愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
ディベート甲子園ルール運用例百選(3.文意を改変する中略のされた資料の証拠能力)
何か更新の勢いが変なことになっていますが、最近開催されていたオンラインディベートにおいて、証拠法上極めて興味深い事例がありましたので、これを取り上げることにしたいと思います。

オンラインディベートでは中高論題ともにいろいろ試合がされていますが、中身についての感想は書かないことにします。各ジャッジのコメントなどを参考にされればよいと思います(僕の弟もジャッジしている!)。ただ、全体的な感想としては、どのチームもまだまだ改善の余地は大きいように思われます。あと、以下で取り上げる試合の否定側は、議論の中身はともかく(DAはねぇ…)、議論の伸ばし方であるとかワードエコノミーであるとか、そういうテクニック面で職業ディベーターとしての技がいろいろ見えるので、参考にされるとよいでしょう。JDAとかだと中身もガチであのテクニックですから、そりゃ困るというものです。

それでは以下、本論です。ちなみに、後半が刑訴法理論のパクリというのは仕様です。

3:文意を改変する中略のされた資料の証拠能力
(第7回オンラインディベート練習会高校論題第1試合・平成21年5月20日判定)
*試合の内容及び判定はこちら

【事案の概要】
肯定側は論題「日本は国会を一院制にすべきである」を支持する立論において、一院制により審議が迅速化するという議論を展開した上で、その重要性としてグローバル化への対応のため迅速な対応が望まれているということを主張し、以下の形で資料を引用した。

「グローバリゼーションが拡大・深化するなかで、人口減少や急速な少子・高齢化社会を迎える日本は、健全な経済社会を構築し、次世代に引き継ぐことが不可避の課題となっている。(中略)特に、グローバリゼーションがもたらす多様かつ複雑な国内外の課題に対して、的確かつ迅速な対応を可能とする政府の改革に早急に取り組むべきである。」
経済同友会「マニフェスト時代の行政体制と“政策市場”の構築を」2008年4月2日


これに対し、否定側は同資料の中略部分に以下のような内容が含まれることを指摘した上で、このような部分を中略することは文意を曲げ、反論機会を奪うものであるから、反則として敗戦にするべきであり、最低でも当該証拠は判定から除外されるべきと主張した。

中略部分:
したがって、「小さな政府」実現をめざした行政改革をはじめとする財政・税制、社会保障、教育などの構造改革への手綱を緩めてはならない。


これに対して肯定側は、自身の引用は証拠資料の趣旨に反するものではない、中略がされたとしても主張を支持するものであることにかわりはない、などの反論をしている。

【判定】
上記の証拠についての判断のみ紹介する。
肯定側の引用は、「中略部分も含めた引用箇所全文を読むと、著者が意図しているのは対応の迅速化のための行政府の改革であることが明らかですが、肯定側の引用法ではもっぱら立法過程の迅速化を求めているように読めます。これは著者の意図とは異なります」。よって、当該証拠資料は判定から除外されるが、「問題となっている引用は、大抵の人は資料の意図を取り違うが、資料の意図を曲げない解釈もできなくは」ないため、敗戦に至るものとは認めない。

【評釈・解説】
本件は、証拠資料の不当な中略が試合上で問題とされ、これに対して証拠排除の判断がされた画期的な事例であり、実務上も参考になる判断例である。
判定では、問題となる証拠資料につき文意が改変されていることを「著者の意図」との相違に着目して詳細に説示した上で、違法の効果について反則事由に該当するかを主として改変の度合いに着目して判断し、結論として証拠排除にとどめ反則にしていない(ただし限界事例としている)。この処分の結論については妥当といえるが、その判断過程については、なお詰めるべき点があるように思われる。具体的には、①引用の適切性の判断枠組、とりわけ「著者の意図」の位置づけをどのように考えるべきか、②証拠の不当引用の反則事由該当性の判断基準、の2点につき、以下で検討する。

1.引用の適切性の判断枠組
本件判定は、著者の意図を曲げているかどうかを基準として、細則B-6項における「元の文意を変えるような不適切な省略」の有無を判断するようである。しかしながら、引用の適切性においては、著者の意図との相違は重要な判断要素ではあるものの、それ自体が基準とされるものではないというべきであろう。

