愚留米の入院日記
日当たり良好の某法科大学院既習病棟を退院した法務博士の日記。しかし内容はほとんど趣味のディベートの話
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東海大会高校の部に接して、安楽死論題について考える
先日、東海大会高校の部の予選と、中高(A論題・B論題)決勝戦でジャッジをしてきました。チームに力の差があったことは否めませんが、決勝戦の水準はどれもなかなか高いもので、全国大会までに議論を洗練させていければ期待できそうな内容でした。
以下では、全国論題である安楽死法制化論題との関係で、思うところを書いてみます。また、最後に証拠資料の引用についての注意を載せておきます。


1.安楽死論題の「2つのレベル」
皆さんご存知の通り、安楽死論題がディベート甲子園で扱われるのは今回で3回目です。僕は2回目の大会で後輩が全国に出場しており、そこで東京で後輩の議論を見る機会がありましたので、当時の議論水準もある程度覚えています(ちなみに、その時後輩が使っていた立論がHPにアップされているのですが、その中にNADEサイトで注意されているチャールズ・マッカーンの不当引用部分があります。本来速やかに削除すべきところですが、現在更新環境にないため処置が取れません。良い子は使わないようにしましょう、というか使うと負けます)。
2回目の決勝戦も観戦しましたが、その時出ていた議論と、今回東海地区決勝で見た議論を比べると、ほとんど遜色ないというか、むしろ東海決勝の方がよく議論できていた部分がありました(DAは若干微妙でしたが)。他の地区はどうか分かりませんが、痛みが取れるかどうか、安楽死への圧力が起こるかどうか…という水準の議論に関しては、概ね煮詰まってきているという印象です。

それでは、この決勝が安楽死論題の到達点といってよいかというと、それは違うというのが正直な感想です。誤解を恐れずに言うなら、過去の2回の大会においては、安楽死論題の本質に肉薄した議論は一個もなかったわけで、そして僕の見た限り、今季でもまだそのような試合は見られていないように感じています。
では、今季論題で高校生の皆さんは何を議論しうるか。一言でいうなら、「医療政策として安楽死を法制化すべき、あるいはすべきでない理由は何か?」という点を意識すべきだということです。痛みが取れるかどうか、患者が圧力を受けるかどうか…という個別の議論を洗練させている現在のレベルでは、議論は袋小路に陥ってしまいます。ここから先、各チームがどうやって説得的な「ストーリー」として安楽死を語るという次のレベルに進めるかどうかが、今季論題で勝てるか、もっと言うなら今季論題でのディベートを100%楽しめるかどうかの分かれ目になると考えます。

以下では、東海大会でご一緒した医学系のジャッジ(安楽死論題の影響かどうかは知りませんが、ディベート甲子園OBOGに医者は少なくないのです。法律家がそんなにいないのは陪審制論題のせいかな?)に伺った話なども参考にしつつ、今季論題で議論できるのでないかと思われる「次のレベル」の議論の切り口について、私見を書いておきます。

2.肯定側の視点~「法制化」の必要性~
全国決勝ジャッジでおなじみ嶽南亭先生も指摘しておられるように、今季論題に含まれる「法制化」の語句についてどう考えるかという思考が、肯定側が次のレベルに進むためのカギとなります。痛みが取れない人がいる、という主張と安楽死の法制化の必要性をつなげる理由が問われているということです。

この点について考えるためには、まずは安楽死というものについて肯定側がどのような立場を取りたいのか、もう一度検討しなおす必要があります。安楽死の肯定側では「安楽死はよいもので、どんどん行われる方がいい」と言わなければならないというのは大きな勘違いです。繰り返しになりますが、今季論題は「法的に認める」ことの望ましさを述べるのであって、「安楽死」の望ましさを述べなければならないわけではないのです。
素直に考えれば、安楽死という手段は、本当は取りたくないものでしょう。一番いいのは、薬でも何でもいいですから痛みが取れて、楽に自然死できるということではないでしょうか。ですから、安楽死が必要だと主張する側としても、安楽死がある種妥協的な手段であるということは認めざるを得ないところがあります。このような認識からは、ではなぜそのような「妥協」を認める必要があるのか、という立論が迫られることになります。

