愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
東海地区練習会と近畿地区予選での議論に接しての感想
先日、東海地区での練習会で中高の議論を若干拝見し、また20日に催されたディベート甲子園近畿地区予選でジャッジを務めさせていただいたので、議論の感想を書いておくことにします。

最初にいつも書いているような感想を述べると、とにかく反駁が薄すぎます。勝手が分からない初出場校であればともかく、全国に出たこともあるようなチームで明らかに問題となる部分に対してアタックがされないというのは、真面目に準備しているのかどうかすら疑わしく感じてしまいます。試合を見た限りで言うと、ネットでググれば1時間で大会参加校を上回る反駁原稿を準備できそうな印象を持ってしまいました。
荒っぽいことを言うなら、高校であれば第一反駁で3枚はエビデンスを読むことをノルマにして準備・練習すべきです。立論で一応証明がされているのですから、それを覆して「意味のある」反論をしたいのなら、自分たちもカウンターで証明をしないといけないのは当たり前のことです。今はワールドカップで盛り上がっていますが、サッカーと同じくディベートもシュートしないと点数は入らないということです。

では、各論的なコメントをいくつかあげておきます。近畿地区予選で講評として述べさせていただいた内容などをもとにしています。


1.議論に「色を塗る」ことでジャッジに訴えかけよう
立論を仕上げて大会に臨んでいるチームの皆さんは、メリットやデメリットとして一応それなりの流れを持った議論を作ってはいます。しかし、ディベートというのはフローに残った字面だけで判定されるというものではなく、そこからジャッジがどのような心証を形成し、議論を評価したかによって勝敗が決まります。つまり、フローシートに「動物の命を守る」とか「耐え難い苦痛」と書かせるだけでは、勝ちにはつながらないということです。
フローシートに書き込まれる内容(としての議論の流れ)は、絵画でいうところのデッサン、あるいは線画といってよいでしょう。もちろんデッサンだけでも違いは出てくるのですが、ジャッジを説得するためには、そこにもっと色々なイメージを盛り込み、デッサンとしての議論に色をつけていかなければなりません。スピーチを聞いているジャッジに、議論のイメージを鮮明かつ豊かに抱かせることが、ディベートで議論を出すことの目的であり、議論を深く練りこんでいくということの意味です。

抽象的なことばかり書いても分からないので具体例を出して説明しましょう。練習会で中学校の議論を見せてもらったのですが、否定側立論で「ペットビジネスの衰退」というデメリットをあげ、深刻性として失業の問題を出していました。失業は確かに大変です。しかし、否定側が示すべきは、肯定側の主張する問題よりも深刻であるということであり、メリットとの関係で言えば「動物が苦しんでいるけれどそれより失業を防ぐべき」と思わせるための議論が求められています。そこで「失業は経済的に本人を追い込み、自殺などにつながる」という資料を読んだところで、ジャッジに新しいイメージを与えることにはなりません。そんな資料があろうがなかろうが失業は深刻であることは分かっていますが、論題との関係でジャッジが気にするのは「苦しんでいるペットのことを考えてもペット産業の人を救うべきなのか」ということであって、その答えを出す上で失業のインパクトを単純に打ち出すだけでは、ジャッジの心を動かすには弱いです。こういう立論で勝つパターンというのは、メリットが立ってなかったり反駁でメリットを潰したという展開がほとんどで、実は否定側立論そのものは勝利に貢献していないということが多かったりします。
では、この議論に色を塗ってみましょう。よく見る否定側立論では、ペット産業が一定の規模を持っているといった立証をした上で、それがなくなるという筋で構成されています。しかし、そこで「ペット産業」と説明されるものの中には、いろいろな事業者が含まれています。中には肯定側の言うような無責任な事業者もいるかもしれませんが、中にはペットが好きでしょうがなくて、長年の夢としてペットショップを開いた人がいるかもしれません。ペットで人の心を癒すことを生き甲斐に事業を展開している人がいるかもしれません。そのような人にとって、ペット売買が禁止されて職を失うということは、一部の心無い事例のせいで夢を壊されるという理不尽さや、自分の人生を否定されたかのような無力感があるはずです。このような事例を盛り込むことで、単なる「失業」と表現されていたデメリットは、ペットに携わる人々の人生を否定してしまうような問題としてジャッジの前に立ち現れます。こうなると、一部の悪い飼い主のせいでペットが死んでいるというメリットに軽々投票するということは難しくなってきます。

