愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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とある法務博士の論題解説(前編)
別件の用事が一段落つきましたので、そろそろディベート関連の文章でも書いてみようかと思います。某所でやってるオンラインディベートで証拠絡みの問題が複数見られるようなのでそれについて論評しようとも思ったのですが、まずは高校論題について私見を書くことにします。長くなるので2回に分ける予定です。

以下では、今季のディベート甲子園高校論題である積極的安楽死について、法務博士という謎の学位をGetした学識を元にして、思うところを記述することにします。タイトルでは便宜上(タイトル的に4文字にしないといけないと思ったので)「論題解説」などと書いていますが、その名に値するかは残念ながら保障できません。なにしろ、家にある限定的な文献を参照したにとどまるので網羅的ではありませんし、そもそもディベートするに際して有益なのか良く分からない内容への言及が多い――少なくとも試合の現実から考えると、自己決定権の概念などで凝ることにはあまり意味はないようにも思われる――ので、そのあたりは気にしないでください。
と、どうでもいい話はともかく、解説中でディベートに関係ないと思われる点についてはその旨断っておくので、読み飛ばしてもらって結構です。ロー入院するとこんなことを考えるようになってしまうのか、という参考にはなるかもしれません。

では、解説の前編をはじめます。前編では理論的な内容を中心とし、後編では実際の判例を検討する中で今季論題を考える予定です。あと、以下の記述の少なくない部分は参照した文献のアイデアによっていますが、性質上個々に引用することはしていません。後編の最後に参考文献をあげることで代えますので、興味があれば各自自分で参照して考えてみてください。


1.安楽死を「法的に」認めることの意味
青木論題検討委員の解説には、安楽死を「法的に」認めることの意味として、①患者が自ら死ぬことを権利として認めること、②一定の条件下で生命を奪う行為を罰しないことの2つがあげられています。
このうち、①は正確に言うと正しくありません。なぜなら、――これは後述する自己決定権の限界との関係で重要になってくるのですが――現行法において、患者が自ら死ぬことは法的には何ら禁止されていないからです。刑法の殺人罪(199条)においては、「人を殺した者」が処罰対象となっており、自死は刑法上禁圧されていません(もっとも、死者は処罰対象にならないので、ここで「処罰されない」のは、自殺未遂や嘱託殺人教唆未遂といった行為です)。

他方、刑法では、自殺を助ける行為(自殺関与罪)や同意を得てその人の命を奪う行為(嘱託殺人罪、同意殺人罪)は禁止されています。刑法は様々な利益(「法益」という)を守るために規定されているため、法益の侵害について有効な同意がある場合には、犯罪の成立は否定されます。
ディベートには直接関係ないのですが一応説明しておくと、このような犯罪不成立は、同意によって犯罪の成立要件が失われたり(例えば、友人に家に入れてもらう行為はそもそも住居侵入罪に該当しない)、形式的には犯罪の成立要件に該当していても、同意がされている場合にはそれを処罰するための違法性を欠くということになります(例えば、壊していいと言われて他人の物を壊した場合、それは形式的には器物損壊罪に該当しますが、破壊の点に同意がある以上違法性が認められず犯罪は成立しません)。これは大ざっぱな説明ですが、高校生の皆さんは法学部生というわけでもないのですから、このくらい知っていれば十分です、というか知っている必要もないでしょう(知りたい人は山口厚『刑法入門』でも買って読んでください。間違って『刑法総論』『刑法各論』を買わないように気をつけよう)。

しかしながら、積極的安楽死については、皆さんもご存知の通り、6要件やら4要件やらを条件にして、法律には書いていない「超法規的違法性阻却」とか「実質的違法性阻却」といった形で例外的に違法性を否定されることがあるかもしれない、ということにとどまっています。6要件や4要件を満たす事案は現実的に難しいです(もしあったとしてもそんなものは起訴されないでしょう)から、これは実質的に違法性は阻却されないということに等しいといえます。このような状況下で安楽死をしようなんて医者はなかなか出てこないでしょうから、現行法では安楽死は刑法上禁圧されており、法的に認められないのだということができるでしょう。
このように、生命について同意があっても違法性が阻却されないと例外的に考えられているのは、一般的には「生命は絶対的価値を有するから、自殺者・被殺者の当座の意思に優越して保護されるべきである」という、いわゆるパターナリズムからの理解によります。これについては、自己決定権の限界について考えるところで後述するので、ここではこの程度の説明で留めておきます。

