規制より明確です。もちろん立法担当者の意識及び条文の存在意義から述べるだけですが)との連続性からも根拠付けられます。

再度まとめると、僕の本文中での「合理性」に対する疑問は、ルールのあるべき規制目的(趣旨)に対して合理的でないという議論です。
ルールは論理式ではなく、何らかの目的を持って定められているものです。そして、解釈者としてはルールの目的とするところ(趣旨)を導き出した上で、それに適合する解釈論を展開し、あるいは立法論を展開することになります。…というのが、法務博士(笑)の立場からするルールの解釈方法です。これに沿った議論に対して「その仮定は危ういので結論も危うい」と感じることも理解できますが、法律学的にはそういう仮定を置くことは全然問題なくて、その妥当性(論理的なそれではなく「落ち着きのよさ」など機能的なもの)を問うべきである、ということになります。もちろん、解釈論の場合は理屈の整合性も問われますが。

このような回答しかできず申し訳ありません。立法論として何かご意見があれば(スピーチ時間で規制を設ける「べき」、など)ご教示願えれば幸いです。
2009/05/27 (水) 01:18:08 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
愚留米さんのコメントに関して
    早速のコメント、ありがとうございます。しかし、主に僕の文章の問題からだと思いますが、僕の反論の趣旨からはずれているように思います。
    私が問題にしているのは、

> 特に、細則A-6項が3人チームで質疑だけを担当する選手がいてはならないと定めることは、ルール上単独のステージとして規定された質疑の位置づけを不当に貶めるものであり、その合理性には疑問がある。

    において、あたかも「ルールが質疑の位置づけを不当に貶めている」というように読めることです。ですから、私の書いたコメントは「ルールは質疑の位置を不当に貶めているとは言えない」ということを言っています。私が反対するのはこの点においてのみです。
    決して、現行ルールの合理性に関する愚留米さんの議論に反論しているわけではありません。

> 最初に断っておきますと、規定の合理性に関する議論は、解釈論というより立法論の問題であり、どのような規制が望ましいかという見地で検討すべき問題です。したがって、僕の掲げた原則が「現在のルール」に沿うものであるかどうかという点は、本質的ではないと考えています。

    という点には同意します。規定の合理性の議論は、「現在のルールが採用している原則」とは独立であるというのは当然でしょう。
    しかし、私が問題にしているのは、「ルールの合理性」ではなく、「現行ルールが質疑の位置づけを不当に貶めているか」ですので、「現行ルールが採用している原則」と大いに関係します。

    ルールがどうあるべきかの議論については愚留米さんの見解も納得できる立場であると思っています。
    この点に関して細かく争うつもりはありませんが、争点らしきものを見出せたので報告だけしておきます。愚留米さんは「担当はできるかぎり選手の自由であるべきである」とする立場のように思いますが、私は「担当はできる限りルールで制限されるべきである」と考えています。この点の違いではないかと思います。
2009/05/27 (水) 02:51:56 | URL | とおじま #-[ 編集]
追記
皆様

自分のコメントから議論が始まるのを見ると、うれしい反面自説の拙さに恥ずかしい気もします。

一応、疑問を呈した側なのでもう一点疑問に思った点を書いておきます(前の議論との整合性があるのかは不明ですが)。
それは「応答」の立場(?)です。
1条2項において「質疑における応答は立論担当者が担当するものとします。」と、立論者が兼任することが明示されていますが、この「応答」はどのような立場なのでしょう。
コミュ点の改正によって、「応答」も独立の採点対象とされたと言うことは、独立のパートとして「応答」というものが存在していると言うことではないでしょうか?
とすれば、既に立論者は「立論」「応答」というパートを既に兼任しているのであり、「質疑」を兼任することができないというのは、同一人物が更にパートを兼任してはいけないといっているだけの規定にも思えます(3人制の場合。2人制で立論・質疑の兼任ができない理由としては不十分かと思いますが、とおじまさんのルールの連続性の観点からは説明もつくかと思います。)。と考えれば、十分合理的なルール(確認規定にすぎない?)ではないのかという気がします。
第一反駁・第二反駁の兼任禁止は、両方とも「反駁」のパートである(2条3項)ことから一度「反駁」を行ったものは「反駁」を行ってはならないということだと考えます。
これで、愚留米さんの言う第2の合理性もクリアできると思います。

