愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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とある法務博士の論題解説(後編)
前回に引き続いて、積極的安楽死について、能力の及ぶ範囲で法律的観点から検討を試みます(つまり、実際の医療現場がどうなっているかという「当てはめ」にかかる部分は選手の皆さんがリサーチすべきだということです)。
今回は、安楽死や自己決定権について判示した最高裁判例を素材に、安楽死を認めるにあたって考えなければならない要素について考えてみることにします。最後に、前編の内容と合わせて、ディベートの試合に向けて簡単なコメントを付しておきます。
*まとめの部分に自己決定権アプローチの代替となる視点についての説明を補筆し、また論旨に影響しない若干の修正を行いました。[5月30日]


3.安楽死の現行法における許容性――最判平成21年12月7日の検討
安楽死についてはこれまで高裁レベルでしか判断がされてきませんでしたが、昨年ついに、安楽死について殺人罪を認めた原審の判断を是認した最高裁判決が出ました(最判平成21年12月7日、川崎協同病院事件)。まずは、この判決について見ていくことにします。なお、現在法律書籍等にアクセスしにくい環境にあることや、時期が最近なので判例評釈もまだ少ない(平成21年度の重要判例解説に間に合っていない)ことから、以下の検討は完全に私見であるということを先に断っておきます。

まず、問題となった最判平成21年12月7日の事案を簡単に紹介しておきます(最高裁がまとめた判示事項・裁判要旨についてはこちらを参照のこと)。
この事案では、気管支喘息の発作で一時心肺停止状態になり、心肺蘇生後も意識が戻らず、脳機能の回復も見込まれない重体のまま人工呼吸器をつけられていた患者につき、医師から容態の説明を受けた患者の妻から「みんなで考えたことなので(気管内チューブを)抜管してほしい」という申出を受けた医師が抜管をしたところ、予想に反して患者が苦しそうに呼吸を始めたので、筋弛緩剤を投与したところ、これにより患者が死亡しています。本件判決では、この医師について殺人罪の成立を認めた高裁判決が認められ、有罪が確定しています(執行猶予付)。

最高裁の判示を理解する前提として、先に高裁の判決を見ることにしましょう。高裁判決(東京高判平成19年2月28日)では、患者の死因について筋弛緩剤の投与による呼吸筋弛緩に基づく窒息と判示していますが、殺人の実行行為(どうやって殺したのか、ということ)については筋弛緩剤の投与だけでなく抜管行為についても評価をしています。これは、両行為を一体にして「治療中止行為」として実行行為性を認めたものと考えられます。つまり、筋弛緩剤の投与は抜管で苦しんだからされたものであって、両行為は連続しているから別個に評価するべきではないと考えたのでしょう。これが例えば、親が勝手に抜管したところ苦しみだしたので医者を呼んだら手遅れだということで筋弛緩剤を投与したという事案であれば、医師の投与行為単独で作為による殺人行為と評価される可能性があります。
上記の実行行為についての理解は最高裁も同様です。これによれば、抜管行為が違法性を欠く「適法な安楽死」だとすれば、その後予想外に生じた苦しみを取るためにされた投薬についても適法とされることになりそうです(もちろん、投薬に伴って新たな苦しみがないことが前提なので、ナイフで心臓を突いて止めを刺すような場合には別途殺人罪を構成しうるでしょう)。
そして高裁は、こうした実行行為についての理解を前提に、抜管行為が安楽死として適法となり得るかについて検討しています。少々長いですが、一般論について関連部分を引用しておくことにします。