もっとも、自殺が刑法上処罰されない理由付けについてはいくつかのバリエーションがあり、それとの関係でパターナリズム以外に同意殺などの処罰根拠を説明することもできます。これは完全にディベートと関係ないのでスルーしてもらって良いのですが、簡単に説明しておくと次のとおりです。
自殺者には自己の生命については処分の自由があるから自殺行為は(本人との関係では)違法性を欠くため自殺は処罰されないという考え方に基づけば、他人が自殺に関与することについては、生命保護というパターナリズムの観点から違法性が別途認められるとして説明できます。他方、自殺も違法ではあるが自殺を望む者に自殺しないよう強制しても期待可能性に欠けるから責任を負わせても仕方ないとして違法性ではなく責任要素が欠けるため処罰されないという考え方もあり、これによれば「責任要素は個別的に判断し、正犯者に責任が欠けていても従犯の成立は認められる」という刑法理論(制限従属性説と言いますが詳細は略)から同意殺人等の処罰が基礎付けられます(もっとも、この場合もパターナリズムでの説明が排除されるものではないでしょう)。いずれにせよ、同意殺人などは通常殺人より刑が軽いのですから、同意があることによって「生命侵害」そのものが処罰されるのではなく、別の保護要請や軽減された法益侵害に基づき処罰されるということでしょう。



なお、積極的安楽死は形式的には「作為による」殺人に該当するものとして処罰されますが、尊厳死や消極的安楽死のように、延命措置をしないという不作為についても、治療義務などを前提として不作為による殺人罪に問われる可能性があります(実は今年の新司法試験の刑法はそれに近い事案でした)。この点、治療中止により暴れたので積極的安楽死をしたという両者の合わせ技的事案について殺人罪の成立を認めた最高裁判例が近時出ているので、これについては後で見ることにしましょう。

と、ここまではディベートとの関係が薄い内容でしたが、ここからは少し皆さんに考えてほしいことを書きます。青木解説では「法的に」認めることの意味として上記2つを挙げていましたが、実はそこにはもう一つ重要な意味があります。それは、「法的に」積極的安楽死という行為を認めることで、限定的条件下とはいえ、人を死亡させて良い場合があることを認めるメッセージが発せられることになるということです。
これだと想像しにくいかもしれないので、実際に憲法上これが問題となっている例を紹介しましょう。現行民法900条4号但書には「嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一」という定めがあります。嫡出でない子(非嫡出子)とは、結婚していない男女の間に生まれ、認知などを受けていない子どもをいうのですが、先ほどの規定では、この非嫡出子は相続において嫡出の子の半分しか受け取れないと定めています。これは非嫡出子への差別だとして争われた事件で、最高裁多数意見は同規定を民法の採用した法律婚主義の帰結であるとして憲法に違反しないとしています(最大判平成7年7月5日参照。ごく最近の判例でも合憲の立場が維持されています)。これに対して、反対意見の中には、次のような鋭い意見があります。

本件規定の定める差別がいかなる結果を招いているかをも考慮すべきである。双方ともある人の子である事実に差異がないのに、法律は、一方は他方の半分の権利しかないと明言する。その理由は、法律婚関係にない男女の間に生まれたことだけである。非嫡出子は、古くから劣位者として扱われてきたが、法律婚が制度として採用されると、非嫡出子は一層日陰者とみなされ白眼視されるに至った。現実に就学、就職や結婚などで許し難い差別的取扱いを受けている例がしばしば報じられている。本件規定の本来の立法目的が、かかる不当な結果に向けられたものでないことはもちろんであるけれども、依然我が国においては、非嫡出子を劣位者であるとみなす感情が強い。本件規定は、この風潮に追随しているとも、またその理由付けとして利用されているともみられるのである。(最大判平成7年7月5日・尾崎行信追加反対意見より。下線は筆者が付した)