ここでこれまで見てきた試合では、かかる妥協の必要性(妥協として認識されてはいないように思われますが)について「技術を尽くしても取れない痛みがある」という点を一生懸命主張立証しています。なるほど、それは一つの方向性ではありますが、それが本当に安楽死という例外的手段(これは「治療」行為ではない)を法律で認めるべき理由になるのでしょうか。痛みがあるならそれを取り去るように努力すべきというのが医療倫理でしょうし、現行法もそのように考えているはずです。また、「技術を尽くしても…」という例外的状況が法制化を必要とする程度に存在しているのかという点についても、疑問は残ります。
終末期医療が安楽死という「妥協」を受け入れなければならない理由を説得的に論じるためには、終末期医療の現場について真剣に観察する必要があるのではないでしょうか。例えば、否定側が「痛みは取れる」として引用する証拠資料は、いったいどこの病院の話をしているのでしょうか。国立がんセンターや有名大学の附属病院であれば、WHO方式だか神経ブロックだか知りませんが、いろいろやりようはあるのかもしれませんが、田舎の市立病院にそのような医療行為を可能とする人材・資源はあるのでしょうか。否定側が読み上げる論文を書いているのは、その多くは医師のエリートである大学病院の先生であって、医療水準の低い病院にとっては机上の空論かもしれません。ホスピスを備えることができるのも限られた病院だけでしょう。
このような分析が正しいとすれば、安楽死という次善の手段を法律により患者のオプションとして認める理由を説明することは、難しくないはずです。ちょっと書きすぎてしまったのでこれ以上の具体的説明は省きますが、上記分析を前提として法制化の理由を論じるためには、日本政府・国民が終末期医療において理想ではなく現実を見る必要があることの論証や、安楽死という選択肢が現実に対処できる無難な代替案であることの論証が必要となるでしょう。発想さえ転換できれば、リサーチの進んだ皆さんにとって難しい作業ではないと思います。

また、少し角度を変えた議論として、特定疾患に絞って安楽死を認めるというプランに基づく議論がありえます。これは今でも少なくないチームが提出している議論ですが、見ている限りだと「この病気なら痛みが取れなさそうだから反論に耐えるだろう」という浅薄な(!)動機で選択されているにすぎない感を受けます。これを骨太に展開するためには、特定疾患に対して安楽死という妥協を認めなければならない理由について、しっかりと論じる必要があります。
ある種の特定疾患は、遺伝性だったり非遺伝性だったりはしますが、生まれてきた個人にとってはランダムに降りかかる問題です。医療問題で似た領域の議論としては、ワクチン接種に伴い不可避的に生じる副作用での死亡の問題といったものがあります(もちろん、これは社会的必要性から接種されることにより生じる問題で、特定疾患とは違う側面も大きいです)。そういったリスクに対して、潜在的患者かもしれない国民はどのような選択肢を求めるのか、また国はどのような対処を用意すべきか、といった観点からの思考が求められます。
このような思考が必要とされるのは、特定疾患に限定した安楽死の法制化という議論が、特定疾患へのラベリングという要素を含む危険なものであるからです。否定側からは、そのような法制化が特定疾患患者への差別的意識ないし否定的見解を生み出すことになるとか、治療法の研究が中止されてしまうといった反論が予想され、これら議論には相応の説得力があります。このような反論にきちんと応答するためには、特定疾患の罹患という要件でもって限定を課すことの正当性について、単に「すごく…痛いです…」というだけではない、政策的考慮の必要性という議論が要求されます。

以上の議論は、皆さんが論じてきたオーソドックスな肯定側立論に沿った「次のレベル」の提案ですが、実はこれと反対の方向を志向する、別のレベルの議論もありえます。これはトリッキーなものですから、概要だけお示ししておくことにします。
「法的に認める」ということは、「推奨する」ということとイコールではありません。皆さんが今季論題でよくスピーチしている「モルヒネ」は、麻薬及び向精神薬取締法に指定される麻薬であり、輸入、輸出、製造等について厳しい取締りが課せられています。もちろん、医療行為のために専門家が用いることは法的に認められているわけですが、同取締法の趣旨はむしろ「それ以外の使用方法を禁止する」ことに主眼を置いているということができます。
これと同じ方向性、あるいはより過激な考え方として、「禁止するためにあえて法律で認める」という議論がありえます。すなわち、極めて例外的な要件を満たした場合にのみ安楽死を可能とし、それ以外の安楽死を否定するという法律を定めることで、消極的安楽死なども視野に入れた、非自発的な安楽死を規制するという立論です。このような立論を成立させるためには、現状の日本は安楽死について何も立場を表明しておらず、そのせいでグレーゾーンができて問題が生じていること(例えば、患者の家族による懇請などが問題となっている可能性があります)などを論じ、その上でそれを解決するために安楽死を事実上否定する形での法制化を志向するという立場を打ち出す必要があります。
このような議論の長所は、通常出されるデメリットがなくなり、むしろターンアラウンドとして機能するということにあります(賢い否定側であれば、自分たちの持っている肯定側立論を上手くアレンジして否定側立論として読むことで対処はできます)。一方、弱点としては、そもそもそれは安楽死を「認める」ものといえるのかという、いわゆる論題充当性の攻撃がありうる点が挙げられます。肯定側としては、例外的要件のあり方を見定め、(現実に行われる必要は必ずしもありませんが)完全禁止ではない法案を作成することの意義について論じる準備をしておく必要があるでしょう。