いわゆる尊厳死について、終末期の患者の生命を短縮させる治療中止行為(以下、単に「治療中止」という。)がいかなる要件の下で適法なものと解し得るかを巡って、現在さまざまな議論がなされている。治療中止を適法とする根拠としては、患者の自己決定権と医師の治療義務の限界が挙げられる。
まず、患者の自己決定権からのアプローチの場合、終末期において患者自身が治療方針を決定することは、憲法上保障された自己決定権といえるかという基本的な問題がある。通常の治療行為においては患者の自己決定権が最大限尊重されており、終末期においても患者の自己決定が配慮されなければならないとはいえるが、患者が一旦治療中止を決定したならば、医師といえども直ちにその決定に拘束されるとまでいえるのかというと疑問がある。【中略】さらに、自己決定権説によれば、本件患者のように急に意識を失った者については、元々自己決定ができないことになるから、家族による自己決定の代行か家族の意見等による患者の意思推定かのいずれかによることになる。前者については、代行は認められないと解するのが普通であるし、代行ではなく、代諾にすぎないといっても、その実体にそう違いがあるとも思われない。そして、家族の意思を重視することは必要であるけれども、そこには終末期医療に伴う家族の経済的・精神的な負担等の回避という患者本人の気持ちには必ずしも沿わない思惑が入り込む危険性がつきまとう。【中略】後者については、現実的な意思(現在の推定的意思)の確認といってもフィクションにならざるを得ない面がある。【中略】このように、自己決定権による解釈だけで、治療中止を適法とすることには限界があるというべきである。
他方、治療義務の限界からのアプローチは、医師には無意味な治療や無価値な治療を行うべき義務がないというものであって、それなりに分かりやすい論理である。しかし、それが適用されるのは、かなり終末期の状態であり、医療の意味がないような限定的な場合であって、これを広く適用することには解釈上無理がある。しかも、どの段階を無意味な治療と見るのか問題がある。【中略】
こうしてみると、いずれのアプローチにも解釈上の限界があり、尊厳死の問題を抜本的に解決するには、尊厳死法の制定ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が必要であろう。すなわち、尊厳死の問題は、より広い視野の下で、国民的な合意の形成を図るべき事柄であり、その成果を法律ないしこれに代わり得るガイドラインに結実させるべきなのである。【中略】そういう意味でも法律ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が肝要なのであり、この問題は、国を挙げて議論・検討すべきものであって、司法が抜本的な解決を図るような問題ではないのである。他方、国家機関としての裁判所が当該治療中止が殺人に当たると認める以上は、その合理的な理由を示さなければならない。その場合でも、まず一般的な要件を定立して、具体的な事案をこれに当てはめて結論を示すのではなく、具体的な事案の解決に必要な範囲で要件を仮定して検討することも許されるというべきである。つまり、前記の二つのアプローチ、すなわち患者の自己決定権と治療義務の限界の双方の観点から、当該治療中止をいずれにおいても適法とすることができなければ、殺人罪の成立を認めざるを得ないことになる。ここで重要なのは、いずれのアプローチが適切・妥当かということを前提とするのではなく、単に仮定しているということである。いずれかのアプローチによれば、もちろん、双方によってでもよいが、適法とするにふさわしい事案に直面したときにはじめて、裁判所としてその要件の是非を判断すべきである。(東京高判平成19年2月28日・最高裁HP判文18~22頁、下線は筆者による)


以上の判示に基づき、本件では自己決定権アプローチからも、治療義務限界のアプローチからも、それに基づいて違法性を否定できるような事情はないとして、殺人罪の成立が認められています。ここで注意すべきは、上記引用部分からも分かるように、高裁判決では安楽死が違法性を否定される根拠について直接判示していないということです。高裁判決は、自己決定権アプローチも治療義務限界論もともに問題があって解釈としてそれにより違法性を阻却することは難しく、本来司法ではなく立法によって解決されるべき問題だとした上で、それでも個別の事件で有罪とするには違法性の点を検討しなければならないことから、先に事案の評価をした上で、いずれのアプローチによっても適法になるような事案ではないのだから有罪は変わらないという形で結論を出しています。これは、一般論について判断することを回避したものであって、司法の役割を意識している点では十分理解できる判示です(これと同様の判断方法として「憲法判断回避の準則」というものがあります。これは違憲審査はそれが事案の解決に必要不可欠な場合にはじめてされるべきであるという考え方で、これによれば、例えば自衛隊法違反の事案について、成立要件を欠くため無罪といえれば、自衛隊の合憲性を検討する必要はないと考えることになります)。
また、判示内容の中では傍論ですが、前回最後に少し問題提起したことに関連して、患者が自己決定権の行使として医師に自死をさせることまでを正当化することが直ちに可能かという点について、高裁判決でも疑問が呈されていること(上記下線部分参照)は、自己決定権から直ちに安楽死への権利を主張しようとする論理の飛躍を指摘するものとして注目されるべきでしょう。

この判決を受けてされた上告に対して、最高裁判決は次のようにして原審の高裁判決を支持しています。

所論は、被告人は、終末期にあった被害者について、被害者の意思を推定するに足りる家族からの強い要請に基づき、気管内チューブを抜管したものであり、本件抜管は、法律上許容される治療中止であると主張する。
しかしながら、上記の事実経過によれば、被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後、本件抜管時までに、同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず、発症からいまだ2週間の時点でもあり、その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして、被害者は、本件時、こん睡状態にあったものであるところ、本件気管内チューブの抜管は、被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが、その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく、上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば、上記抜管行為は、法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。そうすると、本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は、正当である。(最判平成21年12月7日