引用が適切であるかどうか(不当中略との関係で言えば「不適切な省略」がされていないか)の判断に際しては、証拠資料の「不当さ」とは何かという点から出発する必要がある。ディベートにおいて不当とされる証拠資料は、それがジャッジの判断を誤らせることに不当さの理由がある。そこに言われる「誤り」とは、当該証拠資料が本来有していない証明力に基づく心証をジャッジに与えることを指す。ルールはこれを「文章を改変して引用したり、元の文意を変えるような」行為として例示しているものである。
そして、著者の意図に反する形での引用は、それによって常に本来有していない証明力を生じさせるものとは言えない。著者の意図が証明力と関係するのは、当該証拠資料が著者の権威性を通じて立証対象を支持する場合に限られるからである。例えば、法律学の権威が「憲法は二院制を通じて立法府の暴走に歯止めをかけることを意図しており、これは立憲主義の歴史からも正当化できる」という旨の文章を記している場合、ここには詳細な理由付けが記されているものではないが、受け手としては著者の権威性を通じ、そこに確かな理由付け(憲法の解釈として適切に展開されていること、それを支持する歴史的背景があること)を推測し、一定の心証を得ることができる。このような場合、著者の権威性は、当該見解を著者が支持している限りで認められるのであるから、「著者の意図」は決定的な要素となる。一方、単純な統計的事実などについては、その事実について著者がいかなる評価をしているかとは独立して証明力を生じさせるものであり、著者の意図を考慮する必要はない。

したがって、引用が適切であったかを判断するには、証拠の性質と立証対象との関係を考察した上で、当該引用(中略方法)が不正に証明力を作出したものであるかどうかを実質的に検討しなければならない。これに対し、著者の意図に反することをもって直ちに証拠排除を決定した判旨は、その限りで細則B-6項の適用を誤ったものと言わねばならない(条文においても「著者の意図」なる文言はない)。本来ありえた判断枠組としては、第一に当該証拠資料の信用性の発生源を特定し、第二にその発生源との関係で信用性を偽る引用がされているかを判断するというものが考えられる。

(注)実際には、本件判旨は「著者の意図」ではなく「文意」に相違があるかどうかを問題としていると読むことができ、ジャッジもそのように考えているようである(本記事コメント欄を参照のこと)。これは、不正な証明力作出を問題とする点で、上記見解と同様であり、細則B-6項の正しい適用といえる。


これを本件について見ると、グローバル化への対応のために迅速な対応が望まれているという立証をするために証拠資料が引用されているのに対し、問題とされる証拠は、著者の現状に対する認識を踏まえた提言をその内容としており、これは著者の権威性を前提として証明をしようとするものということができる。したがって、ここでは「著者の意図」に着目して第二段階の判断に進むべきであるが、そこでも「著者の意図に反する(相違する)から直ちに不当」ということもできないであろう。ここでも問題となるのは信用性の不正作出があるか否かであるから、①著者の認識・分析に反する文意になっているかどうか、②著者が結論を導く理由付けを省略することで相手方の検証・反論機会を奪っていないか、といった具体的な瑕疵の有無を問う必要がある。
本件では、このうち②が主に疑われるところであり、否定側もこの点を特に問題としている。確かに、中略部分は行政改革を念頭に置いた提言である旨の内容であり、この点を省略することは立法府改革の重要性を証明しようとする肯定側への反論機会を奪うものとして不当に証明力を高めているということができ、証拠排除の理由があるといえよう。また、これは著者が本来意図していなかった立法府改革の必要性という文脈を生じさせているという点で、①の問題としても捉えることができる。
判旨は「中略箇所には「行政府をはじめとする」とあるのに、引用だけ読むと「立法府をはじめとする」という内容であるかのように読めることが問題」とすることから、①の点に着目して証拠排除を決定したようであり、それもありうる判断方法ではあるものの、否定側が主に②の理由で証拠排除を求める以上、これに答える形の判示をすることもありえたように思われる。また、判旨では『「中略のせいで有利になったか」が問題視されているのではなく、「中略によって違うことを言っている資料に見える」ことが問題』とされているが、もしこれが上記②のような不当引用の類型を否定する趣旨であれば、賛同できない。