・・・とすると、なぜ、立論者が「応答」も行わなければならないのかという点が引っかかることになりますね。
質疑の自由兼任制の前に、立論者が「応答」を兼ねなければならないかを考える必要がありそうです。慣例上当然と言えば当然でしょうが、チームの立論(主張)であるのだから、チームの誰が答えても問題ない(自由応答制?)とも思えます。この点について、逐条解説に触れられていなかったと思いますので、見解等お聞かせ願えればと思います。
2009/05/27 (水) 16:12:48 | URL | 通りすがりの名無し #-[ 編集]
お返事
>とおじまさま

コメントありがとうございます。

「ルールが質疑の位置づけを不当に貶めている」かどうかという点がさほど重要な問題とは思われないのですが、お返事させていただきます。

とおじまさんは「現行ルールが採用している原則は、スピーチ時間の偏りをなくし、かつ3人制・2人制の担当との間に連続性を持たせることにあるから、ここから導かれる現行ルールの規制は当然の帰結であり、質疑の位置づけを貶めるものではない」と主張されているのだと理解しました。
これに対する私見は、①そもそも現行ルールの採用している原則はそのようなものではないのではないか、②たとえそうだとしても、かかる原則から質疑の兼任義務が必然とは解されないのではないか、③そもそも現行ルールの採用する原則との関係で議論すること自体ナンセンスではないか、というものです。

①については説明を要するでしょう。ルールの趣旨というものは、現行のルールをよく説明できるかどうかということだけで決定されるものではなく、そのようなルールが存在している理由を想像する中で逆算して導かれることがあります。法律学の話ばかりして申し訳ないのですが、最高裁の判例なんかを読むと、どこにも書いてない趣旨をいきなり持ち出してそこからルールを解釈していたりする(時には明文を無視する)のですが、ルールは目的達成のため存在するものですから、そのような考え方も正当化されうるものです。
(1)スピーチ時間の公平や(2)3人制や2人制の担当との連続性という原則が趣旨として考えられないこともありませんが、(1)の点はより実質的には「試合上意味の大きいステージを特定選手が独占することの不公平」を問題とするものと捉える方が有意味だと思いますし、(2)の点は個人的には規制を根拠付ける理由としてあまり説得力を感じません(その理由は前のレスで述べたとおりです)。
したがって、私見によれば、現行ルールにおける担当ステージ規制の趣旨は「特定のメンバーが試合の重要スピーチを独占することがないようにするということ」だと考えますし、たとえ現行ルールの帰結とこの原則が整合しないとしても、このように趣旨を捉えるべきだと考えますので、それを前提とすれば質疑兼任の強制は質疑が立論と比べて相対的に重要でないと扱っていることになり、本文での言及部分につながります。

②については、前のレスでお答えした内容と同様です。質疑兼任を義務付けないとスピーチ時間が公平にならないとは思われないし、連続性の点は規制を根拠付けないように思われます。

③は、とおじまさんと僕には考え方の相違があるようだということです。
僕が趣旨として論じた部分は、仮定とかそういう形で論理学的(?)に説明されるものではないように思われます。「現行ルールは質疑の地位を不当に貶めているのではないか」といった言説はそれ自体が立法論的な議論であり、これに対して、現行ルールの採用していると思われる原則から説明がつくかどうかという問題提起をすること自体がナンセンスではないでしょうか。あるべき原則からして現行ルールは質疑の位置づけを適切に規律していない、ということですから、ここで問題となるのは「ルールの(あるべき)合理性」であって、「現行ルールが採用している原則」ではないというのが僕の考えるところです。

担当ができるだけルールで制限されるべきかという点については、個人的には賛同できませんが、これは見解の相違にすぎないのでしょう。
教育的配慮や競技としての公平性などを考えれば、規制を細かく設けるという方向性もあるかもしれません。

>通りすがりの名無しさま

応答の立場に関する議論は、これまで考えていなかった点もあるので、興味深く読ませていただきました。

コミュニケーション点の評価対象として応答が独立に存在することから応答ステージを独立のステージと解しうるという点については、本則1条2項で「立論・質疑・第1反駁・第2反駁の各ステージ」とある点に反するので、苦しい気がします。

