愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
弁論への誘い~ニコ動公開弁論をきっかけに~(上)
本来なら今季論題に関係して、フィアットやプランの実行可能性の理解が問題となる事例を取り上げて検討しようと考えていたのですが、僕が大学時代やっていたもう一つの競技である弁論について面白いものを見つけましたので、今回はこれを取り上げることにします。

ここの読者は主にディベート関係者だと思われる(入院患者は少なそう…)のですが、同じ言葉を扱う競技として「弁論」というものがあることも知っていただきたいし、そこにはディベートとはまた違った意義があると考えています。
そこで、以下ではある弁論の紹介及び簡単な批評に加え、そこで紹介された弁論が「公開」されたことそのものの意義と関係して、近年の弁論界について筆者が感じている問題点及び可能性について、広く取り上げてみることにします。興味のある方は読んでいただければ幸いです。
なお、結構長くなりそうなので、上下二回に分けて書くことにします。

たまたまこのブログにたどり着いた弁論関係者などで異論のある方は、コメントをいただければいくらでも応答いたしますので、遠慮なくご意見などお聞かせください。


序.ある弁論動画の「公開」
7月5日、ある動画がニコニコ動画にアップされました。実は、弁論動画は学生雄弁保存会デジタルアーカイブで既に公開されており、弁論動画の公開ということ自体は(最近のこととはいえ)既に行われていました。しかし、今回ニコニコ動画にアップされた弁論は、その内容や公開場所からして、旧来の弁論界秩序に一石を投じるものであるということができます。

ここでは、ニコニコ動画で公開された弁論「壊せ!僕らの安田講堂」についてその内容につき簡単に批評した上で、それが公開された文脈などを含めてこの弁論が弁論活動という文脈で有する意義について説明し、さらに現在の弁論界が陥っている閉塞状況や、それでもなお弁論に見出しうる価値について、私見を述べることにします。

1.「壊せ!僕らの安田講堂」の内容的批評
「壊せ!僕らの安田講堂」は、2009年5月30日に開催された五月祭記念弁論大会の第一弁士、東大弁論部のS田氏によって行われた弁論です。
その内容は「東大生に関する偏見を解く」ことを目的とするものとされており、東大及び東大学生の内実などを面白おかしく語っているものです。身内を持ち上げても仕方ないので正直なことを書くと、内容そのものは、東大志望者にとって何らかの参考になることはあるかもしれません(特に、東大生でもモテないというのは良く覚えておきましょう)が、それ以上に有意義なものとは言い難いものです(実は僕も事前に原稿を検討しており、その時にも同じようなことを述べています)。
同じような内容でも、少し論旨を工夫すれば、もう少し意義のある(ように聞こえる)言説を展開することは可能だったでしょう。例えば、東大生を持ち上げる誤ったイメージが東大卒エリートを腐らせているとか、むしろ東大生を正当(?)に評価することが健全なエリートを育成するのだとか、社会評論的な内容をでっちあげることが考えられます。後述する政策弁論至上主義からすればそれでも厳しそうですが、少なくとも通常の聴衆が聞いて意義を感じうるレベルの論旨にはできたはずです。その意味で、この弁論は「競技弁論」としては、失敗と言わざるをえません。

しかし、僕はそれでもこの弁論を高く評価したいと思っています。それは、彼が徹頭徹尾、(成功しているかはともかくとして)観客を笑わせるためのエンターテイメントを追求していたと考えるからです。
小ネタの仕込みやエピソードの選び方、ボディアクションによる全身での表現、そしてそれらをよどみなく行うための相応の演錬――ある程度練習しないと、原稿から目を離して余裕を持ったスピーチをすることは難しい――が、彼の弁論の「馬鹿らしさ」を支えています。すなわち、彼の弁論は単純な「馬鹿」ではありません。それは、一見頭のよさそうなことを論じていながら、何か都合の良い政策機関を作って協議させれば国際的な知的財産権の問題を解決できると安易に考える「馬鹿」な弁論とは、一線を画しています。