積極的安楽死は、それ自体は対象となる人――一般的には末期患者でしょう――を差別するものではなく、救済するための制度です。しかし、かかる制度は、いかなる理由があるとしても、一定の条件下にある人の治療義務を免除し、あるいは積極的生命侵害を認めることになります。皆さんはディベートの中で「安楽死によって死が強制される」といった議論を提出しますが、法律学の見地からは、そのような問題は(存在するとすれば)以上のような「法律の象徴的効果」といった議論に位置づけられうることになります。
これによれば、もし積極的安楽死という手段の許容が、理念的または運用的に、対象者の価値を否定することにつながるのであれば、これを「法的に」許容することは、国家がそのような「一定の者には生命保護の価値がない」という観念を是認・強化することに加担することを意味します。もちろん、ディベーターはそこで思考停止すべきではなく、最高裁判例が法律婚主義で非嫡出子への不利益取扱いを正当化したように、医療資源の節約などの理由から説明を試みるといった努力をすることが望まれるのですが、少なくとも現代憲法学の考え方からすると、そのような象徴的意味が生じることには、無視できないインパクトがあります。

2.自己決定権とその限界――「制約」あるいは「要件非充足」の可能性
ここからは、安楽死ディベートでよく議論される「自己決定権」という考え方について見ていくことにします。これについては、青木論題解説がディベートで自己決定権を論じる切り口についていろいろと説明してくれています。しかし、ここでは、そもそも自己決定権に基づく説明が現在ディベートで議論されている状況において機能するのかという点を中心に検討することにします。安楽死の問題では自己決定権が必ず問題となるはずだ…とお考えの選手も少なくないと思いますが、まずはその幻想をぶち殺す、ということです。
結論から先に言うと、私見では、医療現場における積極的安楽死という問題では、自己決定権で問題が解決されることはなく、そこでは医師の救命義務などと対置される別の価値が問題になるにとどまるのではないかと考えています。皆さんがこれに賛同されるかは分かりませんが、少なくともそのような議論が展開された試合を僕は見たことがないので、何かしらの問題提起にはなると思います。

まず、自己決定権の理論的根拠について説明しておきます。
自己決定権という観念が強調されるのは、それが人間の存立にとって不可欠なものであるからです。奴隷制を否定した近代においては、価値観や世界観が多様であることを前提に、個人が自由にそれらを選び取り、自ら選択した人生を生きることが保障されねばならないと考えられています。日本国憲法など近代憲法が保障する表現の自由などの権利も、こうした自律的選択の遂行を保障するために規定されています。日本国憲法13条は個人としての尊重、すなわち「人間の尊厳」を保障していますが、そこにいう尊厳は自律的に生きる人間について認められるものであり、そのような人間を尊重することの表現として、憲法上の諸権利が定められているということができます。
つまり、人権論の観点からして、自己決定権というのは人権の前提として極めて重要な基礎であるということができます。しかしその反面、自己決定権それ自体は実は無内容な「基礎」にすぎず、その価値は選択されるものの内容などとの関係ではじめて決まるものともいえますし、自律的でない人間に自己決定権が認められることもないのだということが分かります。選手の皆さんも「自己決定権って結局何なんだろうか」と疑問に感じたことがあると思いますが、それはある意味当然のことです。