2.証拠の不当引用の反則事由該当性の判断基準
本件では、結論として証拠排除に加えての反則処分(細則C-1項6号)はされていない。判旨も指摘するとおり、これはルールの文言上「悪質な場合」に該当するかの判断の問題となる。いかなる場合が悪質とされるかについて明文の規定はないから、この点については何らかの判断規範を定立する必要があるところ、これも証拠排除が要求される理由から導かれなければならない。

この点、競技ディベートにおいて不当な証拠が排除されるべき理由は、判定の公正を維持することと、不当な議論方法を戒める教育的理由に求めることができる。前者は、判定が正しい理由付けによってされなければならないという判定理由への信頼維持ということができ、後者は、未来の不当な証拠利用を抑止するという目的と言い変えることが可能である。要するにここでは①判定の信頼保護と②違法な証拠利用の抑止の2点を目的に証拠の排除、進んで反則処分が正当化されることになる。
ここで注意すべきは、①②の目的はいずれも絶対的なものではなく、比較衡量的要素が内在しているという点である。すなわち、①判定の信頼保護という点では、相対的に軽微な証拠違法のために、議論の内容と独立に勝敗を決することがかえって不自然な結論になるということもありうるのであり、②違法な証拠利用の抑止についても、軽微な違法抑止のために反則処分をして議論の内容を判定に反映させないことは、教育上かえってよくないということもありうる。よって、証拠排除を超えて証拠資料の不正を理由に敗戦とすべきかどうかについては、①②の目的との関係で、諸要素を考慮して判断する必要がある。

それでは、具体的にはいかなる判断基準がありうるか。上記で見たような比較衡量の構図からすると、そこでは(1)違法の重大性と(2)敗戦処分の相当性という2つの軸を考えることができる(なお、この2つの両方を満たさないと反則とならないか、片方を満たすだけで反則に値するといえるかも問題であるが、違法の重大性が肯定されれば原則として相当性も肯定されると考えることができ、これにより一応の判断は可能であろう)。
(1)については、)不正の大きさ(証明力が不正作出された度合い、改変の大きさなど)、)不正の有意性(故意でされたかどうか)の2点が主な考慮要素として考えられる。(2)については、)当該証拠の重要性(試合中での位置づけ)、)相手方の被った不利益(相手方に対処可能性があったかどうか)、)不正の頻発性(今後もありうる不正といえるか)といった要素が考慮の対象となるであろう。

本件判旨は、著者の意図と引用文から判断できる内容の乖離の度合いを問題として判断したものであり、上記のうち(1)-を考慮した判断をしたものと思われる。本件では上記の諸要素を考慮しても反則処分に至るほど悪質であるとは言い難いため、結論は妥当であろう。もっとも、否定側が主張するように、オンラインディベートが他チームに参考とされるものであり今後も記録として残ることから影響力を有し、また練習試合の性質上厳しい処分をする許容性もあるということを重視すれば、反則処分が不当であるともいえず、このあたりは判旨も言う「限界事例」として捉えることもできよう。

<参考文献>
筆者の文章として、次のものがある。
「ディベート甲子園ルール逐条解説(10.証拠法(3))」(2007年9月16日『愚留米の入院日記』)
「証拠資料の不正な引用」(2007年4月7日『ディベートの争点』)
コメント
この記事へのコメント
ファン宣言!
読んでいて楽しかったです。ありがとうございます。
2009/05/21 (木) 13:05:55 | URL | なお #-[ 編集]
当該試合の審判としてのコメント
    こんなところで取り上げているとは思いませんでした。興味を持って読ませてもらいました(この記事に限らず、ですが)。最近、更新頻度が高いのもいいですね。公式(?)のファンもできたようで、おめでとうございます(笑

    さて、2つほど誤解があるようですので、コメントします。1つは(完全に私のせいですが)「意図」という用語の意味が、私が想定したものと異なっているという点。もう1つは、理論構成上の相違点であって、不当性の構成要件についてです。