上記判示は、高裁判決が示した2つのアプローチに対応して、事実の評価として違法性阻却の理由がないということを示しています。すなわち、回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況になかったという認定は、治療義務の限界といえるかどうか明らかでないからこれに基づく正当化はできないという結論につながりますし、被害者の推定的意思に基づくといえないという認定は、自己決定権に基づく正当化もできないという結論を導きます。
では、最高裁判決は、上記認定の裏返しとして、回復可能性や余命がなかったと明確にいえた場合や、被害者の推定的意思が明らかに認められる場合には、違法性阻却の余地がある、すなわち消極的安楽死(治療中止行為なので)が認められることがあると言っているのでしょうか。そのように読む余地はありますし、少なくとも超法規的違法性阻却の余地を完全否定したとは到底読めない判示ではあります(言ってみれば「超法規的違法性阻却」というのは最終兵器のようなものなので、一般論としてかかる違法性阻却の可能性を認めている現在の判例理論――大判明治43年10月11日など――からしてわざわざ完全否定することは考えられない)。しかし、高裁判決が相応の理由付けに基づいて一般論の定立を避けており、それを受けた最高裁も高裁のアプローチと同様にして事実認定のレベルで主張を斥けていることからして、この判決は安楽死の要件ないし許容性について語るものではない、事例判断にすぎないと見るのが妥当だと思われます。実際に、この判決から、現場の医師が安楽死として許される行為について認識することはできないでしょう(むしろ、抜管行為ですら殺人罪に問われうるということから、終末期医療について混乱を生じさせかねないようにも思われます。殺意の有無で歯止めがかかるので消極的安楽死になるような事案が問題となるだけではありますが)。

以上が、安楽死に関して日本の司法制度が下した最新の判断です。ここから、今季の論題で問題とされる「積極的安楽死」が議論される必要性や、その難しさを感じることができるのではないでしょうか。
次に見るのは、前回検討した、安楽死の正当化根拠候補と目される「自己決定権」について判示した最高裁判例です。以下で見るとおり、この判例でも、医療現場における「生命処分の自由」が問題とされています。しかし、それはいくつかの重要な点で、安楽死とは決定的に相違しています。この相違から、自己決定権と安楽死の関係について重要な問題提起が得られるはずです。

4.治療選択についての自己決定権――最判平成12年2月29日の検討
安楽死についての判例というと、選手の皆さんは東海大安楽死事件の高裁判決などをイメージするのだと思います(これからは川崎協同病院事件も加わるのでしょう)が、僕の見立てでは、安楽死を考えるにあたってまず検討されるべき判例は、これら安楽死事案についてのものではなく、いわゆるエホバの証人輸血拒否事件に関する最高裁判例(最判平成12年2月29日)です。なぜなら、この判例は、これまでの安楽死事案と異なり、患者自身が真摯に自らの治療方針について死につながるような選択を求めたという問題について、その意思決定について最高裁が正面から判断を下し、しかもその意思決定に基づく請求を認めている点で、最高裁が「生命処分の自由」に最も肉薄した――以下で見るようにそれは完全にイコールではない――判断を下したものといえるからです。
この判例は憲法判例として著名であり、一介の法務博士が新たに検討を加えたところで新たに何か出てくるものではない(むしろ変なものが出てきかねない)のですが、安楽死ディベートとの関係で言えば、これまでこの判例について考えられてきたように思われないので、この機会に選手の皆さんに考えてもらえればということで自分なりに検討するものです。なので、例によって、内容について法律学的な正確性は十分保障されないということを踏まえて、皆さんなりにディベーターとして考えてみてください。

では、問題となった事案について説明します。患者は「エホバの証人」の信者で、その教義(エホバ公式サイトの解説ページを参照のこと。どういう信念なのか見ておくと、事案をよりリアルに理解できると思います。なお、エホバの信者の中でも、生命の危機の際には輸血もやむなしという相対的無輸血の考え方を取る人などもいるようです)との関係で、たとえ死ぬ危険性があっても輸血をすることは拒否するという宗教上の信念を持っていました。その患者が、悪性肝臓血管腫のため輸血せず手術することはできないと言われたために、過去に無輸血手術の例があることで知られる病院に転院し、無輸血を望む旨を医者に伝えたのですが、その病院ではできる限り輸血はしないよう努めるものの、輸血以外に救命手段がない場合には、患者や家族が望まない場合でも輸血するという方針をとっており、医師はその方針を患者に説明しないまま、輸血の必要性がありうる手術を実施しました。そして、その手術では輸血をしない限り助からない状況に陥ったため、医師は患者の事前の意思表示に反して輸血し、患者は助かったのですが、後で輸血されたことを知り、病院に対して無輸血手術特約違反や自己決定権・信教上の良心の侵害に基づく損害賠償請求を行うことになったという事案です(ちなみに原告の患者は控訴審係属中に死亡し、遺族が訴訟を引き継いでいます)。

まずは一審判決から見ていくことにします。一審判決は、以下で引用するように、医師の救命義務を考えると、無断で輸血をしたことについても直ちに違法性があるとはいえないとして患者の請求を棄却しています。