もっとも、そうであるとしても、立論は応答もかねているからコミュニケーション点が多く、またスピーチ時間も長いため試合における重要度が高いという意味で質疑より重要である(したがって立論ではなく質疑を兼任すべきとする)という説明はありうるでしょう。「既に立論者は「立論」「応答」というパートを既に兼任している」というのは、実質2パート兼任するだけの重要度があるという意味合いにも読み取れるところ、そこには確かに一定の説得力があります。
そして、これに対する返答は以下のリンク先を参照していただければ幸いです。
http://lawtension.blog99.fc2.com/blog-entry-8.html#more

第一反駁・第二反駁の兼任禁止については、単に反駁の試合における意味合いが大きいという説明も可能です(立論・質疑が反駁に比べて低く評価されているのはおかしいという批判もありえますが、相手の議論に対応して投票につながる議論を出すという点で反駁がより難易度が高いという点からすれば説明はつくでしょう)。
「第一反駁・第二反駁の兼任禁止は、両方とも「反駁」のパートである(2条3項)ことから一度「反駁」を行ったものは「反駁」を行ってはならないということ」という理由付けは非常に説得的で、僕も賛同するところですが、これは立論者が応答を「兼任」しているから質疑と異なるのだという考え方とは独立に成立する説明です。

立論者が応答をしなければならないというのは必然かという点については、一般のディベートフォーマットでは慣例であり、また立論に対する質問である以上当該立論を担当した者が応答すべきと考えることは自然だと考えられます。
もっとも、それでは自由応答制がありえないかというと、立論はチーム全体の主張であると考えれば理屈としてはありえますし、実際に昔静岡であったディベート大会では応答は誰がしてもよい(質疑も同様に誰でもできる)というフォーマットでした。
ただ、現行ルールの解釈としては、本則1条2項の明文で立論者が応答することになっており、そこには十分な合理性もあるので、そのように考えるということでよいでしょう。立法論としても、自由応答にすべき積極的理由はないし、それは質疑応答のあり方としても非効率的と考えられます。
2009/05/28 (木) 02:26:06 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
    愚留米さん、コメントありがとうございます。
    重要性は次の点にあります。「愚留米さんは擁護しているものの、ルールでは質疑は重要性が低いものとして扱われている」と感じたら、質疑をやっている人は残念に思うだろうということです。少なくとも私はそのように感じましたので、同様に思うディベーターもいるかと思いました。本当にそうなのでしたら仕方がない面もありますが、もしも「必ずそうだと言い切ることができるかは難しい」という状況なのでしたら、不要な誤解を与えて悲しませることは問題だと思います(このブログには中高生ディベーターの読者も多いことですし)。

    次に、重要な点の確認です。
 (1)僕が問題にしているのは、愚留米さんの議論の趣旨でも愚留米さんの解釈の妥当性でもありません(後者に関しては、私のコメント中に誤解を与える表現がありました。すいません)
 (2)問題にしているのは「ルールが各ステージの重要性を含意し、かつ質疑の重要性は低く評価されている」とする言説のみです

    また、この点に関しても愚留米さんの解釈が非妥当であると主張しているわけではなく、断定するには早計すぎないかと言いたいに過ぎません。「ルールは質疑の重要性を低く評価している」と断言されると残念な思いを抱く人がいることは想像に固くありませんから、そのような断定は慎重にしていただきたいというのが、私の意見です。この点も以前のコメントでは明白であるとは言えない点をお詫びします。

    つまり、

> (1)スピーチ時間の公平や(2)3人制や2人制の担当との連続性という原則が趣旨として考えられないこともありませんが、

    ということであるならば、ルールを不当と断定したり、ルールがスピーチの重要性に言及していると断定することは、避けるべきではないかと思います。私の提案した原則(1)(2)に則して考えれば、ルールがスピーチの重要性についてなにか言及しているとは言い難いと思います。そのような解釈が必然ではないことは私も認めるところですが、愚留米さんの解釈も必然ではないはずなので、その解釈を仮定して成立する言明を断定形で書くことは、少し早計であるように思います。
    「愚留米さんの想定するルールの制定趣旨を加味すれば」という仮定のもとでは、愚留米さんの発言は妥当であることは認めます。しかし、この仮定の成立が必然であるとは言えないと思います。愚留米さんのコメントの1および2は、愚留米さんの原則の方がより合理性が高いという主張であって、僕の原則が「不合理であり、考えられない」とするものではないと思います。