    まずは「意図」という単語の意味についてです。私は「意図」を「文意」の意味で用いていました。この記事を読んで分かったことですが、誤解を生む用語だったようです。この点については、誤解された場合の問題が大きいことを考慮して、判定にも「補遺」を加えました。ちなみに、判定文の中でも、例示として「国語の要約問題」を挙げていることなどから、「文意」を意味するつもりだったことはうかがえると思います。
    したがって、私の判定文の意味するところと、愚留米さんの解説するところは、差異がないものだと思います。そこで、できればそのことを、記事の中で明らかにしておいてもらえるとありがたいです。「何を改変することが不当か」についての解釈について、私の判定と愚留米さんの見解の間で相違があるとされると、問題だと思うからです(このブログは読者も多いですし)。私の表現が不当だったことに起因する問題ですので、大変申し訳なく思うのですが、御配慮いただけますとありがたく思います。

    次は、理論の構成上の問題なのですが、不当性の要件についてです。愚留米さんは、私が②の要件を無視していると考えているようですが、それは違います。①の要件の判断が、自動的に②の要件の判断も兼ねる、と考えているのです。
    私の考えでは、愚留米さんの挙げられた2つの要件、「①著者の認識・分析に反する文意になっているかどうか、②著者が結論を導く理由付けを省略することで相手方の検証・反論機会を奪っていないか」は独立なものではなく、①は②の必要条件です。ですから、①と②は別個に検討する必要はなく、①に関する判定のみで十分であると考えています。以下、①と②を別個で審議する必要のないことの正当化、なぜこの理論構成を選んだか、について説明します。
    ①は②の必要条件であることを説明します。まず、文章の意味は文章 "だけ" で決まるものではなく、その文脈に依存しているということに注意してください。すると、主張と証明がセットで提示されている場合、主張と証明を合わせて始めて文意が判断できます。分かり易い例は、証明の中で重要な留保条件がある場合でしょう。

    例
      失業率は、インフレ率には依存しない「自然失業率」と呼ばれる値に落ち着くという法則がある。これは実際の経済データの観測結果で裏付けられている。もっとも、この法則は長期的に見た場合のみに言えることであって、短期的には失業率とインフレ率は交換可能であることも広く知られている。この法則は、理論的にも裏付けられている。

    この例は4文から成り、1文目で主張が、2文目はその実証的裏付けが、3文目では留保条件が述べられており、4文目は理論的な裏付けです。
    もし仮に、3文目を省略して引用したとすれば、それは否定側の反論機会を奪うものであり、愚留米さんの言う②に抵触するかもしれません。しかし、3文目を省略し、あたかもこの理論が短期的にも成り立つかのように装っていれば、それは文意を改変しています。この著者は、短期的な場合にこの理論を当てはめることを意図していないためです。ですから、①の理由だけで不当とするには十分です。
    また仮に2文目(または4文目)を省略したとしましょう。これは文意には反していませんし、相手の反論機会を奪ってはいます(ですから、②に抵触するかもしれませんし、①だけでは不当だといえません)。しかし、問題はないでしょう。資料の根拠まで分析する必要がある場合であれば、相手から何らかの根拠付きの反論があるはずです。したがって、根拠が不明確な資料は却下されるでしょう。結果、引用したサイドは何ら有利になっていません。相手の「資料の根拠にまで反論する」という手間を省いただけです。
    このように、①のみの判断で②の判断を兼ねることができると思います。もちろん、例外的なケースで問題になることはあるでしょうけれども、ほとんどは問題なく処理できるはずです(反例があったら教えてください。考えてみます)。ついでに、①のみの判断が難しいような例外的なケースは、①と②の両方を使っても判定が困難になるのではないかと思います。

    さて、最後に、私がなぜこの理論構成を選んだか、についてです。
    1つ目の理由は、「中高生に理解される」ことを目標としているからです。資料の不当な引用を無くすためには、当然のことながら中高生自信に「引用が不当か」の判断ができる必要があります。したがって、中高生が判断できるほどに簡潔な理論構築をすることは重要です。このことが、①のみの判断で理論を構築する動機になりました。「文意が変わっているかのみを考えよ」はシンプルでいいですよね(実は、難しさの全てを「文意」という語の意味に押し込んだだけなのですが、それはレベルに応じて教えれば良いでしょう)。
    2つ目の理由は「反論機会を奪っていないから問題ない」とか「資料があってもなくても、勝敗に影響がないじゃないか」という反論をさせないためです。もちろん、愚留米さんもそのような反論は無意味だと考えているのは分かります。しかし、「著者が結論を導く理由付けを省略することで相手方の検証・反論機会を奪っていないか」などの外的(相手という他者の存在が必要です)な要因が入ってしまうと、変な誤解をする中高生がでてくるかもしれないと考えました。そのため、「元の意味」と「引用された文章から見える意味」の2つだけを考慮対象としました。その上で、試合展開は関係がないことを、口をすっぱくして強調したのです。