まず、手術は患者の身体を傷害するものであるから、治療を受けようとする患者は、当該手術を受けるかどうかを自分で決定することができると解される。この解釈は、患者がエホバの証人の信者であると否とに拘わらず、治療を受けようとする患者すべてに共通するものである。そして、患者が当該手術を受けるかどうかを決定するには、当該手術の内容・効果、身体に対する影響・危険及び当該手術を受けない場合の予後の予想等を考慮することが前提となるので、その反面として、患者に対し手術をしようとする医師は、当該手術の内容・効果、身体に対する影響・危険及び当該手術を受けない場合の予後の予想等を患者に対し説明する義務を負うものと解される。しかし、この説明義務に基づく説明は、医学的な観点からされるものであり、手術の際の輸血について述べるとしても、輸血の種類・方法及び危険性等の説明に限られ、いかなる事態になっても患者に輸血をしないかどうかの点は含まれないものである。
一般的に、医師は、患者に対し可能な限りの救命措置をとる義務があり、手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば、患者に輸血をする義務があると解される。ところが、患者がエホバの証人の信者である場合、医師から、手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば必ず輸血をすると明言されれば、当該手術を拒否する蓋然性が高く、当該手術以外に有効な治療方法がなく、手術をしなければ死に至る可能性の高い病気では、当該手術を受けないことが患者を死に至らしめることになる。そうとすれば、患者がエホバの証人の信者であって、医師に診察を求めた場合、医師は、絶対的に輸血を受けることができないとする患者の宗教的信条を尊重して、手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば輸血をすると説明する対応をすることが考えられるが、患者の救命を最優先し、手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば輸血するとまでは明言しない対応をすることも考えられる。そして、後者の対応を選んでも、医師の前記救命義務の存在からして、直ちに違法性があるとは解せられない。(東京地判平成9年3月12日・判文はこちらのサイトを参照、下線は筆者による)


これに対して高裁判決は、以下のようにして、自己決定権に基づく説明義務と、それを怠った上で無断で輸血をすることの違法性の存在を認めました。

人が信念に基づいて生命を賭しても守るべき価値を認め、その信念に従って行動すること(このような行動は、社会的に優越的な宗教的教義に反する科学的見解を発表すること、未知の世界を求めて冒険をすること、食糧事情の悪い状況下で食糧管理法を遵守することなど枚挙にいとまがない。)は、それが他者の権利や公共の利益ないし秩序を侵害しない限り、違法となるものではなく、他の者がこの行動を是認してこれに関与することも、同様の限定条件の下で、違法となるものではない。【中略】
本件のような手術を行うについては、患者の同意が必要であり、医師がその同意を得るについては、患者がその判断をする上で必要な情報を開示して患者に説明すべきものである。もちろん、これは一般論であり、緊急患者のような場合には、推定的同意の法理によるべきであるし、その説明の内容は、具体的な患者に則し、医師の資格をもつ者に一般的に要求される注意義務を基準として判断されるべきものである。この同意は、各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)は自らが決定することができるという自己決定権に由来するものである。被控訴人らは自己の生命の喪失につながるような自己決定権は認められないと主張するが、当裁判所は、特段の事情がある場合は格別として(自殺をしようとする者がその意思を貫徹するために治療拒否をしても、医師はこれに拘束されず、また交通事故等の救急治療の必要のある場合すなわち転医すれば救命の余地のないような場合には、医師の治療方針が優先される。)、一般的にこのような主張に与することはできない。すなわち、人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない(例えばいわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである。)。【中略】
医師は、エホバの証人患者に対して輸血が予測される手術をするに先立ち、同患者が判断能力を有する成人であるときには、輸血拒否の意思の具体的内容を確認するとともに、医師の無輸血についての治療方針を説明することが必要であると解される。【中略】
なお、被控訴人らは、同Aらが、Kの生命を守るためには、本件手術を実施せざるを得ないと考えていたところ、本件手術に関し輸血がどの程度必要であるのか輸血をしなければどうなるかについて説明すれば、Kが手術を拒否すると考えて、あえて説明をしなかったものであって、このような行為は正当であって許されると主張する。しかし、手術等に対する患者の同意は、各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイルないし何に生命より優越した価値を認めるか)は自らが決定することができるという自己決定権に由来するものであるところ、右主張は、この自己決定権を否定し(前判示のとおり、その患者の自己決定が明らかに不合理な場合は、別論である。)、いかなる場合であっても医師が救命(本件ではむしろ延命)のため手術を必要と判断すれば患者が拒否しても手術をしてよいとすることに成り兼ねないものであり、これを是認することはできない。(東京高判平成10年2月9日、下線は筆者による)


この判決は尊厳死の許容性まで踏み込んでいますが(もっとも、傍論なので先例としての意味は乏しい)、その理由付けは、自己の人生のあり方についての自己決定権を肯定した上で、それを行使するための説明義務を認めていることに求められます。説明義務を認めるということは、その説明に基づいて合理的に――判示によれば、自殺などの理由は合理的とされないようです――決定された内容に医師は拘束され、患者の自己決定が尊重されるということを意味します。
ここでは、自己決定権に基づく治療行為の選択が、それが死を意味しうるものであっても認められています。しかし、その反面で指摘されるべきは、合理的な理由に基づかないような「特別の事情」がある場合には、医師の治療方針が優先され、患者の選択は無視されてもよいとされています。ここでは合理的でない「特別な事情」が例外として語られていますが、よくよく考えてみると、実際には無輸血を望むような場合が例外的と考えられるわけで、死につながりかねない重篤な患者については、無輸血の信念などが「特別の事情」として自己決定の要件とされているのだという見方もありえなくはないでしょう(高裁判決のレトリックは、本件がまさしく「例外」の事情を備えているが、その例外であることが明らかであったのに無視されたという事案であったことから、それを強調するための表現として原則と例外を逆転させたものだという理解です)。