同じことを、肯定側も考えることができます。ペットが殺処分されているという事例を述べるだけでは、論題との間で関連性を持ちませんから、肯定側としては「手軽に買えてしまうから」といった主張で議論を支えようとします。ここまでであれば多くのチームが試みていますが、しかし上記のように否定側が「失業」という問題に色を塗り、ペットに生き甲斐を感じ、ペットのことを思いやっている人の存在が主張されたときに、このような単純なメリットの筋だけではなんとも弱い。だから、肯定側はペットが安易に扱われている問題の分析に色を塗ることが求められます。
考えられる筋としては、ペットをビジネスの対象、商品として扱うことが、必然的にペットを大切にしないことにつながるのだという議論がありえます。生命を道具や手段として扱ってはならないという主張は倫理学などでよくありますが、これをペットとの関係で具体的に展開する、すなわち「生き物を商品にすると、儲けを得るために人間の都合で『売れ筋』を『低コスト』で作って売ることになり、その過程で動物が酷使されることは避けられない」といった考え方をベースに問題提起していくのはどうでしょうか。また、ビジネスとして一般的に許容する以上は規制は難しいとか、動物の生命も人間同様尊重すべきであるから一部でも問題を避けられないような場合には全部禁止もやむを得ないといった考え方を上手く盛り込むことで、さらに議論は豊かになっていきます。

これらの作業は、立論だけで達成できるものではありません。第一反駁で相手の議論にぶつける反論も、それを通じて自分たちの立場を鮮やかに表現する手段ですし、第二反駁でのまとめはまさに絵の仕上げにあたります。第二反駁で事前に用意した作文を読み上げるようなチームもありますが、ディベートに慣れてきたら、そこからは早く卒業し、立論・第一反駁で順を追って下塗りを積み重ね、最後に仕上げるという形を目指すべきです。最後にいきなりペンキをぶちまけて終了といった絵を評価したいジャッジはいないということです。

もちろん、これは高校論題でも(というか全ての論題、もっというなら説得活動一般で)妥当します。「耐え難い苦痛」とはどんなものなのか、末期患者の8割がどうとかいう数字だけではジャッジにはイメージが伝わりません。どんな痛みが存在しているのか、どうして堪えられないのか、「死にそうなほど苦しい」という文面だけではないイメージとして伝わるような資料や主張を、探してみてください。
とにかく大切なことは、字面だけではなく、ジャッジに訴えかけるような議論を考えようということです。そこでは、議論を具体化して表現したり、逆に上手く抽象化していくといった作業が必要なのですが、まずは「自分たちの言いたいことは何か」、そして「それを伝えるにはどんなことを言えばいいのか」をよくよく考えるということです。当たり前のことじゃないかと思われるかもしれませんが、ディベートというのは最終的にはそれに尽きるのだと思います。

2.高校論題について(2)――自己決定権について再度問題提起
先日、論題解説と称して、前後編にわたる長文を書かせていただきました。そこでは、安楽死論題との関係で自己決定権という概念が何を意味しうるかということについて、どちらかというとその限界を中心として述べさせていただきました。
近畿大会で見た試合でも、自己決定権について触れている立論がありました。とりわけ、某高校[指摘を受けたので学校名について伏せました(以下同様)。詳細は6月23日のエントリを参照]の肯定側立論は、自己決定権について極めて深い考察をしていました。にもかかわらず、その考察は必ずしも彼らの議論を支えるものとして十分機能していなかったように思われます。以下では、その理由について、前の論題解説を要約する形で説明させていただき、選手としてどう考えていけばいいのかについて端緒を示せればと考えています。

某高校の自己決定権に関する論証は、①自己決定できる主体であることが人を人たらしめるのであって、自己決定権は人間の尊厳の核心である。それが客観的に愚かな判断だとしても、それによって自己決定権が否定されるべきではない、②生き方の決定は自分にしかできない。そして生の自己決定を認めるなら死の自己決定も認めるべき、といったものでした。
このうち①については、自己決定権の論拠を述べるものとしてはかなり深い考察に基づいています。特に、「自己決定できることそのものが大切」、すなわちその結果にかかわらず自己決定を保障することがその人を人間として尊重するために必要なのだということがポイントです。他人の決定を押し付けてその人の意思に沿った行動を許さないことは、奴隷やペットとしてその人を扱っていることになる…というイメージだと理解しやすいのではないでしょうか。
しかし、その高校のプランによれば、積極的安楽死は不治の病で耐えがたい苦痛があるという場合にしか認められないそうです。これは、そのほかの状況で死にたいという人には安楽死を認めないわけですから、失業などで自身の将来をあきらめた上での自殺といった場合にはその人の死の自己決定を否定するものです。これは彼らの説明、とりわけ①の内容に反するのではないでしょうか。この質問に、彼らは答えることができませんでした[要請を受けて表現を修正。これも6月23日のエントリ参照]。