    これらにご理解いただけましたら、私としてはこれ以上のことを主張するつもりはありません。愚留米さんの記事の大半の部分は1つの説として十分な根拠を有していると思いますし、異論がある部分も全体の趣旨と比べると些細なことで重要性が高いとは思えないからです。
    僕は「位置づけを不当に貶めている」という文章を読んで、「えっ、価値がそんなに低く見積もられていたの?」と思いました。しかし、愚留米さんのコメントの3の部分を読んで、「不当」や「貶める」という単語に対して僕が過敏すぎていて、愚留米さんは僕が思ったよりは弱い意味の否定で使っているらしいことを理解しました(僕と愚留米さんでは語感が違ったのだと思います。法律分野には良くでてるくのでしょうか?)。元々の趣旨は「ルールにおける質疑の兼任義務が、十分な合理性を持っているかについて疑問がある」程度の意味のようですから、僕のようなおバカさんに不要なショックを与えることを避ける意味でも、「ルールは質疑の重要度を低く評価している」ことが必然の帰結であるかのような表現は改められてはいかがでしょうか。このような断定をせずとも愚留米さんの議論の意義は変わりませんし、断定されて悲しむ人はいれども嬉しい人はいないでしょうから。(この議論は完全に新出ですが、それは私が重要性の議論や私の主張の本意を明言しなかったことが原因です。すいません)


    あと、1点、疑問です。

> 担当ができるだけルールで制限されるべきかという点については、個人的には賛同できませんが、これは見解の相違にすぎないのでしょう。

    「個人的には賛同できない」とする根拠を教えていただければと思います。見解の相違に過ぎないというのはその通りで、愚留米さんの見解を否定する気はありません。どのように理由付けをするのかに興味があるだけです。僕には、よい根拠が考えつかなかったので。
2009/05/29 (金) 08:21:53 | URL | とおじま #-[ 編集]
度々コメントありがとうございます
>とおじまさん

とおじまさんのいう重要性については理解いたしました。
その上で僕の考えるところを述べると、僕の本文中での記述から質疑を担当する選手が悲しむのかという点にはやはり疑問が残ります。

まず、本文中で「細則A-6項が3人チームで質疑だけを担当する選手がいてはならないと定めることは、ルール上単独のステージとして規定された質疑の位置づけを不当に貶めるものであり、その合理性には疑問がある」と述べた点は、とおじまさんも指摘されるとおり、ルールの合理性に疑問があるというだけのことです。機会があれば――ルール全面改正などの機会でしょうけど――改正してもよいのではないか、と現時点では考えています。
上記の記述は、僕自身が質疑の価値を低く見ているというものではないことはもちろんのこと、ルールの理念が質疑の価値を低く捉えているという主張でもありません。むしろ、質疑の重要性に鑑みれば、細則A-6項は質疑を軽く見ているように見えるという意味で、質疑の選手を勇気付ける(?)内容だとさえ思っていました。

実際に質疑を担当される選手が本文の記述を読んで不快に思われたのだとすれば、その点については申し訳なく思いますが、僕も高校時代から質疑をやってきているところ、上記の記述から「ルールが質疑を貶めている」と感じてショックを受けるということはないのではないか…と感じています。
ただ、表現が過度に強くないかという点についてはそうかもしれないとは思いますが、それによって選手が悲しむことになるというのも今の段階ではそう思われませんし、一度書いた記述を改める理由としては弱いと考えますので、本文中の記述は修正しないことにいたします。