それでは、最高裁の判示を見てみましょう。最高裁は、これらの争点について、次のように答えています。

本件において、W医師らが、Tの肝臓の腫瘍を摘出するために、医療水準に従った相当な手術をしようとすることは、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者として当然のことであるということができる。しかし、患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。
そして、Tが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待してVに入院したことをW医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、W医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、Tに対し、Vとしてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、Vへの入院を継続した上、W医師らの下で本件手術を受けるか否かをT自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。(最判平成12年2月29日


最高裁は、以上のようにして高裁判決の結論を是認しています。しかし、ここで注意されるべきは、医師の医療行為が制限される条件及び理由について「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない」という、本件事案に即した具体的限定を付していることです。このような限定的態度は、高裁判決が「その死に至るまでの生きざまは自ら決定できる」という、尊厳死や安楽死も含めた広い射程を持つ考え方を述べているのに比して、最高裁では一般的な理由付けをしていないことからも明らかです。これは、本件判決が事例判決であって一般論を示したものではないということを意味しますが、そのこと自体に、生命処分についての自己決定について最高裁が取ろうとしている態度の本質が見て取れるのではないかと僕は考えます。
もう少し詳しく見ましょう。上記判示によれば、意思決定をする権利は「人格権の一内容」として尊重されるとあり、自己決定権という概念を一般的に承認することは慎重に回避されています。そして、そこで尊重されるのは「このような意思決定」をする権利とされるのですが、それは「自己の宗教上の信念に反する」という理由でされた意思決定として具体的に特定されたものであって、意思決定一般について人格権を構成するものとはされていません。これは、上で高裁判例について述べたところの、自己決定の要件である「特段の事情」が要求されているのではないかという見方と符合します。
信教の自由は憲法20条で保障されており、精神的自由として極めて高い価値を持つとされています。教義に殉ずるために命をも惜しまないということは、その教義を信じない者からすれば理解しがたいことですが、信者からすればまさに「生きる意味」に関わる問題であって、その教義に反してしまうということが、とてつもない苦痛であることは信者でない者にもある程度想像できるでしょう。それは、歴史上宗教対立によって多くの人が命を失ってきた歴史を見ても分かることです。最高裁は、このような信念に基づく行為については、人格権として保護してもよいと考えているようです。すなわち、そこでは自己決定権そのものが尊重されているのではなく、宗教上の信念に基づく選択が尊重されているのです。高裁判決でもそのような実質はあったと思われますが、最高裁はそれを明確化したものといえます。
また、最高裁判決では、一審判決が強調した医師の救命義務との関係についても、一定の配慮を示しています。最高裁の判示は、医師が相当な手術をしようとすることは当然だとした上で、例外的に個別事例で患者の意思決定が優先される旨述べています。これは逆に言えば、人格権の一内容として尊重されないような意思決定に対しては、医師の救命義務に基づく判断が優先する、すなわち医師の救命義務によって患者の自己決定が制約されるということを認めたものと見ることもできそうです。

5.輸血拒否と積極的安楽死の違いから考える
ここで、エホバ輸血拒否事件で見たところを踏まえて、今季論題である積極的安楽死について考えてみましょう。
輸血拒否と積極的安楽死の共通点は、それがともに医療行為の選択、それも生命にかかわる選択であるというところにあります。エホバ輸血拒否事件では、最高裁は一定の条件下で、患者の自己決定を認めました。とすれば、積極的安楽死でも、一定の条件下であれば、患者による自己決定としての自死が認められるべきと(少なくとも最高裁の考え方をベースとすれば)いえそうです。しかし、最高裁の判示によれば、そこでは「自己決定権」という一般的な概念が理由付けとされることはなく、より個別具体的な「尊重に値する」理由が求められています。これは、川崎協同病院事件において、最高裁が自己決定権などの一般論を明示しなかったこととも符合する理解といえましょう。
また、もう一つ重要な共通点として、これらはともに「医師への要求」を内容としているということが挙げられます。エホバ一審が指摘するように、患者は治療を受けないという自由があるのに、あえて医師に治療を求めています。後述するように、安楽死を望む末期患者では必ずしもこのようには言えないのかもしれません(意識不明や寝たきりなど)が、いずれにせよ、患者にとってその選択は必然ではなく、第三者である医師に対して、その救命義務に反する行為を強制する側面があるという点では同じです。そこでは、患者の自己決定は無制約ではなく、救命義務との対立関係が考慮される必要があります。それは、救命義務は患者のためだから患者が望む以上無視すべき…という簡単な問題ではないでしょう。僕は医師でないのでそのあたりは実際には分かりませんが、同じような例として、弁護士が被告人に「俺がやったから全部認めて死刑にさせてくれ」と懇願されたとして、それをそのまま受けて弁護しろと言われても、それは直ちには受け入れ難いことだろうとは思います。