では、彼らがプランとして安楽死に種々の要件、とりわけ安楽死を認めるべき客観的状況を限定したことは間違っているのでしょうか。結論から言うと、それは間違っていないどころか、(多数の人が抱いている死生観からすれば)安楽死の要件として必要不可欠だといえます。
このことと、上述した自己決定権の「正しい」理解――繰り返しになりますが、彼らの立論は誤っていないどころか、かなり高い水準の証明です――との不整合は何を意味するのか。それは、積極的安楽死は自己決定権で説明しきれる問題ではないのだろうということです。

どうして説明できないのかについては先の論題解説を参照のこと…というと読んでくれなさそうなのでここで要約しておきます。
一つ目の理由は、そもそも死ぬことの決定というのは自己決定権でカバーされないのではないかというものです。自己決定権は自己決定できる主体であることを保障することで自律的個人を尊重するための概念であるところ、自律的個人そのものを破壊するような決定を認めることは自己決定権概念の目的に反する、すなわち自己決定権が予定していないものである、という考え方です。このことは、私たちが「死」というものについて特別な感情を抱くこととも関係するでしょう。ある人が自分の大切にしてきたコレクションをバットで叩き壊しているような状況を見ても、止めないといけないと焦ることはないでしょうが、ある人が屋上から飛び降りようとしているのを見て、(腰が抜けたりして実際に止められないなどの状況はさておき)止めないといけないと感じるのが大多数の人間でしょう。そこには何らかの真っ当な理由があるわけですが、そのような「人に迷惑かけないなら何をやってもその人の勝手だとしても自殺は別物だろう」と考える私たちの感覚を理論的に説明するものとしては、上述した自己決定権概念の範囲に関する議論がありうるかもしれません。
二つ目の理由は、そもそも積極的安楽死は自己決定で完結するものではない、ということです。積極的安楽死とは、第三者(医師)に殺害行為を要請するものであり、死にたいと願っている者の行為で完結するものではありません。そこでは、患者を治療すべきと考える医師の治療義務や医療倫理と患者の死にたいという自己決定が衝突します。医師からすれば、多くの場合は患者が死にたいと考えること自体が精神的疾患として乗り越えられるべきものだし、痛いのならそれを取り除くように努力することが自分の仕事だと考えているのだと思われるところ、そこに積極的安楽死を認めるということは、いかに患者の意思とはいえ、医師の望まない治療方法、それも殺人行為を強制するということにもなります。

このように、自己決定権では説明できない部分を踏まえてもなお積極的安楽死を認める必要性があるということを正当化するために、積極的安楽死の要件は求められるのだと考えられます。例えば、不治の病や耐え難い苦痛を要件とすることは、上述した第一の理由との関係では当該自死希望者の自律的個人としての存立が病によって実質的に失われつつあるという実質を要請することで、むしろ安楽死によることがその個人を尊重することにつながるという状況を保障するためであると理解できます。第二の理由との関係で言えば、治療不可能という要件(もっとも、治療不可能という状態が本当にあるのか、常にそういいきれるのかといった問題はあります)を課すことで医師の治療義務が尽くされた上ではじめて安楽死が選択されるべきことを要求し、治療義務との衝突を最小化するという意義が考えられます。
このように要件の意義を詰めて考えることで、メリットの中で論じるべき内因性としての「患者の極限的状況」や、重要性としての「安楽死を認めるべき理由」が明らかになってきます。ここにどうやって色を塗るかは選手の皆さんに委ねますが、例えば現場の医師が極限的状況についてどのように考えているのか、あるいは治療を受ける国民としてはどのような最期のあり方を希望するのか、とりわけ(一部の学校で論じられている)特殊な難病という確率論的リスクについて私たちはどのような対処を求めるべきか、といった切り口がありうると考えられます。

3.高校論題について(2)――圧力、あるいは法制化の効果
安楽死の否定側立論としてよく見られるのが、不本意な死を迫られるという議論です。そこでは大まかに言うと、①患者が周りの雰囲気などから死を選ばされる、②医師が何らかの理由で患者に安楽死を強いる、③家族が介護疲れなどの理由で患者に安楽死を求める、という観点からの「圧力」があげられています。
それぞれ、立証レベルで克服されるべき課題があるということはもちろんのことですが、ここでは「何を説明すべきか」という点に絞って説明します。