引き続いて、自己決定権が自律のために必要であるにもかかわらず、それが制約される場合があることについて説明します。これは主に3つの場合があるとされます。
第一の場面は、自律を欠く個人の保護のため、他者が決定を代行するというものです。これはいわゆるパターナリズムに基づくものですが、そもそも自己決定の前提を欠くという場面ですから、これは自己決定権の制約というのも変な気がします。ここでは、自己決定が不可能であることを前提に、本人にとって最善の利益である選択が本人の決定とされるのが一番良いという判断から、自己決定によらない決定に本人が従わされる(あるいは本人による自己決定と同視される)ことが正当化されえます。そしてこれは、患者の「推定的意思」を問題とする東海大安楽死事件判決などの論理を基礎付けるものです。
第二の場面は、自律ある者の選択について、その選択が当該個人の自律を破壊してしまうため、これを保護すべく自己決定に介入するという場面です。これは、自己決定権が自律の基礎として認められることから、自律それ自体を否定するような自己決定は認められるべきではないという考え方です(限定されたパターナリスティックな制約)。この論理は安楽死のように自律的個人の生命を奪う選択に反対する論拠として有力なものですが、これだけで介入が正当化されるかについては疑問もあります。他人にとって自殺は「自律的個人の破壊」に見えるかもしれませんが、その理由によっては、まさに自殺こそが自律的な人生を全うするための手段になりうるからです(安楽死論題での典型的な肯定側立論はまさにそのことを主張しているはずです)。自己決定に基づく自律という考え方は、その裏返しとして、自律的でなく「単に生きているだけ」というあり方を否定するものであるということが意識されるべきです。
そして第三の場面は、自律的個人の選択により、第三者の利益が害されるため、その選択を認めないという状況です。自律的個人というのはその人だけではないのですから、他人の自律を害するような選択もまた、自律の保障のために制約されなければなりません。このような考え方に基づく制約のためには、害される第三者の利益が選択にかかる権利と比べて十分尊重されるものであるべきだといえる必要があります。安楽死という選択においては「生命の自己決定」というものが問題となりえますが、これが相応に尊重されるべきであるならば、これを否定するためには、第三者の利益――ディベートで出る議論からすると、他の「弱い個人」が安楽死を強要される危険などがありうるか――の価値が吟味される必要があります。

これらを前提にして、積極的安楽死という場面での「自己決定権」が制約を受けずに認められるものであるかについて、考えてみます。
そこでまず疑問とされるべきは、積極的安楽死、とりわけディベートで出される極めて厳格な要件の元でされる安楽死においては、自己決定というものを観念できるのかということでしょう。よくあるプランでは「耐え難い肉体的・精神的苦痛」の存在を要求していますが、そのような苦痛がある中でされた判断が、果たしてどれだけ自律的な選択といえるでしょうか。これはカウンセリングがどうとか文書による意思がどうとかいう要件を付け加えたところで解消される問題ではありません。自己決定の前提たる自律性は生命侵害を受けるその時点で要求されるべきですから、耐え難い苦痛により「死にたい」と言っている患者にいくら形式的な確認をしたところで、その選択が自律の観点から尊重されるべきといえるかについては、常に疑問の余地が残ります(このような議論は、「苦痛から逃げたい」というだけでは自律として十分尊重に値しないという価値評価を前提としています。これは、生命処分が「自らの生の選択」というある種の熟慮に基づかなければ、保護には値しないという考えによるものですから、自律とはそこまで厳しい要求を課すものではないと考える場合には上記疑問を否定することもできるでしょう)。
なんにせよ、要件を厳格化すればするほど、自律に基づく自己決定という実質からは離れる可能性があるのだということについては、自覚的になる必要があるでしょう。そこでは、痛みがどうとか意思の表明がどうとかいう「これだけあれば死なせても問題ないだろう」という発想ではなく、いかなる場合に自律的な生命処分が肯定されるのか、というより精密な思考が要求されます。

更に言うなら、一般的なプランが生命処分について一定の要件を課すことには、むしろ自己決定権を制約する要素が含まれています。この問題を考えるにあたっては、自己決定権が「自由」を含む人権保障の基礎であること、すなわち「自由」とは別に(「自由」よりも強い理由で)自己決定権が保障されなければならないことの意味を考えることが有益です。
積極的安楽死を「ある条件を満たした上でのみ」認める制度は、積極的安楽死に制約のない社会より自由を制約しています。そして、そこにいう「ある条件」が、選択した結果を実現する方法の制約にとどまらず、積極的安楽死を選択できる範囲そのものを限定するものである場合、そこには自己決定の制約という側面が生じます。このような整理に基づいて考えると、次のような違いが明らかになります。すなわち、積極的安楽死の施術者を資格医に限る規制は、積極的安楽死の選択そのものは制約しないから「自由の制約」にとどまりますが、末期で痛みを感じている者にしか安楽死を認めない規制は、それ以外の状況にある者の自己決定(生命処分の選択)を制約している点で自己決定権との関係で本質的な制約になります。
そもそも、自律によって自己決定が基礎付けられる以上、生命処分の自己決定を一旦認めるのであれば、生命処分の選択が真に自律的なものであれば全て保障を及ぼすべきであって、それを「末期患者であること」や「痛みがあること」といった条件によって限定する論理は自己決定権の概念からは導き出せません。健康であるが自分が生き続ける理由がなくなったと真摯に考える者が自殺を考えるような場合でも、安楽死を自己決定によって基礎付ける見解からは、これを直ちに否定できないということです(そこでは、上述した3つの制約根拠の有無が改めて問われます)。
皆さんがプランで要件を定めるのはぶっちゃけて言えばデメリットを防ぐためなのですが(そしてそれは政策形成のあり方として間違ってはいない)、その要件と自己決定権との関係や、そもそも要件を設けること自体の意味について、一度よく考えてみる必要があるでしょう。そうすることは、自己決定権という難しい概念に触れる貴重な機会を無駄にしないという意味で有益であることはもちろんのこと、ディベート的にも新しい議論のアイデアにつながることでしょう。