    以上、2点を汲んでいただければ、私と愚留米さんの判断基準に相違がない(または相当小さくなる)ことは理解してもらえると思います。

    最後にもう1点、不正の量的評価についてです。愚留米さんは、指標を5つに分けており、その上で私が(1)-i しか用いていないことを指摘しています。これはその通りなのですが、私の考えを補足しておきます。
    まず(2)-i および(2)-ii ですが、これは(1)-i の判断で代えられるというのが私の考えです。これは、上で述べたことと同様です。
    次に(1)-ii ですが、作為の有無の証明がラウンドだけからできるとは思えないため、判定の材料とすることには問題があると感じ、あえて判断対象からはずしています。
    次に(2)-iii ですが、これを判定材料に入れることは躊躇してしまいます。文意の改変の度合いが同じなのに、頻発するかしないかで判定が変わり得ることの正当化ができないためです。きっと法学分野では既出の議論だと思いますので、どう正当化するのかを教えていただければと思います。

    長文、失礼しました。
2009/05/21 (木) 23:53:55 | URL | 塚田@東北大学大学院 #-[ 編集]
ジャッジ本人のコメントありがとうございます
>塚田さま

コメントありがとうございます。
勝手に取り上げてしまいましたが、実は試験前から当該試合だけは注目していて、証拠資料の問題も出てきているので、これは取り上げねばということで記事にした次第です。

「意図」と「文意」の件については、了解しました。本文でも注釈をいれておきます。
この点については、以前から「著者の意図」という要素で一元的に証拠能力を判断する見解につき疑問を持っていたことがあり、そちらにひきづられて読んでしまったところがあったかもしれません。

不当性の判断基準として①文意の変更と②反論機会の減殺を分ける点については、ご指摘のように①が②を包含する部分も大きいと思います(本文中でも、①として捉えることが出来るとしています)。その上で、なお②だけが問題となる事例として、以下のようなものをあげることができます。

(例)着床前診断の成功率について書かれた科学者の論文に「○○病院で不妊患者に着床前診断を施した上で正常な卵子だけを胎内に戻した施術例(2006年~2007年の全37例)では、成功率は75.3%と高い効果が得られた」という資料の、調査母数を示す括弧書き部分を省略して引用がされた。
この場合、括弧書きを省略することで、その母数の少なさなどを指摘できなくなるため、②の反論機会減殺に該当します。一方、○○病院での施術例で75.3%の成功を得られたという文意については変化がありません。実験の精度を裏付ける母数も含めて文意なのだと考えればこれも①の問題といえなくもありませんが、このような例では①と②を分け、②で説明した方が便宜だと思います。
ちなみに上記の例は、JDAの決勝で実際に問題とされた事例と同様のものです。この試合でも反論機会を奪ったことが問題とされ、ジャッジにより証拠が排除されたようです。

①と②を分ける(他にも累計は考えられるかもしれない)理由としては、判断を容易にするためには不当な省略のありかたについて類型化することが便宜ではないかという、僕なりの感覚があります。塚田さまは要件を一本化して単純にした方が分かりやすいと考えるようですが、僕の感覚としては、不当とされる理由ごとに類型を設け、そのいずれにも当たらないよう気をつける(もちろん細分化しすぎるとだめでしょう)という方が判断しやすいのではないかと思います。
また、「資料があってもなくても、勝敗に影響がないじゃないか」というのはナンセンスな反論ではありますが、「反論機会を奪っていないから問題ない」というのは必ずしも意味のない反論とは言えないように思います。ルール上は文意を変えるとアウトと読めますが、証拠排除の趣旨が不当に生じた信用性の排除にあると考えれば、そのような事情がなければ(反論機会を奪うその他のマイナスがなければ)省略が問題とされることはないと考えられるからです。もちろん、ほとんどの場合、元の文意と引用から認められる文意に相違があれば、そこに不当な信用性の表出を見て取ることはできます。しかし、これに対して「本件ではそのような不当な状況は生じていない」というのは、理由があれば有効な反論たりうるでしょう(今回の肯定側の反論はダメですけど)。