圧力がかかって死ぬようになるという話を説明するためには、次の二段階の説明が求められます。第一に、圧力が生じるのだということの説明です。ここでは、今でも圧力はあるのだという説明(この場合、後述する第二の論点がポイントになる)や、安楽死法制化で新たに圧力が生じるのだということを説明する必要があります。とりわけ、単に圧力が生じるというだけでなく、なぜ生じるのか、すなわち圧力を生じさせる動機が医師や家族にあるのか、といった点の丁寧な分析が求められます。
第二に、圧力によって患者が安楽死にまで至ることの説明です。具体的に言えば、肯定側の課す要件にもかかわらず「不本意な」死が生じるということの説明です。多くのチームでは、オランダのケースなどから、法律で決めても意味がないという粗い返しで終わっています。もちろんそれでも一定の説得力は持ちますが、せっかく肯定側がプランを出しているのですから、否定側はサボらずその要件に合わせて具体的に説明をすべきです。例えば、肯定側が「耐えがたい苦痛、不治の病」であることについて「医師の証明」を要求していても、医師が「もう治りませんよ」と言ってしまえばこの要件は充足されますから、医師に圧力をかける動機がありさえすれば意味のない要件です。こうやって一つ一つ見ていくと、たくさんあった要件は結局のところ「患者が書面を作成した」ことだけになってしまい、うまくやればどうにでもなってしまう…という話にもなります。というより、そのようにして肯定側の設けた要件を無意味にしていくことが否定側立論の仕事であって、事前に持ってきた立論をベタ読みするのが立論の役目ということではないのです(立論者が慣れていないなどの場合、質疑で突っ込んだ上で立論は原稿をそのまま読み、反駁でフォローするということでも次善の策としてよいとは思いますが)。

また、圧力論を補強する別の切り口として、法制化という行為そのものがもたらす象徴的効果として、圧力を追認・強化ないし正当化するという議論もありえます。抽象的な証明になりがちなので難しいところでもありそうですが、プラン前とプラン後の違いを説明する視点としては、有効でしょう。
法制化というだけでなく、治療行為の選択肢として正式に認められるというところまで具体化していくと、説明は容易になるでしょう。医師としてはヨリ自然に安楽死を強いることができるだけでなく、むしろ説明義務として安楽死のありうることを説明することが義務付けられるということも考えられます。そうなれば、全ての末期患者は安楽死を選択肢として検討させられることになるという意味で、何らかの圧力を受けるともいえます。このように、法制化の意味についても具体化して圧力の発生原因として分析し、色をつけることが可能です。
法制化の意義についてもう一つ述べておくと、安楽死という選択肢を認めることは、医師に対して疼痛治療などの研究動機を失わせる効果を認めることができるかもしれません。これは、一部の難病についてのみ安楽死を認めるようなケースに対して有効な反論になるでしょう。これは着床前診断の例ですが、二分脊椎という先天性の病気について着床前診断による排除が進むと、二分脊椎の患者が減ることで治療法や治療施設の充実がされなくなり、さらには「克服された病気」とされることで患者への見方が変わってくるという話があります。積極的安楽死についても、同様のことが考えられるでしょう。それはいわゆる差別の問題や、そうでなくても実質的に安楽死以外の選択肢がやせ細っていくという議論につながります。これについても、肯定側が難病の辛さを一方的に訴えかけるのに対して、そこで積極的安楽死という(否定側からすれば)安易な選択肢を選ぶことの問題をどうやって訴えかけるかという、議論に色を塗る作業の巧拙が勝敗を分けることになるでしょう。


以上が、今季久しぶりに実際の試合を見たうえでの感想です。
全てのコメントに共通しているのは、最初の指摘で述べた「ジャッジに訴えかける」ことの大切さです。単に数字や単語で語るのではなく、ストーリーをジャッジに提示すること、議論の対象となっている状況や当事者についてジャッジにイメージさせるように描き出すこと(議論の具体化)、問題とされる事例がなぜ論題との関係で重要なのかというポイントの指摘(議論の抽象化)といった工夫が、議論の色彩を鮮やかにし、ジャッジをひきつける議論を生み出します。そして、そういう作業のなかにこそ、ディベートの一番の楽しみがあります(ぶっちゃけリサーチは大変だし退屈ですけど、描きたい絵を描くための素晴らしい絵の具や、描きたいと思える風景を探しているのだと思えば気が晴れるものです)。

6月の段階で僕が見せていただいた議論の多くは、まだデッサンの段階にとどまっており、モノクロの下書きの段階にあると感じました。ここから皆さんがどのような絵を仕上げてくるのか、楽しみにしています。
全国大会に行けなかったチームの皆さんも、ディベートという絵描きの舞台は大学も含めて今後の大会がありますし、社会で真っ当に生きていく上では「議論を描き出す」必要性が出てくるはずですから、ディベートでの経験を生かして頑張ってください。
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2010/06/22 (火) 21:48:44 | | #[ 編集]
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2010/06/22 (火) 22:00:50 | | #[ 編集]
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