また、たとえ本文中の記述が「ルールの不合理性」を批判することで不合理に扱われている(といっても兼任義務付けだけですが)ステージの選手がショックを受けるとしても、ルールの批判的検討を回避する必要はないと考えています。
例えば、民法900条4項但書は非嫡出子の相続分を嫡出子の半分と定めているところ、これは非嫡出子を不当に差別するものであり憲法違反の疑いも強いとされています(最高裁判例は法律婚主義の帰結として合憲としています)。それでは、この規定につき「非嫡出子を差別し、その地位を不当に貶めるものである」と批判することが許されないかと考えると、そのようなことはいえないでしょう。非嫡出子の権利関係をあるべき形に正すべきだという立場の議論であって、これを自重すべき理由はないと思います。
今回のルールの件も同様なことがいえると思います。もっとも、とおじまさんは「ルールの規定は実際には質疑の地位を下げるようなものではないのに、下げていると断定していることが問題なのだ」と考えるのでしょうが、これはどのような立場からルールを観察するかという見解の相違にすぎません。それこそ、民法の規定だって、法律婚主義を前提とし、非嫡出子が家族制度の例外として嫡出子より劣後するのは当たり前であり、むしろ望ましいという立場はありうるし、昔の家制度を前提とすればむしろそのように考えるべきだということになります。これは、スピーチ時間の公平という観点からルールを見るか、重要スピーチの独占防止という観点からルールを見るかという相違と本質的には同じでしょう。
(「貶める」などの言葉が過激すぎたのではないかという点はありますが)

最後に、担当をルールで規制することを最小限にすべきという理由については、単純に「チームの戦略的判断を無用に制限する必要はない」ということに尽きます。
第一反駁と第二反駁の連続というのは重要スピーチの独占ということで例外的に規制すべきだと思いますが、それ以外の規制については特に必要がないと思われます。2人チームで1人が立論~第一反駁を全て担当する、という場合は微妙なラインですが、実際にはむしろ準備時間を効率的に使えず不利になるから、あえて規制せずともよいのではないかと言うこともできる気がします。
ただ、このあたりの規制については実際のチームの実情(特に、規制を潜脱したい事情のあるチームの思惑など)を考えた上で検討すべきと思われるので、これは改めて考えてみたいところです。

お忙しい中いろいろとご意見をくださりありがとうございました。
同規制について他に異なる解釈がありうるということについては理解しましたし、それにも理由はあると思います。僕と考え方の異なる部分はあるようですが、それも含めていろいろ考えさせられました。また他にも何かあれば遠慮なくコメントなどしていただければ幸いです。
2009/05/29 (金) 18:26:55 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
思いついてしまったので最後に・・・
管理人様

逐条解説、拝見しました。
ルールの合理性を詰めるというのはなかなか大変なものだと感じた次第です。

コメントの中で気付いてしまったので最後に一点だけ立論質疑兼任禁止合理性説(?)の論拠を。
「第一反駁・第二反駁の兼任禁止は、両方とも「反駁」のパートである(2条3項)ことから一度「反駁」を行ったものは「反駁」を行ってはならないということ」(賛同いただけたようでうれしいです)という点と同様に、「立論」は「応答」という形で既に「質疑」ステージに関わっている(もしくは関わる)ため、再度「質疑」ステージには登場できないというのはどうでしょう。
同一名称のステージ(「反駁」は第一・第二と名前がついているので、厳密には違う気がしますが。)に二回登場してはいけない。と言うことを要求すると、全てが論理一貫して説明できるのかという気がしました。
(・・・と書いてみたものの、立論と反駁を3人ルールにおいて兼任できないことが説明できない気が。)
まぁ説明できることと「合理的」かというのは別概念であることは管理人様が言われるとおりですし、ルール策定段階で何かしらの判断が働いているからこそ文面上「合理的」ではないルールが生じているのでしょうから、その点も含めさらなるルールの理解と整備が必要と言うことですね。

これで、選手たちに規定の意味を聞かれても(聞く選手が居るのか不明ですが)うまいこと返答ができそうです。
いい頭の体操になりました。ありがとうございました。
2009/05/30 (土) 21:16:11 | URL | 通りすがりの名無し #-[ 編集]
>通りすがりの名無しさん

コメントどうもありがとうございます。

立論の応答場面と質疑が重複するので立論と質疑を兼任できないという議論は、面白い着想ではありますが、応答と質疑は別物ですので兼任を否定する理由にはならないと思います。

正直なところ、現行ルールの全てが完全に検討されて作られたものとはいえません(それは実際の法律でもそうです)し、ルールの解釈でもいろいろ考える余地がありますが、それも含めて「頭の体操」として考えることには意味もあると思います。
現行ルールからすれば質疑の兼任が義務付けられているわけですが、その意味も含めて考える余地はあるということですね。

こちらこそ、議論のきっかけを与えていただきありがとうございます。
2009/06/01 (月) 02:09:25 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
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