反則処分の考慮要素について、要件を細かく分けている理由は上記の通りです。様々な要素をあげておくことにより、評価の際にそれらを意識することができるという意図があります。
(1)-ii (=作為性)の要件は、スピーチ中に故意が見て取れる場合もありうるでしょうが、僕が念頭においているのは、英語ディベートでよくあるらしい不当な翻訳のような事例です。故意に有利な翻訳がされているかというのは、翻訳の具体的な瑕疵を見る中で分かるように思われます(単純な訳出漏れなのか、故意に無視していたり元にない形容詞などを挿入しているのか、といった点)。
(2)-iii (=不正の頻発性)については、反則処分をするかどうかがジャッジによる裁量に委ねられており、そこでは反則とすべき必要性と反則とすることによる影響の大きさなどを比較考量する(本文参照)ことが求められるということから、その一要素として提案したものです。具体的には、よくある反則であり今後も同様の問題が出そうであれば、これを罰することによる抑止の必要性が高いということが考えられます。
このような考え方については、反則処分は当該行為の不当さによってのみされるべきであるという疑問もあるでしょうが、僕の見解では、証拠排除を超えてそれを理由に敗戦とする「反則処分」は、ジャッジや主催者が教育上の配慮など政策的な判断からする特別の処分だと考えます。そこでは、反則処分をすることが求められているかということにつき、ある程度試合外の事情も考慮されるのではないかということです(反則処分は議論の内容と独立した処分なので、そのような理解も正当化できます)。

ちなみに上記のように総合考慮で反則処分を決する考え方は、刑事訴訟における違法収集証拠排除法則(違法に入手された証拠を排除すること)を下敷きにしています。違法証拠をその違法ゆえに排除すると、本来有罪とすべき人間を無罪にすることにつながりうるのですが、それはかえって司法の信頼を損ねるなど問題となる場合が多いため、排除すべき強い必要性があるか、排除が相当といえるか、といったことを検討したうえで証拠排除を決定します(実際、違法証拠が排除されることはほとんどありません)。

*ディベートでは、不正なことをしたチームをそれゆえに罰しても、犯罪者を無罪にしてしまうことのような問題は生じず、それゆえ違法が重大であればそれ以上の相当性を要せず反則にしてよいと考えることも可能でしょう。塚田さまはそのように考えるのだと思いますし、僕も重大な違反であれば原則として反則処分が相当であると考えます
2009/05/22 (金) 01:38:39 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
    愚留米さん。早速のコメントと注の追加、ありがとうございます。
    不当性の要件を細分化するかしないかは、好みの問題になってしまうのでしょうね。細分化しない方法の妥当性も認めてもらえるらしいことが分かったので、とりあえず満足です。僕も、細分化するのもありだと思っています。

    その上でいくつか相違点を簡単に。
    まず、②が必要となる例についてですが、甲子園ルールであれば「文面を改変しない」というルールに反しているので、罰すればよいと思います。文面を改変しないことが強要されないルールの下では、問題ないと思います。例に即していうのであれば、(1)母数の示されない成功率は意味のあるものとしては評価されにくく、括弧を省いた文だけ証明能力が欠けている (2)母数の少なさは指摘できないが、母数が掛けていることは指摘できるし、それで信憑性をおおいに下げることができる、または(3)母数のない資料なんかに負けないくらいに強力な論証を相手がするべき、といったとこです。母数が次の文にあったら問題視されないでしょうから、括弧書きの省略でも(ルールが禁止していなければ)問題ないというのが僕の見解です。僕の評価法では、「少ない件数だが母数が明白な資料」と「母数が不明な資料」では、前者の信憑性を大きく取ることも効いてきます。
    1-(ii)の翻訳の件は考えていませんでした。作為が観測可能ならば、判定の際に考慮されても良いと思います。

    後はまぁ、大同小異という気がします。法律を勉強している人とは考え方が違うもんだなぁ、ということが再確認できました。僕はルールを論理式のように解釈してしまうので。
2009/05/22 (金) 09:25:57 | URL | 塚田@東北大学大学院 #-[ 編集]
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