次に、輸血拒否と積極的安楽死の間の相違について考えてみましょう。
第一に、輸血拒否は見方にもよりますが治療行為の拒否という不作為を要求するものといえるのに対し、積極的安楽死は自己への加害行為という作為を要求するものであるという点です。これは、医師の救命義務との関係で、より困難な要請を強いるものといえそうです。その意味で、安楽死の方がより許容されにくいと考えられます。この点については、ヒポクラテスの誓いなどに見える救命義務についてどう考えるか、クオリティオブライフなど現代的観点も踏まえて(治療行為で自然な状態より延命できるようになったのは近代以降なので、安楽死はギリシア時代の医療倫理では処理しきれないでしょう)論じられるべきでしょう。救命義務というのは医師という専門家集団の規範であり、その専門的判断・合意が尊重されるべきとも考えられるので、安楽死との間でその抵触が問題となるというのであれば、安楽死に対する社会的要請などと比較してどちらを優先させるべきか、それはいかなる理由に基づくのかということについて、社会の合意形成ないし政策決定の妥当性という形で議論すべきでしょう。この問題は、川崎協同病院事件の高裁判決が言うように、もはや法的問題とはいえません。
第二の相違は、輸血拒否は安楽死と異なり、それ自体は死を望む行為ではない、ということです。輸血の拒否は、信念に基づいて困難な「無輸血」という道を選択するものであり、それは自己の信念を貫きつつ、生に向かって戦うものだということができます。その意味で、かかる選択は、医師の治療義務との関係でもなお尊重されるべき実質があるといえます。他方、積極的安楽死は、自ら死を望むものであり、ある意味では自己の病から逃げようとする選択ともいえます。もちろん、そこにも自らの望む死を全うしたいという尊重されるべき実質を見出すことはできますが、類型的には「苦しいので逃げたい」という思いが混ざる可能性は否定できません。また、自律に基づく自己決定権という考え方との関係では、あくまで自律的存在を存続させようという意思の下で選択している輸血拒否と異なり、自律的主体の破壊を望む安楽死については、自己決定権の原理からして否定的評価が下されるべきだという見方もできます。これらの評価の相違は、前編で述べた「法律の象徴的意味」、あるいは「メッセージ的効果」を考える上でも、少なくない意味を持つでしょう。
第三の相違は、輸血拒否は(緊急事態の場合は別ですが)これから治療を受けようとする者の選択であるのに対して、典型的に論じられる末期患者の積極的安楽死は、既に治療されている者が治療の方針を変更しようとする選択であるという点です。治療を受けない自由は今でも認められている、ということは何度か述べましたが、そのような自由を超えて第三者たる医者に自己決定を遂行するための行為を要求する権利を認める必要性があるとすれば、それは上記のような違いによって説明できるかもしれません。

6.まとめ ~実際の試合で何を語るべきか~
以上、積極的安楽死や、それを根拠づけるとされる自己決定権について、法律サイドから一定の説明を試みました。もしかして何かの参考になればと思って読まれた選手・関係者の方にとっては、相当読みにくい内容だったのではないかと推測します。というわけでここまで読んでいる人がいったいどれだけいるのか疑問ではあるのですが、最後まで読んでくれた方のために、ディベートの試合に即してこれまでの内容を整理しておくことにします。といいつつそれほど具体性を持たせてはいないので、あくまでヒント(?)にとどまります。