以上の疑問にもかかわらず、生命処分についての自律的選択が例えば末期患者など特定の者について(あるいは範囲に制限を設けず)何らかの形で認められるとしても、まだ問題はあります。それは、そのような選択を尊重すべき実質的理由としてはどのようなものが考えられるのかという点です。上でも少し書きましたが、痛みから解放されたいといった動機それ自体が直ちに保護に値するものであるか、ということについては、実は一考の余地があります。
後で実際の最高裁判例を検討する中で詳しく見ますが、生命処分についてある種の選択がされる場合に、その「自己決定」が直ちに尊重されるというものではありません。そこでは、自己決定そのものではなく、かかる自己決定によって選択され、あるいは制約される価値の重みこそが問題とされているように思われます。既に述べたとおり、自己決定権は自律の基礎ではありますが、それ自体が保護されるべき理由を独立に持っているわけではありません(もっとも、自己決定権は「決定内容の正しさ」を前提にするものではありません。価値観の多様性は保障されねばならないからです)。そこでは、なぜ生命処分の選択が取られているのか、そしてそれは尊重されるべきものなのかということが、もっと真剣に問われる必要があります。とりわけ、最初に見たように、自殺自体は禁止されていない現行法の下で、他人の力を借りる「医療行為」として生命処分の手段を認める必要性はどこにあるのかという問題については、医師の治療義務や他の医療行為への波及的影響といった見地からも、慎重に考えられねばなりません。自己決定がある範囲で認められるのだということは、思考の出発点にはなるかもしれませんが、それだけで問題を解決できるような便利なものではないのです。


以上が私的論題解説の前編です。後編では、引き続き法学サイド(?)からの検討として、自己決定権について判示した最高裁判例などを素材に、そこで実質的に考慮されている要素を見た上で、安楽死を正当化する論拠について考えてみようと思います。

おまけ
中高生ディベーターの皆さまにぜひご覧いただきたいテレビ番組として、ハーバード白熱教室(NHK教育・日曜18:00~19:00)というものがあるので、ここで少し紹介しておきます。
この番組は、ハーバード大学の著名な政治学者であるマイケル・サンデルが開講している人気講義“Justice”を日本語吹き替えで公開しているものです。この講義では、人の命の価値をどう考えるか、といった具体的な問題などを通じて、我々がする選択の正しさはどうやって考えるのか、どうやって正当化されるのかという「正義」について検討するものです。そこでは、政治哲学あるいは法哲学の主要思想の基本線について分かりやすく(とはいえ内容的に易しくはないが、サンデルの腕前によって東大の講義より遥かに分かりやすく一般向けになっている)説明がされ、また学生との問答なども交えて楽しく印象的な授業が展開されています。
残念ながら日本の大学ではこのレベルで楽しい講義はなかなか受けることができないのですが、その分この番組でサンデルのオーラ(?)を感じ、そして「正義」という難しい問題について考えてみるのがよいと思います。これは、ディベートに取り組む上でも極めて有用です(だからわざわざ紹介しているわけですが)。
既に半分くらい放送は終了していますが、土曜の深夜に1回遅れで再放送がありますし、英語だとハーバードのサイトで全部公開されています(そんなに難しい英語ではないとは思いますが、僕は完全にはついていけません…)。
特に第1~2回では、ディベート甲子園で採用されているメリット・デメリット方式(費用便益分析)の限界といったことを考えるきっかけにもなるので、機会があれば是非ご覧になってほしいところです。
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