3.否定側の視点~終末期医療は何を理想とすべきか~
以上のように肯定側が「次のレベル」を目指してくると、否定側としても、単に「不本意に死ぬ人が一人でもいてはだめだ」というだけでは、論題の肯定を妨げられなくなってきます。否定側の立場として、終末期医療において安楽死という妥協を認めるべきでない理由付けについて、より強く主張する必要性があります。

ここでも、現在見られる一般的なデメリットの方向性との関係で最初に説明しておきます。デメリットについては「圧力」ないし「法律の拡大解釈」といった発生過程をどう具体化すべきかという点でまだ改良の余地はあるように感じますが、それとは別に、そのような圧力などの問題を終末期医療という極限状況と関連付けて論じるという意識があってよいと思います。
例えば、どうして圧力が生じるのか、といった点の分析に工夫を凝らすことが考えられます。終末期医療において患者が感じている「負い目」や、患者にとっての医師の言葉の意味など、より現実に即した議論を目指すことは、立論の説得力を高めるでしょう。

また、これらの分析をもとにして、「法制化」に反対する理由をきちんと論じる必要もあります。前に私的論題解説で書いたような「法制化の象徴的効果」もありますが、法制化により義務付けられると考えられる行為(医師による告知など)による影響や、法制化により妥協的方向性を取ることそのものが終末期医療のあり方に反するということを論じることができましょう。
特に最後の点については、否定側第一反駁とも関係して、否定側が今後詰めるべき点だと考えられます。終末期医療においてあくまでも治療・痛みの緩和を目指すべきだとすれば、安楽死という妥協を認めてしまうことはそこに水を差すことになりかねません。また、終末期における患者の「意思」について、我々はどのように評価すべきなのか、とりわけ否定側の立場からは医師の専門的視点を援用して議論することができそうです。これらの問題点について、医療政策として妥協を認めるべきでない理由をきちんと論証した上で議論すれば、古いレベルの肯定側立論であれば一蹴できますし、法制化の意味についてきちんと論じているチームに対しても十分対抗できるはずです。

4.証拠資料の適正な使用を心がけよう
東海大会では、幾つかの試合で、証拠資料の不当引用が見られています。僕が見た試合でも、このブログでも論評したオンラインディベート上の不正引用事例と同じ証拠が引用されており、証拠排除の措置を取ることになりました(要所の証明が欠けてしまったため、一つの大きな敗因となっています)。

言うまでもないことですが、きちんと証拠資料を使うということは、ディベーターが必ず守らなければならないことですから、勝敗への影響云々という問題ではなく、不当引用などのないよう気を付けてください。特に、Webで落ちていた立論や原稿から資料を拾うというのは、不当引用の危険という点からも、原典を読むことでさらに有益な議論を探せる可能性という点からも、控えるようにしてください(原典を入手しましょう)。

関連して、証拠資料の不正引用に関してルール解釈上問題となる点について、少しだけ私見を述べておきます。
まず、証拠の不正引用が判明した場合、選手の指摘がなかったとしても、ジャッジは必要的にその資料を排除することになります。証拠の不正という問題は、判定の公正や議論教育上の観点から措置が求められるものであり、選手の議論に委ねられる領域ではないからです。
続いて、証拠の不正引用を確認するための有力な手段である、選手による証拠請求(細則B-7項)について、ここで原典を提出すべき義務があるかという点で見解が分かれうるところです。この点について僕は、きちんとリサーチしているチームでは、全ての原典(とりわけ書籍)をコピーして持参するというのは労力的にも金銭的にも難しいことや、出典の正確な記録などで原典の実在はある程度評価できることから、原典提出義務は否定すべきと考えます。B-7項は主に反論準備のために相手の資料を確認することを予定した条文であり(これを誤って理解し、証拠能力確認のためにしか請求できないとしたジャッジがある大会でいたそうですが、完全に間違っています)、不正引用があるかどうかについては、選手の良心を信じるしかない側面もあるということです。


以上、東海大会を見て皆さんに今後考えてほしいこと、気が付いたことなどです。
全国大会まであと20日を切っていますが、僕の経験上、このような短い期間でも議論は飛躍的に向上させることができます。そのためには、これまでの試合で足りなかったことをきちんと反省して修正することが必要不可欠ですが、とりわけ安楽死論題については、論題を肯定/否定するための理由付けについて一段深く考え直すことで、これまでのリサーチを活かしつつ、全く違った次元でのディベートを展開できると思います。全国大会に出場される方々におかれましては、予選で敗退したチームの分も精進され、ディベートという競技の素晴らしさを体現するような議論の輝きを見せられるようプレパを重ねられることを期待しております。
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