まず、本解説で一番強調したいのは、積極的安楽死を正当化するにあたって、「自己決定権」という概念は思考の出発点にはなりうるものの、それ自体は何らの帰結も導かないばかりか、現在試合で出ているようなプランとの関係で様々な疑問を提起する問題含みの概念なのだということです。
これは否定側にとって一つの有力な攻め口となるでしょう。とりわけ、プランが本当に自己決定権に基づく安楽死を認めるような要件となっているのか、という反論は、デメリットと合わせて十分準備すればメリットを大きく減じうるものになるはずです。また、そもそも自己決定権がそれ自体尊重されるべきものなのかという検討も、否定側の反論として準備されるべきです。肯定側としては、自己決定権による安楽死の正当化を試みるのであれば、これらの疑問に答える準備をすべきですし、一つのあり方としては、末期患者に限定しない自殺的安楽死をも認めるという政策も一考に価するかもしれません(オランダではそのように運用されているようです)。
もっと根本的には、自己決定権ではない考え方によって安楽死を正当化することも検討されるべきです。その有力な候補は、川崎協同病院事件の高裁判決が言うところの治療義務限界アプローチが考えられます。もっとも、個別事件の違法性を云々するのではなく安楽死の法制化の是非を議論する文脈では、そこでの「治療義務限界論」はさらに2つの考え方に分節できます。第一の考え方は、現在の医師の治療義務の中に積極的安楽死も含まれているのだということを前提として、それを法的に保障するのだというものです。現在の終末期医療において、積極的安楽死が技術的にも医療倫理的にもやむを得ないような状況があるのだとすれば、その実行を法的に保障する必要があるという議論ができます。これに対する第二の考え方として、医師の治療義務においても積極的安楽死までは含まれないが、社会的コンセンサスによって治療義務を拡大ないし再定義し、積極的安楽死という手段を新たな治療手段として患者に保障するのだというものがありえます。ここでは、自己決定権の考え方も関係してくることになるでしょうし、医療資源の配分など医療政策的問題から社会的合意によって患者の権利を制約するという側面の議論もありえます。積極的安楽死を終末期医療の場面に限るのだとすれば、そこで医師にある種の権利義務を負わせる安楽死法制化という問題は、医療技術の発展や患者の権利の高まりといった背景から医師の専門合理性を保障し、あるいは問い直すという治療義務限界アプローチのほうが、議論の枠組としてより適切といえるかもしれません。

また、自己決定権に関連して本解説で見てきたのは、実際には自己決定権の内実である「選択の理由」(選択結果ではない!)が問題とされているのではないかということでした。これは、安楽死の正当化理由について、ディベートの試合でもより真剣に検討される必要があるということを意味しています(これは治療義務限界アプローチを取る場合も同様です)。肯定側がメリットの重要性を論証したいのであれば、それは自己決定権などの言葉を並べるだけではなく、それが尊重に値するのだという理由を出す必要があります。そして、本解説の検討内容からは、かかる理由は一般的に認められるものではなく、個別の事情に合わせて見出される必要があるのではないかということが示唆されます。末期患者の安楽死ケースであれば、どのような動機で安楽死が求められているのか、単に「苦しいから」だけではない、より深彫りした分析が望まれます。そこでは、患者だけでなく医師の動機に着目するということもありうるでしょう(医療経済とかいう側面だけではなく、医療倫理として患者を生かすことが常に「治療」なのか、といった観点)。

最後に、本解説では、積極的安楽死を「法的に」認めるということの意味について2つの点を指摘しました。
第一の意味は、本質的に社会的合意形成の問題である「治療行為の選択」ないし「生命処分」の自由について、立法により解決するという積極的なものです。これは内因性の議論に関わりますが、立法によらずに個別事例ごとに安楽死の成否を検討するというあり方では、現場の医師に指針を提供できないし、医療を受ける患者や医療専門家の医師、そして「命」を持っている私たち国民の間で納得行く「命のあり方」を考え、それに沿って医療の現実を作っていくということができません。この問題を解決するために、この論題が議論されねばならないのだということは、議論のスタンスを考える前提として重要なことです。
第二の意味は、「法的に」認めることがそれ自体メッセージ効果を持つという消極的な効果です。ここでは、政策に実際にこめる理念・目的と、政策が現実に運用され、あるいは受け止められる中で理解される理念・目的の違いを意識する必要があるでしょう。肯定側は正当な理念を打ち出すでしょうが、否定側はそうではなく現実に現場がどう受け止めるのかというところから議論を展開できます。肯定側がこうした現実的疑念を払拭するためには、社会的合意形成の過程の健全性(国民の「命」に対する意識の強さなど)や、安楽死実行過程で関与する医師の職業的倫理などの貢献を考慮すべきという反論が考えられます。その前提としては、自ら死を望むという選択についてどのような評価が成り立つかという検討も欠かせないでしょう。

いろいろ述べてきましたが、結局言いたいことは、安楽死も含めて、物事にはいろいろ対立する考慮事項があるので、一つの考え方で割り切れるものではないということです。後編では判例を長々引用して説明しましたが、それは実際に最高裁もそのような割り切りを見せていないのだということを示すためです。
安楽死について積極的に要件を示さず、極めて限定的な個別判断の限りで意思決定の自由を保護しようとする最高裁の姿勢は、少なくとも生命の自己決定に関する司法のあり方としては妥当なものだと僕は考えます。しかし、今季論題で選手の皆さまが議論するのは、個別事例の司法審査ではなく、安楽死という選択について社会がどういう選択をするべきかということです。そこでは(そこでも)、最高裁の結論はヒントにはなりえても、それ自体が答えを導くものではありません。この解説もそのようなものを目指したものではないわけで、最終的には選手の皆さまが自分だけの議論(パーソナルアーギュメント)を構築し、より高いレベルの試合を展開するよう悩むしかありません。その中で、ここで触れた内容が少しでもお役に立てたなら、試験後で気だるい中に判例を読んだ甲斐があったというものです。