ただ、それでも正当に彼の弁論を評価する必要があるでしょう。同じ東大生であった(卒業しちゃったので今はただの法務博士)身からしても、彼の弁論内容は自意識過剰というほかありません(もっとも、彼自身がそうだということではなく、弁論の中身がそうだというだけです、多分)。それは、東大生を知らない人であっても、普通にそう思って然るべきことでしょう。ましてや、東大生と少なからず接点を有している早稲田大学の人であれば余計にそう思うはずです。
しかしながら、この点について質疑応答の時点で看破した聴衆(多くは弁論関係者)は、驚くべきことに1人もいませんでした。この点は次回に詳細に検討したいのですが、動画の最後で少し出ていた早稲田雄弁会会員の質問は、エンターテイメントとして東大生を茶化した弁論を「差別問題についての弁論」として曲解し、的外れな質問をしています(ちなみにこの質問は「差別問題であれば他にアイヌ民族の問題とかがあるはずなのになぜ東大生の問題を取り上げるのか」と続きます)。これは、単純に頭が悪いのか、弁論をよく聞いていないのかのいずれかであると疑われても仕方ない質問です。結論から言えば、これが近時弁論界に見られる悪弊の根源であると僕は考えているのですが、これは次回に回します。
ここでは、彼の弁論が大会の多くの聴衆には正当に評価されなかったこと、それは彼の弁論の中身の弱さが適切に批判されなかったという文脈では彼にとり有利(?)だった反面、笑い話を笑い話として扱ってもらえなかったことによりエンターテイメントとしてオチがつかなかったという点で、弁論が未完成なままに終わってしまったことを意味するのだということだけを述べておくことにします。

2.弁論とは何か、そしてS田弁論は何が新しいのか
順番は前後しますが、ここで一般的な競技弁論のあり方について解説します。
一般的な学生弁論大会では、10分前後の演説時間と、その後10分~20分くらいの質疑応答が用意され、そこでの弁論内容や質問への受け答えについて審査員が採点し、順位をつけることで表彰が行われます。弁論の審査基準は大会によって異なりますが、一般的には弁論の論旨、声調態度、質疑応答の内容などが評価項目としてあげられます。

競技弁論大会では、一部の大会を除いてテーマは自由ですが、そこには暗黙の了解として「政策について論じる必要がある」「社会的な問題を論じなければならない」といった縛りがあります。もちろんそこには理由とおぼしきものがあり、それについては次回に比較的詳細に論じる予定なのですが、このような縛りは大学生による競技弁論大会では一般的であるものの、一般の弁論大会では存在しないどころか、むしろ不自然なものであるとされていることについては、ここで断っておくことにします。

ここで、先に紹介したS田氏の弁論を思い出してほしいのですが、彼の弁論は政策について論じたものではなく、社会的問題を論じたものでもありませんでした。さらに言うなら、彼はそもそも賞を撮ろうというつもりであの弁論をやったのではありません。そこには、競技弁論大会の決まりごとをあえてひっくり返した上で、別の価値観として「面白いこと」をやってやろうという意志が感じられます。
しかしながら、彼の弁論はあくまで「弁論」でした。そのスピーチの内容(余談ですが、弁論関係者の中には横文字を嫌い、「演説」と言わないと怒る人がいたりします。とかいってエヌジーオーとかは咎めないようですが)はあくまで主張然としており、体裁としては演説的なものであって漫才やコントと区別することが可能です。つまり、聴衆に対して何かを論じるという弁論の定義的な基礎は崩さない上で、その上に乗っかっている競技性やお約束をことごとく(意図的に)破壊しようとした、そこに彼の弁論の新しさがあるといえます。

もっとも、彼の弁論を「新しい」と感じるのは、それ自体が「古い」弁論観を前提としています。アーカイブの弁論を見ると、新人弁論大会などで聴衆が楽しそうに弁論を聞いている場面があったりして、上述したような堅苦しさは若干弱いところがあります。ですから、もしかして昔の弁論関係者は、彼の弁論は「ふざけている」以上の感想を抱かないかもしれません。
しかし、それでも、現在の弁論大会においてS田弁論は「新しい」と評すべきものです。そしてそこにこそ、現代弁論界がいつの間にか退行し、古く硬直化してしまったという問題を見出すことが出来るというのが、僕の見立てです。


次回は、S田弁論が否定しようとした「社会政策問題至上主義」と「競技性」について、現状の概説と批判、そして今後の展望を論じる予定です。
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