というわけで、皆さまの頑張りを心より願っております。どうかリサーチを怠らず、万全の準備で大会に臨んでください。ここで触れた内容について質問などがあれば、コメントなどいただければ可能な限りお答えします。もっとも、僕も答えを持ち合わせていない問題ですので、そういうものは期待されても困りますが…。


参考文献
本解説を書くにあたって参考にしたのは、以下の書籍・論文です。
○小泉良幸「基本的人権の観念②(自己決定権)」小山・駒村編『論点探究憲法』(弘文堂、2005)所収
――自己決定権の正当化ないし制約根拠について、またエホバ事件の分析について、大いに参考にしました
○長谷部恭男『憲法の理性』(東京大学出版会、2006)
――第11章「憲法学から見た生命倫理」を参照。安楽死の関係では簡潔な記述があるだけですが
○蟻川恒正「自己決定権」高橋・大石編『ジュリスト増刊 憲法の争点[第3版]』(有斐閣、1999)所収
――妊娠中絶を題材に自己決定権について考察。「自由への制約」と「自己決定への制約」の違いから、自己決定権の本質を検討している。今季論題とは直接関係ないが、これはいいものだ
○浅野博宣「自己決定権と信仰による輸血拒否」高橋・長谷部・石川編『別冊ジュリストNo.186 憲法判例百選Ⅰ[第5版]』(有斐閣、2007)27解説
――エホバ事件の評釈

また、実際には目を通していませんが、上記参考文献で引用・参照されているものなどから、タイトル的あるいは引用・参照部分的に特に有益そうなものを以下に挙げておきます。余裕があれば読むとエビデンスが見つかるかもしれないんだよ
・竹中勲「自己決定権の意義」公法研究58巻
・土井真一「『生命に対する権利』と『自己決定』の観念」公法研究58巻
・高井裕之「関係性志向の権利論・序説」民商法雑誌99巻3号
・高井裕之「生命の自己決定と自由」ジュリストNo.978(1991)
・井田良「終末期医療と刑法」ジュリストNo.1339(2007)


*ここまでの論題解説を前・後編あわせて若干加筆修正し、若干混入していた電波的要素を取り除いたものをアップロードしておきました。役にたつかどうかは保障しませんが、ご自由に活用してください。

積極的安楽死法制化論題の私的解説

コメント
この記事へのコメント
待ってました!
お見事! 

これまでの立論パターンにおいて、「痛み」ばかりが論じられる「現状分析」なる議論に食傷し、内因性の議論の不十分性(あるいは、制度の「不在」に関する言及の薄さ)に耐えかねて、先に開催された論題検討会でもそれを指摘し、ついでに拙ブログでも言及しようと思っていたところでして。

この論題で議論を深めるべきは「法的に認める」という個所だというご指摘、異存なしです。

遅れましたが、ブログ再開を心よりお喜び申し上げます。
2010/05/28 (金) 21:58:58 | URL | 岳南亭 #1Nt04ABk[ 編集]
過分のお褒めの言葉ありがとうございます
>岳南亭さま
それなら先生が最初から論題解説をお書きになっていれば…とみんな突っ込むところであるのはさておき(笑)

本稿の検討は、元をたどれば、2003年に岳南亭先生が安楽死論題の準決勝で「法的に」認めることの意味について問うた名講評を聴き、感銘を受けたことに端を発しています。
その頃は僕も大学1年生でしたが、その後何の因果か法律学の道に進むことになり、三度安楽死論題が採択された今年、先生の問いに対して自分なりの解答を示したのが本稿です。それが先生の意に沿うものであったことに、勝手に感慨深いものを感じてしまいました。

選手がこんなところの長文を読んでいるとは思えないのですが、三回目の安楽死論題ですから、安楽死の法制化というアクションの意味に踏み込んだ骨太な議論を期待したいところです。実際のところ、そちらの方が遥かに説得力があるし、おそらく気づいてしまえばそのほうが論じやすくなるところもあると思いますし。

また何かお気づきの点があれば、今後もよろしくご指導ください。
2010/05/30 (日) 01:21:54 | URL | 愚留米@管理人 #tX1BiP8k[ 編集]
ご協力ください。
スペース失礼します。

Change.org(下記URL)にて安楽死に関する署名活動を行っています。賛同いただける方はご署名お願いします。

http://goo.gl/epuQJ
2013/08/19 (月) 03:09:36 | URL | 匿名 #-[ 編集]
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今シーズン、これまでのところ、高校論題の試合を1試合もジャッジしていない。おそらく全国大会前にジャッジをするのは、7月中旬の仙台だけになるかもしれない。 という訳で、以下の見解は、主人がこれまでオンラインや、各種大会で見聞した限りでの印象だと思ってもら
2010/07/09(金) 12:58:41 | 嶽南亭主人 ディベート心得帳
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